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【アノクラクラ】STAGE.1 BREACHING

⚠このシリーズはフィクションです。
⚠一部グロテスクな表現や性的な表現があります。(R/RG15程度)


ここは人外たちが住まう国の有する埋立地『月下界』。
そこで暮らすオルカ族の青年・サイアノが廃棄物投棄場で出会ったのは、CRACKと名乗る謎の少女(?)で……?
これは、王の庇護遠いこの地で生きる流れ者たちの暮らしを描く【WORLD'S EDGE SCRIPTORIUM】シリーズの、とあるセーブデータ。

あらすじ



WORLD'S EDGE SCRIPTORIUM】シリーズ



 ひとりぼっちで飛び立つことは福音である。
 天までが遠い。人類が今まで地面を掘り進めた中で最も深い穴は十二キロメートル。僅か、十二キロメートルである。その地点での地下温度は二百度にも及び、到底生命活動に適した環境とはいえないだろう。それでも人類の開拓の精神が到達したその距離より深くに身を潜めることが可能ならば、地下帝国創建も夢ではないが、流石に二百度以上ともなると我ら人外族にとってもデッドリー・ヒートであることには変わりない。ヒトがある程度快適に居住できるのは精々地下一〇〇メートルといったところだ。この程度の深さの地下鉄駅は現代の人類圏にはうじゃうじゃ存在しており、もはや地の中にでさえ神秘は残っているはずもない。神秘というのは人外族にとっての人権のようなものだ。それらがある程度担保された地に棲みたいと希求すること、またそれらが成されることは、もはや基本的人権のうちひとつといっても過言ではない。
 よって我らは『埋立地』を居留地とした。いや、流刑地とした。
 督国の有する『棄孔』から投棄された不要物の埋め立て処理地兼××××のその奥底に、この『月下界』は存在している。人類圏からも人外圏からも隔絶されたエグザイル達の楽園として。大仰な比喩を使ったが、要はシェルターのようなものだ。星の表面を基準とするならば、地上と地下の双方へと多層コロニーが伸びており、簡単にいうなら、地上階を埋め立てられた塔のような構造をしている。それらを纏めて地下と呼んでしまうのなら、それはそれで構わない。我らは外部からの呼称も蔑称も特段気にはしないのだから。
 督国からうちすてられた様々なものがこの月下界に落ちてくる。生命も例外ではない。運よく生き延びここへ辿り着けば住民は歓迎するだろう。そのまま人類圏へ行きたいのならゲートキーパーのところへ行けばいい。人類圏に出るのがおそろしいのならここに留まるのもいいだろう。どちらにせよ、もうあの国へは戻れない。しかし建造物としては巨大でも、世界というには、ここは狭い。選択の機会はいついかなるときもあなたの傍にあって、ゲートキーパーもいついかなるときもあなたを歓迎する。
 現に、落ちてきた手負いの黒狼は外へ出て行った。我が子を咥えた雪豹もまっすぐに出て行った。
 ここはゴミ処理場。要は、夢の国だ。現実へ飛び立つことを誰も止めはしない。しかし、天は遠い。認知確定距離思ったよりも、遠い。



CYANOTYPE CRACK LANDING-RMX



 月下界は回潮フイチャオ・テセラ。復活の意を冠した栄誉あるこのテセラ──月下界の自治体の単位である──は、コロニーの地下階部分の中層に位置し、外部の地底湖とも隣接した水資源豊富なチャイナタウンだ。ここは地下エリアの開拓を進める作業員が多く駐屯する宿場町として広く知られており、上層部へと通じるメトロの始発駅(終着駅ともいえる)があることから物資と人が集まりやすく、地下エリアの住民の経済活動の中心地でもある。天井を覆う天幕には主に星空を採用し、街は常に夜の盛りを演出して賑やかだ。そのぶん治安も悪いが、人の集まるところはなにより飯が美味くなる傾向がある。ちょっとした騒音や細々としたアクシデントさえ気にしなければ、家賃もそこそこ安いし聖職者もいる、至れり尽くせり一歩手前くらいの住みよい街である。現に昨年度の『全年齢層にきいた! マジで住みたいテセラランキング』では堂々の第五位に食い込んでおり、地下エリアでは最も順位が高かった。
 オレがこの街に住み始めて五年。いや、六年。……七年か? まあ四捨五入して十年。その間、独自にこの一帯でぶっちぎりで美味くて金額に納得できる飲食店を探し歩いたところ、堂々の第一位に輝いたのがこの金星ジィンシン飯店だ。目抜き通りから一本逸れた路地に位置するこの店は、人間界から流れ着いたパンダ種のオッサンが鍋を振っている。ジャンルは創作中華。オレは人間界の各国の食事情に明るいわけではないので扱う品々がどこのどういう料理なのかは知らないが、「美味けりゃいいんだよ!」と細かいところを気にしない店主の豪快さも含めてお気に入りだ。
「オヤジ、水煮肉片シュイジューロウピェンラーメン七辛とライス大ね」
 店に入り、カウンターテーブルに着くなり厨房の中の店主にそう告げると、彼は鍋を振りながら「アンタさんよ、いつも言ってるけど注文は接客係に言ってくれ。俺に言われても伝票忘れるんだよ」と背中で答えた。それを受けてオレはちらりと背後のテーブル席で接客をしている小柄な看板娘を振り返ったあと、
「だって、あの子いつもオレのこと怖がってんだから可哀想だろ」と言葉を返す。「ナプキンに注文書いといてやろうか?」
「怖がる怖がらねえは客のアンタに関係ないだろ。……まあいい、水煮肉片ラーメン七辛とライス大な」
 店主は渋々といった様子で注文を繰り返し、再び調理に集中しはじめた様子だ。オレは見られていないことを知りつつ笑顔を作って椅子に座り直すと、羽織っていたオーバーサイズの上着の袖を抜いて腰で結んだ。それからスマホを手に取り、メッセージアプリ『リトルネロ』の新着メッセージのタブ内をざっと巡回する。女女女女女男企業女女女……。AIによって重要な案件と選別されたことを示す星のパッチがついたものがないことを確認していると、不意に背後から肩を叩かれた。振り返らずに「なんだよ」と返事をしてパズルゲームアプリを開けば、「それが今回の雇い主に対する態度かねえ」と抑揚たっぷりの声がした。その直後に、隣の席の椅子が引かれる音。途端に詰まるパーソナルスペースに、「狭いだろ。向こう寄れよ」と肘で彼の腕を突く。
「おっ、いいのか? ここのメシ代経費処理してやろうと思ったのになあ」
 その言葉にオレは瞬時に顔を上げると、傍らの男の肩に手を回し、「大歓迎ですう、来々」とその頬にキスをしながら抱き寄せた。するとその青みがかった銀髪とストロベリーカラーの睛をした男……スティルマンは「やめろ誤解される」とオレを押し退けた。それをタダ飯の許可だと曲解して、オレは通りかかった看板娘のクイファに「オレの会計、コイツ持ちで」と声をかけると、彼女は爪先から頭のてっぺんまでを麻痺毒のような震えで満たし、「はい」と裏返った二音を発する。どうにもオレは彼女に怖がられているらしいが、その理由がいつもよくわからない。体格が大きいというだけなら、オレより大きい客もいるっちゃいるのだが。
「俺は魚香肉絲ユーシャンロウスー定食ね」
 外面だけは紳士のスティルマンに声をかけられ、いくらか持ち直したらしいクイファは、三秒前よりは滑らかに「ライスの量はどうなさいますか」と発音した。それが面白くないオレは、口を尖らせながらタンブラーから水を飲み、氷を噛み砕く。そして彼女が離れたあと、再びスティルマンの肩に手を添えて、
「なあ、オレって怖くないよな?」
 と彼に聞いてみた。するとザ・紳士は、「なんだよ、藪から棒に」と眉根を寄せ怪訝な表情をしたが、オレが親指で彼女の背中を指し、
「いや、クイファちゃんの態度よ。オレみたいに見るからに軟派な男、フツー話しかけやすいだろ」
 と丁寧に説明と意見をすると、彼は「ズレてるな」と呟いて、それとほぼ同時にフッと鼻で笑った。
「彼女に見る目があるだけだろう」
「は? オレ結構モテるんですけど?」
「お前に言い寄るようなのは全員見る目がない。それだけのことだ」
「はーあ? じゃあネロ友全員バカってことかよ。見ろよこのアホみてえな数の未読パッチを」
 ちなみに未読パッチは二〇〇〇件を超えている。オレが押しつけたスマホを手の甲で払うような仕草を見せたスティルマンは、それから茶化すように(見る目がない発言よりもずっと、茶化すように。そして真剣な眼差しで)、
「お前と一緒になって誰がハッピーエンドを迎えた? 答えてみろよサイアノ」
 と言ってオレを一瞥する。一瞬対抗意識が湧いたが、まあその点でオレはこの男には敵わないと諦めて、「そりゃあスティルマンさんには負けますよ」と惚けて肩を竦めた。
「だよなあ」
 彼が愉快そうに目を細めるのを横目に、「さっすが所帯持ちは違いますねえ」と漏らしながら厨房からカウンター越しに直接渡されたトレーを受け取る。麺鉢からスープをこぼさないようそっと下ろして箸を手に取ると、そのタイミングでスティルマンの定食も運ばれてきた。そっちは看板娘が運んできたのでオレはまた面白くなくなるが、思考を打ち切ってスープに箸を入れた。ラーメンは熱いうちに食うに限る。太麺を捕まえて、油通しされた豚肉と一緒に口に運ぶ。麺を啜るのはコロニーの外でも中でも日本人くらいらしいが、まあ、楽だからオレもラーメンとかソバは啜る。油通しされた肉の若干ゼラチン質な歯応えと唐辛子の刺激で、咀嚼すること自体が楽しいからオレはこの水煮肉片が好きだ。ラーメンも好きだから、それらが合体した水煮肉片ラーメンはもっと好きだ。単純計算で満足できるこの単純さは我ながら美徳で、美味いもんと美味いもんを掛け合わせたら倍美味いし、キープする女はいればいるほど気持ちいい。オレの行動原理は単純明快。悩んだり病んだりする方面の頭はない。
 食事を終えて店を出ると、「じゃあ仕事行くか」とスティルマンはタバコに火を点けながら言った。回潮・テセラは喫煙が自由だ。他のテセラには屋外禁煙の場所や(そもそもコロニー内なのだから屋外もなにもないのだと思うのだが)、全面禁煙の場所もあるらしい。逆にロボットとアンドロイドしかいない区域は喫煙に関する取り決めそのものがなかったりする。オレも彼に倣って電子タバコを取り出し、スイッチを入れた。流石に子どもが近くにいたら吸わないが、まあ子どもなんて滅多にいないのだから気にしないのと同じだ。ふたり並んでタバコをふかしながら目抜き通りへと出て、今回はグラウンドフロアを目指すためメトロの駅へと向かう。道中、馴染みの女たちが手を振ってくるのに適当に応じていると、スティルマンが「刃傷沙汰の場合、我らが医者先生は手当てしてくれないぞ」と言って睨んできたのでファンサに挙げていた手を下ろした。「はいはい。じゃあオレの死因決まったな」と笑うと、マジめの肘鉄で脇腹を打たれる。そのまま引き続き訓告という名のお叱りを受けつつ、駅内部にあるコロニー統制局関係者専用の長いエレベーターへ乗って、オレたちは『廃棄場』のある区画へと出た。
 オレの生業は、主に廃棄場に落ちてきた協会産の怪物や、運よく生き残って落ちてきたにもかかわらず月下界に属さずに逃げ隠れする個体(ジャンパー)を見つけ出し、対処するというものだ。そういった存在をここではハンターと呼び、中でもオレは公安に認可されたライセンス持ちのハンターで、仕事中は身分章の携帯が求められているため『ホルダー』と呼ばれたりもするが、一般的にはハンターが通称である。野良ハンターよりもある程度の特権と、統制局からの仕事の斡旋がある代わりに、受け取れるバウンティがいくらか割り引かれる。ただし、オレの場合はわざわざライセンスを取ろうとしたわけではなく、「お前はやりすぎるから特権持ちということにしておかないと色々とまずい」とスティルマンがなんとかお偉方に取り合ってくれたからその地位に甘んじているだけであって、本来的には勤め人なんて真っ平という性分だ。なので、仕事は選ぶようにしている。そうでないとやっていられないからだ。
 そしてオレの友人であるスティルマンは、統制局の地下開拓事業部の現場責任者だ。彼の手によってこれまで開拓された面積は、コロニー基準で五フロア分。抜きんでた働きぶりであるが、彼は昇進を蹴って未だに現場に立っている変わり者だ。今日はそんな彼と共に処理場へと向かうわけだが、これはスティルマンから直接オレに交渉があった仕事だ。たまにはこういう雑務も慈善事業と思って請け負うことにしている。
「すまんな、サイアノ。今回は人が集まらなくてな。思い切って他の奴らは全員休みにしたんだ」
「あー、明日は白律誕だからだろ? まあしょうがねえよ。どうせ廃棄物の確認だけだろうし、帰って三人で飲もうぜ」
 今回の仕事は定期的に督国から投棄される廃棄物の確認をすることだ。この検分作業は定期的に各テセラが順に請け負い、その回の廃棄物は担当したテセラの所有物となる。生命体がいた場合は危険度に応じて処理。意思疎通可能な知性体の場合、大抵は保護。あとは内容物の量を種類ごとに大まかに記録して、各種処理業者に撤去作業を割り振る。オレはその記録作業のサポートをしつつ生命体がいれば対応するだけ。なんとも簡単な仕事である。
 世間話をしながら、暗く埃っぽいドーム型の通路を、ふたりきりで進む。各テセラは『リアルの風景と質感』を再現することに心血を注いでいるため、ただ観光しているだけでもなかなか飽きないが、こういったどこのテセラのものでもない『通路』は別だ。むかし流行った言葉を使うのなら、ディストピアというのがしっくりくるほど、殺風景でなにもない。とっくに死んでいる照明器具や、バッテリーの寿命を待ちつつひょろひょろと目的なく彷徨する、下手に長生きな奉仕ロボ。なにを食べているのかわからない謎の小動物。どこからか染み出た濁った水が、数メートル前まで埃でざりざりしていた通路を不愉快な踏み心地に変えている。どこのテセラもこの共有部分のクリーンナップなどしない。そう頻繁に用があるわけではないからだ。
「シャッターは今日はついて来ないんだな」
「ああ、なんでもお産があるとかで」
「それはオメデタイやつか?」
「そうみたいだな」
「ふーん。ガキが産まれんのか。住人がひとり増えるってことだな」
「ああ。つまり、今日は素晴らしい日だ。あとでお祝いを買っていこう」
 オレたち人外族の出生率は低く、赤ん坊が生まれるなんてそうそうあることじゃない。平和な地区ほどそうだ。だから赤ん坊が産まれれば皆で祝福するし、その家族に贈り物をするのが習わしである。
「じゃあシャッターも長丁場になる可能性があるわけだな。いい酒でも買ってくか」
 シャッターは月下界では貴重な医者だ。数が少ないゆえに医療行為の大半を請け負う彼は中々に忙しく、欠伸を噛み殺していることが多い。彼もまたオレの友人であり、そしてシャッターの恋人でもあった。そんな彼の負担を減らすためにオレも治安の向上に貢献したいという気持ちは少なからずあって、しかし伝える手段に乏しいオレはとりあえず酒だのメシだのに誘うことしかできない。できずに、いる。
「すんなり生まれてくれればいいんだがな」
「念送ろうぜ、念」
「やるか。せーの」
 ふとした思い付きのまま、回潮・テセラの方向にふたり揃って思い思いの方法で念を送り、十秒ほどしたところで同時に噴き出す。大の大人がふたりも祈りに頼っているさまは滑稽だ。「これで安産だったら世話ねーぜ」「だな。いやでもまさかがあるかもしれない。祈りのタンクがあとひと祈りで満ちるとか」「じゃあもう一回くらいやっとこうぜ」「よし、やろう。せーの」「ちゃーんと、生まれろー!」そうして今度は肩を叩き合って祈りを終える。今日も処理場へ続く通路は異常なし。辛気臭い空気を薙ぎ払う笑い声がふたつ。あとはなにもない。
 処理場は金星みたいに遠い棄孔までが吹き抜けになった円形の空間だ。一度に投棄される不要物の量はそう多くはない。自由落下でモノが落ちてきた場合、ほとんどが木っ端微塵に砕け散ってしまうので、孔からここまでのあいだに気流の発生装置が何基か設置されている。そうして可能な限り減速に減速を重ねて落ちてくる不要物は、それでもその多くは無事ではない。物品であれば殆どの場合修理が必要だし、イキモノであれば大抵が死んでいる。それでも『協会産』のイキモノの中にはとんでもない化け物が混じっていることもある。そういうときは検分に帯同している警護兵やハンターなりが処理するか、即時処理が難しければ警報を発令しこれまたハンターが処理を請け負う。その怪物の規模によってチームを組むハンターもいれば、オレのような個人でやっている者もいて、処理方法も多様だ。オレの場合は聞き分けのいい個体にバッティングすることが稀なので全殺しが主なのだが……どうやら今回は出番がなさそうだ。
「ざっと見た感じ、前回の四分の三……というところか」
 その空間の外周に沿うようにゆっくりと歩きながら、仕事用のスマホのカメラを不要物の山に向けてスキャンをしていたスティルマンは、半周ほど歩いたところでそんなコメントをした。
「量じゃなくて質だろ。ざっと見た限り、すぐに使えるモンが多いほうじゃねえか?」
「そうだな。じゃあ業者ごとのマーキングを頼む」
 不要物とは言っても生ゴミの類いが落ちてくるわけではないので、視覚情報としては不愉快でもなんでもない。要は向こうが『処分に困るようなもの』だ。今回目立つのは無機物が入っているであろうコンテナ(外観からして故障していたり型落ちだったりする武器だろう)。それと、頑丈な袋に詰められた金属片。瓦礫。そして最近になって落ちてくるようになったケア・パッケージだ。中身は食料品や医薬品(品質も使用期限もマトモなものばかりだ)が多く、向こうの議会でなにかあったのかと勝手に察するが、まあ妄想の範疇だ。『要らない』というのなら貰うだけ。相互不干渉だ。
「このまま普段通りの割り振りで発注して……ああ、明日は白律誕か。それまでに終わらせたいな……」
「皆休みたいから急ぐだろ」
「それもそうか」
 白律誕。それは第一〇〇代裁座督リシュヴェリ王の生誕を祝う日だ。勿論向こうが発祥の祝日ではあるものの、開拓者の子孫が祖国の王族の誕生日を祝うのは人間界にもままある現象だと聞く。こちらでもあの可愛い王様の誕生日を祝うことは一般化しているので、三月一日は祝日に制定されていた。
 早く業者が入れるように急いで投棄物の種別にマーキングを施していく。マークを付与しながらカウントし、業者が実際に回収した数と照らし合わせて盗難や不正がないかチェックをするのだ。ハントがないとなると些か退屈だが、祝日前ということでオレも緩く仕事ができるのなら文句はない。これならほぼ二連休のようなものだ。街は一週間前から白律誕ムードで、あちこちで白律誕グッズが売っていて浮かれ気味。その日は白い菓子を食べる風習があるので日持ちする白菓子や、白い花を模した蝋燭なんかも多く市場に並んでいた。極めつけはリシュヴェリ王のポスターや写真集。これがまあ飛ぶように売れるらしい。オレは宗教に興味はないし、状況を鑑みて相応に不可解だとは思うが、まあその王様が超カワイイので、理解できなくもないという気持ちにもなる。いや本当にカワイイんだこれがまた……。乳もデカいし……。ではなくて。そんなお姫様みたいに可愛い王様の誕生日を祝い、浮かれポンチになったばかばかしいほど賑やかな街を歩くのが、オレは好きなのだ。つまり、真っ当に祝日をエンジョイするつもりでいるのだから、その前日には人並みにやる気を出したりもする。
「よし、こっちは終わったぞ。あとは?」
 マーキングを終え、打ち込みを続けているスティルマンに寄っていくと、彼は集中しているのか「あー」だの「うーん」だのと上の空の返事をするだけで明瞭な言葉は帰ってこなかった。ならこの間にひと息つこうと手にしていたハンドガン型のマーカーを置いて、近くにあったケアパッケージに寄りかかって持ってきた水を飲む。そして、ボトルを傾けて仰いだ視界に、なにかが、映った。
 頭上に広がる吹き抜けの、向こうの向こうの遠く向こう。星。いや、鳥? ──なにかが、落ちてくる。
「おい、アレなんだ?」
 上を向いたまま、作業を続けているスティルマンにそう声をかけると、彼はまた「んんー?」と身の入っていない返事をしたが、オレの指さす先を見てくれたのか「は? 投棄時間はとっくに過ぎてるぞ」と焦りつつもどこか冷静なコメントをした。「この距離からスキャンは……できないか」落下物が小さそうなことだけはわかるので、スティルマンもオレもどこか悠長だ。
「いや、そんなんしなくてもわかるだろ……」
「なにがだ?」
「イキモノだろ、アレ……」
「はあ? だとしたら、生きてるのか?」
「いや、わかんねー……」
 ひらひらと、花びらみたいに。いや、羽根のように落ちてくるソレ。気流に絡まって、廻って、自由に。
「ちょっと捕まえてみる……」
 夢中になっているような、それでいてどこか非現実的な感覚に支配されながらオレは一歩前に踏み出す。落下地点をさぐる。わからない。
「捕まえるってなんだ」
「もし生きてたら、ほっといたら、ゴミの上に激突して死ぬだろ……それは、イヤだ」
「……サイアノ? お前なんか変だぞ。大丈夫か?」
 会話をしながらもソレから目を逸らせない。スティルマンがどんな顔をしているのかわからない。催眠術のような落下軌道。オレとソレとが、一対一だと錯覚させる吸引力。そして理解。スピってる眉間。大博打ロングショットの、シューティングスター。ここで受け止める? いや、ダメだ。迎えにいかないと。
 クラめく。おおきく跳ねる。ブリーチングの軌道で。飛びついて、的確にソレを捕まえる。あとは落下。ひとりどうしがふたりで落ちる。そして。
 着地したオレの腕の中には、生きているイキモノが収まっていた。
 それは白ではない髪と、天藍のいろをした睛の……。鈍い頭で観察しようとするが、しかし視覚情報だけでは分析が進まない。なんだこれは。……おどろくほどちいさい。細い。壊れそうだ。脆い。こんなイキモノが、生きている? 信じられない。……驚きに見開いた視界で、ソレはゆっくりと瞼を閉じた。一瞬死んだかと思って齧りつくようにして脈を確かめると、うごいている。その瞬間に突として湧いた、なんだかすべてをやりきったような安堵と虚脱感に動けずにいると、スティルマンがおずおずといったふうに「生きてるのか?」と声をかけてきた。オレはもう合わない目を合わせたままに、これからいつ目が合ってもいいようにしていたくて、身動ぎもせず「たぶん」と、それだけ答える。
「とりあえずお前、上着貸してやれ」
「ああ」
「大丈夫か、サイアノ」
「ああ」
「……勝手に使うぞ」
「ああ。……なあ、スティルマン」
「なんだ」
「コレ、オレにくれ」
「それは、どういう……」
「頼むよ。……だってこんなにきれいなモン、一個しかいないだろ。増えないし、いなくなったらゼロだろ……」
 他のなにかをどれほど足したり掛けたりしても、絶対にコレにはならないということだけが、鈍麻した思考のなかでかがやいていた。そのときオレは、一意性。いや、唯一性を本能の奥底で理解し、悟性を吹っ飛ばしてほんとうにマジのスピりとしかいえない方法で、無理やりにこの身の真ん中にある心というものを抉じ開けられた。いま、オレが全開だった。ガチの生身だった。……そのイキモノに向かって。それはオレはこの現象はソレは天は地下はこのゴミ溜めでさえうつくしかった。
「……わからんが、わかった。お前はとりあえずシャッターにこの子を診せろ」
 そう言いながらスティルマンはオレの視界に手という器官で切り込んでくると、そのイキモノの肉体にオレが腰に巻いていた上着を掛けてくれた。そこでオレはソレが一糸纏わぬ姿だったことに気づいて、その瞬間、はっと自分を取り戻す。
「え、オレ、いまエロとの遭遇を感知してなかった……?」
 女の裸体を前にしていたというのに、それを放念していただなんて、オレはどうかしている。らしくない。
「知るか。というかエロじゃないだろ。どっちかというと石膏像……ん?」
 ソレの身体にオレの上着を巻きつけようとしていたスティルマンが、はたと手を止めた。彼が黙り込んで見下ろしている先を目で追うと、ソレの背中に回さんとしていた彼の手のひらの上には、展翅された状態の、ちいさな白い翼があった。彼と顔を見合わせ、そしてふたり同時に、
「天使?」
 と呟いた。
 どうやらオレは天使を捕まえてしまったらしい。


 しかしまあ天使というのは現時点では安直な比喩表現でしかない。回潮・テセラに戻る道すがら何度もその背から生えるちいさな翼──広げてみてもその狭っ苦しい肩から僅かにはみ出るほどの大きさだ──を、そしてその付け根を触ってみては、それらが本物だということを確認する。感動的なことに、翼は本当に肩甲骨から生えているのだ。羽毛の感触はごく滑らかで、その奥には骨の感触がある。しばらく驚愕と癒しを交互に味わっていると、エレベーターが目的のフロアへと到着した。そして業者の立ち合いのため処理場に残ったスティルマンに、「羽がついてることをバレないようにしろよ」と言われていたので、オレの上着をちゃんと着せ直して前を留めた。若干ムラっとしたような気がしたが、普段女を前にしたときのそれとは違うような感覚があり、それが若干不気味だ。こんなに綺麗で乳がデカいのに、一〇〇パーセントの欲情ではないという確信のある、どこかしくしくと空疎な感覚。ひとり首を傾げながらも、オレの上着にすっぽりと収まっているソレを抱え直して、街へ出る。
 それから人混みを避け、裏路地を使って、シャッターの診療所の裏口へと到着した。そこでオレは今日は分娩があるのだということを思い出し、そっと聞き耳を立てるが妊婦がいきんでいる声も赤子の泣き声も聞こえてこない。まさか死産かとぞっとしながらドアを開け、まずは小声で「シャッター、いるかー?」と呼びかけるが、返事はなかった。いつもは稼働している手伝いロボットの姿もないが、清潔な匂いのする診療所内にはきちんと明かりが点いており、一階の病室のうちひとつの中から話し声が漏れ聞こえてきたので耳を澄ませてみる。内容はよく聞こえないが、勝手に最悪を妄想し、勝手に「せめて」と祈る。「ちゃんと生まれてろ」と。するとオレの祈りに連動するかのように、「ふにゃふにゃ」といった感じの赤ん坊の声が聞こえてきて、直後に三人分の笑い声が。俺は内心ガッツポーズをとりながら、つい「まったく、驚かせんなよもー!」と声を上げてしまう。すると中から明確に「失礼。ごゆっくり」という医者然とした冷静な声が聞こえてきたので、オレは身を縮こませながら、なけなしの擬態として壁に張りついた。シャッターは、怒らせると怖い。それから静かに開くドアの中から出てきた彼は、ゆっくりと的確にこちらを向くと、
「そんなにデカい袖壁を発注した覚えはないんだが?」
 と言って、オレの前につかつかとやってきた。動きやすいという理由で身に纏う袖のないスクラブと白衣が放つ蛍光色の反射が、太陽に愛された肌の色を映えさせており、そこに珊瑚色の長髪が加わることでその情景の『暑さ』と『冷やかさ』を同時に予感させるこの美しい男は、この『シャッター診療所』の主その人である。一拍前までオレになにか言いたげだった彼だったが、オレの顔から胸元へと素早く視線を移動させると、非常に察しよく「患者か」と短く問うてきた。オレが「たぶん」と頷くと、疲れているだろうに「こっちだ」と言って診察室に通してくれる。礼を言いながら勧められた診察台の上にソレを下ろすと、シャッターは短く「妊娠の可能性は?」と問うてきたので、正直に「知るかよ。初対面だ」と答えた。すると彼の爽やかで甘酸っぱい色をした睛だけがこちらを向いたかと思えば、冷たく突き放すかのように、診察台を囲むように設置されているカーテンを引いた。それでふたりの姿は見えなくなるが、「で?」という問いが布の隙間から顔を覗かせる。
「出会ってすぐに気絶しちまった。それがただの気絶なのかどこか悪いせいなのかわからないから一応シャッターのところへ……ってスティルマンが」
「アイツが? まあ、賢明な判断だ。……おい、なんで服を着ていないんだ」
 どうやら彼はオレの上着の前を開けたらしい。「だから知るかよ! 会話もなにもしてねえんだ」と返すと、そのときには既に動揺は引いていたのか、彼はその薄いカーテンの向こうでてきぱきとソレの容態を確認しているようだった。
「出会ったときはどういう状態だったんだ」
「あ? 棄孔から落ちてきたのを捕まえたんだよ」
「棄孔から?」彼はその場所自体には特に関心はなさそうな声音でそう言うと、数秒で考察を重ねたのか、「低体温症からの意識障害か……?」と漏らす。それからカーテンの隙間から腕だけ出して「リネン室に下着と患者衣があるから持ってこい。あと毛布だ」と言って廊下を指した。「散らかさず、迅速に」と付け加えて。
「はいはい。サイズは?」
「察しろ」
「はいよ」
 オレは返事をして座っていた椅子から立ち上がると、廊下へ出てリネン室へと向かった。そして四方布物まみれなせいで吸音がなされ、きわめて静かなその小部屋内をぐるりと見渡して、すぐにチェストに貼られた几帳面なラベルの中から『女性体向け』と書いてあるものを発見する。一瞬『子ども向け』と迷ったが、まあ大は小を兼ねるだろう。抽斗を開け、患者衣の小さいのと下着の小さいのを……と思ったが、あの胸囲だとぱつぱつになりそうだったので上だけワンサイズ大きいものを選択する。ある程度サイズに融通はききそうな仕様なのでこれでいいはずだ。そして毛布を一枚掴んでそのまま速足で診察室に戻ると、再びカーテンから腕だけ伸びていたので、その手のひらの上に今しがた持ってきたものを乗せてやった。
「湯を沸かせ」礼もないまま、次の指示が飛んでくる。
「ん? 風呂か?」
「言い方が悪かった。ケトルだ。産湯を沸かしたのが散らかっているが、そっちではなく俺が茶を飲むほうを使え。スイッチを入れたら戻ってこい」
「はいよ」
 言われた通りに診察室の隣にある給湯室に入り、棚に納められていたケトルをワークトップに置き真新しい水を注いでスイッチを入れた。そして戻る前にスマホを取り出し、スティルマンに「診療所着」とリトルネロでメッセージを送る。それから少し悩んで、「赤ん坊は無事生まれたらしい」と追加。するとすぐにレトロアニメ『ヌンチャク・パンダ』の主人公・パンダ師父が「GOOD!」とサムズアップしているステッカーが送られてきたので、そこでようやくひと息吐けたような心地がした。
 シャッターの診療所の主な利用者は怪我人だ。ここいらで怪我をするのは無茶をやる馬鹿がほとんどなので、シャッターはその場で処置して帰らせることが多く、そのため病室は少ない。一階に個室がふたつ。二階は個室がひとつと大部屋がひとつだ。そもそもが普通の一軒家なのでいずれも広くはなく、入院患者など滅多にいない。階段は広いのでストレッチャーや車椅子を乗せる昇降機が取り付けられてはいるが、この古い二階建てにエレベーターなどはあろうはずもない。なので、俺がソレを抱えて運んだ。ここまでの道程もまったく重くないどころか軽すぎて不気味になるほどだったので、なにも難しいことはない。ソレを個室のベッドに寝かせると、後ろから続いて入ってきたシャッターがティーポットとカップが三つ乗ったトレーをサイドチェストの上に置いた。それから彼はソレの体勢を整え、翼が苦しくないようにしているのか、上半身部分のマットレスをリクライニング機能で僅かに起こしてから「見ていろ」とだけ言って部屋を出て行こうとした。それを「まだ患者がいるのか?」と呼び止めると、彼は「母子の様子を見に行く。赤ん坊は日に何度も乳を欲しがるからな。それと、父親に話だ。ちゃんと言わないと『見ている』が本当に『見ているだけ』の奴がいるから念のためな」と答えて、そのままドアの向こうへと消えた。
「はーい、ちゃんと見てまーす」
 オレはひとりそう呟くと、ベッドサイドの椅子に腰を下ろし、改めてソレを観察することにした。握りつぶせそうなほどちいさな頭に惹かれてそっと手で触れる。揃った羽弁のようにするんとした手触りの柔らかい髪。整った眉を親指で撫で、眉尻から濃密な睫毛へ。そして、オレとは反対位置にある涙黒子。肉感の薄い頬と、同等に薄い唇。ちいさく高い鼻は、柔く摘まんでみるときんと冷えていた。コンフォーターと毛布でくるんでもか細く僅かな肉体の盛り上がり。さっきまで抱いていたのにもう忘れてしまいそうなその骨格の感触。低身長とは言えない背丈であることは脚の長さから察してはいたが、それでもなんともまあ……タイニーだ。女が小さいのはわかる。単純に性差だ。しかしこのイキモノは、それ以上に、存在が儚いような気がする。だがその睛のかがやきは、非常に天高く、水底深く、そして見つめられると殊更に……。
 数秒のトリップに身を浸して恍惚としていたそのとき、スマホが震えた。パンツの尻ポケットに入れていたそれを取り出すあいだにも振動が止まらなかったので、通話だろうと思い立ち上がりながら画面を確認する。すると案の定発信者がスティルマンだったので、個室を出て一階の玄関へと向かった。背中に赤ん坊のか細い泣き声が柔らかく突き刺さってはぽんと消えるのを感じつつ、出入口ドアを捻って外へ滑り込んで「おーす」と応答する。
「こちらスティルマン。いいことあったか?」
「こちらサイアノ。ベイビーが元気」
 通話時のお決まりの挨拶を交わしてから、「どした?」と要件を促すと、彼は軽く咳払いをしてから「そろそろ撤収する。……シャッターはどうしてる?」と、恋人の身を案じるいじらしい問いを返してきた。
「ママの授乳の様子? を確認してる。で、そのあとパパに『見てるだけは見てるってことじゃない』ってを説明しに……」
 あ、ヤバい。オレ、いま、あのイキモノをマジで見ていない。……瞬時に噴き出す焦りと、まだ目覚めやしないだろうという謎の言い訳が綯い交ぜになって心を掻き乱す。一瞬黙り込んだオレの心情をざっくりと察したのか、彼は「なにか要る物は?」と諸々の説明や雑談をすっ飛ばした言葉を口にした。俺は背側でドアノブを握りながら、「不時着ちゃんの服!」と言って通話を切ると、再び診療所の中に飛び込んだ。そして三段飛ばしで階段を駆け上がり、個室のドアを突き破る勢いで開けた。そこには先ほどと変わらぬあのイキモノの寝姿が……ない。
「マジかよ!」
 思わず大声を上げながら、室内に一歩踏み入った姿勢のまま、硬直ついでに視線で状況を確認する。角部屋のふたつの窓は開いていない。玄関にはオレがいた。裏口はわからないが、階段を下りた先の目の前にある玄関ドアをスルーしてそちらへ向かう可能性は低い。であれば、上だ。後ろに飛び退くようにして退室し、屋上へ続く階段へと足をかける。そこに漂う残り香に確信する逃走経路。焦りを表に出しては気配で獲物に気づかれる可能性があるので、オレはできるだけゆっくりと階段を上る。それからさり気なさを意識して外へと通じるドアを開けた。……やはりいた。不時着したイキモノが。
 そのとき、日付が変わったらしい。一瞬にして、各所で一斉にともされた白い蝋燭が、その白い火が、夜を清廉に染めた。この地の下でかがやく無数の星々の明かりは、穏やかな愛で満ちた其への賛美だ。それらが寄り集まり、星海を成すこのうつくしい光景こそが、地下生活者からかの王へと贈る白律誕である。この世でもっともすばらしい祝福のカタチ……。その白い闇のなか、各所の灯し火の揺らぎに同調せず、しずかに立ち止まっているソレの後ろ姿は、やはり天使を想起させる。はためく患者衣と肌の色に照りつく白火によって、よりずっと淡く白く漂白された存在の一個。しかし風に絡まるその髪だけが白くない。この色は確か……白殺し。藍を一滴垂らすだけで、白は白でなくなることからつけられた色の名前だ。
「……きれいだな」
 逃げんなとか、心配させんなとか、そういうことをいま言うべきか言わないべきかわからなかったから、言わなかった。ただ、なんとなくソレの心情を汲んだ。いや、オレがそう思ったからそう口にしたのかもしれない。しかし気持ちは同じだったはずだ。だから、同意を示した。すると、そのちいさな白の影はこちらを振り返った。泣いていた。天藍の睛から真珠みたいな涙をつるつるとこぼしては顎先に溜めているその様子に、ぼんやりと「冷えたら氷柱ができそうだな」なんて思う。
「ああ? どうした、どっか痛えのか?」
 面食らった勢いのまま、オレはロマンチックでもなんでもないどら声でそう言いながらそちらに近づく。そんなオレの言葉にソレは首をくるんと傾げると、その拍子に胸元に散った涙に気づいたらしい。濡れた患者衣の胸元をつまんで、「おお」と驚いた声を察した。染み入るように澄んだ、ちいさな声だった。
「泣いた」なぜか、ひとりごとのような報告をされた。
「お、おう……泣いてんな。しっかり」
 こういうときにハンカチを差し出せる男だったらよかったのだが、生憎そういうタイプではないオレは非常に戸惑った。今まで泣きたい女は泣かせとけばいいくらいに思っていたツケなのだろう。次の一手が指せない苛立ちが湧き上がりかけたそのとき、ソレは「ん」となにかに気づいた声を上げた。そして、
「赤子がいる」
 と呟いて、いきなり駆け出した。オレの脇をすり抜けようとするその身体を咄嗟に捕まえようとするが、あえなくその二度目の逃亡を許してしまう。慌ててその後ろ姿を追って診療所の中へと戻り、「待て待て待て!」と呼び止めながら階下へ降りるが、そのちいさな背は止まってはくれない。裸足でぺたぺたと階段を一階まで下りきったソレは、迷いなく病室のあるエリアへ。そして親子がいるであろう部屋の扉を躊躇いなく開けて中に踏み入った。オレがその部屋の前に追い付くのとほぼ同時に、シャッターの「なんなんだ……!」という声を潜めた叫びが聞こえてきて、オレはコンマ一秒で冷えた肝を解凍する暇もないまま扉を開く。すると白い蝋燭がひとつだけ灯る薄暗い部屋のなか、疲れた顔で赤ん坊を抱いたまま眠っている母親めがけてソレがベッドの向こう側に回り込んだところで、どう動いたらいいのか判別がつかない様子で中腰になっているシャッターが困ったように俺を振り返った。子の父親もソファで寝落ちてしまっているようで、赤子以外の起きている者は全員無関係といってもいいような奇怪な状況だ。そんななか、オレは「なんもわからん」と言い訳をひとつ漏らして、むにょむにょ言っている赤ん坊に手を伸ばそうとしているソレに「おい、ママから赤ん坊取り上げたらダメだろうが」と強めの語気で指摘する。するとソレは、
「とらない。祝福するだけ」
 とさっきの涙などきれいさっぱり忘れた調子で言って、赤ん坊の頭に手を置いた。そして、
「あなたを賛美します」
 と口にした。その瞬間、風が吹き込んだ。新鮮な、真新しい風である。一体どこから……と窓を見るが、閉まっていることは明らかだ。そして気づけば赤ん坊に翳された手は柔らかいひかりを発しており、ソレの頭上には目映いかがやきを放つ光輪が浮かんでいた。
「ヘイローホルダーか……!」
 シャッターが驚いたような声を上げる。光輪保持者ヘイローホルダーとは、簡単に言えば、超上位種のことである。それこそ、王種や神獣、或いは天使などがこれに該当する。
「よおし、福福と育ち、好き勝手に生きるといい」
 至上の絵画のような光景を前にして、あとは言葉も出せずにいるオレとシャッターの張りつめた緊張感とは裏腹に、ソレは気の抜けたやわらかい声でそう締め括ると、途端にヘイローを消した。薄闇が戻ってくる。そしていまだ硬直状態のオレたちの前にソレはぺたぺたと歩いてくると、
「はじめてだったんだけど、うまくできた……?」
 と、はにかんだ様子で問うてきた。オレはシャッターと顔を見合わせるが、そもそも見たことがないものを評価しろといわれても困るという共通の認識と、その責任の押し付け合いが発生したのがわかる。視線だけで「オレ無理」「俺もだ」と数往復やりとりしたあと、しかたなくオレがサムズアップをして頷くと、ソレは「これはなに?」とオレのハンドサインを真似て首を傾げた。


 とりあえずソレの首根っこを掴んで病室に戻した。
 シャッターが淹れた茶を渡すと、ソレはすんすんと鼻を効かせたあとカップに口をつけた。その躊躇いのなさからして、どうやら飲食はするらしい。そしてすぐに体温の上昇を察したのか、もぞもぞと患者衣を脱ぎ始めたので面食らう。ハーフトップを身につけているとはいえ、女の下着姿だ。医者のシャッターは慣れたふうに涼しい顔をしているし、オレも平気と言えば平気だが反応に困る。オレがどこかそわそわとしていると、ソレはそのちいさな翼を伸ばして「ううん」と唸りはじめた。どうやらストレッチ運動をしているようだ。その可愛らしいお目覚めの動きに魅入っていると、無言で茶を啜っていたシャッターが意味深な視線を投げかけてきた。これは「お前がなにか話せ」の意だろう。オレはその鋭い眼差しに気圧されるようにして軽く咳払いをすると、
「オレはサイアノ。そっちはシャッター。オマエは?」
 とソレに向かって名乗るよう促した。するとソレはオレを指さして「サイアノ」、シャッターを指さして「シャッター」と諳んじると、今度は自分を指さして、口を曲げて黙り込んだ。
「なんだよ、名乗りたくないのか?」
 オレがそう言うとソレは答えずに、「書くものある?」とシャッターを見た。どうやらこの短いあいだでこの場所の主が彼であることを察したのだろう。シャッターは「ある」と短く返事をすると、サイドチェストの抽斗からペンとメモ帳を取り出してソレに渡した。
「えっとね……」
 そんな思案の声を漏らしながら、ソレはメモの一葉に文字列を書き記すと、それを膝の上に広げる。
 そこには、『CRACK』とあった。
「われ、コレだよ」
 それはヒビや亀裂を意味する単語だ。特に宝石にクラックが入ると、輝きが増すが透明度が下がり、価値が落ちることもある。……どういう意図で名付けられたのか、現時点ではまったく明瞭ではないなりに、本人が呼称のなんたるについて無頓着そうなのをいいことにオレは、
苦楽クラク。いい名前だな」
 と、押し切った。クラックも苦楽も、あればあるほどきっと、人生はよいものとなる。きっと。
「クラク。いい名前」
 ソレ……クラクはオレの言葉を繰り返すと、ちいさく頷いて、「サイアノ、シャッター、クラク」と諳んじる。そして「もうひとりいる?」と首を傾げた。
「え、ああ……まあイツメンはもうひとりいる。あとで来るぞ」
「イツメン?」
「えーと、いつもの、メンバー……だな」
「イツメン。いい言葉」
「ああ、まあ、そだな……」
 なんだか非常に調子が狂う。シャッターはさっきから無言でコミュニケーションをオレに丸投げしているし、クラクはデフォルトで声がちいさいらしく、意識して耳をそちらに傾けないと発言を聞きこぼしそうになるしで、立つ瀬ないというか、立っているのはオレだけというか。
「オマエ、種族は?」
 この部屋の曖昧な時間の流れ方にやきもきして、仕方なしに核心に迫る。するとクラクがふたたび首を傾げるので、「俺は、オルカ。シャッターはウミヘビだ」となにを指しているのか教えてやると、
「われは、われだよ」
 とごく当たり前の返事が返ってくる。
「じゃあ、別の姿になるときどういう姿かたちになるんだ?」
「われは、われだよ」
「あー……オマエ、翼があるだろ。それに準じた姿だ」
「意味がわからない」
「じゃあ、鳥か?」
「鳥とはあれだ、翼が生えてて、嘴が生えてて、パタパタ飛ぶやつ。かわいいよね」
「ああ、うん……うん……」
 頭を抱える。もしかしたらまだ獣型形態への成りかたを知らないほどの子どもなのだろうか。そんなケースは、聞いたことがないが。
「じゃあ、どこから来た?」
 この質問には、答えがなかった。二度繰り返したが、クラクは唇をむにゅっと閉ざしたままでうんともすんとも言わない。
「言いたくないなら、まあいいけどよ……」
 オレも口を尖らせながら頷くと、クラクはオレを真似て頷いた。それを見たのかシャッターが僅かに噴き出すので、「助けてくれよお、先生」と縋りつく。すると彼は、
「やっぱり雛かもな」
 と、疲れているせいかいつもより大袈裟に笑った。
「雛だと?」
「お前のこと、刷り込みでママだと思ってるんじゃないか」
「それはまずいな……おいクラク、オレはママじゃないぞ」
「それはそう」
「……なんだよ、わかってんじゃねえか」
「あたりまえだよ。サイアノは、男だから」
「……パパでもねえぞ?」
「それは、見かけではわからない。こども、いる? 祝福、いる?」
「未婚だしガキいねえしいらねえよ」
 ひっひっひ……とシャッターが手で目元を隠してまた笑う。一瞬だけ苛立ったが、普段がクールな彼が気を抜いて笑ってくれているのなら、それはそれでいいことだと考え直して、オレはクラクが脚を投げ出して座っているマットレスの上に頬杖をついた。それからクラクに対し、いくつか質問を投げかけてそのプロフィールを解き明かそうと試みる。好きな食い物も嫌いな食い物もわからない。歳も誕生日もわからない。……これらは『わからない』と答えたので事実なのだろう。そして「ここがどこだかわかるか?」という問いにすらもクラクが「わからない」と答えたところで、診療所の入り口が開いた音がした。その音にシャッターが真っ先に動いたので、帰宅の睦み合いを邪魔はしないようオレは座ったまま彼女の手を握ってみた。やわらかく、ちいさい。抱き上げたときの感覚となんら変わらない感想が湧く。クラクはオレの手を両手で握って弄り回し、それから「おおきいね」と真顔でコメントをした。それからオレの目を見て、「サイアノ、きれいだね」と、どこがどうしてきれいなのかについては言及しないまま、親指を立てる。
「これはきっといいと思ったときにする。希望的観測だけど。……合ってる?」
 そのちいさなサムズアップと向き合った彼女は、親指がお辞儀をするのに合わせて頷くと、ふたたびオレを見て「いいね」と親指とともに頷いた。なんだこの不思議なイキモノは……と初めて観測したときとまったく変わらない印象を抱きながら、「オレもいいなって、思ったんだ」と漏らしたそのとき、ドアが開いた。顔を上げると富豪の休日かと疑いたくなるほどの大量のショッパーを手にしたスティルマンが部屋に入ってくる。それらをキャビネットの上に一旦下ろして「ふう」とひと息吐いた彼は、クラクを振り返ると「おお、起きたんだな不時着ちゃん」と明るく言って、さっきまでシャッターが座っていた椅子に腰を下ろした。いつもは整然と撫でつけられている前髪が乱れて幾筋か垂れているところからして、急いだのだろう。
「われ、クラク」
 彼の口にした『不時着ちゃん』が自分のことだと察したらしいクラクはそう訂正を挟むと、「あなたは?」と真っ当に呼び名の交換を求める。いや、もしかしたらオレの真似かもしれないが。
「おお、意思の疎通はできるんだな。俺はスティルマンだ。よろしくクラク」
 名乗りに応じたスティルマンが握手を求めて手を伸ばす。するとクラクは一瞬迷うような素振りを見せたあと、彼の柔く開かれた手指のうち、人差し指だけをきゅっと握った。
「……なんだこれ、赤ちゃん?」
 半笑いになりながら、スティルマンはオレに視線を向ける。しかしオレにはどう反応したらよいものかわからないので、ただ肩を竦めてみせた。そんなオレに早々に見切りを付けてくれたらしい彼は、椅子を引き寄せてさっきよりまっすぐにクラクと向き合うと、
「そうじゃなくてだな、こういう場合は手と手を握り合うんだ。ほら、やってみよう」
 と彼女を促した。そうするとクラクは理解したのか、今度はスティルマンの手をきちんと握る。「これは、なに?」と言いながら。
「よろしくって挨拶だ」
「……よろしく、スティルマン」
「そうだ。上手だな」
「シャッターとよろしくやってない」
「それは表現が……まあいいか。おーい、シャッター」
 廊下に向かって彼が呼びかけると、「いま行く」と階下から響いているであろう声がした。その挙措の若干の所帯っぽさに、オレがついニヤニヤと笑ってしまうと、無言だったのに「うるさい」と睨まれた。そして診察室に置きっぱなしだったオレの上着を持ってきてくれたらしいシャッター(それまで引っ詰めていた髪を解いていた)に、クラクは「よろしくやるはコレなんだって」と手を差し出す。すると彼は「ああ」と察したような返事をして、オレに上着を押しつけてからクラクの手を握った。
「よろしく、クラク」
「よろしく、シャッター。ねえ、スティルマンとツガイなの? 祝福、いる?」
 彼女が挨拶のあとに続けた思わぬ言葉に、その場にいた全員がふっと沈黙し、一秒後にオレが腹を抱えて笑い、シャッターが固まったまま耳まで赤くなり、スティルマンが「随分とませてるな」と冷静に分析をしながらなぜかオレを殴った。オレは慌てて真顔を作りながら「祝福の押し売りをするなよ」とクラクの手をシャッターから剥がすが、やっぱり笑えてしまってたまらない。
「いいなあ天使さまのお墨付きで」
 と率直な意見を口にすると、もう一度オレを軽く殴ったスティルマンは、クラクに対しては優しく「シャッターは照れ屋さんなんだ」と教えた。「だからあんまりからかうなよ」と続けて。
「からかってないよ。でも祝福がいるならおしえてね」
 その素直な返事に、スティルマンが「祝福って?」と頭を捻るので、オレがさっきまでの出来事を説明してやる。その間クラクは話をきいているのかいないのか、さっきのメモ帳にらくがきをしていたが、途中途中で「ちゃんとした祝福だよ」だの「われはわれだよ」などと口を挟んでくる。どうやら譲れない部分は譲りたくないらしい。
「はー。なるほど、ほんとうに天使様かもしれないってわけか」
 しかしクラクは、話を聞き終えたスティルマンのコメントに対してはなにも言わなかった。それよりも彼が持ち込んだショッパーの数々に興味があるらしく、「いい香りがする」とそちらを気にする。
「おっと、そうだった。これはキミの服とかコスメティックとか……いや、自認も好みもなにも聞かないうちに悪いとは思ったんだが……まあ、そういった類いだ。色々必要だと思って女性向けのエリアに行ってみたら、あれよあれよのうちに大量に買わされてしまってな。だから使ってくれると嬉しい」
「われの?」
「そうだ。でも支払いはサイアノだぞ」
「は? 聞いてないぞ」
「今日のギャラ分だ」
 ちゃっかりそう主張するスティルマンに反論らしい反論もできずにいると、クラクは「見る」と言ってベッドから降りようとする。歩行は難なくできているようなので、オレは止めずにその背中を見守ることにした。彼女はその中身をひとつひとつ検めながら、「いい布」「いい香りの……水?」「装飾品だ。なんのかたちかな。あとでじっくり見よう」「これは……戦化粧の道具? いい色」「おお、生物の似姿だね。とてもいい」と細かく所感を口にしてはGOODのハンドサインをする。その様子はなんともまあ幼気で、つい目元が綻んだのはオレだけではなかったらしい。シャッターは微笑を浮かべながら彼女が散らかすそばから片づけているし、スティルマンは腕を組んでコメントに聞き入っている。
 それからスティルマンはクラクに「どれでもいいから着てみてくれないか」と、衣類の入った袋を指してそう言うと、オレを指先で部屋の外へと誘った。シャッターを残したのは着替えの手伝い要員としてだろう。それからふたりで屋上へと移動し、いつもの調子でタバコに火を点けた。半日ぶりの煙が目に滲みる。ふたくちほど吸ったところで「なんで着替え?」と問うと、彼は紙巻の煙にオレと同じように目を細めながら、
「住民登録申請用に写真を撮らないといけないだろ。せっかくなら可愛いほうがいいだろうし……お前、記入欄を埋めてくれるか」
 と言って、スマホを寄越してきた。
「んなこと言われたって、名前くらいしか知らないんだが」
「落ちてきたのなんて皆そうだろう。問題は住居だ。ナシにしちまったら一旦シェルターで引き取ることになるんだから、お前のアドレスを書いとけ。あと発見者の欄も。そうしてくれたら後は俺が通しとく」
 それはそうだ。オレが彼にあのイキモノを「くれ」と言ったのだから責任を果たさないといけない。その登録申請書を埋められるだけ埋めたあと、「種族……」と問題の箇所を読み上げて語尾を尻すぼみにすると、スティルマンはオレの言わんとしていることを察したらしく、「それなあ……」と頭を抱えた。
「適当に天使だのヘイローホルダーだのと書いてみろ。当局に取り上げられて文字通り弄られまくるぞ」
 それについてはオレも危惧していたところだ。
「もう鳥でいいんじゃねえ? エナガとか」
「ああ、可愛くていいな、エナガ」
 スナックくらい軽い気持ちでエナガと記入し、スマホを返すと、内容を確認したスティルマンは「まあいけるだろう」と頷いてくれた。それからタバコを消し、病室へ戻ってノックをすると「入っていいぞ」とシャッターの返事があったのでドアを開ける。すると丁度ベッドに座らされたクラクが彼の手によって化粧を施されているところだった。しかし既に仕上げ段階だったらしく、最後にリップカラーを乗せて貰ったクラクは、シャッターに「できたぞ」と肩を叩かれると、ぴょんとベッドから飛び降り、
「どう?」
 と、先ほどの祝福のときと同様にはにかんだ様子で問うてくる。マンダリンカラーにフロッグボタンのついたトップスはロマンティックだが、活発な印象のホットパンツを併せたことで引き締まって見える。すらりと伸びた足には厚底のスニーカー。可愛らしく、そして少年のような趣のあるコーディネートだ。メイクは肌色に合った青みピンクで、差し色にイエロー。背中で羽がぴょこぴょこと動いているので、より天使っぽく……中性的に見える。
「おお、いいな。似合ってるよ」
 スティルマンはそうコメントして紙袋を漁ると、オーバーサイズの上着を取り出し、クラクに羽織らせて言った。
「服は背中が出ているのを買ったから、外に出るときは上着を羽織ってくれ。そうしたらいくらか楽だろう? ……ここいらではあんまりいないんだ、翼がついていて、ひっこめられないのは。珍しがられて攫われかねない」
 その諫言に首を傾げるクラクとは対照的に、オレとシャッターは「ああ……」とテンションの低い声を漏らす。「そっか、そうだよな」「サイアノ、ちゃんと『見ていろ』よ」「うーす」クラクを置き去りにして大人の男ふたりで囁き合い緊張感を高めているのは、『ひとつ下』のテセラを思ってのことである。その間スティルマンは写真撮影をすることでクラクの気を逸らそうとするが、彼女が俺たちの会話内容が気になるらしく、ぴょこぴょこと落ち着かない様子だ
「マジで失念してたわ」
「お前は案外そういうところには行かないもんな」
「案外ってなんだよ。フツー行かねーよ」
 ここが開拓者たちの宿場町ということは、近隣に性産業をやっている場所もあるということだ。はっきり言って下はここより数段治安が悪いし、他のテセラで人攫いもしているという噂がある。もしクラクが攫われでもしたら……考えたくもない。見た目の可憐さもあるが、ヘイローホルダーということは十中八九他者に魔力を分け与えられるギバー体質だ。激烈に最悪な事態に陥るという確信がある。シャッターとオレが防犯ベルを持たせるだとかスマホに見守りアプリを入れるだとかの提案を交わし合っていると、
「われ、かどわかされないよ」
 と、話に入ってこられないらしいクラクが核心を突いて口を曲げる。だがそれだけは完全には保証ができない事柄だ。オレは一応三人を代表するつもりで撮影を終えたクラクの前に進み出ると、半ば脅すような語気で、
「いいから外では上着を着る。オレから離れない。わかったな?」
 と言い聞かせる。すると彼女は微塵も怯んだ様子なく、
「上着はわかった。でも離れないのはわからない。サイアノは見えやすく、強そうだから?」と、しつこく首を傾げた。
「うーん、三割そう」オレは答えながら、悩んで顎を揉む。どうやら論破しないと納得してくれないらしい。
「なんでサイアノなの? シャッターとスティルマンはちがうの?」
「あー、ふたりがいるときならそれでもいいけどさ。オマエと一緒にいるのはオレなわけ」
「なんで?」
「オマエはオレのだから」
「なんで?」
 この赤ちゃんが……と言いたくなるのをぐっと堪えていると、オレの背後でスティルマンが笑いを噛み殺しながらシャッターに経緯を説明している小声が聞こえる。するとシャッターが「人権はどうした人権は」と至極真っ当な指摘をしたので、図星も重なってオレはキレた。
「わかったわかった! 契約だ!」
 そう叫ぶと、クラクは「契約したいの?」と真顔で問うてきた。もっと拒否されることを想定していたのに、あまり驚いていないところがなんだか癪だ。後ろで口笛を鳴らすスティルマンを睨みつけて黙らせると、「帰るぞ!」と宣言して彼女を担ぎ上げる。「帰るってなに? どこに?」「なぜなぜ期かオマエは?」「なぜなぜ期ってなに?」「うるせえ静かにしてろ」……言いながら、ショッパーの数々を腕に通し、ドアを開けた。「ねえシャッター、スティルマン、羽出してないのにかどわかされるよ。だめじゃん」その言葉に、ふたりが同時に噴き出す。このイキモノの妙な察しの悪さにヤキモキしながら、「ああもう! オレはいいの!」と、その笑いもクラクの二の句も遮って、オレは「じゃあ明日な」とふたりに別れを告げた。そのまま階下へ降り、玄関を開けた途端に聞こえてきた赤ん坊のふにゃふにゃとした泣き声に、クラクが「福福と!」と声を張る。


 オレの家は回潮・テセラのミッドタウンのとあるアパートメントの一室だ。その物件は吹き抜けのエントランスを挟んで左右に東棟と西棟が存在する構造で、オレの部屋はその東側の五階。一応は最上階だ。昔は学者が住んでいたとかで二部屋を繋げて一方を書斎にしてあったのだが、片付けを入居者に任せる代わりに即入居可能という条件だったため、オレは奥の書架のあるエリアに全ての本を押し込んで他のスペースをリノベーションした。オレは紙の本なんか読まないが、それらの本を捨てずにいる理由は、「全部が大切だったのだろうな」と妙なサウダージを感じたからだ。床が抜けるほどではないが夥しい量。ギリギリのところで吟味を重ねたであろう痕跡。亡霊の名残みたいにルールに乗っ取ったそれらの整列。どこに行っちまったんだよ学者さん……とその遺留物を見るたびにもの悲しくなる。まあ、それでも読みはしないが。
 部屋に着くと、荷物をソファに放ってから、今度はベッドにクラクを放る。なぜなぜうるさかったのも帰路の途中から景色に見入って静かになってくれたのだが、ベッドのスプリングで尻がバウンドした途端にまたスイッチが入ってしまったらしい。しかし「ここはどこ?」と当然の疑問を投げかけられて答えないわけにはいかないので、「オレの家」と答える。「で、オマエの家でもある」
 するとクラクは、「これはだれの?」とベッドのフレームに引っかかっていた女物の下着を指さした。オレは極めてスムーズに(そうであることを心がけて)それを背後に投げ捨てると、誰かがノーパンで帰ったことは気にせずに、「気にすんな」とクラクにも言い聞かせた。すると彼女はそこだけやけに素直にちいさく頷く。
「……今までに契約をしたことはあるか?」
 あったら許さねえ……と思いながら問うと、ちいさな頭が横に振れた。これには「よっしゃ」と雄叫びを上げたくなるが、堪える。他に使い魔が複数頭いるだなんてことは、オレには受け容れ難い。
「セックスは?」
 この問いには唇がむにゅりと曲がる。なら話が早いと服を脱ぐよう促せば、「なんで?」とまた疑問が返ってくる。「着たばかりだよ」
「ばかりもなにもあるか。契約するんだぞ、契約」
「なんで契約したいの?」
「したいから」
「そっか。いいよ」
 カジュアルすぎる返事にオレはまた若干イラつきながら服を脱いでいく。クラクはトップスの首後ろにあるらしい着脱ボタンに四苦八苦していたが、やがて「脱がせて」と助けを乞うてきた。まあ、女は脱がすものだ。言われた通りにしてやると、彼女は一片の恥じらいも見せずに「目を閉じて」とオレの頬に触れた。それに従おうとすると「やっぱり待って」と引き止められる。
「なんだよ」
「サイアノの目、きれいだから、もうちょっと見る」
 なんだこれは。口説き文句か? そのストレートな言葉選びにたじろぎながら、「後で好きなだけ見ればいいだろ」と返す。すると彼女は「待って。見てるから」とオレの目の前で起きていることをそのまま実況してくるので、なら好きだけ見ればいいとそのか細い身体を抱き寄せて額を合わせた。するとあのときのように、天に吸い込まれるような眩めきがあって、途端に動悸がする。スピってる眉間。目の前はただただブルー。しくしくと空疎。
「其の瞑目を彼方に焦がし 済い度すは墜落の果て……」
 契約の祝詞が聴こえる。遠くて近くて距離感がしっちゃかめっちゃかだが、確かにここにある音。さらさらとした声。
「我が理を三つに分ち 賛美歌夕星外典に託す 此の翼を三つに裂きて 汝に施し贖う秘匿 届け。あなたは──うつくしい」
 うつくしい、だと?
 驚愕に閉じていた目を瞠る。すると目の前にはオレに向かってまっすぐ手を差し出しているクラクの姿。ヘイローが出ていたのか、その周囲にはきらきらとした光の粒子が残っている。
「ハロー、よろしく、サイアノ」
 そう言って握手を促す彼女に従うようにして、ちいさな星みたいな手を握る。そしてオレはその信じられないくらい脆い感触に気をとられて、彼女が微笑んでいることに気づくのが遅れた。笑った……と知覚したころにはたちまち消え失せたそのまたたきは、なんの名残もなく真顔に収束する。慌てて「よろしく、クラク」と返事をしても、もう戻ってこない。オレに残ったのはこのしくしく……ああ、これは。
「……オマエを見てると、腹が空くんだ、オレは」
 このひとつの解を引っ掴んでオレは一体どこへゆくというのだろう。突き飛ばすように、あるいは乱暴に抱き寄せるようにしてオレはそのちいさなからだを押し倒すと、ひとまずコレで腹が満たされないかと試してみることにした。ほんとうに喰っちまうまえに。……証明のキスを終え離れようとする唇に、咄嗟に齧りつく。
「言えって!」
 と、叫んだのはまさに『その瞬間』だった。突如降って湧いた一抹の疑念を払拭するように奥へと分け入ろうとしたとき、クラクが「おお、サイアノ。われ、ケガをしたみたい」と呑気な声で指摘して該当箇所を覗き込んだ。そのときオレは「マジかよ」と「やっぱりな」というふたつの感情で綯い交ぜになって、つい叫んだのだ。
「処女じゃねえか!」
 そう続け、その進行度で一時停止。色んな意味でキツいが堪えてクラクの両肩を挟むようにして肘を突く。「おお、じゃねんだよ……言えやボケコラ」余裕がないので噛み締めた歯列から細い息を吐く。
「なにを言うの?」
「さっきセックスしたことあるかって訊いたじゃねえか! 処女はビビるだろさすがに」
「せっくすってなに」
 そのパターンは想定していなかったが、わからないならわからないと言うべきだ。よって、オレのせいではない。
「コレ!」
 その明らかに血の匂いがする箇所を指して言ってやると、クラクは唇とむにゅっとしたあと、
「なるほどな。ないよ」
 とバカ正直というか、ボケ正直に頷いた。
「なんなのオマエちゃんはもう……!」
「われはわれだよ」
 至って真顔でそう主張するクラクは「したことないと問題があるの?」と首を傾げた。その傾いだ頭を両手で掴んで、「あるに決まってんだろボケがよお」と言い返して凄む。すると彼女はきゅっと目を丸くすると「サイアノもケガをしたの?」と再び該当箇所を覗き込んでくる。「痛い?」
「痛いのはオマエだろ」
 痛くないの意を込めてその頬を鷲掴みにして、クラクのまっすぐすぎる視線をそこから逸らさせる。おごそかな契約の儀式のはずなのに、ムードもへったくれもない。
「もう痛くないよ」
「あん? なわけねーだろ」
「われ、痛いのわりと平気」
「なぜ」
「われはわれだから?」
 なんで疑問符がついてるんだよ……と追及したらこの問答は終わらないことを察して、「じゃあ、痛かったら言えよ」と発言を変更する。するとクラクは「わかった」と頷いて、それから「いま痛くないよ」と自信満々に宣言した。オレは一度大きく溜め息を吐き、弛緩した腕を彼女の背に回す。いますぐにでもぶっ潰せそうなフレーム骨格を、翼を、壊さないようにそっと。
「オマエの部屋、どうすっかな……」
 風呂上がりに洗面所の鏡の前でクラクのゆるい巻き毛を乾かしてやりながら。オレはそんな気がかりをつい声にして漏らす。契約をした感動よりも目下の生活のほうが心にかかるあたり、オレはあまりロマンチストではないらしい。実際に、もう景色が違うのだから気にするなというほうが無理がある。今も目の前にスティルマンが買ってきた基礎化粧品やヘアオイル、それと歯ブラシなんかが並んでいて、ものすごく『同居』という感じがする。これではもうネロ友の女を連れ込めそうにない。
「部屋?」
「そうだよ。年頃なんだからほしいだろ、個室」
 オレに髪をわしゃわしゃと掻き混ぜられながら、クラクはしばらく悩んでいるようだったが、そのうちに「本のところがいい」と鏡越しに人差し指を立てた。あそこだけ他の空間と雰囲気が違っているので目に付いたのだろう。
「狭くねえか? まあ、この機会に本を片すか……」
「うん? なんでかたづけるの?」
「邪魔だろ、本棚しかないんだから」
「そのままがいい。本、読みたい」
 まさか読書好きとは思わなかったが、あの本たちを処分するよりはいいだろう。適当に机やら椅子やら照明なんかを置いてやれば本を読めるはずだ。「じゃああとで掃除すっか……」その提案の語尾が欠伸に引き継がれる。それを噛み殺しながら翼にも一応ドライヤーを当ててやると、クラクはくすぐったいと身を捩った。その動きは天使のようにひらひらとしていて、オレはクラクラして、空腹を自覚する。そういえばきょうは水煮肉片ラーメン七辛とライス大しか食べていない。しかしそれよりも眠気のほうが勝るのは、密度の高い一日だったからだろう。オレはベッドに入ると、まだまだ元気そうなクラクを腕に抱いて「寝ろ」と促した。すると「わかった」と素直な返事。……オレはすこし笑ってしまいながら、大切なものと欲しいものが落ちてくる速度の差について考えながら目を閉じる。起きたら祝日を楽しもう。ハッピーバースデー、オレたちのかわいい王様。


 起きてからはまずは書架スペースの清掃をした。居室とを隔てる扉があるわけでもないので、なにかパーテーションを買ってやろうかと言うと、クラクは「本を読むのは恥ずかしいことなの?」とよくわからない角度から疑問を投げかけてきた。そうして拭き掃除をしているオレの後ろをひょこひょこ着いてきて、棚から本をいくつか抜いては身体を左右に揺らしてご機嫌そうだ。相変わらずの真顔だが。
 一応、クラクはオレのご主人様となったわけであるので、流石に掃除を手伝えとは言えなかった。というより、まだそこまでの関係性ができていない。言ってしまえば、一度ヤッただけの女なのだ。しかしまあ、何度もヤッたところで関係性が進展するかといえばそうではないことは身を以て知っているというか、オレが踏み込まない性質なので必然的にそういうことになる。……はずなのだが、オレはなんだか一度ヤッただけの相手がなんだかひどくお気に入りになってしまったようだ。クラクがぴょこぴょこひょこひょこ動いているだけで、なんというか妙に可愛く思える。こんなの、初めてだ。そして同時に情けなくもある。このオレという男がこんな羽目になるだなんて……堕落といってもいい。
「サイアノ、ちいさい機械が歌ってるよ」
 イライラしながら拭き掃除の最後の仕上げをしていると、ふとクラクがそう言ってソファのアームレストに置いてあったスマホを指した。着信音を発するそれが青白いライトを明滅させているのを窺い見て、スティルマンからだと察する。オレは使い捨ての手袋を外しながらスマホを取りに行き、スピーカーモードで受話した。
「こちらスティルマン。いいことあったか?」
「こちらサイアノ。んー、不時着ちゃんが元気」
 今日もいつもの挨拶から始まる。
「メシは食ったか?」
「あ、忘れてたわ。腹減ったな」
 あんなに空腹を抱えて眠りについたのに、起きたらクラクの部屋を作ってやることで頭がいっぱいだったのだ。途端に空腹を感じてそれを訴えると、彼は笑いながら「じゃあこれから金星飯店な」と続けた。
「あー、あそこ祝日も営業してるもんな」
「それもあるが、契約祝いだ。奢ってやる。不時着ちゃんも連れてこい」
「サンキュー。今から用意して行くわ」
 終話すると、額で書架に寄りかかるという謎の体勢で本を読み始めていたクラクに支度をしろ、と声をかける。すると彼女は、
「支度って、どういうことをするの?」
 と、上の空に返事をした。
「髪を梳かして、化粧をしたければして、好きな服を着ろ。あとは持っていくものを決めろ」
 教えてやると、クラクは「わかった」と返事をして本を閉じると、洗面所へと小走りに消えて行った。そうしてオレが着替えを済ませたころになって戻ってきたと思えば、その顔にはきちんと化粧が施されている。案外手慣れているなと思いながら服をしまい込んだ場所を教えてやり、そうして今度はオレが洗面所で髪をセットして戻ると、クラクはベッドに服を何着か広げて下着姿のまま悩んでいるようだった。「なに悩んでんだよ」と声をかけたオレを振り返り、「サイアノはどれがいいと思う?」と問うてくる。これは難しい質問だ。オレが下手に好みを口にして、クラクの好みを固定してしまう可能性が怖い。
「ど……れも、いいんじゃ、ねえか……?」
 今まで他の女たちに「どれでもいいだろ」と言ってきたのとまるっきり同じことを口にしてしまい、一瞬焦る。しかしクラクは「スティルマン、すごし」とひとり頷き、なんら気にしていないようだ。そして「じゃあこれにする」と、それまで悩んでいる様子だったくせ、あっさりと決めた。
「どう、好き?」
 そう問うてくる彼女が手にしているのは、ワンピースだった。かっちりとした襟とボックスプリーツがトラッド風味で可愛いが、スカートが、ミニ丈だ。しかも結構ミニだ。いや、今までのオレの基準だったら「エロくてグッド!」のはずだが、クラクがこれを着るとなると、妙に困ってしまう自分がいた。沈黙を埋めるため、「まずは着てみたら、いいんじゃないでしょうか……」と漏らすと、彼女は「それもそっか」と納得した様子でワンピースに袖を通した。
「ここ、留めて」
「はい喜んで」
「どうしたの、サイアノ。ヘンだよ」
「腹が減ってるだけです……」
 そんな会話をしながら首後ろのボタンを留めてやると、クラクは「すーすーする」と初めてスカートを穿いてみた少年のようなことを言う。「どう、好き?」と繰り返し、オレに向き直るその仕草の無邪気さが胸に痛い。確かに可愛い。似合っている。だが、彼女は尻がないので丈感は平置きの状態とほぼ変わらないが、走ったり飛び下りたり飛越したりしたらわからないところが気がかりだ。それでも「好きじゃない」とは言えない。
「ちがう?」
「いや、違わない」
 そう答えたにも関わらず、オレが渋い顔をしているからかクラクは口をむにゅっと曲げている。オレのこの葛藤はクラクには関係はなく、オレも早々に受け容れなくてはならない性質のものなので、オレは意を決して問うた。
「オマエは好きなのか?」
 するとクラクは「うん、いい」と言って親指を立てた。であればもうそれでいい。オレも親指を立ててそのちいさなグッドサインにぶつけると、「オレもいいと思う」と頷いた。煩悶からの解放である。クラクがいいならいい。イヤならオレがどうにかする。それだけだ。
「あのね、本を持っていってもいい?」
「一冊だけな」
「このコロコロした鳥の似姿は?」
「いいけど落とすなよ。ポケットに入れておけ。あと名前つけてやれ」
 本の他に、昨晩スティルマンが買ってきたエナガのぬいぐるみを持っていきたいという希望も受け容れ、鞄を買ってやらないといけないなと思いながら外へ出る。そして「オレから離れるなよ」と改めて注意を促すと、クラクは「手を繋いでもいいよ」とでも言いたげに手を差し出してきたので、ちゃんと握った。
 道中、遠巻きに馴染みの女たちが手を振ってきたのに対してクラクが手を振り返すものだから焦った。それは喧嘩を売っているのと同じである……だなんて、きっとクラクにはわからない。
「おお、ぷりぷりの女の子たちだ。かわいいね」
 しかも呑気にそんなコメントをするものだから本当に困る。確かにオレはぷりぷりのギャルが好きだが、そんなことは気に留めてもらいたくない。というか、彼女らネロ友をどうするかが目下の悩みだ。べつにクラクとは恋人同士になったわけではないのだから、今まで通りというのもいいだろう。でも、なんだか、困るのだ。迷惑というわけでは一切ないが、クラクがいると、なんでもかんでも、オレは困ってしまう気がする。だって、ものすごく彼女が可愛く思えるのだ。これが契約の副作用なのだろうか。……そんなのどこのサイトにも書いてなかったのに。
 金星飯店に到着すると、オレの姿を一瞥した店主は「奥の円卓だよ!」と鍋を振りながら言ったが、すぐにもう一度オレを見た。二度見というにふさわしいその挙動に「なんだよ」と疑問を返す。すると鍋を置いた彼は、「アンタさんが女連れとは思わなんだ」と、カウンターに越しにこちらの様子を窺い、呆けた声を上げる。
「あー……まあ、うん。よろしくな」
 流石にオレもお気に入りの店にワンナイトツーナイト程度の女を連れ込むほど野暮じゃない。つまり、女を連れているオレを店主は初めて見たということにもなるだろう。きょろきょろと周囲を見渡して興味津々に羽を動かしているクラク──尤も、ジャケットの背中が軽く蠢いているだけなのでそう察しただけであるが──を促して、パーテーションでホールと仕切られた予約客専用席に向かうと、そこには普段上げている前髪を下ろした私服姿のスティルマンがいた。「よ」と軽く手を挙げ挨拶を交わし、「シャッターは?」と問うと、彼は「赤ん坊の住民登録申請をしてから来るそうだ」と答え、それからオレの斜め後ろで木製のパーテーションの彫刻を指で撫でていたクラクに、「クラク、おはよう」と挨拶をする。「おはよう、スティルマン」クラクは頷いて挨拶を返した。
「お、本を持っているのか。読書が好きかい」
「うん。好きだよ。いい感じだから」
 そう言ってグッドサインを作ったクラクは、思い出したように上着のファスナー付きのポケットの中から、エナガのぬいぐるみを取り出すと、「これも好きだから持っているよ」と自慢するように掲げる。するとスティルマンは柔らかい笑みを浮かべながら、
「それはなによりだ。名前はつけてくれたかい」
 と立ち上がって椅子を引き、彼女を座らせた。
「いま考えてる。なにせ、名前をつけたことがないから、むつかしく思ってるよ」
「そうかそうか。決まったら教えてくれ。俺とネロ友になるかい?」
「ねろろも……?」
 その瞬間、オレとスティルマンはほぼ同時にクラクスマホを買い与えていないことを思い出した。いや、まったく失念していた。スマホには生活に必要なすべてが入っているといっても過言ではない時代だ。支払いもメトロに乗るにも各種手続きにも、身分証明にですらもスマホが要る。
「よし、今注文して、店舗受け取りにしよう。それをシャッターに持ってきて貰えばいい」
 瞬時に最善策を提示したスティルマンに促され、オレはスマホでスマホの通販ページを開く。スマホを探すのにスマホが要るみたいな文脈でちょっと可笑しい。現代のスマホは二本のバーを任意の幅に開いて立ち上げると、その間にホログラム画面が表示されるタイプのものが主流だ。軽く丈夫で持ち運びやすいのが利点だが、失くされては困るので、愛着を湧かせるつもりでクラクに商品一覧を見せてやる。「好きなの選べ」と言いながらゆっくりとページをスクロールしてやると、クラクはすぐに「これがいい」と画面を指さした。見るとそれは、立ち上げたときに香水瓶のような形になるタイプのものだった。案外可愛いものが好きなんだな……と彼女の好みを把握しながら注文を済ませ、引き換えコードのスクリーンショットを『イツメン』のグループチャットに送信する。すると既にスティルマンが概要を送信してくれていたらしく、すぐにシャッターから「了解」とレスポンスがあった。
 それから二十分ほどした頃、シャッターが到着した。彼もまたスクラブ姿とはがらりと印象の違う私服姿で、「ああイツメンだな」と安心する。オレはフリーランスだからいつも私服だ。
「おつかれ、先生。ベイビーは元気か?」
「ものすごく元気だな。ほら、これ」
 そう言ってシャッターはスマホが入っているであろう小箱をクラクの前に置いた。「開けてみろ」と促してその開封を待っていると、クラクは包装に戸惑いつつも二本のバーに辿り着き、「これはなに?」と首を傾げた。しかし弄くり回しているうちに、難なく画面が立ち上がってくれたのですぐに「さっきのだね」と察してくれたらしい。そのタイミングでシャッターが「これは俺からだ」とちいさな袋をクラクに手渡したのを目で追うと、中身はバーをを鞄やベルトにぶら提げて持ち運べる仕様のスマホキャッチだった。
「おお、かわいい。ありがとうシャッター」
 クラクはその白ウサギモチーフのそれが気に入ったらしいが、なにに使うものなのか判別がつかないらしく、指に嵌めて遊びはじめたので、預かってスマホに装着してやる。そのまま初期設定をしてやっていると、配膳ロボットが酒を運んできた。この店での一杯目といえば、ドラゴンハイボールに決まっている。要は黄酒(いわゆる自家製の紹興酒なのだが、ここで人類圏の定めた製法や認可について語っても仕方がないので、黄酒が通称だ)のソーダ割りだ。グラスを四人で掲げると、スティルマンが音頭を取る。
「ということで。……サイアノとクラクの契約を祝福して。乾杯」
 がつんがつんと力強くグラスをぶつけ合いながら、名目とは別に互いを労う。しかしそれまで俺たちの動きを真似をしていたクラクが固まっていることに気づいて、「どうした?」と声をかけると、彼女は「ううん」と首を左右に振ったあと、
「われ、祝福されるのは初めてだよ」とぽつりと漏らした。
 その妙に小さくなっている姿になんだかムカついて、オレは「きのう祝福したのも初めてだろ。一回ずつやったならもうあとは慣れるだけだ」と不機嫌に吐き捨てる。すると彼女は目を丸くして「なるほどな」と頷いた。なんだその反応は……と返事の珍妙さに物申したかったが口を噤んで、ニヤニヤと此方を見守るスティルマンに「なんでも頼んでいいんだよなあ!」と意気軒昂に詰め寄る。すると「ラーメンはシメにしろよ」と溜め息を含んだ返事があった。クラクは活字自体が好きなのか、オレと一緒にレトロなメニュー表を覗き込んで「読めるけどなにもわからない」と、どこか楽しそうにしている。
 それから注文を済ませて冷菜の芥末墩ジエモードゥン(茹で白菜のマスタードソース和え)をつついていると、スティルマンとシャッターのスマホが同時に鳴った。ここにいる全員が緊急の連絡があったときのために食卓にスマホを出しておく習慣があるので、彼らは円卓の上のそれを素早く手に取る。そしてスティルマンが、
「ん、受理されたな」
 と呟き、シャッターと顔を見合わせ頷き合った。なんだなんだと身を乗り出すと、
「これでクラクと赤ん坊は正式に回潮・テセラの住人だ。おめでとう」
 と、彼は答えた。「白律誕にふたりも住人が増えるだなんて、こんなにめでたいことはないぞ」
 その二度目の祝福に、クラクはまた上着の下で翼を蠢かせたようだった。それからそわそわとはにみながら、春風のような軽やかな吐息で「不時着してよかった」とよろこびを口にして、そのまま唇をむにゅっと閉じる。



QUEST CLEAR!

サイアノはブリーチングを使い、クラクを拾った!



NEXT STAGE→


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