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コンテントとコンテクスト:なぜ周辺視野を鍛えることが霊的成長にとって重要なのか

7月になりましたが、関西ではなんともう梅雨が明けてしまっているそうです。梅雨入りしてから空けるまでが二週間ほどでしたが、そのうち梅雨らしい天気だったのは前半の一週間だけで、後半は曇りがちではありましたが雨は降りませんでした。そういえば去年は梅雨入り宣言が出る前に結構な雨降りが続いたのに梅雨入り後には全然降らなくて、なんか7月に入る前くらいに「梅雨、明けてました」みたいな宣言が気象庁から出たように記憶しています。

人間の活動によって排出される二酸化炭素による温室効果によって地球が温暖化している、という話を鵜呑みにはしていませんが、地球上の気候は常に変動(それも人間の生活への影響としては割と大きい幅で)しているので、現在が気温の上昇局面にあるのかもしれないとは思います。それでこのままいったら今後、もしかしたら梅雨という現象がなくなってしまうということもあるのかもしれない、と考えかけましたが、梅雨については平安時代から五月雨さみだれ長雨ながめとして言及されていること、つまりすくなくとも1200年前には梅雨という現象はあったのだということを思うと、たかがこの数年でちょっと様子が違うからといってそう簡単になくなるようなものでもないのかもしれません。この1200年ちょっとの間には梅雨らしきものがまったく見られなかった年はもちろんのこと、そういう傾向が数年あるいは数十年単位で続いた時期だってあったはずです。狭い範囲や短いスパンにおいて観察される異変は、より大きな範囲やより長いスパンで捉えると異変でもなんでもないかもしれません。

ま、それはそれとして、すでに日中は35度前後にまで気温が上がる毎日ですが、夏本番はまだまだ先と思うと恐ろしいものがありますね。わたしの方は、朝の4時過ぎから稼働してたいてい午前中には切り上げて帰ってくるようにしているので、実はそれほど暑さには困っていません。5年やってきて防暑対策が万全というのもありますけどね。接触冷感と吸汗速乾の機能があるインナーを上下着用して、あとは日焼け止めさえ塗っておれば実はあんまり暑さを感じないです。


周辺視野を鍛えることについて

さて今回は、すこし前の記事にて詳しく取り扱った「周辺視野で見ること」についてのおさらいというか、なぜそれが大切なのかということを改めて整理してお伝えしたいと思います。似たようなことはすでに他のところでも書いているのですが、重要なことは手を変え品を変えて何回も何回も言ったほうがよいと最近は思っています。

ちなみに今回の話題の他でそのように、つまり重要なので繰り返し言おうとしていることは「プライド(傲慢さ)が霊的成長を妨げる最大の障壁であること」「親切であることの重要性」です。これらについてもまた書くと思いますが、そのときはまたそれか! と思わずにぜひおつきあいくださいませ。

周辺視野で見ることについての詳細は最近書いたこちらの記事で取り扱いましたが、この記事中には関連する過去の in SPIRE の記事もリンクしてありますので、まとめて読んでいただけると幸いです。

今回の話の要点は「周辺視野を使う訓練を積んでいくと物事をコンテント(内容、中身)とコンテクスト(文脈、背景)に分離せず、全体性の一部として捉えることができるようになる」というものです。


コンテントとコンテクスト

コンテントとコンテクストというのは、ホーキンズ博士が 「 I <わたし> 真実と主観性」のなかで頻繁に用いている概念です。ホーキンズ博士の教えは博士自ら「敬虔な非二元」であると説明されていますが、これはつまりおそらくクリスチャンでもある博士によるノンデュアリティの教えであるということです。その点で、博士が教えていることとマハラジやラマナ・マハルシやラメッシ・バルセカールが語ったことはまったく同じものであり、ただ表現の仕方や用いられる語彙が異なっているだけであると言うことができます。(とはいえ、マハラジやラマナ・マハルシやラメッシたちの非二元の話においては「悟り」や「覚醒」あるいは「真我実現」といった局面にフォーカスがあること、つまりそこに悟り(ジニャーニ)と悟っていない(アジニャーニ)という分離があることは否めず、それゆえ意識のスケールによって人は霊的にリニアに成長していくことが可能であることを明らかにしているホーキンズ博士の教えのほうがより統合的です)

さておき、そんなホーキンズ博士の教えのなかでもこの「コンテントとコンテクスト」という概念はホーキンズ流ノンデュアリティの核心ともいえるもので、わたしもこれまでに書いてきた記事のなかの随所においてなんの前置きもなく用いてきましたが、ここで改めて博士自身がこの概念についてどう述べているかについて触れておこうと思います。

Q:「コンテント(内容/中身)」と「コンテクスト(文脈/状況)」の意味と、このふたつの関係を教えてください。

A:これは、きわめて重要な質問であり、真理へと続く戸口のまさに核心に迫るものです。このふたつは恣意的ですが、視点を表す大変重要な言葉であり、超越するまでは有益なものです。

コンテントは恣意的な焦点であり、そこに含まれるデータや形の総量を指します。コンテクストはコンテント以外のすべての全体性を指し、それは暗示された、あるいは特定の範囲であったり、神や宇宙全体のように、まったく限定がなかったりします。

たとえば、あなたが特定の星を選んだとします(「A」星)。するとそれ以外の銀河系や進化の歴史を含めた天空全体がコンテクストとなり、観察者もそれに含まれます。次に別の星が観察対象となれば(「B」星)、「A」星は「B」星のコンテクスト全体の中に含まれます。したがって、コンテントとコンテクストは個々に区別されるもの、あるいは固有の性質ではなく、観察者の意識を反映しているにすぎません。

(中略)

通常の意識状態では、自我/自己の "わたし" がコンテントであり、意識/気づき/神/「自己」がコンテクストです。暗黙のコンテクストはたいてい、目に見えるコンテントよりも結果に対して大きな影響力を持っています。

デヴィッド・R・ホーキンズ著「 I <わたし> 真実と主観性」第2章 霊的情報と実践(p.75~)


つまり、なんであれ意識が「なにか」に焦点を置く(=フォーカスする)とき、その「なにか」がコンテントであり、その「なにか」以外のすべてがコンテクストであるということです。また、コンテントは恣意的なもの、つまりその人がそれを「なにか」であると勝手に決めているだけのものであると指摘されていますが、これは例えば非二元論において「個人は幻想である」というのと同じことを言っています。世界に対して独立分離した「個人というコンテント」は人間が恣意的に「それは存在する」と思っているだけです。したがって、なんであれコンテントはすべて幻想です。

そしてもうすこし深く見ていくと、この「なにか(コンテント)」と「それ以外のすべて(コンテクスト)」という分離こそが人間の意識(心)が二元性に支配されている根源的な原因であることが分かってきます。なぜかというと、このように全体性からその一部を恣意的に切り出す(分離させる)ことによってはじめて人間は「なにか(ヒト、モノ、コト=コンテント)」を認識(認知)することが可能だからです。そうなっているのは、そもそも人間の知覚がそのような仕組みになっているからなのですが、それについては以前 in SPIRE に書いています。

この記事は in SPIRE のごく初期のもので、つまりこのことはわたしがお伝えしていることの基礎の基礎といってよいものなのですが、同時に最も重要な話でもあります。なぜ最も重要なのかというと、二元性で世界を認識するのが人間の知覚によるのであれば、世界を正しくありのままに認識するためには知覚を変える必要があるという決定的ながらとてもシンプルな秘密がそこにすでに暗示されているからです。

人が二元性に囚われている(=無知である)ことの根源が知覚の仕方にあると明確に指摘しているのはわたしが知る限りでは、わたしだけです。といっても、わたしだけがこのことを知っているというわけではもちろんなく、わたし自身もホーキンズ博士の「 I <わたし> 真実と主観性」を読んで初めて気づいたのです。このことに気づいたときにわたしはすべてを理解しました。in SPIRE を書きはじめたのは、それからです。

さて、そんな話はこれくらいにして話を進めましょう。

通常の視野の使い方

この図を人の視野だと思ってください

普通、とくに訓練していない人や、意識レベルが霊的な領域に達していない人(499以下)は上の図のように視野の中央の濃い緑の円部分に特定の対象を強くフォーカスして見ていて、一方で円の外側、つまり周辺視野にあるものはほとんど意識できていません。

この視野の中央部分を見ているのは網膜の中央部分に分布している錐体細胞で、この細胞はモノの形と色やその動きをはっきりと見分ける反面、明暗に対する感受性はあまりありません。別の言い方をすると、錐体細胞は特定のモノを分析的に捉えることが得意な細胞であると言えます。このような細胞が視野の中央部分を担当しているのは合理的ではありますね。

しかし、それが合理的であるがゆえ、人間はこの錐体細胞によるモノの見方に頼り切ってしまっていて、視野の中央で捉えていないもの、つまり周辺視野にあるものは重要ではないと判断しがちです。

網膜には、実はもう一種類の視細胞が存在しています。それが桿体細胞で、これは網膜の周辺部に分布しています。この桿体細胞は明暗に敏感で、暗い所でも見ることができます。反面、色を見分けるのは苦手で、それゆえ暗い所ではモノの色が分かりません。

いずれの視細胞にもそれぞれ得意・不得意があるわけですが、人間の目は本来それらの両方を使って見るようにできています。しかしながら、とくに現代においては暗所で活動する機会が非常に少ないということもあって桿体細胞はあまり使われていません。それに加えて、人間という生き物の生来の傾向であるところの「モノをじっくり見たい(=それを知りたい)」という習性のおかげで、ほとんどの人は上の図における真ん中の濃いグリーンの部分だけで世界を見ています。

これは常になにかを対象として捉える(フォーカスする)見方で、なにかを対象として捉えるとき、同時にそれ以外のすべては焦点の外に置かれます。このときに「なにか」と「それ以外」の分離が起こります。これが二元性のはじまりです。


心の中で起きていること(モノの捉え方、考え方)

さきほどの図を「コンテントとコンテクスト」の対比に置き換えるとこの図のようになりますが、ここでのポイントは「目の使い方(視野の使い方)と心の使い方(思考の使い方)は同じである」ということです。

どんな人であれ、その人が目を使って世界をどのように見ているかと、その人が頭の中で物事をどのように捉えているかは "まったく同じ" なのです。

なぜそうなのかと言うと、そもそも人間の脳の発達は発生学的にいうと視覚系(要するに目に関係するもの)からはじまっているからです。すなわち、目を使って外界を「見る」ことと心の中を「見る」ことは同じ仕組みから来ていると言ってよいわけです。

いわゆる「周りが見えていない人」は言葉通り目の前のことしか見えていないだけでなく、頭の中でもコンテントを細かく細かく分析しようとするばかりで、その問題が置かれている背景(コンテクスト)にはまったく意識が及んでいません。しかしまあ、わたしの見るところではほとんどの人は周りが見えていません。ちなみにこれは「空気が読める」というのとは違います。よく考えてみていただきたいのですが、その場の空気というのもただのコンテントです。ですから、それはその場にいる人々のうちの多数派が「恣意的に」想定しているムードでしかありません。もちろん、人生のいろいろな局面においてはこのムードを共有することが必要になることもしばしばありますけどね。でも空気はコンテントであってコンテクストではありません。

話が脱線してしまいましたが、ともあれ、人は見ている通りに考え、考えている通りに見ているのです。

さて、上の図でも分かるように、コンテントとはそもそも全体性から一部を切り取ったものですから、そこには必然的に足りない情報があります(=コンテントは常に情報を欠いています)。ですから、ある問題(コンテント)があるとして、その問題の中身だけをどれだけ精密に調べたとしても問題を解決することはできません。

コンテントをある人物としたときも同じです。その人のことを本当に知りたければ、その人が置かれているコンテクストまで理解しようとしなければなりません。もっとも、最終的に分かるのはコンテントはすべて幻想であり、そこには理解する人も理解される人もいない、ということになるわけですが、頭(心)を使って意識を分離の幻想から開放しようと頑張ったところで、それはなかなか難しいです。これは、マハラジやラマナ・マハルシやラメッシの本を読んだだけで覚醒に至る人がほとんどいないということと、同じ話です。

なぜかというと、それは知覚の仕方が変わっていないからです。

周辺視野を使えない人がコンテクストを把握しようとしても、頑張れば頑張るほど実際にはコンテントが増えていくばかりで余計に混乱してしまいます。どういうことかというと、上の図でいえば中央の円部分の範囲が大きく拡大していくだけで、コンテントとコンテクストの分離はまったく解消されていかないということです。もちろん、コンテントを拡大するだけでも変化は大きいです。例えば夫婦についていえば、それぞれが「自分」だけをコンテントと考えているよりも、お互いが「あなたとわたし」をコンテントにしている方が関係はずっとうまくいくでしょう。ですからこのやり方は一理ありますし、心の使い方を心のレベルで変えていく方法としてぜひ取り組むべきものでもあります。わたしの他の記事でも、このようなやり方を推奨しています。

しかしながら、頭の中で物事をイメージしたり考えたりするのと目の使い方が同じだとはいっても、上で触れたように頭の中のスクリーンにおいてはコンテントは無限に拡大が可能です。一方で、網膜上の二種類の視細胞の分布の仕方には特徴があって、コンテントを見る錐体細胞は中央部に分布し、コンテクストを見る桿体細胞は周辺に存在しています。なにが言いたいかというと、目を使って見るときにはコンテントは拡大できないということです。なぜならコンテントを拡大しようとしてモノを大きく捉えようとすると、結果的に桿体細胞を使って見ることになるからです。

このことを単純化して図にすると上の通りですが、つまり目で見るときにコンテントを拡大させようとすると、実際にはコンテントが拡大するのではなく、コンテントの周囲にコンテクストの一部を見ることになるのです。

もちろん、錐体細胞の分布しているエリアも結構広いので、やりようによっては上の図における内側の濃いグリーンの円を拡大したり縮小したりしているだけ、ということにもなります。ですが、そうならないように注意しつつ、モノを見るときには常に対象をより大きく捉えるように心がけていれば、上の図のように桿体細胞を使う練習になるはずです。そして、その練習は同時にコンテクストを見る練習でもあり、さらに二元性から開放されるための訓練でもあるのです。

しかしながら、桿体細胞を活性化させるための練習としてはすでに取り上げてきたホーキンズ博士が勧めるエクササイズやわたしの IF や、あるいはピーター・グルンワルドの "アイ・ボディ" のトレーニングをやったほうが手っ取り早いわけです。

これらの方法においては、それがあくまでエクササイズであるため、そもそも視野のどこにもフォーカスを置かないで、周辺視野全体で眺めるような感じになります。それが完全にうまく行っているときには、視野は下の図のようになります。

白線で円を描いていますが、これはその部分は錐体細胞のエリアであることを示しているだけで、ここにコンテントはありません。この状態でこのエリアに人物がいたとしても、その人は分離独立した個人でも行為者でもありません。もっとも、練習の段階ではそのように見ることは難しく、すぐに錐体細胞が活性化してその人物はコンテント(つまり個人)になってしまいます。

ですから、これらのエクササイズを行うときは基本的に一人でいるときに行い、真ん中の円のエリアに特定のなにかが入らないようにやるとよいでしょう。そして、誰かと一緒であったり、なにか特定のモノを見る必要がある場合には一つ上の図のように、フォーカスを大きくするように心がけるとよいと思います。

こうやってトレーニングを積んでいくと、いずれはどんなときでも桿体細胞を使ってモノを見るようになれるでしょう。もちろん、賢者であっても常に最後の図のような状態にいるわけではありません。状況に応じて、コンテクストは小さくなったり大きくなったりします。それでも賢者がコンテントに目を向けるとき、それは普通の人が想像もつかないほど大きなコンテクストの中に置かれています。

あなたがこのようにモノを見ることができるようになったとき、あなたの心もコンテントとコンテクストの分離から(程度に応じてですが)開放されているでしょう。意識レベル 500 台になると、コンテクストに意識が向かうようになりはじめます。540 を超えると、意識の重心はコンテントではなくコンテクストの側に置かれます。

さて、今回の話はこれでおしまいですが、これを読んで「もしかして周辺視野を鍛えるだけで意識レベルが上がっちゃうの!? それってめっちゃ簡単すぎん!? ヤバない!?」と思った方、あなたは正しいです。めっちゃヤバいです😉✨️✨️

ただし、それがどうヤバいのかをよく理解しなければ、周辺視野を鍛えろと言われても誰もやらないと思うんですよね。それに、周辺視野を鍛えるだけで意識レベルはたしかに上がりますが、同時に霊的な教えについて学ぶこともやっぱり大切です。色々なことを学んで、それについて熟考を重ねに重ねて、そのうえで「あ、結局は知覚の問題か」というところにたどり着いてはじめて周辺視野を鍛えることの真の意義が分かるのです。実際わたしは上にも書いたように、最初からこのことを明らかにしていますが、そこが核心であると気づく人はなかなかいないようです。

霊的な修行としてジニャーナ(智慧の道)を選んでいる人はどうぞこのまま学びを続けてください。ただしそれに加えて周辺視野を鍛えてみてください。瞑想をやっている人は、瞑想中にも桿体細胞を活性化させるようにやり方を改良してみてください。奇跡講座に取り組んでいる人は、"聖霊" とはコンテクストのことだと理解してください。つまり聖霊を見ようとするには周辺視野で見る必要があるのだと考えてみることです。

それでは、最後まで読んでくださってありがとうございました。また次の記事でお会いしましょう。


おまけその① 最近 聴いたAudible

アースダイバーは昔読みましたがこの作品は未読でした。なかなか面白かったです。できれば他のアースダイバーもAudible化してほしいですね。

中野信子さんは以前「シャーデンフロイデ」の本を読んだことがありました。とても明晰で読みやすい文章を書く方ですね。サイコパスについては個人的に関心があり、色々と学んでいるのですが、この本はどなたも読んでおいたほうがよいと思います。

栄養に関する知識がこの本のおかげでアップデートされました。バッタの話が多めです。

ぜんぶバッタの話です。面白かったです。基本的には学者というか研究者らしく実直で真面目な文章なのですが、バッタに対する思いを吐露するときには常軌を逸した表現が多々みられてかなりぶっ飛んでいます。まあ表紙の画像をみればヤバい人なのは一目瞭然ですが……。


おまけその② 明日は例のアレの日だけど

正月だったかに、7月5日の予言について「災害のようなものは起こらないと思うが、今年は人々がショックを受けるような出来事はたくさん起きると思う」というようなことを書いたと思います。

その7月5日がいよいよ明日ですが、トカラ列島付近の地震は気になるものの、それが明日予言されているような大災害につながるとはまったく思っていません。これは予言が実現しない気がする、というわたしの予感を語っている言葉ではなく、単にそういう話には心を動かされていない、という意味です。なのでわたしにはなにが起きるのか、それともなにも起きないのか、まったく分かりません。そんな能力はありません。

一方で、人々がショックを受けるような出来事が起こるというのは予想というか予測の話です。単純に、昨年の秋に石破茂が内閣総理大臣になったということと、海の向こうのアメリカでドナルド・トランプが大統領に再選されたということを踏まえて、その影響だけでも日本人にとっては相当よくない状況になっていくことが自明だったから、そのように書きました。実際、いま現在の日本国が置かれている状況は戦後最悪といってもよいかもしれません。国内の様々な問題もさることながら、最大の同盟国であるはずのアメリカとの関税についての交渉で日本がまったく相手にもされておらず、基本的にすべての国に対して課すつもりだとアメリカが言っている20%ではなく、35%かそれ以上の懲罰的関税を課されるかもしれないという局面にいまあります。35%というのはアメリカが敵国と認識している中国と同等ですが、それはつまり日本も中国と同じように見られているということです。

関税の交渉だけでなく、基本的な外交スタンスにおいて石破内閣はことごとく失敗していて、同盟国アメリカの大統領から名前ではなくミスタープライムミニスターとしか呼んでもらえない総理大臣なんて前代未聞のことですし、外務大臣は中国企業からの贈賄を受けたという嫌疑が米司法省から掛けられています。またこの外務大臣はNATOの会合の晩餐会に「招待するのは首脳だけだから」といってお呼ばれされませんでしたが、他の国は外相でも出席していました。こうしたことの一つ一つが相当深刻な話なのですが、目下最大の問題は中国によるフェンタニル製造材料のアメリカへの密輸において日本の名古屋が中継地になっていた件です。これはスクープした日経新聞を除くといまだに他のメディアは一切報道していないようですが、そのこと自体がこの件のヤバさを物語っています。

アメリカではフェンタニルの乱用による死亡者が年間11万人にのぼるそうです。3年で30万人を超えますが、広島と長崎の原爆による死者数がおよそ30万人ですから、アメリカはこれを中国によるアメリカへの明確な攻撃であると認識しています。それもあって中国には特別に35%の関税を掛けるという話になっているわけですから、ここにきて日本にも同等の課税というのは、この中国によるアメリカへの攻撃の片棒を日本が担いているとみなされていることが理由である可能性が高いです。

そんな状況で本日7月4日はアメリカの独立記念日でもありますから、日本時間の7月5日にアメリカから日本にとっては災害級といえるようなメッセージが申し渡される可能性もないではありませんね。とはいえ、7月上旬に来日する予定だったマルコ・ルビオがドタキャンで来ないことになったのは行っても仕方がない=どうせ直後の参院選で石破内閣は終わるだろうから日本に行くのはその後でよい、という可能性もあるのでどうなるかは分かりません。

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