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「百年の孤独」を読み終えたおじさんがリアリティ・トランサーフィンと苫米地式コーチングの関係性や気功について話す回

最近、記事のタイトルがラノベ異世界転生ものみたいに長くなりがちです。本当はキャッチーなタイトルを考える抜群のセンスを持っているんですが、わたしのセンスなどは正直いってどうでもよいと思うので、記事の内容をそのまま伝えるものにしています。ちなみに今回の記事は中味もクソ長いです。

それはさておき昨日から急に気温が下がって、秋も深まってきた感があります。わたしは一年のうちで秋、とくに晩秋がもっとも好きです。ひんやり肌寒い感じと、だんだん早くなっていく夕暮れ時のさみしい感じがエモいと思います。ちな、誕生月は5月なのですが春は体調もよくないし、若い頃は不吉なことがよく起こる時期だったのであまり好きではありません。

そういえば日本初の女性の総理大臣が誕生しました。わたしは安倍晋三さんがご存命の頃から高市早苗さんはいずれ総理大臣になるだろうしなるべきだと応援していましたが、その強力な後ろ盾であった安倍さんがあんなことになってしまって、その芽は断たれたかもしれないと残念に思っていました。

なのでこれはとても嬉しいですし、たいへん喜ばしいことだと思います。前回、今回の総裁選での討論や、総裁になられてからの立ち回りと毅然とした態度、そして総理に就任したら早速に精力的に動かれている様子をちゃんと見ている人なら、まあ好きか嫌いかはともかく、彼女が今いる国会議員のなかでは群を抜いて優秀でなおかつ不断の努力を積み重ねてきた人物であることは認めざるを得ないでしょう。

総理大臣としてもきっと、後代まで語り継がれるほどの仕事をしてくれると期待していますが、心配なのは安倍さんのようなことになりはしまいかという点だけですね。左翼メディアや財務省などの抵抗勢力なんぞは彼女の敵ではないと思っています。


「百年の孤独」を読み終えました

読者様から贈っていただいたガルシア・マルケスの「百年の孤独」を読み終えました。約30年ぶりの再読となりましたが、いい感じに内容をほとんど忘れてしまっていたので初めて読むのと同じように楽しめました。あらためてお礼申し上げます。ありがとうございました。

前回読んだ時にはインターネットはすでにありましたが、当時は Windows95 がようやく出た頃で、まだまだ普及しているとまではいかない時期でした。当然 AI もなければ Wikipedia も存在せず、それどころかわたしなどはまだ常時接続ですらありませんでした。そんなわけで、初めて読んだ南米文学には知らない土地とその文物がたくさん登場するのですが、分からないことや気になったことを調べるすべに乏しく、謎は謎のままとして読み進めるしかありませんでした。

しかし今回はまず舞台となっている土地(実在する土地ではないのですが、そのモデルとなっている場所があるのです)を Googleマップで探しだし、周囲の地形を頭に入れたりストリートビューで街の雰囲気をみたりするところから物語へと没入していき、文化的なことや作中に描かれる事件の元となっている史実について調べたりもできました。また、ストーリー上の理解しづらいニュアンスについては Google Gemini に教えてもらえました。読書家にとっては至れり尽くせりな時代の到来を感じます。その分、ついつい深堀りしてしまったりして、読むのに随分時間が掛かりましたが、中味の濃い読書体験ができてとても満足しました。

作品の中味については、これは小説ですから、くわしくレビューを書くとネタバラシになってしまうので、それは遠慮しておきます。でも、30年前に読んだときに「おそらくこれより凄い小説って、そんなにはないだろうな」と思ったその感想はそのまま今回も同じでしたね。あと、わたしの記事の読者さんにお伝えするとしたら、この作品は壮大なカルマの物語です。個人というのは幻想である、とわたしは常々書いていますが、この小説を読めば、ひょっとしたらそのことが深いところで腑に落ちるかもしれませんよ。ちなみにカルマの物語としては手塚神の「火の鳥」もおすすめです。


苫米地式コーチングの基本的な考え方の観点からリアリティ・トランサーフィンを俯瞰してみる

さて、これだけで終わるのもなんなので、ここからは別の話です。

最近、Audible で苫米地博士の本を何冊か(というか Audible で聴けるものはぜんぶ)聴いてみたんですが、それで原点に戻るではないですが、博士の出している本の中ではもっとも重要だと思われる「洗脳原論」をいま読み直しています。「認知科学への招待」も再読し終えました。

「洗脳原論」には洗脳とはなにか? ということがもちろん書いてあるのですが、その土台となっているメカニズムは "内部表現とその書き換え" というものです。この概念は、その後の博士の著作のほとんどすべてに登場するものですが、そもそも内部表現の「内部」とは脳内、つまり心の中のことです。そして表現とは、その人が世界をどのように表現しているか、ということです。つまり内部表現とは人が心のなかで世界をどのように見ているかというものであり、すなわち「内部表現=その人にとっての世界」ということです。

洗脳とは、この内部表現を特殊なテクニックを用いて強制的に書き換えることです。洗脳を受けた人にとっては世界はそれまでの世界とは別のものになってしまうわけです。ただ、内部表現の書き換えという点でいうと、それはなにも洗脳だけに限った話ではありません。たとえば "催眠術" もそうですし 、あとで触れる "コーチング" や "気功" においても、その本質はやはり内部表現の書き換えにあると言えます。ただ、催眠術における内部表現の書き換えは基本的には持続しませんし、コーチングや気功をそのつもりで用いるとそれは永続的に有効ではありますが、洗脳と違うのは本人の意志にそって合意のもと行われる、あるいは本人が自分で行う点であり、また、その方法論もまったく違います。

ポイントは、内部表現とは要するに "情報" だということです。つまり、内部表現であるところのあなたの世界とは、情報であり "情報空間" であるということです。苫米地博士の本を色々読む前に、まずはここのところをしっかり押さえておくことが非常に重要です。なので、「洗脳原論」「洗脳護身術」「認知科学への招待」は最初に読んでおく必要があるといえるでしょう。

苫米地式コーチング(ルー・タイス式コーチング)の基本的な考え方

さて、ここからは上記のことを理解されている人向けに書いていきます。苫米地博士のコーチングはルー・タイスという人のコーチングスタイルをルー・タイスとともに発展拡張させたもので、その原理原則は非常に明確です。それは「ゴールを現状の外に設定する」というものです。

ちょうど最近、そのコーチングについての決定版と言えそうな本が出ていて、わたしも買ってこれから読むところなのですが、先に紹介しておきましょう。

目次を見るところ、わたしがこれからする話に関わることはすべてこの本に網羅されているので、コーチングに関しては過去の著作を読む必要はないでしょう。苫米地博士に限らずですが、多作な著者の本は「最初と最新」を押さえればよいです。最初期の作品にはその人の原点となる基本的なことが書かれてあり、最新作にはその応用の先端部分が書かれているので、時間を惜しむ人はそこだけ読むといいです。

さて、苫米地式コーチングの原理原則である「ゴールを現状の外に設定する」についてですが、現状というのはまんま今の状態だけではなく、今の状態から想像できる未来も含まれています。たとえばある会社で働いているとしたら、それはもちろん現状ですね。で、「この会社の社長になるぞ」とその人が考えているとしましょう。一般的な考え方だと、その人にとってその会社の社長になることはゴールであり、それが実現できれば成功したとみなされるでしょう。

ところが苫米地式コーチングでは、それをゴールとは呼びません。なぜなら、その会社の社長になることは現状の延長上にあることで、簡単なことだとは言いませんが、努力次第で実現できないこともないからです。別の言い方をするなら想像の範囲内、想定内の目標でしかないというわけです。

では苫米地式コーチングにおけるゴールとはなにかというと、それは現状からは想像もつかないような状態を指します。想像がつかないことをどうやって目標として設定するのだ? と思うかもしれませんが、まあそのへんは本を読んで学んでください。

それはそれとして、わたしの「リアリティ・トランサーフィン」についての記事をぜんぶ読まれている人ならピンときたかもしれません。回りくどいことはせず単刀直入に言うと、これはトランサーフィンにおける「内的意図」と「外的意図」の違いと似たようなことを言っているわけです。

ここで上記の記事からすこし引用してみましょう。

ところで、目的とひとくちに言っても、いまいるセクターや人生ラインで隣接しているセクターで現実化できるであろう目的もあれば、目的を抱いたその時点ではいつどうやって実現するのか想像もつかないような目的もあるわけです。

前者の目的を実現させるのは、現在の状況(現実)において、自分の力(意志と行動)でなんとかするという意図です。この意図のことを内的意図ということは前回の記事でもお伝えしました。内的意図については秘密のようなものはなにもありません。強いていえば、そのときそのときでベストを尽くすということが内的意図を最大限に働かせるコツということはできるでしょうか。

いっぽう後者の目的、つまり実現させるためには現在の人生ラインからみて離れた距離にあるセクターを現実化させる必要がある目的を実現させるのが外的意図というものでした。外的意図をうまく働かせることができれば、大きな目的を実現させることが可能です。なぜなら、外的意図とはいまの現実からべつの現実へと移動するための意図だからです。

内的意図とは、自分がいまいるセクター内にある目的を実現させようとする意図のことです。トランサーフィンにおける内的意図で取り上げられるのはとっても容易いもので、一番カンタンなのはたとえば「アイスクリームが食べたいから買いに行こう」というようなものです。それに比べるといまの会社で社長になるというのは段違いに困難に見えますし、実際に、いまいるセクターからはずっと離れたところにあるセクターで実現される(可能性のある)目的ではあります。でも考えてみれば、すでにその会社には入っているわけですから、社長になるのはいま歩んでいる人生ラインの延長上のことです。つまり、内的意図の積み重ねによって到達可能な目的ですから、これも内的意図と言ってしまってよさそうに思えます。

「この会社の社長になる」ためには、そのために必要な努力をその時々において怠ることなく続けていけばよいわけです。それでもし実現できたなら、確かに素晴らしいことです。でも、こう言っちゃなんですが、それで本当に満足できるでしょうか? それがゴールだとして、それで幸せになれるでしょうか? まあ満足だし幸せだよって人もいるでしょうけど、人間の業の深さを考えると、そのへんの会社の社長になった程度で世の中を見渡しても「上には上がいる」ことを思い知らされて、かえって惨めになったり、不満を覚えたりするのが関の山でしょう。というか、これは苫米地博士が言っていることです。わたしは神と取引して「金を稼ぐ」ということを売り渡した(明け渡した)人間なので、そもそも願望とか目標とかはありません。

とまれ、苫米地式コーチングもトランサーフィンも、ニュアンスは違えどいずれともにこの「現状の外側」にこそ真のゴールがある(べきだ)と言っています。トランサーフィンの外的意図は、難解といわれているトランサーフィンの中でももっとも理解が難しい概念だったと思うのですが、言っていることは実は苫米地式コーチングとまったく同じなのです。したがって、こう言ってしまうと身も蓋もないのですが、トランサーフィンが使い物になってもならなくても、苫米地式コーチングを学んでそれを実践したほうがよいとわたしは思います。

まあ、これには二つ理由があって、一つはいま述べているように苫米地式コーチングの方がトランサーフィンよりも明快で分かりやすいからですが、もう一つには苫米地式コーチングの原理原則は、わたしがみなさんにお伝えしている「コンテントとコンテクスト」という概念とも合致しており、それゆえ苫米地メソッドを実践すると結果として意識レベルを高められるからです。

さて、そのあたりについて書く前に、ちょっと書き忘れていたことを述べておくと、コーチングとは基本的にコーチがいて、コーチを受ける人がいるという、つまり教え教えられの関係性において成り立つものなわけですが、セルフコーチングという言葉があるように、自分で自分をコーチすればよいわけで、ここまでの話もすべて苫米地博士の本を読んで、自分でゴールを設定し、自分でそれを達成することを前提にしています。というより、先に紹介した本もコーチを養成するための本というよりはセルフコーチングの本だと思います。なお、ここからはコーチングからはやや離れていく話になりますので、苫米地式コーチングと言わず苫米地メソッドと呼び替えることにします。

ホメオスタシス仮説とコンフォートゾーン

ところで現状を飛び越えることが難しいのはなぜかというと、人間には恒常性ホメオスタシスという、生理的にも精神的にもある一定の状態を保とうとする性質があるからです。気温が高いと汗をかいて気化熱によって体温を一定に保とうとする自動的な生理現象もホメオスタシスですし、今の生活を急激に変えたくはないと感じるのもホメオスタシスによるものと考えられます。ホメオスタシスは物質的空間だけではなく個人を超えた情報空間においても働くもので、深く理解していくとジュニャーナヨーギーの探求者にとって恩恵をもたらしてくれるでしょう。ただし、ここではそこまで踏み込みません。ヒントとしては、たとえばですがトランサーフィンにおける「過剰ポテンシャル」もホメオスタシスで説明できます。

現状の人生がその人にとってよいものであれ悪いものであれ、人間はその現状に居心地のよさを感じています。人生をよいと感じているならそれも当然のように思えますが、不思議なことに人間は苦境にさえ居心地のよさを感じてしまうのです。なぜなら、それがホメオスタシス(恒常性)というものだからです。

このホメオスタシスの範囲内のことを "コンフォートゾーン" と苫米地メソッドでは呼んでいます。直訳すると「快適な領域」という意味ですが、要はあなたがいま見ている現実とは、コンフォートゾーンの中の世界なのです。このコンフォートゾーンの中には人間関係や事情や状況やあなたの体調といった様々なものが含まれていますが、そういった物事からあなたは無自覚にいくつもの "信念" を作り出し、それが信念体系と呼べるようなものになっています。コンフォートゾーンとは、要するにこの信念体系に合致している世界のことと言ってもよいでしょう。そして、これこそが「現状」の正体です。

ところで、コンフォートゾーンを人生における現在地を示す "コンテント" とみなすことができます。コンテントとコンテクストの話は以下の記事からいくつかの記事へと続いているので、読まれていない方もすでに読まれた方もぜひ読んでください。

ここでは簡潔に述べますが、コンテントに意識が向かっている時、それは同時にコンテクストを見落としているということを意味します。ゆえにコンテントは常に情報を欠いているのですが、苫米地メソッドではこのことをスコトーマ(心理的盲点)と呼んで説明しています。スコトーマを認識し、これを克服するには、コンフォートゾーンの外に出ないといけません。そこで現状の外にゴールを設定すると、スコトーマが外れ、思考の抽象度が上がり、IQが上がって、いままで思いもつかなかった発想や行動ができるようになるというわけです。この抽象度という概念も苫米地メソッドにおいては重要なものなのですが、これについてはここでは簡単に触れるだけにとどめておきます。詳しくは博士の本で学んでください。

ちなみにコンフォートゾーンの外に出ると言ってはいますが、そのように考えるよりも、現状のコンフォートゾーンよりも高い抽象度の次元へと移動すると考えるとより理解しやすいですし、その方が本質に沿っています。抽象度が上がるとどうなるかというと、いままであれやこれやについてああだこうだと言っていたのが、「こういうことでしょ」と一言で言い切れるようになるというイメージです(もちろんそれだけじゃないですよ)。すなわち抽象度とは、わたし(というよりホーキンズ博士の意識のスケール)が言っているところの「統合性(の度合い)」のことです。

ということは、抽象度が上がるということは意識レベルが上がるということとイコールでもあります。ちなみに、抽象度という言葉で考えるなら意識レベル400台の人々がもっとも抽象度の高い思考をするのではないか? と思うかもしれません。それについては「400台(499)までの思考は線形的なものであり、500台より上は非線形的な思考の領域である」と考えてください。

ただし、意識のスケールにおける統合性の観点では思考だけではなく、態度や行動の統合度をみています。単純に抽象度が高い思考をしているからといって、その人が高い意識レベルにあるとは必ずしも言えません。

注釈

さて、苫米地メソッドでは、コンフォートゾーンをより抽象度の高いところへと移動させるために "エフィカシー" を高めなさいと言っています。エフィカシーとは自己肯定感とよく言われますが、苫米地メソッドにおいては自己効力感と理解したほうがよいです。それから実際にはエフィカシーに取り組む前にゴールを設定する必要があるのですが、そのへんは博士の本を読んでください。

エフィカシーを高めるための方法としてはアファメーションが有効だと博士は述べていて、まんま「アファメーション」という本も出していますので、それも読んでみたらよいでしょう。わたしは以下の本を Audible で聴きました。

エフィカシーを高めるのは、新しく設定したコンフォートゾーンに馴染めるようになることが目的です。つまり、新しいコンフォートゾーンに対してホメオスタシスが働くように、内部表現を書き換えてやる作業ですね。トランサーフィンの外的意図のところでポジスライドというものが登場しますが、これも今いる人生ラインの外側のセクター(つまりそこが新しいコンフォートゾーン)にホメオスタシスを同調させるために行うものです。なので、アファメーションもポジスライドも、両方使えるわけです。両方やりましょう。というところで、トランサーフィンに絡めた話はここまでです。


気功について

最後に気功について書いてみます。なぜに気功? と思われたかもしれませんが、こういうことです。つまり、苫米地博士は気功の大家でもあるのです。ついでにいうと催眠の大家でもあります。ファンタジーの世界では並の魔法使いとはレベチの存在として大魔法使いが登場することがありますが、言ってみれば苫米地博士は大気功師であり、大催眠術師でもあるのです。実際、こういう本も書いています。

この本は Kindle Unlimited 対象なのでサブスクしている人なら無料で読めます。いかんせんやっつけ仕事で書いたような感じで珍しく誤字脱字が散見されるのですが、内容はとてもコンパクトですごく分かりやすいので、読んだほうがいいです。というか、読んでもらわないと話が通じないので読んでください。

書いてあることの要点は「気功の気とは情報であり、気功とは情報空間において情報と臨場感を操作する方法論である」というものです。これはつまり最初の方で述べた通りで、洗脳も催眠もコーチングも気功もぜんぶ「内部表現を書き換えるための方法論」だということです。Amazonで気功の本を探せば古いものから新しいものまでたくさん出てきますが、気功の本質を情報と臨場感の操作であると看破している本はたぶん他にはないでしょう。でも、このことを理解していないと気功は超能力のようなものにしか思えないはずで、そう思っている限り、気功をものにすることは難しいでしょう。

ちなみに、ヨーガでいうところのプラーナとかクンダリーニとかいうものも、インドか中国かの違いはあれど、本質的には気功における気と同じです。

ですから、プラーナもクンダリーニもある次元の情報空間における情報であり、それは気功とおなじように練習して「練り上げる」べきものだと言えます。たまに、あるときクンダリーニが尾てい骨から上昇して頭頂へと駆け上り、なんやかんやで悟ったわ、みたいなふわっとした話を根拠に自分は覚者であると主張している人がいますが、それはきっと勘違いです。そういう種類の体験自体は否定しませんけど、それは一種の自己催眠下におけるカタルシス体験なんですよね。

それに、クンダリーニが上昇したとか、第三の目が開いたとかいうのって、誰も検証できないじゃないですか。つまり言ったもの勝ち。これはオウム真理教の麻原が自分の魂のステージはなんちゃらかんちゃらでー、とやったのと同じですよね。要は権威づけ以外のなんでもないわけです。

そういう自称覚者を師と仰いでいる人が気の毒なのは、クンダリーニ体験をしないことには師匠のようにはなれないと考えてしまうことです。実際に、覚醒や悟りとクンダリーニにはなんの関係もありません。クンダリーニ体験をしなければ覚醒できない、あるいは悟れないというようなことはぜんぜんありません。そのような思い違いを生徒にさせないという責任感のあるグルであれば、仮にそのクンダリーニ体験らしきものが本当にあったのだとしても、それを自分の悟りの証明のように話すことはしないでしょう。そのことが分からない時点で非常に疑わしいのです。逆に考えると、そういう体験でもでっち上げなければ覚者であると信じてもらえないからそんな話をしているのではないかと、わたしは勘ぐってしまいますね。実際、そういう人が書いているものを読んでも、自分は他の人とは違うということばかり言ってて辟易してしまいます。

いずれにしても、プラーナやクンダリーニ、あるいはアストラル界やアストラル体といったものは、ある種の情報空間に存在しているある種の情報であるということを心得ておくことが大切です。これについては苫米地博士の「認知科学への招待」に出てくる超情報場仮説の話を参考にして考えてみるとよいでしょう。

さて話がそれてしまいましたが、気功の話です。ずばり言うと、気功はやったほうがいいのでやりましょう。先ほどの苫米地博士の気功の本に、小周天と大周天という気功のやり方が書いてありますから、まずはそれを読んでやってみてもよいです。ただ、この本の小周天や大周天はかなりシンプルにアレンジされているので、できればこの本で気功の本質を理解したうえで、他の気功の本を買って読んでみるとよいと思います。ただ、繰り返しますが気功は情報の操作なので、要点さえ掴んだら、あとは自分流でやってもよいものですし、別に気功師になりたいのでなければむしろ自分の目的にあったものを自分で編み出すべきです。

ちなみに、わたしが自分で編み出した気功がこれです。

そうです。わたしが IF(直感的フィールド)としてみなさんに提案しているメソッドは、実は気功なのです。IF とネーミングする前は「ふわっとした氣」と呼んでいたことから、そうなのかな? と感じた人もいたかもしれません。氣と呼ぶのをやめたのは、記事数が少なくてまだ色々な話ができていなかったあの段階でこれは気功ですよと大々的に言ってしまうと「なんだ気功か」となってしまって、情報空間を操作して内部表現を書き換える(=知覚を書き換える)という本質から読者さんの意識がそれてしまうことを危惧したからです。それで IF という名前にして、うまいことこれまで偽装してきたわけなのですが、これは気功です。もう言っても大丈夫でしょう。

IF は読者さんの方で自由にアレンジしてよいですよ、と伝えてありますが、それはこれが気功だからです。

ちなみに IF は気功の分類でいうと基本的には養生功というものになり、これは自分の気を自分のために使う気功です。ですから、下記の記事で言及しているヒーリングに用いるようなケースでは、養生功である IF に、秘伝功の要素を足したほうがよいでしょう。もっとも、本格的に気功で(とくに他者の)病気を直そうというのでしたら別のしかるべき方法を学び、必要ならそれを自己流にアレンジするべきです。IF を使ったヒーリングはあくまで自分の「よい気」の場に同調して、ちょっと気分が楽になったり、元気になったりしてもらう程度のものと考えたほうがよいでしょう。そして、それであれば、いまのままの養生功としての IF でも十分可能です。もちろん、やりようによっては高度なヒーリングにも応用はできますが、IF はそもそも受容的な性質の気功であることを忘れないようにしてください。無理にそんなことをするより、IF は知覚を全体性すなわち無限のコンテクストへと拡大させるために用いる方がよいです。なお、養生功や秘伝功については上に紹介した苫米地博士の気功の本に書いてあります。

それから、下記の記事で紹介しているワークも実は気功の応用です。

気功は割となんでもできますし、なんにでも使われています。たとえば白隠禅師の軟酥の法というのも気功の一種(小周天に似ている)ですし、タルパやイマジナリーフレンドといったものも気功として捉えることが可能です。

気功を練ること、つまり気功の訓練を積むことはそれ自体が苫米地博士流にいえば抽象度を高めるトレーニングにもなっていますし、自分流の気功を編み出してそれを使いこなすには非常に高い抽象度が求められます。そういうわけで、ぜひみなさん、オリジナル気功を編み出すところまでやってみてくださいね。今回はこれで以上になります。


おまけ

チリヌルヲワカはGO!GO!7188のユウさんが現在やっているバンドで、この曲は結構前のものですが、曲も歌も映像も最高にかっこいいです。たまらん!

むかし悪い植物をよく吸っていたころ、GO!GO!7188 と RADWIMPS ばかり聴いていました。相対性理論も聴いてたかな。よく覚えてないんです(本当に記憶がかなり消えている)けど、その頃は GO!GO!7188 が一番好きでしたね。日本のロックバンドの最高到達点のひとつだと今でも思っています。YouTube Music(有料のやつ)にあるGO!GO!7188 の楽曲は音質がすごくよいので、イヤホンかヘッドホンで聴いてみてください。ギター!ベース!ドラム!声! なんというかスリーピースバンドの音を超えててヤバいです。いや、スリーピースバンドの極みだからこの音なのかも。おすすめは「竜舌蘭」というアルバムです。

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