質問箱への回答㊲『心が通いあうこと(心と意識の違い三たび)』
近況
年が明けてからというもの、家にいるときはほとんど音楽を聴いているかアニメを観ているか YouTube を観ているかで、記事を書くことはもちろん読書さえしておりませんでした。もっとも、記事についていえば in SPIRE の月別アーカイブの記事数をみていただくと分かる通り、そもそも一年以上更新しないことは普通のことです。この2年ほどは精力的に note に記事を書き続けてはいましたが、それももうだいぶやり尽くした感がありますので、今後は質問箱への回答と、どこかに行ってきた記事が主になろうかと思っています。
読書に関しては、全般的にもう知りたいと思うことがあまりなくなってきたというところにきていて、以前のようになにか読んでいないとサボっているような感覚に陥ることもなくなりました。代わりに仕事中の Audible ながら聴きは捗っていて、ユヴァル・ノア・ハラリの「サピエンス全史 上下」「ホモデウス 上下」、ジャレド・ダイアモンドの「病原菌 銃 鉄 上下」などを聴きました。いずれも書籍刊行時にとても気になったものの、おそらく買っても読まない(読みきらない)だろうと思って買わなかった本でしたので、Audible で聴けてよかったです。そしてどれも面白かったです。とくに「病原菌 銃 鉄」はめちゃめちゃ面白いですね。ウマは家畜化されたのに、近縁種のシマウマはなぜいまだに家畜化されないのか? とか、疑問に思ったことすらなかったです。
Audible のながら聴きだと興味のあるなしに関係なく色々な知識、情報、物語を知ることができるので、今後は紙の本を読む機会はぐっと減りそうです。とはいえ、おそらく読まないだろうなと思いつつうっかり買ってしまって手つかずの本がKindle端末の中にまだたくさんありますし、今年はNLPを本格的に研究しようと思っているので、読書をまったくしないというわけにもいきません。ちなみにNLPの資料はこれだけあります。

これらの前にリチャード・バンドラーの「神経言語プログラミング」を読んでおり、一番上のミルトン・エリクソンについての本はあとすこしで読み終えます。残りは、まあ一気に読めば一月もあれば十分でしょうが、そんな読み方はしないと思うので、今年中にすべて読むことができれば自分を褒めてあげてもよいと考えています。ちなみに、トランサーフィンの記事のように NLP についてもまとめようと目論んでいましたが、どうもそんな風にはできなさそうに思えてきました。まあいずれにしてもわたしが NLP を深く研究することによって得られる成果はわたしが書く記事に反映されていくことにはなるでしょう。もっとも、「神経言語プログラミング」を読んで気づいたというか思い出しましたが、わたしの文章の書き方には昔 NLP で学んだことがすでに応用されています。わたしは自分の伝えたいことをただ伝えるということは考えておらず、「伝わる」ためにはどう書けばよいかということにフォーカスしています。
さて、久々の投稿なので前置きが長くなってしまいましたが、これくらいにしておき本題に入りましょう。
今回のご質問
今回いただいたご質問はこちらになります。

まず、お腹の中の赤ちゃんも含め、体を大事にされてください😊 また、ご質問の内容とも関係しますが、妊娠期間におけるお母さんの精神状態も様々な観点から赤ちゃんに影響しますので、ネガティブなことや考えにとらわれず、楽しく過ごしてくださいね。
それでは回答していきましょう。
今妊娠8ヶ月なのですが、赤ちゃんの意識と母親の意識は重なり合っているのでしょうか
結論からいうと、赤ちゃんの意識もお母さんの意識も "おなじ一つの意識" です。ですからそれは重なりあうものでも、繋がりあうものでもありません。重なるのもつながるのも、いずれも分離していることが前提にあります。つまり「赤ちゃんの意識」と「お母さんの意識」という「二つの意識」があると考えているので、こういう質問になるということですね。
心と意識の違いについてはすでにいくつかの記事で述べています。この回答記事を読まれてからでよいので、以下の記事をおさらいしてみてください。
さて、赤ちゃんの意識もお母さんの意識もおなじ一つの意識であるという理解に立つと、質問文は以下のように書き換えられます。
今妊娠8ヶ月なのですが、赤ちゃんの "心" と母親の "心" は重なり合っているのでしょうか
意識は最初から一つのものですから、意識のスクリーンに浮かび上がるコンテントとしての "心" と "心" も実際には分離していません。ですから、本来であれば人間にとって他者と心が通いあわないということは不自然なのです。そもそも "自分(自己)" も "他者" もないわけですからね。
しかしながら現実には、人間社会においては心と心が通じあうこと、心が重なり合っていると感じられることは、稀にしか起こらない尊い経験であると考えられています。
では、なぜ心と心は通じ合わないのでしょうか? その原因は心(=自我)そのものにあります。心というのは人が生まれ落ちてから経験してきた感覚、印象、判断、思考といった "観念" の集合体であり、別の言葉でいうなら "アルゴリズム" です。観念やアルゴリズムの集合体である心には、それ自身が持っているすべての観念やアルゴリズムを所有し行使する主体であるという "メタ観念" が芽生えます。これが「自我」であり、わたしたちが自分自身を想起したときに浮かぶイメージです。
詳しくは上で紹介した記事に譲りますが、この心というものはその発生過程からして「自己中心的」な性質を帯びています。言い換えると「分離的」な性質です。とはいえ、個々の肉体精神機構に宿る心の「自己中心性」はそれぞれ異なっており、この差異をホーキンズ博士は「意識レベル」という指標によって説明しています。すなわち、意識レベルが高いと自己中心性は低く、自己中心性が高い心をもった肉体精神機構の意識レベルは低いというものです。
意識は一つであるのですが、その中身は均一ではありません。意識のスクリーンのある部分は曇っていて、ほかのある部分は澄み渡っています。人間の肉体精神機構を含むすべての事物は、様々な濃度(透明度)をもった意識のいずれかの部分に物質として顕現しています。
さて、話を戻しましょう。妊娠中の赤ちゃんもまた、特定の意識レベルを生来的に持っていますが、それはカルマによって決定されています。お母さん(やお父さん)の意識レベルによって決まるのではありません。したがって、生まれてくる赤ちゃんの意識レベルは両親よりも高かったり低かったりしますが、赤ちゃんにとって両親は「環境」の一部ですから、なんの意味もなくそうなるわけではありません。これもカルマによって決まります。
お腹のなかの赤ちゃんには、まだはっきりとした心はありません。すくなくとも「自我」と呼べるほどのものは芽生えていません。ですから、生来的な意識レベルがどうであれ、この時期の胎児には自己中心性はほとんどないと言ってもよいでしょう。ですから、その点ではお母さんの心と赤ちゃんの心(の萌芽のようなもの)の間には(少なくとも赤ちゃんの側には)障壁がなく、それを重なり合っていると表現してもそんなに間違いではありません。そしてそれゆえ、お腹の中の赤ちゃんはお母さんの精神状態を敏感に察することができます。
一方、お母さんの方はというと、それはお母さんの意識レベル次第となりますね。これは赤ちゃんとの関係に限った話ではありません。すでに述べてきたように意識は一つなので、基本的に意識レベルが相応に高い(=自己中心性が低い)人どうしであれば心は重ね合わせることができます。相応というのは目安としては意識レベル500以上になるでしょう。ただし、意識レベルが低い人どうしか、あるいは一方の意識レベルが低い場合であっても、その二人の絆が非常に強く、互いを自分の半身であるかのように感じているような関係性であるなら、その関係においてのみ心の障壁が取り払われ、心が通い合うということはあり得ます。
その点でいえば、たいていのお母さんは自分のお腹のなかの赤ちゃんのことを他人とは思わないでしょうから、基本的にはお母さんの心と赤ちゃんの心は重なり合い通い合うと考えてもよいのですが、先に意識レベル次第と書いた通りで、お母さんの意識レベルが200以下であった場合には必ずしもそうなるとは言えません。
他の人より赤ちゃんの意識は感じ取れやすいものなのでしょうか
こちらも赤ちゃんの意識ではなく、赤ちゃんの "心" と表現したほうが理解しやすいです。そして、上で述べた通り、「赤ちゃんにはまだ心の障壁がない」ことと「お母さんはお腹のなかの赤ちゃんを他人とは思わない」ことによって、お母さんにとっては、他の人よりも赤ちゃんの心を感じ取ることが容易であることは明らかです。
ただし、ここでもう一度 "意識" について考えておきましょう。意識は存在するすべてであり、存在の基盤でもあります。ですから、個々の肉体精神機構の自我(=心)を存在させているのも意識です。心=自我にとって唯一の自明のことは「自らが存在していること」です。自分が存在していることについて、疑いを挟むことはできません。が、それ以外のすべての観念はただの観念であり、それは変化する余地があります。つまり、自分が存在しているという感覚はただの観念ではないのです。
存在しているという感覚は、肉体精神機構に宿っている一なる意識の反映であり、これを個別意識と呼んでも構いません。
この存在の感覚は自分自身に対して感じるだけではなく、実は他者の存在に関しても感じられます。それが "気配" というものの正体です。他者の存在=意識が感じられるとき、「気配がする」とわたしたちは言っています。
この文脈でいうなら、まさしくお母さんはお腹のなかの赤ちゃんの気配を常に感じているでしょうから、他の人より赤ちゃんの意識を感じ取りやすいという表現もまたその通りであると言えます。
そして、ここがポイントですが、意識(ここでは気配)と心は別のものですが、それを感じ取れるかどうか、通じ合うかどうか、重なるかどうか、という点でいえば、いずれも意識レベル次第です。「感じ取る」も「通じ合う」も「重なり合う」もすべて分離を前提とした表現ではありますが、本人の意識レベルが高まるとこうした表現はあくまで説明的に用いられるものでしかないことが分かってくるでしょう。
お腹のなかに赤ちゃんがいる質問者さんは、まさにこうしたことを身をもって学ぶ絶好の機会にあるといえるでしょう。こうした問いが出てくることがそのことを証明していますね。それは恩寵であり祝福であり、そしてそれら以上の素晴らしいことです。
それでは、回答はこれで以上になります。質問してくださってありがとうございました。また気軽になんでも聞いてくださいね。
おまけその①
アポリアとは哲学上の行き詰まりや解決困難な状況に陥ること、という意味の言葉です。
霊的な探求と哲学は似ているようでまったく別の道ですが、霊的な探求にもアポリアは存在します。というより、霊的探求はアポリアそのものですね。
というのも、真理を知りたい、悟りたい、覚醒したいと願っている探求者の自我こそが覚醒を阻んでいる幻想だからです。
我こそは他のどんな探求者よりも真摯に覚醒を願っており、そのための学びも瞑想も人一倍やっている――そんな人ほどこのアポリアに深く落ち込んでいて、こう言うと身も蓋もありませんが、わたしから見ると見込みがありません。
人生のいずれかの地点で霊的な探求をはじめる人自体が非常に稀とはいえ、全世界という視点で俯瞰するなら、そのような熱心な探求者は実はありふれていて、人一倍熱心な探求者ということそれ自体が「平凡である」という意味しか持っていないのです。実際、そうした人々のほぼ全員が覚醒に至らぬままこの世を去っています。
なにが言いたいかというと、そんなやり方じゃ駄目だということです。覚醒するのが偉いとか、覚醒できなければ駄目だという話ではありませんよ。あくまで覚醒を目指しているのであれば、ということを言っているに過ぎません。聖典を読み漁り、賢者と呼ばれる人のもとへ教えを乞いに出かけ、何十年にもわたって毎日欠かさず瞑想をしてきた探求者が、この3000年くらいの歴史の中で果たして何人いたでしょうか? そして、そうした人々のうち、果たして何人が覚醒に至ったでしょうか? パーセンテージでいうなら、多く見積もっても0.001%以下でしょう。そういうことです。
じゃあ、どうすればいいのでしょう? わたしには「こうすればいいんじゃないか」と思えるものが一つだけあります。それはすでに何度も書いてきていますが「人に親切にすること」です。本当は、その上にさらにもっとあるのですが、現状を見る限り、「人に親切にすること」だけで十分かなと思っています。つまり、それさえも真剣にそうしようと思い、実際にそうできる人はほとんどいないだろうということです。
例えば奇跡講座にしても、それを自分の人生に現れた霊的なものとの出合いだと感じたならば、ワークブックに指示されていることになんの疑いも挟まず、ただそれを実践すればよいのです。わたしには分かるのですが、ほぼすべての人はそうせず、ただそれを読んで頭の中でそれを実践していることを想像し、やったつもりになっています。なぜ分かるのか? それは、ちゃんと実践していたらあなたがそんなことを言うはずがない、ということを言っている人ばかりだからです。
つまりこういうことです。わたしが言っているのは、「人に親切にするとはどういうことだろうか? そうすることの意味はなんだろうか? そして、そうするとどうなるのだろうか?」を考えろということではありません。単に人に親切にしてくださいと言っているだけです。奇跡講座についても、まったくおなじです。
ジニャーナ(智慧の道)にしても一緒です。教えを学んで理解するところまではよいです。それが智慧の道なので。大切なのは、理解を理解のままにしておくのではなく、その理解を生きることです。自由意志はない、と教えられて「そうなのか」あるいは「そうなのだろうか?」で終わるのではなく「自由意志がないという前提で世界を見渡し、自分を見つめ、それによって知覚を書き換えながら生きていく」のがジニャーナです。なぜなら、覚醒に至っていないあなたには、自由意志がないことを本当の意味で理解することはできないからです。知識として知ることと、それを知覚できることはまったく別のことです。
親切にすることの意味や意義、そしてそれが意識レベルにどのような影響を与えるかも、親切でない人がどのように考えてみたところで分かりっこありません。人に親切にすることに理由は必要ありません。親切にしていれば親切な人になり、親切な人には親切の意味が知覚できるのです。
おまけその②
浦小雪さんの声は透明感がありながらも鼓膜を貫通する芯の強さがあり、エモい歌詞と相まってとってもよきです。Sundae May Club というバンドもやっているのですが、個人的にはソロの曲に響くものが多いです。
先日、See Audio というメーカーの Bravery 24 というまあまあ高いイヤホンを買いました。Bravery そのものは3年くらい前から出ているモデルで、24はその最新エディションです。とにかくやたらと評判がよくてレジェンダリーなイヤホンなのですが、お店で視聴したらやっぱりレジェンダリーだったので頑張ってお小遣いを貯めて買いました。もうね、すごいです。音がすごい。すごくいい音です。思わず語彙が小学生並みになってしまうほど、単純明快にいい音です。いままで聴いたことのある曲をぜんぶ Bravery で聴き直してみたくなるほどです(さすがにやってないですが)。あと、見た目もいいです😊
最後までお読みくださってありがとうございました。また次回の記事でお会いしましょう。
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