幻滅のススメ & 『世界99』感想など
分離と幻想について改めて
おととい、「探求者が誤解していること」という記事を投稿しました。
この記事はタイトルがキャッチーなので、おそらくこれまでわたしの記事の読者ではなかった人にも多く読まれるでしょう。わたしにとっては読者を増やすことに意味はありませんが、より多くの人が誤解していたことに気づかれることはよいことだと思います。もちろん、すでに読者でいられる人にとっても、分かってたつもりだけど微妙に思い違ってたわ、ということはあるあるです。そういう意味で、誤解があるという観点からの話はいつもと違っていて、色々と気づかれることもあるかもしれません。
これも何度も言っていますが、わたしの話は要するに「分離はない」ということしか言っていません。もちろん、実際には分離はないことにまつわるエトセトラな話も多いわけですが、さておいて真理とはなにか? というとき、日本語でおそらくもっとも簡潔でありながら、もっとも純粋に近いかたちで言い表せるのがこの「分離はない」という言葉です。ですから「分離はない」は覚者が話す上で一番下にある土台あるいはインフラのような観念です。このインフラがきちんと敷かれ、整えられていないと、一貫性と整合性のある話を展開することはできないのです。
例えばラマナ・マハルシは「真我を探しなさい」と言い、そのための方法として「わたしとは "なにか" を問いなさい」と言いましたが、そもそも真我とはなんでしょうか? 真我という言葉はなにに立脚しているのでしょうか? それが「分離はない」ということです。
ラメッシ・バルセカールは「存在するすべては意識であり、意識は存在するすべてである」と言い、彼はこの言葉が自分の教えの核心だと言いましたが、これは要するになにを言っているかというと「意識しかないのよ」ということです。彼は "意識" というときすでにその意識には「分離のない非個人的な意識」という意味を込めているので、ラメッシの教えの核心をわたし流に整理すると「存在しているすべては分離のない非個人的な意識であり、その現れである」ということになります。
さて、あらためて真我とはなんでしょうか? ラメッシが言うように「意識しかない」のであれば、真我=意識ということになりますね。ただし、上で指摘したように、これは「非個人的な意識」ということです。そう、真我とは非個人的な意識のことです。ですから、あなたがリスペクトしている自称マスターが例えばもし「ハートの奥に静けさを発見したら、それがあなたの真我だ」というようなことを言っていたら、それはまったくの寝言なので、そんなマスターはとっとと見限ったほうがいいです。
そもそもハートってなに? と、わたしはいつも思うんですが、それは置いとくとして、真我に「あなたの真我」とか「わたしの真我」なんてものはないのです。これは明らかに分離の幻想の産物であり、真我という言葉が先ほど述べた非個人的な意識のことではなく、「本当のわたし」「真実のあなた」などという、分離の権化のようなものの別名に成り果ててしまっていることが分かると思います。ここから「魂レベルのわたしとあなた」といったストーリーが紡ぎ出され、過去生では○○だったとか、わたし(マスター)とあなた(弟子あるいは信奉者)は過去生でも出逢っていたといったようなファンタジーが完成するのです。
話がそれましたが、要は「真我」という言葉は「分離はない」という観点にまつわるエトセトラの話だということです。ですから、探求者が分離が幻想であることを完全に見抜き、知覚が変容して分離を見なくなったなら、それがつまり「真我実現」です。真我なる何かがどこかに存在していて、それを見つけるというのは分離のストーリーです。その点で、あくまで個人的には「真我」という言葉を使っちゃったラマナ・マハルシはかえってやりづらかったと思いますね。「自分とは何かを問いなさい」だけでよかったはずです。
同様に、「自由意志はない」や「行為者の不在」といったことも、分離はないんだから、それはそうなるよね、という話です。もちろん、これは探求者が頭で理解しようとするときの思考の流れの話であって、覚者においては単に分離を見ていないだけなので、その境地にはそもそも自由意志とか行為者とかいったものは存在しません。しかし、覚者自身は分離を見ませんが、覚者には人々が分離を見ていることもまた同時に見えています。つまり、覚者には人々が「自分には自由意志があるという幻想」を生きていることが知覚されます。生まれついた覚者(などいませんが)でない限り、どんな覚者も自身が幻想を生きていたことを覚えてもいますしね。
さて、分離についてここで一旦整理しておきましょう。分離を見るというのは、この世界の事物(ヒト、モノ、コト)のすべてはそれ自体独立して存在しているものと見る、という意味です。分離と、それがなぜ人間の知覚の仕方によるものなのかについては下記の記事をお読みください。この記事はわたしがしている話の土台中の土台といってよいものです。
次に幻想ですが、幻想とはなんのことかというと、「分離によって知覚されるすべてのもの」です。一番よく出てくるのは「個人は幻想」とか「エゴは幻想」とかというものですが、そもそも個人的な意識(=心)とは単に脳の機能が創発したもので、実体はありません。脳内の無数のモジュールは外部からの入力と内部(肉体)からの入力によって常に無意識的に反応しています。そうしたモジュールが一種の多数決によって体を動かしたり言葉を発したりすることを決定しているのですが、並行してそうした活動をあたかもトップダウン的に統括して経験している主体があるかのように自己モニターしています。これが顕在意識つまりわたしたちが心とみなしているものなのですが、わたしたちが考えるというとき、それは無意識的にすでに行われた思考を事後的に確認しているだけなのです。こういう話については他ですでに詳しく書いていますから、ここではこれくらいにしておきますが要するに自由意志はないということです。
心が実体のない創発的現象である以上、これは当たり前のことでもあるのですが、実際に確認してみると、わたしたちが顕在意識においてなにかを考えるよりも先に、脳内ではそのための活動が起こっているということが分かっています。ですからまず、わたしたちが「これがわたしだ」と思っているもの、つまり心でありエゴのことですが、これが幻想だというのは分かってもらえるかと思います。そのうえでさらに言うと、無意識的に活動している脳にしたって、外部内部からの入力に対して出力を返しているだけであり、そこには自由意志のようなものは見当たりませんし、そもそも入力に活動が依存しているわけですから、脳は独立して存在していません。
こうしたことは分離を見ない覚者にとっては自明のことです。脳についてまったくなにも分かっておらず、また、おそらく自由意志という概念さえなかったであろう時代に釈迦や龍樹が行為者の不在や空性について喝破したのは、単に「そうだからそうと言った」に過ぎないのです。もちろん、それを説明するために「これがこうで、こうだからああなって、それで……」といった思考で言葉を整理したとは思いますが、それは見ているものをどう説明するかという思考過程でした。
というわけで、これが「自由意志」が幻想であるという話でした。自由意志がないのですから、すべての肉体精神機構が自らの行為だと思っているものは実際には行為ではなく、単に「起こること(Happening)」です。これが「行為者は不在」ということであり、「行為者は幻想である」ということの意味です。ですから実質的に、自由意志がないということと行為者は不在であるということは同じ意味です。同様に、個人は幻想であるというのも同じ文脈の話です。ここまではよいでしょうか?
さて、幻想である個人が別のこれまた幻想である他者と関わってコミュニケートします。幻想と幻想がおしゃべりしているわけですから、これも幻想です。つまり、人間のやることなすことのすべてが幻想であり、社会も幻想です。これは厳密にそうだと言いきれることではありますが、そうはいっても自分のことを幻想だとは1mmも思っていないエゴにとっては人々は個人として存在し、他者とコミュニケートし、社会は動いています。なにが言いたいかというと、幻想だからすべて駄目だとか、そういう話をしたいわけではないということです。幻想だからこそ素晴らしいと言えることもたくさんあります。
とはいえ、前回の記事でも書いたように、分離を見ていることがすべての苦しみ、すべての迷妄、すべてのネガティブな感情、すべての非統合的な行動の原因であることは真実です。なぜそう言えるかについては、これまでの記事にてさまざまに書いてきていますので、ここではあえて逆の観点から簡単に述べておきましょう。
分離のない視点から世界を見ると、人間に自由意志はないので、すべての人間のすべての言動は「そうするしかできない」のだと言うことが自明です。ですから誰にも責任はなく(もちろん言動には結果が伴いますが、その結果である相手の反応や組織の待遇や社会の裁きといったものはすべて分離の視点に立っています)、責められるべき人などいないのです。これはある意味では、例外なく誰もが気の毒であるということでもあるのですが、その理解こそが "慈悲" の源泉です。
幻滅のススメ
さて続いて、前回の記事の内容についてすこし補足というか説明を追加しておこうと思います。
悟った人や覚者(これらの表現については後で触れますが、ここではこのまま話します)には一体「なにが見えているのだろうか?」と、多くの探求者が思っています。つまり彼ら探求者は、悟りや覚醒が起こると、普通の人には見えないなにかが見えるようになったり、感じ取れないなにかが感じ取れるようになったりすると考えているわけですね。また、さらに転じて、超常的な能力いわゆるシッディと呼ばれるものを獲得することが悟りや覚醒だと考えている人も少なくありません。
この部分ですが、そもそも「覚者や悟った人には、なにが見えているのだろうか?」という問いには前提として「(覚者や悟った人には)普通の人には見えないなにかが見えるはずだ」という "思い込み" があります。さらにそもそもすると、覚者とか悟った人という言葉に、分離した実体としての「特別な他者が存在している」という思い込み(幻想)が込められていることも指摘できるでしょう。
なぜそのような思い込み(幻想)をしているのかというと、これは簡単なことで、自分自身がそのような特別な存在になりたいという願望があるからです。
つまり、特別な存在になりたいという願望を投影しているから、その探求者の目に覚者や悟った人は「特別ななにかを持っているはず」の存在であると映り、それゆえ「彼らにはなにが見えているのだろうか?」という問いが生じているのです。
自称覚者やビジネス覚者には確かに、なにか普通とは違うものが見えているようなことを仄めかしたり、ある日突然クンダリーニが上昇してそれで悟ったんだけどさあ、などというストーリーを名刺に刷ってみたり(これは比喩です)、あるいはチャネリングできると嘯いて怪しげな言葉をおろしてみたり、チャネリングをうまく演じる自信のない場合は予言めいたことを言ってみたりと、いかにも "特別な存在っぽさ" を醸し出している人が多いです。というか、ほとんど全員そうでしょう。
妙なワークや特殊な瞑想の類を推してくる人もそうです。なにか「特別感のある」ものを経験すれば特別な存在になれる、というのもビジネス覚者がどうとかいうより、探求者側の願望の投影なのです。ビジネス覚者はそういった探求者の願望を目ざとく察知して、というよりビジネス覚者も成れの果てではありますが本質的には探求者なので同じ願望を共有しているので、その願望を成就する方法とやらを売れば儲かるだろうし、そんな方法を知っている自分はすごいと思われるだろう、と期待して探求者たちに提供しているのです。だから、ある意味ではこれは共依存のようなものです。
しかし、共依存とはいえ、現実にスピリチュアルビジネス界隈で起きているのは「探求者による願望投影にうまく乗っかることに成功した探求者の成れ果てによる搾取」以外のなにものでもないわけです。
幻滅は文字通り、幻想が滅することです。ビジネス覚者たちの言っていることは控えめにいって幻想で、悪くいえば嘘です。ですから、一人でも多くの探求者が彼らの嘘に気づき、「がっかり(=幻滅)」することを願います。幻滅いいですよ。幻滅すると、すっきりします。幻滅すれば、分離が落ちます。嘘を嘘だと認めて潔く幻滅するためには、自分がその嘘に騙されていたことを受け容れなければなりませんが、それを邪魔するのがプライド(意識レベル:175)です。
ですからビジネス覚者たちは探求者のプライドを上手にくすぐって、幻滅させないようにあの手この手を繰り出してきます。そもそも特別感の正体こそがプライドなので、最初に戻ってみれば「覚者はなにを見ているのだろうか?」という問いの起源はプライドにあるということも分かるわけです。ここから、自称覚者やビジネス覚者とその信奉者たる探求者たちのドラマは意識レベル(LOC)175付近の領域で展開されているということも理解されるでしょう。平たくいうと、"プライドくすぐりごっこ" です。エゴのプライドお触りメロドラマです。
お金をとっていない自称覚者であったとしても、その動機は自身のプライドを満足させることであり、そのための手段が信奉者たちのプライドをくすぐることなのです。まあ、もちろんプライドがすべてではないですよ、念の為。
とまあ、こんな話を書いてはいますが、正直にいうと、わたしは別にビジネス覚者たちが探求者を多少なりとも食い物にしているという構図そのものは別にどうでもいいと思っています。共依存と言いましたが、需要と供給と言い換えてみれば、持ちつ持たれつ、どっちもどっち、なわけですから、やりたければ一生やっててくださいとしか思わないわけです。ビジネス覚者にしても探求者にしても、これはこれで学びではありますし、この人生では彼らはそうなっているんだね、というだけのことでもあります。
でも、もしもこうしてわたしの記事を読んでいる読者が探求者で、いま書いたようなビジネス覚者と関わっているのだとしたら、その人はもしかしたら、こうしたエゴのメロドラマから抜け出す運命なのかもしれない、とも思うんですよね。わたしが意図しているのは、そういういわゆるビジネス覚者たちへの批判ではなく、真実ではないものについて「それは真実ではないですよ」と言うことです。それはつまり、知って幻滅してくださいねというわたしからのメッセージです。プライドを捨てて、綺麗さっぱり幻滅してください。幻滅した!といってビジネス覚者たちに怒りをぶつけることは推奨されません。それはまだ幻滅しきれていない証拠です。幻滅は粛々と、淡々と、なされなければなりません。
「世界99」を聴き終えて
今朝、「世界99」を聴き終えました。面白かったです。以下、なるべくストーリーのネタバレにならないように感想めいたものを書きますが、完全ネタバレ回避して感想を書くなど無理ですので、その点よろしくお願いします。
この物語には「呼応」と「トレース」という言葉が何度も登場します。これは相手の言動や表情をすぐさま読み取って、それを模倣するという意味ですが、模倣といってもオウム返しということではなく、いうなれば相手をシミュレートして、相手が言ってほしそうなことをズバリ言い、返してほしそうなレスポンスを「完璧に」返すといったニュアンスです。
主人公というか語り手の「空子」は空気を読む天才で、この呼応とトレースを幼少の頃から使いこなしているのですが、成長するにつれて相手個人への呼応・トレースにとどまらず、人間関係のネットワークにおける局所的な界隈における独特の空気や仕草といったものにまで呼応・トレース可能となっていきます……。
これってざっくりいえば「心の理論」とミラー・ニューロンの話で、べつに空子だけの特技というわけでもなく、なんならわたしもトレースの達人だと自分で思いますけど、つまりそういうことで、空子の呼応とトレースに共感できる読者は多いだろうと思うんですよね。
とはいえ、この作品の主題の一つである「複数の世界」にそれぞれ呼応・トレースし、まったく異なるパーソナリティで存在し続けるという芸当は、あまり普通のことではないかもしれません。空子が異質なのは、世界にあわせて人格を変えているというより、むしろ世界と人格が未分化というか、世界がこうだからここではこの空子というのではなく、実は世界の出現とそこでの空子の出現が同時なのではないか、という風に思えるところです。
この記事の前半で幻想の個人について書きましたが、空子はそもそも自分の人格という幻想を持っていない点や、自分の身に起きたさまざまな出来事やいろいろな人物との関わりをメタ視点で見ている感じがする点から、あまり「分離」を見ていないという気がします。じゃあすごく意識レベルが高いのかというと、世界の数だけ異なったパーソナリティを "演じられる" のだと見れば高いとも言えるし、世界にあわせて人格が分裂するのだと見れば低い可能性が高いと言えます。
まあ、この話はそういった話ではないし、そもそもフィクションなので真剣に考察する意味はないのですが、すくなくとも空子はどの人格(世界99における人格とでさえも)とも一体化していないようには思えます。実在の人物であればそのような人は意識レベル500台の可能性が高いと思うのですが、作中の空子は自分のことを差別主義者だと明言しているし、よくよく考えてみれば人格と一体化していないというよりは乖離しているのかもしれない、という気もします。とはいえ、差別主義者だと言いつつもそれをあからさまな行動に表すことはないし、ややネタバレになりますが途中の時代では自身を「クリーンな人(悪い感情を持っておらず、ラロロリン人に感謝の念を持っている人という意味)」の範疇に入れてもいて、空子からは「かわいそうな人」であると認識されている白藤さんへの慈悲にも似た感情を吐露してもいました。
まあ結論としては「よう分からん」なのですけど、個人的にはなかなか面白く興味深いキャラクターだと思いました。
さて、この話はタイトルからして、基本的には上に述べたような呼応とトレースということが主題の一つではあるのですが、それ以外にもいくつかテーマらしきものが散りばめられていると感じました。
それは一つには「差別」のことです。ラロロリン人という特定の遺伝子配列(ラロロリン遺伝子)を持つ人がそう呼ばれるのですが、見た目では判別できず、特殊な匂いがすると噂されるのですがおそらくそれは都市伝説のようなもので、遺伝子検査をしない限り、ラロロリン人なのかそうでないのか、本人にさえ分かりません。ラロロリン人は普通の人よりもやや優秀だと言われていますが、作中に登場するラロロリン人には優秀でもなさそうな人(空子の元夫とか)もいますし、優秀そうな人(音ちゃんやその兄)にしても、普通の人びとにおける優秀な人と比べてとくになにかが違っている風でもありません。つまり、要するに「ラロロリン人って本当に存在するの?」という感じなんですよね。誤解を恐れずいえば、作中のラロロリン人と非ラロロリン人の間の差異よりも、現実世界における人種間の違いの方が遥かに大きいのです。
そのような「どこか希薄な存在」であるラロロリン人なのに、ラロロリン人ははじめ猛烈に差別を受けて迫害されてしまいます。詳しくはネタバレを避けて書きませんが、この「ラロロリン人とはなんなのか?」ということは、とても考えさせられるものです。また、作中では「上外国」「下外国」といって、日本以外の国を日本より上の国と下の国として区別されているのですが、ながら聴きだったので細かいところを聴き逃している可能性があるんですけど、これはたしか空子の父親がそのような言い方をしていて、それで空子がその言い方を音ちゃんの前で使って、音ちゃんもそれを使うようになったということだと思います。ので、この作品の全体世界においてそういう呼称が使われているわけではないのですが、音ちゃんが「上外国の人から見ると日本は下外国である」というようなことを言っているので、呼び方はともかくとして、作中ではそのような国家間の差別的な格差が存在しているのは間違いありません。
まあ、現実の日本では、アメリカや一部のヨーロッパの国々に対して「上外国」のような感覚を持っている人はそんなに多くはいないと思いますが、下外国という感覚はある程度根強く存在しているかもしれません。個人的にはそっちよりも、やはりラロロリン人問題が気になりました。というのも、これって現実にあり得るし、個人的にも、見た目はぜんぜん普通の日本人だった人が実はハーフだったと発覚しただけで薄っすら差別されるようになった事例を知っている(本当に薄っすらですけど)ので、差別が生まれる構造としてはとてもリアリティを感じましたね。ラロロリン人そのものにはまったくリアリティがないのにね。それが怖いです。
もう一つのテーマは「セックスという厄介な代物」ですね。男だろうが女だろうが若かろうが年寄りだろうが、性欲がある人はあるわけで、おそらく数でいったらそういう人の方が多いのだと思います。一方で、性欲がもともと薄い人もいますし、もともとはあったが枯れてしまう人もいます。あまりこういう話はしたことがありませんが、わたしは30代半ばで、行為としてのセックスを必要とするほどの性欲はなくなっていました。性欲そのものはその時点では完全になくなったわけではありませんでしたが、セックスするために異性と懇ろになって行為に及ぶというプロセスに注げるエネルギーのほうが枯渇していましたし、なんなら行為そのものも暑苦しいし汗でベタベタするし疲れるしで億劫であり、つまり、セックスが面倒くさくなっていったのです。
ですから、こんなことまで書く必要ないかもしれませんが、もうかれこれ20年近くセックスレスで生きています。ちなみにセックスが面倒に感じるようになってからすぐに意識レベルが浮上するような経験があったこともあり、性欲そのものもあまり間をおかずにほぼなくなりました。
作中の空子は基本的に最初からそういうタイプ、つまりセックスは面倒で厄介なものと思っているタイプで、もう一つの重要なテーマである「隷従と媚び」の観点から仕方なくそれを受け容れていた人でした。隷従と媚びについてはかなり面白い観点だと思うので、ここでは指摘だけして内容についての言及は避けます(ご自分で読むなり聴くなりして咀嚼してください。とくに「媚び」についての作者というか空子の言明が興味深いです)が、それはともかくとして、空子のような人は実は結構いるのだろうなと、自分がそのようになってからですが、思うようになりました。
わたしの観点ではピョコルンという奇妙で愛らしい(とされている)生き物はこの「厄介な性」と「必ず誰かが隷従の役割を押し付けられる」という人間世界の二大問題への解決策、ではなく単なる捌け口であり、それがこの小説をとんでもなくエグい物語にしていると思います。伝わるかどうか分からないですが、この作品を映像化することは無理なんじゃないかなあ、と思うんですよね。それはつまり、ピョコルンをどのような姿にしたとしても、それを見せるということは倫理的にはたぶん許されない気がします。もしも映像化されたとしても、わたしは絶対に観たくないですね。でも、これはそれだけこの『世界99』が凄い作品だという意味で言っています。
あと、最後になりますが、この作品の主人公は実は空子じゃなくて白藤さんだと思いましたね。というか、もちろん空子が主人公には違いないのですが、すべての物語を白藤さん軸で読み直せば、そこには別の物語が描かれていることに気づけるはずです。実際、好きかどうかは別として、白藤さんは作中の人物のなかで一番人間らしいというか、実在感のある人物でした。
胸糞悪いシーンも少なくないし、出てくる男性ほぼ全員💩だし、なによりピョコルンが個人的には「いや!絶対無理!」だったので、聴いていて楽しいと思うことは一度もなかったんですが、なぜか最後までわりと一気に聴いてしまいました。面白いのは間違いないですし、単に面白いのではなく、めちゃめちゃ面白いです。でも、面白いから読んでみて、と言って人に勧めるような作品では絶対にないですね。あえて言うなら「俺が読んだんだから、お前も読め」って感じですかね。まあ、読んでなくて聴いたわけなんですが。
以上、今回はこれで以上になります。読んでくださってありがとうございました。長くなったのでおまけはなしです。また次の記事でお会いしましょう。
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