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質問箱への回答㊳『存在の感覚について(前回の補足)』

今日はくそ寒い上に強風予報なので仕事はお休みにしました。いま外は1℃ですが、大阪では一番寒くて‐2℃くらいですかね。寒いだけならまだなんとかなるのですが、その上に風が強いともう無理です。

さて、前回いただいたご質問への回答の内容について、同じ質問者さんよりさらなるご質問が届きました。わたしが行っているみなさんとの対話はこのように質問をいただいてそれに対する回答をこうして記事にするという形式であるため、対面しての対話のように質問者が理解しているかどうかをその都度確認しながら話すということはできません。そのため、わたしとしてはできるだけ丁寧に、これまでに何度も書いてきたようなことでも最低限の説明を端折らずに書くように努めてはいます。

この形式のメリットは言うまでもなく質問者が疑問を解消するために必要な情報をたくさん提供できることです。マハラジやラマナ・マハルシやラメッシ・バルセカールの対話集を読んだことのある方なら分かると思いますが、実際に対面して行われるサットサンの場においては質問者がたった一人ではないということもあって、質問者の問いに対する彼ら賢者たちの答えは基本的にシンプルです。質問者の問いに含まれる誤りを指摘したり、あるいは問い全体が誤りであると告げたり、比較的珍しいことですが正しい問い(それはもう問いではないのですが)であることを認めたり、というものがほとんどで基本的な教えを披露することはあまりありません。それはすでにどこかに(どこにでも)書かれていて、あるいは話されていて、賢者に会いに来るような人々はそうした教えを十分に学んでいるはずだからです。

どちらがよいという話ではありませんが、わたしはこのような対面でのサットサンを行うつもりはありません。なぜなら、そうした場で行われる対話はすでに出尽くしていて、なおかつその対話の記録をみなさんは自由に入手できるからです。

一方で今のわたしのこのやり方は、色々な意味でおそらくわたしにしか出来ないことでしょう。自らを覚者であると偽っている人にはどんな質問でも答えますというスタンスを示すことはできないでしょうし、示したところでボロが出るだけです。また、覚者であってもわたしのように文章でこうして詳しく回答するという芸当ができる人は今のところはいないはずです。というのも、わたしがこれをやっているということはそれが全体性が世界(すくなくとも日本)に提供している機能であるということですから、わたしが質問を捌ききれている間は他にそうした機能が顕現する必要はないからです。

とはいえ現在のこのやり方において、記事を書きながら「ここはおそらく正確に理解できる人は少ないだろうなあ」と思ったり、「ここは本当ならもうちょっと詳しく書いたほうがよさそうだが(すでに十分詳しく書いているのでこれ以上は書かない)」と判断したりしています。一から十まですべてを書くことはわたしにもおそらくできませんが、仮にできたとしても、十を読んだ人たちが理解に到達できるわけではないからです。というのも、十を読んでしまうと、理解を促すために必要な疑問が生まれてこないからです。

今回のご質問は、まさにそのように思っていた点の一つでした。つまり「誰かここ聞いてくんねえかな」と考えていた内容だということですね😊

さて、それでは見ていきましょう。ご質問の内容はこちらです。


内容としては、「存在の感覚」について触れたいくつかの記事におけるわたしの記述に、言葉の定義に "揺れ" があるように感じられるということですね。非常に重要な指摘です。それではまず、当該の記述を引用文として羅列してみましょう。以前の記事からの引用については文脈を示すために当該文の前後の文章まで載せておきます。


生物は進化を繰り返して、より複雑で精妙な知覚を備えた体を獲得していきます。知覚が優れた生物ほど、意識のスクリーン上にあらわれる感覚的情報の量が多くなります。この情報量がある閾値を超えるとそれは『自らが存在している感覚(存在の感覚)』となっていきます。

この『存在の感覚』こそが『心』とわたしたちが呼んでいるものです。すべての存在には意識がありますが、心を持つのはある程度高等な生物だけです。

真理について要点を整理する(ふたたび非二元とはなにか?)

わたしがよく引き合いに出しているラメッシ・バルセカールは自らの教えの核心として「存在するすべては意識であり、意識は存在するすべてである」と言っていました。意識とは存在している感覚のことであり、存在の基盤であり、そして存在そのもののことです。現代の科学でいうところの「量子場」というものが意識とほぼ同じものを指してもいます。

質問箱への回答⑥「意識とは? (心と意識の違いについて)」

存在しているという感覚は、肉体精神機構に宿っている一なる意識の反映であり、これを個別意識と呼んでも構いません。

質問箱への回答㊲『心が通いあうこと(心と意識の違い三たび)』


最初の文章では「存在の感覚=心」とあり、次の文章では「存在の感覚=意識」とあり、最後の文章では「存在の感覚=個別意識」となっていますね。質問者さんが疑問に感じているのはこの違いについてですね。意識と心の違いについて論じておきながら、心=存在の感覚=意識 → 心=意識 だと言っているじゃないか!どうなってんだよ! というわけですね😆

では、どうなってんのか順を追って説明してきましょう。

まず大前提として "存在=意識" です。存在するすべては意識であり、意識は存在するすべてです。これは、意識は存在の基盤であるという意味でもあります。存在するあらゆるものは意識で出来ており、意識というスクリーンに浮かび上がっている(物質として顕現している)コンテントです。

ですから、生物であれ非生物であれ、それらは意識でできています。一般的には生物には意識があって非生物には意識がないという文脈で理解されていますが、意識があるとかないとかいった話は本当はナンセンスです。すべてのものは意識なのですから。

生物と非生物の間において違うのは "感覚する" ことができるかどうかです。つまり、自らが意識であり存在であることを感じることができるかどうかの違いが、それが生物か非生物かを区別しているのです。

さて、生物と一口にいっても人間から単細胞生物まで、非常に幅がありますね。単細胞生物に心はあるでしょうか? ありませんね。では犬には心はあるでしょうか? 人間の心ほど複雑で高度ではありませんが、犬にも心はあることでしょう。それでは、単細胞生物には感覚はあるでしょうか? 人間や犬が感覚するのと同じレベルではないでしょうけれども、単細胞生物にも感覚があります。

存在する感覚とか、存在の感覚といった言葉をここまで使ってきていますが、実はそもそも感覚というものはすべて存在していることを知るためのものです。ですからあえて存在する感覚などと言わなくてもよいのですが、それではポイントが分かりにくいので、存在の感覚と言っているわけです。

ここまではよいでしょうか?

では次に、「意識とは存在している感覚のこと」という記述を見てみましょう。この記述が言っているのは「存在している感覚としてわたしたちが感じることができるものが意識である」ということです。厳密に言うのであれば、存在している感覚が指し示しているものが意識であるということなのですが、つまりわたしたちはこの存在している感覚を通じて意識とはなにかを知ることができるわけです。

存在している感覚はただ存在している感覚であり、純粋なコンテクストです。それは心を超えたものであり、それどころか心というものはこの存在している感覚というコンテクスト(背景)の中身(コンテント)なのです。

このコンテクストである存在している感覚のことを別の言い方で「唯一の主観性」や「真我」と呼びます。

さて次にこちらの記述を見ていきましょう。

この『存在の感覚』こそが『心』とわたしたちが呼んでいるものです

一見するとここまでの説明に矛盾するような気がしますね。これを矛盾だと感じることができるのは、それだけわたしの書いていることをよく理解されているということです。しかし、わたしが言っている他のことも含めて熟考すれば、これが矛盾ではないことが分かるはずです。

すなわち、存在の感覚とは真我のことであり、究極のコンテクストです。探求者は誤解していますが、真我はただ存在し、存在させ、存在しているものを観ている(気づいている)意識であり、真我がなにかを考えたりするわけではありません。自我を超越して真我を実現すればバチクソ偉い存在になれると考えていて、なおかつ実際に自分はそんな存在になったと仄めかしている自称覚者がたくさんいますが、そういう人たちはかなりの重症です。

つまり、人間は真我に気づくことはできても、真我になることはできないのです。真我実現とは真我に気づくことであって、真我になることではありません。真我に気づき、真我の視点で世界を知覚することは可能ですが、真我に気づくのも、真我の視点で(つまり真理を)知覚するのも、自我であるところの心ですそして、その心を存在させ、真我に気づく力を心に与えているのは真我であるところの存在する感覚です

整理すると、存在する感覚とは心に現れた意識への気づきです。心から見れば意識とは存在する感覚であり、なおかつ存在する感覚とは心それ自身でもあります。それゆえ、存在する感覚は意識とも心ともイコールなのです。お分かりいただけたでしょうか?

存在しているという感覚は、肉体精神機構に宿っている一なる意識の反映であり、これを個別意識と呼んでも構いません。

存在している感覚を「感覚している」のは心ですね。では「感覚されている」ものはなんでしょうか? それが意識ですね。つまり、心は存在している感覚としてしか意識を知ることができません。ですから、意識が肉体精神機構の心に反映される(投射される)とき、それは存在している感覚という形をとります。

個別意識という言葉は単に、一なる意識が個々の肉体精神機構を存在させているその個別の部分という意味です。真実において意識は一つですが、個々の肉体精神機構は自分には自分の(つまり個別の)意識があると思っていますね。実際には、すでに述べてきた通りほとんどの人が意識だと思っているのは心のことでしかないのですが、さりとて自分には意識があるというその感覚は間違いではありません。この自分の意識というものを心と区別しているのが個別意識です。しかしながら真実においては個別ではないわけですから、厳密に表現するなら個別意識といったほうがよいかもしれませんね。

質問文の最後のところを見てみましょう。

心自体が幻想なので、その存在の感覚も幻想ですか?

心は存在の感覚とイコールですが、同時に存在の感覚は心を超越しています。なぜなら存在=意識のなかに心があるからです。つまり存在の感覚は心の基盤であり、心の中身ではないということです。これが前回の記事で「存在の感覚はただの観念ではない」と書いたことの意味です。

心はたしかに幻想ですが、幻想ではあってもそれは存在しています。存在しているから存在していることを感覚するわけですので、存在の感覚は幻想ではありません。そして、それ以外の心の中身、つまり観念はすべて幻想です。もっとも、幻想だからといってそれが間違っているとか誤りだという意味ではないですよ。幻想というのは実体がないという意味です。ということは存在の感覚には実体がある=わたしたちは存在している(これは幻想ではない)ということになります😊

今回はこれでおしまいです。ご質問ありがとうございました。


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