質問箱への回答㊵『瞑想と肉体』㊶『紅じゃないほうの X について』
今回は呼ばれてるといいね、という話
本日はT君、M田くんの三人で久しぶりの三輪山登拝へと行く予定だったんですが、直前にM田くんに急用ができてしまって29日に延期となりました。三人で行く遠足めいたものは一昨年の2月に行った金鳥山以来ですが、M田くんとは同じ年の9月に室生寺へと行っています。このときはT君(野良の歌手をしている)が前日のライブ出演ではっちゃけすぎて約束をすっぽかしたんですが、本来はこのときも三人で室生龍穴神社に行って、その後に三輪山を登ろうという予定でした。
そのときの話が上の記事ですが、そういうわけで次はちゃんと三人で行きましょうと話し合ったものの、それからなんだかんだで一度夕食(インドカレー)を食べに行っただけで遠足めいたものはなかなか予定が揃わず、とんとご無沙汰になっていました。まあわたしはいつでも休めるんですけどね。
上の記事でも言っているんでしつこいんですが、三輪山は呼ばれて参るところだと感じています。神聖な場所というのはそういうものなのだと思いますが、三輪山の神聖な場所というとき、それは大神神社境内ではなく御神体である三輪山の頂上付近にある磐座のあたりのことです。もちろん歴史のある神社ですので境内も神聖でないわけはないんですが、磐座の近くは別格です。わたしの人生でここほどホーリーな空気を感じたのは、石垣島にある群星御嶽の中だけですね。
なので、三輪山に行って登拝しないのはだいぶもったいないことです。わたしはパワースポット的な話はどうでもいい(※)と思っていますが、神聖な場所の空気感を肌で知ることは霊的な成長を触発する意味があるとは思っています。具体的には "畏敬の念" を知ることです。畏敬の念にはプライドを貫通するパワーがあります。畏敬の念とはなにか? について熟考し、それを育てることは霊的な成長における重要な課題ですが、神聖なものに触れることでも育むことが可能です。
(※)パワースポットとかパワーストーンといったものを受け入れるのは要するに自分の外側にパワーがあるとみなしているということです。つまり、たかが石ころに守ってもらわないといけないくらい自らを脆弱な存在であると認めていることになるわけです。パワースポットを喜ぶのも、そこに行って霊的な力を補給したり、霊的な加護を得たりすることができると思っているからですが、パワーは自らの内側にしかありません。
ちなみにパワーストーンには興味ありませんが、宝石ではサファイアが好きです。もちろん持ってないし手に入れようとも思わないですが、あの色には子供の頃から強く惹かれます。
さておき、今回も直前になってM田くんに用事ができて、延期となるとそこでまた予定が揃わなくなって延び延びになるパターンかなとわたしは一瞬思いました。つまり、今回もまた呼ばれてないのだと感じたわけなのですが、案外すんなりと代わりの日程が決まり(わたしはいつでもOK)ました。よかったです。M田くんとT君のふたりを連れて行かないことには、わたしも大物主に呼んでもらえないようです。
今回のご質問その 1『瞑想と肉体』
さて昨夜、質問箱にご質問をいただきました。今回はなんと同じ日に二つの質問がありましたが、これは初めてのことです。内容的に、さほど長文にはならないと思うのでこの記事にて両方とも回答したいと思います。それでは質問が届いた順にみていきましょう。
まず最初のご質問はこちらになります。

わたしの記事をたくさん読まれている方なら、わたしが瞑想をあんまりお勧めしていないことをご存知だと思います。これには理由があって、その理由も折に触れて書いていますが、ここでは「わたしの読者さんたちはある程度進んだ探求者なので、すでに瞑想は多かれ少なかれやっているだろうし、わたしが瞑想について話す必要はない」と考えているからだとしておきます。
ですので、もし瞑想をやったことがない人と話したなら、まずはどんなやり方でもいいので瞑想に取り組んでみてくださいとわたしは言うでしょう。一概にはいえませんがざっと300時間くらいはやるべきです。毎日1時間やれば1年もかかりませんから、そんな大変な行ではありません。それで意識レベルが大きく向上するとはわたしは思いませんが、向上させるための下地はできるはずです。
意識レベルの向上とは態度や行動がより統合的に変化するということです。瞑想をやっただけでそうなる人はなかなかいないと思いますが、統合的な態度や行動(ヴァーサナー)を芽吹かせる種子(サンスカーラ)を植えつけるのに必要な心のスペースを瞑想は用意してくれるでしょう。
それでは質問文をみていきます。
瞑想中は同じ姿勢が辛く体を動かしたくなる一方、映画を観ているときは同じ姿勢でも平気です。退屈する故に思考が体を動かすよう仕向けるのでしょうか。それとも、体が辛いのに意識が映画に集中してそれに気づかないだけなのでしょうか。
確かに映画に夢中になっていて、気がつくとずっと同じ姿勢でいたということはありますね。そして、そういうときは映画に集中していて意識が体に向かっていないことも事実です。ただ、意識が体に向かっていないので同じ姿勢でいることに辛さを感じないのではありません。
体に意識(といってもここでいう意識とは心のことであり、なおかつ心の焦点のことです)を向けていないとき、体は体自身で必要な動きをしています。必要な動きというのは筋肉の緊張を逃がすための微妙な動きのことです。同じ姿勢を取っているようでも、その姿勢を楽に維持するための微調整を体は自律的にやってくれているのです。そして、この自律的な動きは意識を体に向けると止まってしまいます。
瞑想中に同じ姿勢が辛くなるのは、「動いてはいけない」と思っているからで、このとき意識は体に向かっています。すると体は本来の自律的な微調整を止めてしまうことになります。このため筋肉が強張って辛くなってくるわけです。辛くて "体を動かしたくなる" のはまさに、この自律運動を止めているからですね。
坐禅だとか蓮華座での瞑想だとか、一定の姿勢でやるべきとなっている瞑想にはこのようなことが起こりがちでしょう。姿勢が辛いと言うと、「それは瞑想が浅いからだ!」などと指導されるのかもしれません。知らんけど。
しかし、わたしに言わせれば姿勢を崩すなと言われればそれが辛くなるのは上述の通り当たり前のことです。そもそも瞑想には意識と肉体の一体化を解こうという目的があるわけですから、姿勢を保つというのはどう考えても逆効果ではないかと思うんですよね。
ところで、アイソレーションタンクに入ると肉体の感覚がかなりの程度消失して、意識が肉体から離れたように感じられる経験ができるそうです。わたしは(アイソレーションタンクは)やったことないですが、瞑想でも本当に深い状態に入ったときに同様のことが起こることがあります。真我探求においては肉体は自分ではないということを熟考によって調べていくのですが、アイソレーションタンクや深い瞑想によって肉体から離れる(肉体感覚が消え去る)と、自分が肉体ではないということを直接的に経験できるわけです。
ケタミンというドラッグを使用すると(※違法です)、やはり肉体から離脱する現象を経験することがあります。わたしも昔やったことがありますが、ケタミンでなぜそれが起こるかというと、ケタミンは麻酔薬だからです。といっても本来は動物用の麻酔薬として用いられているもので、人間に使用されないのはこうした離脱現象が報告されているからではないかと思います。いずれにせよ、麻酔作用によって肉体の感覚が消えることがポイントになっているわけです。
翻って瞑想に話を戻すと、瞑想はベッドに横になってやりましょうというのがわたしの意見です。寝転がっているのは体が一番脱力している状態ですから、それが瞑想にもっとも相応しいはずです。もちろん瞑想といっても色々なやり方がありますから、体が脱力していないほうがよい場合もあるとは思いますが、わたしは瞑想によって得られる最大の恩恵とは意識と肉体の一体化を(一時的に)解くことにあると考えているので、その目的であれば寝て行う瞑想がベストです。
ただし、このやり方だと最初はすぐに眠ってしまうでしょう。つまり、座って行う瞑想には眠ってしまわないために座っているという面もあるわけですね。ただ、眠ってしまうのは眠いからなので、眠いときは眠ればよいとわたしは思います。とはいえ、続けているうちに眠らないで瞑想に入れるようになっていきますよ。
具体的には、仰向きに寝て、呼吸を意識的にゆっくりと行います。5秒吸って、7秒吐くというように数えながらやるとよいですが、吸う時間と吐く時間はお好みで多少変えても構いません。そして、吐く際に体の特定の部分の筋肉を意識的に緩めていきます。最初は顔の筋肉から行い、次に首と肩、それから背中とお腹と緩めていき、両方の肩口、上腕、前腕、手というように末端まで進みます。最後に脚を腕と同じように付け根から末端へと少しずつ緩めます。
やってみると分かりますが、意識的に筋肉を緩めるのはなかなか難しいです。マッサージセラピストをやっていた経験からいうと、首や太ももの前側の筋肉が常に緊張している(固くなっている)人が多いですが、こういう場合は力を抜こうとしても抜けません。そこでそういう場合は「いったん力を込めて、力尽きるとともに脱力する」とよいです。力を込めるためには関節を多少動かす必要がありますが、動かして全然構いません。なお、ここまでのことをやりながら、同時に呼吸を意識的に行うこともお忘れなく。
ちなみにこの脱力の方法は瞑想だけでなく、単にリラクゼーションとしても非常に有効です。首のコリがひどい人は手やタオルを使って首を前後左右に引っ張りながら、それにしばらく抵抗してみてください。もう無理だと思ったら、そこでフッと力を抜いてあげます。これを頻繁に行うことで、筋肉が弛緩することを思い出してくれます。
さて、そうやって全身の力を抜くことができたら、あとは呼吸だけ続けてください。そのまま20分か30分も続けていると、いつの間にか呼吸のことを忘れるばかりか、どんな思考もない(ように思える)状態に気づくかもしれません。その状態が "いい感じのやつ" です。
まとめると、体は動かすことを前提にできているので、動かないということは不自然なのです。よって不動の姿勢で瞑想するというのは、眠気を遠ざける以外にメリットはないとわたしは考えます。
ちなみに、チャクラとかクンダリニーとかいった文脈において、背筋をちゃんと伸ばしていないとエネルギーが適切に流れないとかいった話もありますが、わたしに言わせるならそんなものはどうでもよいです。そういうエネルギーの存在は否定しませんが、それは肉体が置かれているこの物質次元ではないところの話なので、物理的に肉体がどんな姿勢を取っているかはそれとまったく関係がありません。それに、そのようなエネルギーを物理次元からどうこうせずとも、意識レベルが高まれば自然にエネルギーは高まります。
そういうわけで、瞑想についてはこれで以上になります。参考になりましたら幸いに思います。それでは次の質問です。
ご質問その 2 『 X といっても紅のやつじゃなくて昔 Twitter と呼ばれていたアレのほうの話』

結論から言うと、X (Twitter)はやめてしまいました。今後、再開することはありません。
早いもので、わたしの Twitter アカウントが運営から "永久凍結" されてから、もう4年が過ぎました。ちなみに、単なる凍結ではなく永久凍結です。どんな悪いことをしたんや! と思われるかもしれませんが、当時の左翼色の濃い運営が「言って欲しくないこと」をたくさん言っただけのことです。
凍結当初は永久凍結とは知らなくてそのうち解除されるだろうと思っていましたし、しばらくの間はツイートしたりDMを使ったりはできないものの、タイムラインを閲覧することは出来ていたのですが、ある時から閲覧もできなくなりました。たぶん凍結されてから半年後くらいだったと思います。
それでそのときに仕方ないなと思って、新しくアカウントを作ろうと考えたんですが、携帯電話の番号と常用しているメールアドレスを登録していたので、それらを使った新しいアカウントを作ることができませんでした。そこでどうしてもということなら、他の方法でアカウントを作ることは出来ないわけではなかったのですが、そのときわたしは思ったんです。
「あ、これはもう、Twitter はやめなさいということなんだな」
とね。言うまでもなく Twitter をはじめとする各種SNSには様々な意識レベルの人々が参加しています。ざっくりいうと、顔も知らない不特定多数の人たちとSNSで接することは、自らを低次のアトラクターのフォースに晒していることになるのです。もちろん中には高い意識をもった人物もいないことはないでしょうけれども、確率統計的にみれば SNSは意識レベル向上の足枷になるはずです。今のわたしにはそのように指摘できますが、それは Twitter を凍結されてそこから離れたことによって気づいたことです。
わたしが in SPIRE やこの note を書きはじめたのは2018年のことで、Twitter を凍結されたのは2021年です。in SPRE にはわたしが教えていることの核心になる重要な事柄を書いていますが、その大部分は2018年に書いたもので、それ以降は年に数件しか書いていません。読んでいただくと分かると思いますが、2018年つまり今から7年前に書いていたことと、いまのわたしが書いていることは本質的にはなにも変わっていません。もちろん、基本的な話からより深い話へと内容を積み上げてきていますから、より新しい記事のほうが扱っている意識レベル領域は高いものにはなっています。ただ、比較的最近書いた記事の内容を 2018年当時に書けなかったかというと、うまく書けるかどうかはともかくとして、書けたと思います。つまり、理解という点においてこの7年間のわたしはそれほど進歩していないということです。
一方で note の方では2018年にそこそこの数の記事を書いたあとは 2022年の秋頃( Twitter 凍結から1年半後)までほとんど書いておらず、そこから再び頻繁に投稿するようになりました。そうするうちに質問箱への質問が増えはじめたので、この記事のようにその回答を note でシェアするようになったわけですが、同時に回答の質もボリュームも大きく向上させました。
それが可能になったのは、2018年時点で到達していた理解が知覚へと浸透し、わたしという肉体精神機構の態度と言動が改まったからです。先日の記事でヴァーサナーについて書きましたが、ヴァーサナーは気づいても気づいてもなかなか簡単には消滅しません。(それについては参考に下の記事も読んでみてください)
意識レベルが540を超えることが意味しているのは、意識レベルを引き下げてしまうような厄介なヴァーサナーの大半に気づいているということです。気づいているため深く一体化してしまうことが回避できるゆえ、意識レベルが539以下に舞い戻る(転落する)ことがなくなるわけです。しかしながら、上の記事にも書いているように、ヴァーサナーは完全に消滅するまでの間は心の慣性として作用し続けます。ですから、意識が転落することはないものの、常に下向きの力(フォース)の影響は受け続けています。
また、厄介なヴァーサナーはそれが厄介なだけに 540以上 600以下の領域ではむしろ気づかれやすいのですが、あまり害のないヴァーサナーには無頓着でもあります。そのためこの領域にいる人は真理について理解しつつありながらも、日常生活ではまだまだ自動的に動いていることが多いです。なにが言いたいかというと、2018年当時のわたしはその領域にあったということですね。
それが Twitter をやめたことによって、いままで Twitter に注いでいた心身のエネルギーが開放され、開放されたエネルギーは他のことに振り向けられました。他のこととはつまり「意識レベルを高めるということにおいて、もっと人の役に立てるようになるためのあれやこれや」です。
質問箱への回答を書くことも、ほかの記事を書くこともそれに該当しますが、そうした記事を適切に書くことができる人間であるために行うことのすべてがそうです。結果として、そこからわたしという肉体精神機構の意識レベルは再び上昇しはじめました。そうして今にいたります。
ところでいま Twitter をやめたからそのようなことになったと書きましたが、これは卵が先か鶏が先かであって、意識レベルの飛躍が多少なりとも先立って起こり、それでTwitter をやめたと言えるのかもしれません。ただ、やめると決めたのはその前に永久凍結されていたという事実があったからでもあるので、やはりどちらが先でどちらが後と言い切ることはできません。
それでは、質問者さんを含めて、この記事を読まれている皆さんに向けて Twitter ( X )をやめるべきだとわたしが言うかというと、そんなことはありません。Twitter をやっているのはそこに Twitter でしか満たされない動機があるからです。動機は欲望と言い換えても構いません。そして、先に紹介した記事でマハラジも指摘しているように、欲望(マハラジは性癖と言っていますが、性癖は欲望によって駆動しているので欲望と言い換えても構いません)はそれ自身の運命が尽き果てるまではそれ自身が面倒を見るのに任せておくべきです。分かりやすくいえば、欲望は満たし尽くすまでは満たし続けるしかないということです。
なので、Twitter に限った話ではありませんが、仮に Twitter をやめられない人は無理にやめなくてもよいと思います。むしろ、無理にやめることによって行き場のなくなった欲望が次にどこへ現れるか分からないので、Twitter をやっていることで人生を損ねているとまでは思ってないのであれば、それを続けたほうがよいでしょう。でも、「なんかもうしんどいんだよね Twitter」と感じている人がもしいるなら、その人は迷わず止めたほうがよいですね。
ちなみに、仮にわたしが X を再開したとしても、そこで書かれるのは普通のおじさん(※ただしイケメン)の平凡な日常でしかないですよ。そんなものを読むのはただの時間の無駄だとわたしは思います🙂
というわけで、今回はこれで以上になります。お読みくださってありがとうございました。また次の記事でお会いしましょう。
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