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探求者が誤解していること

霊的探求者が誤解しがちなことについて、以前からちょくちょくメモしていたものがある程度のボリュームになったので、記事にまとめてみました。これらは基本的に、note を含めたネットの記事に散見される誤解を一般化したものですが、そもそもこれらが誤解であると言えるのは、当たり前ですけどわたし自身もかつて探求者であったからで、つまり身に覚えのあることばかりです。

他にももっとありそうですが、集約するとおよそこんな感じで、あとはここに羅列したものの派生形になるかと思います。つまり、探求者の基本的な誤解のパターンとでも言ってよいと考えます。それではどうぞ。


①覚者はなにを見ているのか?(知覚の誤解)

悟った人や覚者(これらの表現については後で触れますが、ここではこのまま話します)には一体「なにが見えているのだろうか?」と、多くの探求者が思っています。つまり彼ら探求者は、悟りや覚醒が起こると、普通の人には見えないなにかが見えるようになったり、感じ取れないなにかが感じ取れるようになったりすると考えているわけですね。また、さらに転じて、超常的な能力いわゆるシッディと呼ばれるものを獲得することが悟りや覚醒だと考えている人も少なくありません。

明確に言っておきましょう。これは問いそのものが間違っています。問わなくてはいけないのは「覚者にはなにが見えているのか?」ではなく「わたしはなにを誤って見てしまっているのだろうか?」です。

答えは「分離」です。分離を見てしまうのは人間の基本的な知覚の仕方に原因があるのですが、それは言ってみれば人間特有の知覚の仕方であって、世界あるいは事物をありのままに見ているのではありません。覚者は分離を見ていません。といって、覚者の目に見えている視覚情報は探求者のそれと同一ですし、視覚以外の感覚情報もまったく同じです。ただ、覚者はそこに分離を見ておらず、探求者は分離を見ている。違いはそれだけです。そこに超常的な要素は微塵もありません。むしろ探求者のほうこそ、本来的には正常(ありのまま)から逸脱(超常)しているのです。

分離を見るか見ないかという、たったそれだけの違いですが、それが覚者を覚者足らしめています。逆に言うと、分離を見ていることがすべての苦しみ、すべての迷妄、すべてのネガティブな感情、すべての非統合的な行動の原因です


②本当に悟った人とは?(言語的な誤解)

個人すなわちエゴが "分離の" 幻想であり、行為者が不在であることから、"悟った人などいない" という表現がなされます。行為者がいないのですから、悟る誰かなどいない、ゆえに悟った人などいないのだと言うわけです。そこから、「本当に悟った人は "自分は悟った" などとは言わないはずだ」ということがよく言われています。

これは正しいでしょうか? よく考えてみてください。すると、この表現がおかしいことが分かるはずです。まず前提として悟った人などいないのですから、「本当に悟った人」などいるわけないのです。いないはずの人が「自分は悟った」と言うか言わないかということは、実は問題ではありません。すなわち、 こういう表現をする人はまだ分離を見ています。

この表現を訂正するとしたら、それは「悟りが起こった肉体精神機構が "自分は悟った" などとは言わないはずだ」という風になるでしょう。悟りは行為ではなくある種の事象であり、それは肉体精神機構に起こることです。悟った肉体精神機構はいませんが、悟りがその身に起こった肉体精神機構ならば存在します。では彼つまり悟りが起こった人は「自分は悟った」と言うかというと、もちろん言いません。

もっとも、探求者に向けて話をしたり、わたしのようにこうして記事を書いたりする上では便宜上のこととして「悟った人」「覚者(覚醒した人)」という言葉を用いることはあります。実際、わたしもそうしていますが、わたしの場合はすでに行為者の不在や自由意志がないことについて数多くの記事で言及してきており、読者がそうした記事を読んでいることを前提にしています。

ゆえにわたしが「悟った人」と書いている場合は読者のほうでそれを「悟りがその身に起こった人物」と読み替えてもらえるものと期待しているわけですが、なぜそうするかというと単に毎回「悟りがその身に起こった肉体精神機構」などと書いていたのでは非常に回りくどい文章になってしまうからです。他の人がどんなつもりでそうしているかは分かりませんが、少なくとも「自分は悟った」と言うことがない人が「悟った人は」と言う場合は、わたしと同じく便宜的な理由からだと思われます。

さて、あらためて「本当に悟った人は "自分は悟った" などとは言わないはずだ」という文章を見てみましょう。このような表現を用いる人はおそらく、行為者の不在を知覚していないどころか頭での理解さえしておらず、それゆえこの表現を "謙遜" の文脈で用いている可能性が高いです。ですから、この人が言いたいのは「 "自分は悟った" などと言っている人は傲慢で、本当に悟っているなら謙遜してそんなことは言わないはずだ」ということだと考えられます。

悟った人や覚者はたしかに謙虚ではあるはずですが、「いやいやいや、わたしのようなものが悟っただなんてとんでもない。わたしはそのような者ではありませんよ!」などと謙遜しているわけではまったくありません。彼はただ、「悟った」という経験はしていないので、それを言わないだけなのです。


③悟り=感情や思考が消滅する状態?(状態の誤解)

すでに悟りとは行為ではなく、従ってそれは達成するものではなく「起こるもの」であることについて触れました。また、覚者と探求者の違いは「分離」を見ているかどうかであるとも指摘しました。ここから、悟りとはつまるところ「分離を見なくなるように知覚が変容する、ということが肉体精神機構に起こる」事象であると説明することができます。

悟りについてのよくある誤解として「悟ると、感情や思考が消滅する」というものもあります。覚者は心が穏やかであり、怒りや悲しみ、あるいは雑念といったものとは一切無縁であると信じている人がいます。しかし、感情や思考といったものは "勝手にやって来る" ものであり、それは止められるものでも、止まるものでもありません。もしも思考や感情がなくなったとしたら、それは脳に重大な問題が起きていることを意味します。

覚者の肉体精神機構にも、感情や思考は現れます。当たり前ですが、思考がなければ質問に答えることも記事を書くこともできませんし、感情が現れなければ他の肉体精神機構とうまくコミュニケートすることもできません(心の理論)。ただし覚者には感情や思考と一体化することがないので、"怒っているわたし"といったストーリーは発生しないのです。言い換えると、怒りという感情は現れますが、それが持続することはなく、ただ現れて去っていくのです。さらに別の表現をするなら、覚者には感情や思考がないのではなく、感情や思考を所有する者が不在なのです。ちなみに、覚者の心が穏やかであるというのは、基本的にはそうだと言えます。


④到達点としての悟りや覚醒という幻想(時間と因果関係の誤解)

悟りは達成するものではないと前段で書きましたが、言い換えると悟りは到達点(ゴール)ではないということです。すでに述べてきたように、悟りとは誤って見てしまっている分離が落ちることですが、分離という幻想を作り出している当のエゴ自身に幻想を落とすことは出来ないのが道理です。幻想が落ちることはエゴの死(控えめにいって敗北)なので、それを避けたいエゴは

「悟りというゴールがあって、それを目指して修行したり瞑想したりと努力(探求)している"まだ悟っていない自分"」

というストーリーを作り出します。このような時間軸(悟っていない→いつか悟る)や因果関係(修行をした結果、悟る)というフレームワーク自体がエゴの産物すなわち幻想なのです。

なお、修行や瞑想が無意味だとまで言うつもりはありません。ここでは「瞑想しているわたし」という "主語" が、悟りを阻む最大の壁となっているのだ、というパラドックスを指摘しています。すなわち、探求という行為そのものが「まだ悟っていない自分」を維持・強化するエゴの生存戦略となっているということです。


⑤「自由意志/行為者の不在=虚無主義や無責任への開き直り」(観念の誤解)

わたしの見立てでは、この誤解は単なる探求者というより、覚者と自称している人(つまり、「自分は悟った」と言っている人)や探求者の成れの果てのような人に多く見られる気がしますが、もちろん探求者にも観察される誤解です。ちなみに、自称覚者(あるいはビジネス覚者)も探求者の成れの果ても、どちらも同じようなものです。つまり探求者が成れ果ててビジネス覚者になるわけです。

誰であったか忘れましたが、信奉者の女性に肉体関係を結ぶことを強要し、「これはわたしの肉体精神機構に "起こった" ことであって、(そこに宿っている聖なる意識としての)自分にはなんの責任もない」などといったことを堂々と主張したマスターがいたという話を読んだことがありますが、これなどは非二元の知識をエゴが自身の免罪符として使用した例の最たるもので、実際にはこのマスターは非常に根深い分離(「肉体精神機構」と「聖なる意識」など)の中に留まっていたと言えるでしょう。

また、そこまでひどくはないかもしれませんが「行為者はいないのだから、何をしてもしなくても同じだ」とか「努力しても無駄だ」といった虚無主義や運命論へとすり替えているケースは、とくに現実に困難を抱えている探求者がしてしまいがちな誤解で、こういうのをスピリチュアル・バイパスと呼びます。一種の心理的防衛機制(現実逃避)ですね。

行為者がいなくても(=分離が落ちても)、肉体精神機構を通じた「応答」や「行動」は淡々と発生し続けます。そこでは「ここがわたしの出番(出る幕)だ」あるいは「わたしがやらねば」といった過度な緊張や執着が消えており、より自然で適切な(調和的な)「機能(レスポンス)」が生じるだけです。


⑥「特別な体験(神秘体験や一瞥体験)=悟り」という誤解(体験と事象の混同という誤解)

一瞬世界と一体化したような感覚や、強烈な光や快感(いわゆる「一瞥体験」や「サマーディ」)を体験し、それが起こったことで「自分は悟った」と確信する誤解です。クンダリーニ上昇と呼ばれるものもこれに含まれます

すでに述べた通り、悟りとは単に(誤って見てしまっていた)分離を見なくなるということです。従って、上に挙げたような「特別な体験」とはなんの関係もありません

もっとも、いわゆる一瞥体験とされるものについて言えば、なかには「一時的に分離のない状態を経験している」ケースもあるにはあります。その場合であっても、そこには「その状態を経験しているわたし」が強く残っています。それゆえ強烈な経験として印象に残るわけでもあるのですが、いずれにしてもこれは悟りでも覚醒でもありません。強いていえば覚醒の疑似体験でしょうか。しかしながら、わたしが見聞きした「経験談」のほとんどはそのような疑似体験ですらなく、単なる思い込みであったり、ある種の変性意識状態におけるカタルシスの経験でしかありません。集団で行う瞑想会などで比較的頻繁に起こるように見受けられます。

普通の信心深い少年であったラマナ・マハルシはある日突然バタッと倒れ、本人はそのとき自分が死んだと思ったのですが、実際には生きていて驚いたそうです。これはおそらくエゴが突然死を起こしたとでも説明すべき事象です。それから二年間、彼は話すこともできなかったそうですが、やがて彼は口を開き、周囲の援助を受けながら人々に教えはじめたということです。

この話はいかにも特別な体験によって悟りが起こった事象のように受け止められそうですが、わたしの観点ではそうではありません。このマハルシの件は、単に「悟りが突然起こった」事象であって、なにやら神秘的なことが起こった結果ラマナ・マハルシが悟ったのではありません。なぜなら、このときラマナ・マハルシのエゴ(偽りの行為者)は完全に死んだのであって、そこには「起こった事象」と「それを体験したわたし」という分離はないからです。

翻って、いわゆる特別な「体験」あるいは神秘「体験」には必ず "体験する主体""体験される対象"二元性が存在しています。どれほど壮大なサマーディであれ、クンダリーニの上昇であれ、「すごい体験をした!」と語っている間は、その体験を見ている「わたし」が存在しています。したがってあらゆる「体験」は二元的であり、ゆえにそれは悟り(または覚醒)とは何の関係もないのです。

これはフォローとかではありませんが念の為述べておくと、特別な体験とか神秘体験にはなんの意味もないと言っているわけではありませんよ。あくまで、それらは悟りとは関係ねえよ、と言っているだけです。わたし自身も神秘体験は何度か経験していますし、それはわたしにとっては非常に意味深いものではありました。しかしながら、そうした経験がわたしの知覚を変容させたわけではありません。

以上、もしかしたらまた続きのようなものを書くかもしれませんが、今日のところはこれまでになります。読んでくださってありがとうございました。また次の記事でお会いしましょう。


おまけ

このチャンネルはなかなか面白いですね。この動画のロドプシンの話がとても興味深かったので、Gemini と話してみたところ、途中で話題がチャクラやクンダリーニにそれていくのですが、最終的にサット・チット・アーナンダに行き着くという面白い流れになっています。

前回の記事や、今回の記事の一部でもクンダリーニについて否定的に言及していますが、その理由もここで明らかにしています。ぜひお読みください。

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