【歴史小説】冥界の門 第二章・群星(1)
その目に映るのは、権門の虚効か
あるいは人の世の真実か
敗者の声をも歴史に刻む
黒筆と呼ばれた男・橘逸勢登場!
********************
《冥界の門 第二章・群星(1)》
鴨川を渡り六道の辻が近づくと、物乞いや、動けなくなってただ座り込む者、すでに骸となった者までが道端に溢れ、通りには生と死の匂いが入り混じり鼻腔を刺した。
政の不誠実さが生み出した、生き地獄のようなこの場所に、冥府へ通じる井戸を持つと噂される六道珍皇寺があった。
寺の南門をくぐると、掃き清められた境内が広がり、門の外とは異なる静寂の中に、深い茶色の板塀に囲まれた墨庵と呼ばれる一郭があった。
冬の日差しに照らされた墨庵からは、淡く乾いた墨の匂いと、書生たちが交わす緊張感を帯びた囁きが漏れてくる。
広間には唐の賢人が描かれた六曲一双の屏風が置かれ、仕切られた板の間には麻布の茵を敷いて、小野篁と橘逸勢が向かい合い坐していた。
火炉の炭はわずかに赤を宿し、白い息が言葉よりも先に立ち上る。
「……ここまでが北営からの報告となります」
墨色の直衣を纏った篁が、袖を正しながら淡々とした口調で伊久理からの報告を結んだ。
篁の低く通る声は抑制はされているが、微かに熱を感じるいつもの語り口調だった。
「三度も進物が奪われたとなると、藤原北家も目の色を変えてきましょうな」
白髪が混じる髻を烏帽子に収めた逸勢が、どこか達観したような笑みを浮かべて篁を見る。
「奪った物は文室殿が差配し、市に流して財とします」
「文室殿に任せておけば、足は付きますまい」
逸勢は火炉に手をかざし、炭の赤に目を置きながら話を継いだ。
「そう言えば、小野殿は遣唐副使に任じられたとか」
さっきまで板戸の向こうから聞こえていた書生たちの囁きが静まり、墨を磨る音だけが耳に残る。
「遣唐副使ということは、つまり小野殿は東宮から遠ざけられたということ。これは全て藤原中将殿の企みだと、式部省では噂されておりますぞ」
逸勢は表向きは、式部省大学寮に籍を置く官人でもあった。
「さすがにお耳が早い」
日頃、あまり表情を崩すことのない篁が、このときばかりは苦笑いを浮かべた。
「今すぐにと言うことはありますまいが、来年、再来年あたりには、唐に渡れ、という話が持ち上がるやもしれませんな」
「随分と悠長なことを」
逸勢が口角を上げて篁の顔を覗き込む。火炉の炭が小さく弾け、わずかに赤が和らいだ。
「東宮には申し訳ないが、遣唐副使となったことで自由に動ける時間は増えました。この機に閻魔党の活動を一段先に進めることが出来ます」
篁は表情も変えずに答えたが、その奥には確かな決意が込められていた。
「さすがは小野殿。ただでは起きませんな」
二十も歳の離れた篁に、逸勢は丁寧な言葉を崩さなかった。
屏風の端を冷たい風がすり抜け、広間の空気をわずかに揺らした。
「わたしは、ここで弟子たちと共に、歴史を記すだけ。小野殿の力には成れぬかもしれません」
「何をおっしゃる。橘殿がこうして勝者の歴史だけではなく、京人がその存在を見ようともしなかったまつろわぬ民や市井に生きる人々に光を当て、後世に遺すことが我ら閻魔党の義となるのです」
筆の音がぴたりと止んだ。
「小野殿には感謝をしています。わたしは権力により国の歴史が捻じ曲げられることに嫌気がさしておりました。小野殿はこの筆に人生の仕上げとなる務めを授けてくださった。わたしは閻魔党の義をここ墨庵で静かに記してまいります」
逸勢は目尻を緩めながら、ゆっくりと庭に目を移す。冬の陽が高みに昇り、影を少しだけ濃くしていた。
板戸の隙間からは、墨を磨る音と、歴史を記す書生たちの確かな語らいが絶えることなく漏れてきた。
********************
あとがき
満を持して第二章・群星がスタート!
今回は、筆を武器とする黒筆こと橘逸勢の登場で
閻魔党の姿が少しづつ輪郭を現してきました
平安京の表と裏を繋ぐ「言葉」と「記録」は
武や政に劣らぬ力を持ちます
その力を握る逸勢が、これからどのように篁と関り
藤原北家と対峙していくのか
次節では、元日節会の席で篁と藤原良房が直接対決⁈
どうぞお楽しみに
次回、第二章・群星(2)は9月20日(土)公開予定
