【アノクラクラ】STAGE.2 BOOKMARKER
⚠このシリーズはフィクションです。
⚠一部グロテスクな表現や性的な表現があります。(R/RG15程度)
「おい、被食動物どもが並んでんじゃねえぞコラ」
オレの言葉にクラクは「うん」と上の空の返事をして、本のページを捲った。その傍らにはシマエナガのぬいぐるみと、ウサギのキャッチがついたスマホバー。極めつけは、彼女が寄りかかっているアザラシの幼体を模した特大サイズのクッションぬいぐるみ。これは白律誕ウィークに各所で買い物をすると貰える福引き券でクラクが当てたもので、あれから彼女は『自室』にこのクッションを持ち込んでソファ代わりにしていた。つまり、シマエナガ、ウサギ、クラク、アザラシの被捕食動物四点セット(ホワイト)である。このようにチビザコが並ぶと、海洋部門限定とはいえ食物連鎖の頂点にいるオレは無性にイライラするのだ。
「チビチビしやがって……食っちまうぞコラ」
脅すような態度を取りつつ、クラクの隣に腰を下ろす。このザコセットが並んでいるとちょっと様子を窺いたくなる衝動に駆られるのは、いわゆるキュートアグレッションというやつのせいなのだろうか。
「あれ、サイアノ、着替えた? どこか行くの?」
オレが尻でアザラシの尻尾をぺちゃんこに潰しているにもかかわらず、クラクはそこを特に指摘しないまま問うてくる。だからオレも特に気にせずにザコ虐を続行し、その柔い頬を指でつねりながら、
「今日は仕事だからな。メシ食ったらオマエをシャッターに預けにいく」
と、昨夜も繰り返したはずの予定をリマインドする。前回の投棄物管理の報酬はすべてクラクの身の回りの品に使ってしまったものの、コンスタントにハンターをやっていれば貯蓄はそれなりにある。だからこそ、クラクが月下界に馴染むまでは休もうという目算ではあった。しかし、今回は公安から斡旋された仕事のわりには、報酬がよいものがあったので引き受けることにしたのだ。
ホルダーを含めたハンターの仕事は、基本的に早い者勝ちである。公的な依頼はまずホルダー専用募集アプリ内で開示され、その後掲示期間が過ぎても人が集まらなかったものや、個人や民間企業からの依頼が一般ハンター用アプリで開示される仕組みだ。なのでオレたちの仕事はまず依頼をハントすることから始まる。仕事を数こなしたいホルダーは一般アプリも入れていることもあるが、やはり公的な依頼(ある程度の特権が行使できて、物資面や情報面でもバックアップがあるのだ)では、報酬が破格なものは数えるほどしかない。この手の依頼を獲得するには、バーチャルアシスタントにアプリを張り込ませて高額依頼の募集開始後すぐに通知を受け取るのがベターだが、うかうかしているとすぐに掻っ攫われる。今回はたまたま高額依頼を獲得できたので、流石に期限ギリギリに先延ばしすることは避けたい。依頼者側の心象を向上させることもまたホルダー業務のひとつである。なぜならコネクションが増えれば指名制の直接依頼が増えるからで、これらは諸手数料がかからないので総じて割がいい。要は、未来への投資だ。
「だからはやく着替えろ。本持って行っていいから」
そう言って、背中の翼を避けた部分を叩いて促すと、クラクはのそのそと立ち上がり「サイアノ、服選んで」とオレを振り返った。「わかったから」と返せば、彼女は素直に洗面所へと向かう。クラクは常に素直だ……人のいうことをよく聞くという意味で。こうして行動を促せば従うし、セックスをしたいといえばさせてくれる。まあ後者は主従の義務だが、聞き分けがよすぎるのは、なんとなく怖い。
それから身支度を整えたクラクを連れて街へ出た。手軽に食べられるものにしようと『ボーウィナイフ』というハンバーガーショップでベーコンエッグチーズバーガーとオレンジソースフィッシュバーガーを買って、外の立ち食いのカウンター席でふたり並んで食べる。回潮・テセラはチャイナタウンではあるものの、人の出入りが多い宿場町なだけあって、中華料理の他にも色々なジャンルの飲食店がある。飲食業界では、ここで成功すればどこのテセラでもやっていけるという試金石として回潮は扱われているらしく、テナントの入れ替わりは激しいものの、年単位で残っているところはほぼ当たりだ。この店はパティが『ボーウィナイフ』の身幅ほどもあるということで、力仕事をする開拓者やハンターを中心にウケている。無料セットになっているポテトも量が多い。
「サイアノ、待って。食べるのはやい」
ほんの数口でバーガーを食べ終えたオレを見て、クラクが焦ったようにフィッシュバーガー(頼むやつがいるなんて驚きだ)を口に詰め込むので、「大丈夫だからゆっくり食えよ」と言いながらスマホを弄る。リトルネロの新着欄は相変わらず女女女たまに男で稀に企業。ここのところ女には返していないので、通知パッチに表示された数字がどんどん膨らんでいくさまが壮観なような、そうでもないような。クラクが「おなかいっぱいの予感だよ」と漏らすので、彼女の頼んだセットのポテトを食べてやる。食べづらそうにしながらもバーガーに必死に食らいついているその横顔は、悔しいがやっぱり可愛い。鼻先にオレンジソースをつけているのを拭ってやっていると、往来を行く顔馴染みの開拓者連中から「お、サイアノ! それ娘か?」と野次を飛ばされたので「うるせえ! 娘なわけあるかよ!」と応じる。笑いながら出勤していく彼らの背を見送り、必死にホットチリサイダー(辛い)をストローで吸い込んでいるクラクに、「たとえオレが仲良くしているように見える連中にも、ホイホイついていくなよ」と注意を促す。するとクラクは、
「スティルマンとシャッターは、オッケーなんだよ」
と、約束事をきちんと把握しているアピールをした。
「そうだ。トモダチを作りたいなら止めはしないし、自分で考えて行動しろ……と言いたいところだがな、皆が皆オマエに優しいわけじゃない。できれば、オレに相談しろ」
「わかった」
なんにも考えていなさそうな頷きをみせるクラクに、いつまででも構ってやりたいが、そろそろ時間だ。診療所へと向かう。道すがら喫茶が好きなシャッターへの託児料として季節の茶葉の詰め合わせを買い、出迎えてくれた彼に渡した。すると彼は、「お前はそういうところは律儀だよな」と微かに笑って、そのまま見送ってくれようとする。そんな親友に、「オレにはいってらっしゃいのチューはないのかよ?」とじゃれつくと、「ない。クラク、サイアノがチューしてほしいそうだ」と真顔でクラクをけしかけてきた。クラクはシャッターにはかなり懐いているようで、素直に「わかった」と、またしてもなにも考えていなさそうな顔でオレの傍に寄ってくると、「屈んで」と促してくる。
「イッテラッシャイノチュウに作法はある?」
「無事で帰ってこいって祈りながらするんだ」
シャッターのレクチャーを、オレはニヤニヤと笑いながら「勉強になります」と冷やかし、照れた彼に蹴られながらクラクのチューを頬に受ける。するとやけに身体が温まったというか、関節の可動域が若干よくなったかのような感覚に包まれる。これが契約か……とオレは舌を巻いたあと、「じゃあ行ってくる」と、ふたりに背を向け、ドアを開けた。久々の労働だ。意気込みは充分。気分はなんだか晴れやか。テセラの夜空の天幕を見上げ、うんと身体を伸ばして歩き出す。
*
あとがき。あとがきは、作者が喋る。それまでいなかったくせ、いきなり喋るからいつもびっくりする。そこにはその本を書くに至ったいきさつや取材について、あるいは執筆中の様子などが書かれてることが多いと、われは発見した。あとは誰かへの謝辞だとかも多い。これら感謝の言葉は、われもスキだ。本編に出てこなかったうえにまったくしらない誰かへ、本を書いた人はわざわざ感謝をしたためている。つまり心のなかの誰かに、見せてやりたいのだ。己の足跡を。
あとがきを読み終えると、われはいつもその相手について夢想する。出版関係の相手については、大抵はその旨が書いてあるからわかりやすい。気になるのは名前だけが書いてある相手だ。親愛なる……誰々。これは伴侶だろうか、子どもだろうか、友人だろうか。はたまた、どれでもない相手だろうか。われが本を書くとしたら、あとがきに誰のことを書くのだろう。そのことを考えるとき、われはいつもすこし、怖い。……本を閉じ、サイアノに買ってもらったボディバッグの中にしまう。それからカップに少しだけ残っていたカモミールティーを飲み干すと、われは「ここで本でも読んでいるといい」とシャッターに言われ籠っていた給湯室から出た。本を読み終えたからだ。
「シャッター、本が終わった」
診察室でなにやらPCへの打ち込み作業をしていたシャッターにそう言うと、彼は「ああ、そうか。面白かったか?」とわれのほうを向いてくれた。医者だからそうするのか、彼が優しいからかはわからないが、おそらくどっちもだ。
「なかなか面白かった。いまは患者はいないの?」
「そうだな。このくらいの時間は大抵こんな感じだ」
「ふうん。あのね、シャッター。労働がしたい」
われの言葉に、シャッターはわずかに目を丸くしたが、すぐに顎に手を当ててなにかを考えだした。「社会性を身につけるのは大事だな」とか「本ばかり読ませてもな」だとか漏らしながら。そしてそうした呟きの最後に、「どうして労働がしたいんだ?」と、彼は明確にわれに問いを向けた。
「お金がもらえるから」われは答える。
「サイアノから小遣いは貰ってないのか?」
「ん? きょうは二〇レミスばかり貰ったよ」
「妥当な額だな……もう使ったのか?」
「まだだよ。でも栞がほしい。歩いたり他のことを考えながら、『96、96……』ってページ番号のことばかり考えるのは、効率的とはいえないからね。私欲のために栞がほしいんだよ」
われが理由を説明すると、シャッターはしばらく細かに眉をひくつかせたり、顎を上げたり、はたまた下げたり、なにやら解析の動きをみせていたが、やがて理解をしてくれたらしい。
「つまり、キミは小遣いではなく、自分の金で栞を買ってみたいということだな? その辺にある紙の切れ端を代用とするのではなく、その小遣いで買うのでもなく」と、彼なりにまとめて、われに教えてくれる。
「そうだよ。われのものを買うときも、サイアノはいつも自分のスマホでピピピと支払ってしまうんだよ。今日はわれのスマホにお金を入れてくれたけど、なんだか腑に落ちない。われは赤子でも、勝負に勝ったわけでもないのにね」
われが考えを共有すると、シャッターはまた数秒、なにか考え込むような素振りをみせたが、やがて顔を上げて「よし」と頷いた。
「ではすこし働いてもらおうか。こっちにおいで」
そう促す彼に続いて、診療室を出る。そして廊下の先、リネン室の向かいにある小部屋にわれを案内した。
「洗濯は、やったことあるか?」
「ないね」
「そうか。なら教えるから、覚えてくれ」
そう言われて二台の洗濯乾燥機に、それぞれ別種の洗い物を入れることと、ボタンの押し方を教わる。どちらの洗濯機もツーステップ操作だからわかりやすい。もう覚えたので、われは賢い。
「ニ十分ほどで乾燥まで終わるから、それを待つあいだ、大物を屋上まで干しにいくんだ。ちょうどさっきシーツを洗い終えたから、屋上へ持って行こう」
シャッターが奥の大きな洗濯機からバスケットに洗ったシーツを入れるのを、手伝う。水を含んだ布は重くて、ちょっとだけ骨が折れた。絡まってるし。それからそれらを屋上へよっこいしょと運び、ロープの渡されている棒と棒のあいだに立つ。ここにシーツを綺麗にピシッと引っかけるのだと、シャッターは実演してくれた。しかしそれを終えた彼は、われを見て「……ちいさいな」と漏らす。そして「おいアンノ。踏み台になってやってくれ」と、一緒に洗い物を運んでくれた手伝いロボットのアンノに呼びかけた。アンノは蒸しパンが詰み上がったような形をしていて、そっけないけどちょっとかわいそうな感じの愛嬌ある顔がついている。命令されたアンノは、むにゅむにゅと動いて、われの半分ほどの背丈をぎゅっぎゅと縮めて腰を据えたあと、「どうぞ」とわれに呼びかけた。
「ありがとう、アンノ」
われはアンノに礼を言って、シーツを掴んでその上に乗る。意外としっかりした踏み心地だ。そうしてシャッターの手つきを真似て、苦心してシーツを一枚干してみせると、それまでわれの作業を見ていたシャッターは端のほうをいくらか引っ張って直し、「このくらいが及第点だな」と言った。われはその状態を把握し、二枚三枚と干してみせる。
「まあいいだろう。そのうち慣れるさ。じゃあ、下に戻ろう」
バスケットを持って、三人でまた階下にくだる。それから先ほどの洗濯室で、今度はシーツの洗い方を学び(これもピッピのツーステップだ)、乾燥を終えた細かい洗い物の畳み方と片づけ方を学ぶ。
「ここまでの流れを、洗い物がなくなるまでやるんだ」
「わかった。シャッターは毎日こんな大変なことをしているんだね」
「いや、だいたいはアンノがしてくれる」
「おお、アンノは労働の先輩なんだね。アンノ、すごい」
アンノを褒めると、彼はその場で嬉しそうに一回転した。なんともかわいらしい。われも真似して一回転する。するとそこで、診療所の入り口のほうからドアベルの音がした。患者が来たのだろう。
「よし、じゃあ俺は診察に戻る。あとはシーツだけだから、干し終えたら給湯室で休んでいてくれ」
そう言って部屋を出ていった彼に教えられたとおり、シーツの洗い上がりを待って、アンノと一緒に屋上へと出た。それから時間はかかったけれどシーツをすべて干し終え、戻る前にすこし通りの様子を窺う。診療所の前の通りは目抜き通りに比べて通行人は多くない。それでも近所のパン屋やカフェ、食料品店、リサイクルショップなどを目指してやってくる人は絶えないようだ。そしてこの診療所にも。ふらっとひやかし半分立ち寄るのではなく、目的のある人ばかりが通る道だ。とても生活している。
給湯室に戻ると、腰からばきばきと調子の悪い音が鳴った。慣れない姿勢でいたせいだろう。そのまま自由に飲んでいいと言われたお茶を淹れ、アンノにあげようとすると「私は飲みません。お気持ちだけいただきます」と返事があった。「なにか食べたくなったり飲みたくなったりしたら教えるんだよ」「……はい。そうします」それからえいさほいさと身体を伸ばし、ちょっとだけ上着も脱いで羽を伸ばす。これはそのままの意味だ。ううんと左右の羽を伸ばして、ぐっと肩甲骨を寄せる。それからきゅっとまとめて、また上着のなかに隠した。
「なにか物語をきかせてよ」
椅子に座ってそうアンノに問うと、「むかしむかしあるところにおじいさんとおばあさんがいました」と、語り聞かせが始まった。知らない話だ。われはもう堪らなくなって、椅子から降りてアンノの目の前に座る。「おじいさんは山へ柴刈りに」「シバカリってなに?」「かまどなどの燃料となる雑木や枝を集めることです」「へえ。初耳」「続きを話します。……おばあさんは川へ洗濯にゆきました」
「川で⁉」われは驚く。「ピッピのツーステップじゃないの?」
「むかしむかしは、そういうことだったのでしょうね。続きを話します。……おばあさんが川で洗濯をしていると、上流からおおきな桃がどんぶらこどんぶらこと流れてきました」
「桃が⁉」すばらしい。なんて意外性のある物語だろう。暗い話ばかり書いてある小説よりよっぽど面白い。「どんぶらこというのもすごい表現だよ!」オノマトペも斬新だ。
「……おばあさんはその桃を家へ持って帰り、おじいさんと二人で食べようとしました」「拾い食いはダメってサイアノが言っていたのに……まあいいや、続けて」「おじいさんが包丁を持って桃をぱっくりふたつに割ると、桃の中から小さな男の子が飛び出しました」
「そんなばかな」われは口を押さえる。「祝福しないと」
「ふたりはたいそう喜んで、この子を育てることにしました。男の子は桃から生まれたので、桃太郎と名づけられました」
「モモタロウ……いい名前だね。意味はわからないけれど」「『モモ』は『桃』、『タロウ』は、主に男の子につけられる名前ですね」「ああ、なるほど。スティルマンみたいなことだ」「それは些か……いえ、なんでもありません」「で、モモタロウ・スティルマンはどうなったの?」
「スティルマンがいつから桃太郎になったって?」
不意に頭上からそんな声がして顔を上げると、シャッターが笑いを噛み殺したような表情でわれとアンノを覗き込んでいた。どうやら診察が落ち着いたらしい。「さっきだよ」と答えて、われは立ち上がる。するとシャッターがスマホを出すように促してきたので、それに従った。
「今日の賃金だ」
そう言った彼が自分のスマホを操作すると、われのスマホがぴろりと鳴った。見るとマネーアプリというやつから、『シャッター診療所から入金がありました』という通知がきていた。「おお……。じゃあこれを、こうして……」指紋認証をして残高を確認すると、なんといくらか増えている。名目は『給与』だ。
「リトルネロで給与明細も送ったから確認するように」
「給与明細……?」
言われた通りにリトルネロを開くと、シャッターから画像が文書ファイルが送られてきていた。中を確認するが、小難しい言葉が並んでいてよくわからない。われが首を傾げていると、シャッターは続けた。
「賃金から所得税だのなんだのが引かれたうえで実際に振り込まれた金額を示すものだ。キミは賃金を通して税金を納めた。おめでとう、立派な市民だ」
「われ、ちゃんと市民?」嬉しくって、ぴょんと跳ぶ。
「そうだ、市民だ」
お墨付きをもらい、われは手でグッドサインを作る。するとシャッターもおなじものを作ってわれのそれとぶつけ合わせてくれた。われは、労働をしたのだ。なんだかとっても達成感があって、胸がポップしている。
「やった。じゃあ栞買ってくるね」
バッグを身体に巻きつけて、われは飛び出して行こうとしたが、シャッターに首根っこを掴み上げられた。
「ダメだ。ひとりで出るな。サイアノが戻ってくるまで待て」
暴れてみるが、シャッターの腕は頑としてわれを行かせない。彼はサイアノとスティルマンに比べたらかなり細いのに、力がとても強い。羽を使っていないのにわれは浮いて、上着を掴まれたせいで背中で整えた羽がくちゃくちゃになる。
「ううう。やだあ。いま行く。いまじゃないと気持ちがまんまるのままじゃないんだよ。気持ちというのは、最初だけまんまるなんだよ」
必死に訴えると、シャッターは数秒の沈黙のあと、「少し待て」と言ってわれを下ろした。待てと言われたので足は動かさず、上着を整え、羽もしまいなおす。「スマホを貸せ」「うん、スマホを貸す」言われた通り、差し出された手の上にスマホを乗せる。するとシャッターはわれのスマホと自分のスマホを操作したあと、地図のような画面を見せてきた。なにかちかちかと明滅するマークがある。
「これで俺にキミがどこにいるのかわかるようになった」
「へえ」
「だから、悪いことをしていたらすぐにわかる」
「そうなの?」
「そうだ。……そして、これよりお散歩五箇条を制定する」
なにやら物々しい『制定』の言葉に、われは姿勢を正す。なにかの儀式だろうか。
「きちんと覚えるんだ。……その一。知らない人にはついていかない」
「違うよ。サイアノとスティルマンとシャッターの他の人はみんなだめなんだよ」
「……それでいい。その二。決められた時間までに必ず帰ってくること。今回はそうだな……ここを閉めるまで。約一時間半だ。それ以上は認めない」
「わかった」
「その三。なにか緊急事態があったら、周りの人に助けを求めること。俺たちに連絡してもいい。スティルマンやサイアノが持ち歩いているエンブレムはわかるな? それと同じものを持っている人がいれば、そいつらに助けを求めるといい」
「あのギザギザだね。わかった」
「その四。スマホは絶対になくさない。失くすと大変なことになる」
「どのくらい大変?」
「診療所が爆発するくらいだ」
「へえ。じゃあなくさない」
「その五。戻ってきたら思い出話を俺に聞かせてくれ」
「うん、いいよ」
「それから、今回はアンノも連れていくんだ。アンノからの指示があれば、それに従うこと。いいか?」
「いいよ!」
「じゃあ指切りだ」
するとシャッターはわれの前にしゃがむと、小指を立てた拳を突き出してくる。よくわからないが、その手のかたちを真似ると、われの立てた小指を彼の小指が捕まえた。
「これは約束だ。約束というのは、本当に譲れないもののため以外には破ってはならないものだ。わかるな?」
「わかる」小指を掲げる。
「よし、じゃあ、行っておいで。すぐに返せるかはわからないが、俺にメッセージを都度送ってくれてもいいから」
「わかった。じゃあ、イッテラッシャイノチュウをおねがい」
儀式は大事だ。胸を張って一歩進み出ると、シャッターはなにやら苦い顔で「ぐっ」とちいさく呻いたが、すぐにわれの前髪あたりに唇を押しつけてくれる。これで儀式は完了のようだ。「じゃあ、いってきます」手を振ると、彼は「ああ、いってらっしゃい」と、なんだか可愛らしい笑顔をみせてくれた。
「ねえアンノ。このあいだ行った雑貨屋って……って、ああ、アンノは知らないんだよね。どうしよう」
そうだった。このあいだサイアノと行った雑貨屋のことを、アンノは知らないのだ。診療所から勇み出て十数歩。われは途方に暮れる。お金も外出許可もあるのに、肝心の目的地がわからない。
「付近の雑貨屋を検索しましょうか?」アンノが提案してくる。
「それはまんまるくない。われは自分の足でさがす。アンノは危ない場所があったら教えてほしい」
だって、われを雑貨屋に連れていってくれたとき、サイアノはなんにも検索していなかった。普通に歩いて普通に辿り着いた。たぶん、それがきっと市民ということなのだ。
気をとりなおして、路地をいくつか抜け、サイアノとけさ食事を摂った店のある通りへと出る。ここは飲食店が軒を連ねるエリアで、たしか『猴賽雷・ストリート』といっただろうか。石畳を行き交う出前の並行二輪車を避け、アンノとともに食べ物の匂いのなかを歩く。労働をしたからか、なんだか空腹だ。「アンノ、なに食べたい?」「えっ。ええと、そうですね……」なにやら言いよどむ彼を急かしていると、「おっ、サイアノの娘じゃないちゃんじゃねえか!」と左側から声をかけられた。見ると、サイアノがわれのことを「娘なわけあるかよ」と紹介していた男たち三人である。汚れたタオルを首からかけた彼らも、労働後なのか皆一様に疲弊した顔だ。店外にせり出した立ち食い席の樽に寄りかかって、棒に刺さった謎の食べ物にビールという酒を合わせている。
「こんにちは」
われは挨拶をする。挨拶は大事だとスティルマンが言っていた。
「こんにちは。なに帰りだ?」
スティルマン曰く、挨拶を返さない奴には気をつけろということだったが、挨拶は返してくれた。だから、彼らは気をつけないと気をつけるのあいだくらいだと、われは判断する。
「……労働の、帰りだよ」
「労働の帰りかー。じゃあ俺らと同じだなあ」
「食うか、ヤキトン。うまいぞ」
ヤキトン、なるものを、われは知らない。アンノに説明を求めると、豚肉を串に刺して焼いたものの名称のひとつらしい。男らのうちひとりが持ち上げて見せてくれたので、ちょっと近づいて観察する。カリっとした焦げ目がついている肉に、なにやら粘性のあるソースがまぶされている。おいしそうだけれど、「あぶないかも」と、われは分析する。
「あぶない?」
「知らない人についていっちゃダメだってサイアノが言ってた。つまりそれは、知らない人があの手この手でわれをかどわかす可能性があるということで、もしかしたらこのヤキ……トン、に、なにか危なげなものが仕込まれているかもしれないということでもあるよ」
説明すると、一瞬の間のあと、彼らは笑った。どっと大きな声で。われはびっくりして、羽がぶわっと膨らみそうになったが、耐えた。
「そうだなあ。その可能性はゼロじゃないなあ」目許を拭いながら、ひとりが言った。「でもお嬢ちゃん、飲食店の前でそれは言っちゃいけねえよ。確かに可能性はゼロじゃねえが、それを聞いたらお店の人が悲しくなっちまう」
その言葉に、われはハッとする。ハッとして、気づく。人を悲しくさせるのは、よくない。これでは思慮が足りなかったとしか言いようがない。
「われ、お店の人にごめんなさいしてくるね」
そう宣言して路面に向いている調理台に近づこうとすると、
「まー、待て。今回は聞こえてねえから。わざわざ謝らなくてもいい」
と、うちひとりに止められた。たしかにそれも一理あるなと、われは立ち止まる。
「この子アレだな、ちょっと心配になるな。サイアノの気持ちわかるわ」
「毒気がなさすぎて怖いな」
「そりゃヘルパーロボ連れて歩かされるわな」
「よし、じゃあ相席はどうだ?」
アイセキ、なることの提案。われにはよくわからないので、「アイセキってなに?」と訊ねる。
「店が満席のときに、他の知らない客と、テーブルを共有することだ」
「あぶない……」われは驚く。「そんなことがあっていいの? 知らない人なのに?」
「こういうのは、店側に秩序の裁量があるんだ。客が店の指示に従いますよって前提で、店が用意した席とサービスを利用するんだ。つまり、店で飲み食いする人間は、みんなそれを受け容れている。だからかどわかしたり、暴力をふるったりってことは、店が許さねえ。だから、相席ってのも機能するんだよ」
なんとわかりやすい説明だろう。われが、なるほど、と呟いて顔を上げると、カウンターの中で焼き物をしていた大柄の男がわれににっこりと笑いかけてきた。「大丈夫だよ、お嬢ちゃん。うちはナンパ禁止だからね」
ナンパなるものがなにかはわからないが、おそらく危険行為のことだろう。店主のお墨つきとあらば、安全度も上がるに違いない。
「ううん……じゃあ、ちょっとだけ、ごはんを食べるよ。われはごはんを食べるだけなんだよ。シャッターと、サイアノにも、このことを、話すよ」
すこしだけ威嚇する気持ちでふたりの名前を出すと、彼らは「本当に絶妙に怖いんだよな」「特にサイアノ」「いや、シャッター先生のほうが怖いだろ」と口々に言って笑った。そしてうちひとりが、「おう。いいぜ。席も満席だし、偶然だもんなあ。俺たちもびっくりしてるよけさ会った子と一緒だなんて」と言って、傍に控えていた女性店員を振り返った。「女将さん、ひとり入りたいみたいなんだけど、他に空きなさそうだし相席でいいか?」
しかし、その一本だけ立てられた指には意見がある。
「まって。ひとりじゃないよ。アンノもいる」傍らにいる彼を見下ろして、問う。「アンノ、ヤキトン、好き?」
「えっ。……そうですね、悪いふうには、捉えていませんが……」
「じゃあ、ふたりいいですか」
われが指でふたりいることを表すと、オカミさんなる人は「はいはい、ふたりね。相席でいいかい?」とおしぼりを手に傍に寄ってきた。われは「いいよ」と頷いて、男たちが開けてくれた場所に陣取る。おしぼりを貰う。アンノも頭の上におしぼりを乗せてもらったようだ。これで客として入店したということになる。そこでまたしても、われはハッとした。他にも安全かどうかを確かめる手段があったではないか!
「待って。ギザギザある? ギザギザのマークだよ」
あのマークがあると、助けを求めるに値する人で、それはつまり安全な人だ。安全度は、上がれば上がるほどよい。彼らは「ギザギザ……?」と怪訝そうな声を漏らしていたが、じきに「ああ、CTBのロゴか」と納得した様子で、ひとりがわれに背を向けた。「これか?」
その繋ぎの衣装の背中には、見覚えのあるギザギザのマークが掲げられていた。「ねえアンノ、合ってる?」と確認を求めると、「公式のものです」と返事があった。
「写真撮ってもいい?」
「お、おう。慎重だなあ、お嬢ちゃん」
「……サイアノは、われのことをとっても心配するんだよ。とてもまじめな顔をして、コルァって言う。だから、われもまじめに考えるんだよ。サイアノとわれは、一緒にいるって約束したから……」約束。ああ、あの指を結ぶやつはまだしていない。サイアノが帰ってきたらしなくては。
ギザギザの撮影をして、ついでに全員の顔も撮る。ブイサインをしたりジョッキを掲げたりしてくれて動きのある仕上がりになっているが、顔が見えれば大丈夫なはずだ。そしてオカミが「うちはワンドリンク制なんだ」と言うので、われはビールを頼んだ。サイアノはビールが好きだったはずだ。「アンノはなにを飲む?」「えっ。ああ、その……」「心配しないで、アンノのぶんはわれが払うんだよ」「えっ……」すると三人がアンノを見下ろしてなにか顔をくちゃくちゃと歪めはじめた。なんだこれは……とびっくりしていると、アンノが「では私も同じものを……」と返事をしたので「ふたっつください」とオカミに伝えた。それからすぐに運ばれてきたジョッキを手に、アンノと乾杯をする。お酒はこうやって飲むものらしいから。ぶあついガラスに口をつけ、サイアノがしているみたいに飲む。「ぷは」と、言う。「おお、からだがじわじわとする……」その感覚が快くて、その琥珀色の液体をついついじっと眺めて観察してしまう。しゅわしゅわと泡が下から上に向かってぷくぷくとしている。無数のぷくぷくはやがて泡に同化して、その泡もふつふつと減っていって、なんだか悲しくって綺麗だ。アンノを振り返ると、はやいことにももう飲みきってしまったようだった。「すごいね、アンノ。サイアノみたい」「えっ。ああ、そうです。こういうのはこうやって飲むのが、楽しいこともありますね」「おかわり、する?」「いえ、この一杯だけで。余韻を楽しみたいのです」向かいにいる男がわれの隣にいる男を見て、なにか笑いを噛み殺しているような表情をしているが、やはり酒とはそういうものなのだろう。サイアノもシャッターもスティルマンも、酒を飲むといくらか陽気になる。
「なあ、偶然一緒になったお嬢さん、ちょっと余っちゃったから貰ってくれ」
そう言って、樽を囲んで右側にいる男が先ほどの串を、われの皿に乗せてくる。「いいよ。食べ物は無駄にしちゃ、いけないから。ありがとう」受け取って、食べてみようとするが、どうやって食べたらいいのかわからない。他の客からなにか手がかりを得られないかと店内のカウンター席を覗き込むと、手前に座って古めかしいペーパーバッグを読んでいた女が、慌てて串を食べ始めた。われと同じ趣味であれば信頼に値する。彼女を真似て、われもひとくち食べてみると、ぎゅっとした肉の食感とともになにやら辛口の塩味が感じられた。しょっぱくて甘くて、渋味もある。
「……これは、なに味なのかな……?」
言いながら、もうひと口食べる。串の先端があぶない。
「やっぱりヤキトンは味噌だれだよなあ」
斜め向かいの男がメニューを見ながらそう漏らすので、これが『みそ』なるものだと知る。「みそ、の、あじ……おいしい……」と、覚えることにする。しょっぱい。ビールを飲む。
「アンノはなにを食べたい?」屈んでアンノにメニュー表を見せると、彼はアームでそれを受け取って「そ、うですね……」と悩んだ様子だ。
「あのね、みそはね、しょっぱかった。塩や醤油より、もったりしてる感じ」
「ええと、おすすめ五種盛り合わせなんかはいかがでしょう……」
「ふうん。たぶん、五本の色々がくるってことだよね。いいね。他は?」
「私は小食なのです」
「そっか。わかるよ。われもちょびっとでいいもん」
そうして、アンノもいるから二品頼むべきかと、盛り合わせと煮込み(豆腐のみ)を注文した。すると煮込みのほうはすぐに運ばれてきた。
「豆腐ってなんだろうね。アンノ知ってる?」
そう問いかけながら、取り皿に分ける。豆腐『のみ』という言葉に惹かれて、われはこれを注文した。食事を残すのはよくないので、『のみ』と書いてあるからには少なめであると考えたのだ。事実、スープに浸かった白いふるふるにネギと赤い粉がかかっているもの『のみ』だったので、われは見立てが当たり嬉しくなっていた。
「豆腐というのは、豆でできたカードのようなものです」
「なら食べやすそうだね」アンノに小皿と箸を渡す。「熱いから、気をつけるんだよ。アンノはロボットだからね」
煮込み(豆腐のみ)は、ほんとうに熱そうだった。箸で崩してみると、プディングのような手応えがあり、外側と内側には色差があった。外側はほんのりとスープの色を吸っているが、内側は真新しいような白さをしている。匂いを確認すると、醤油のような香りと、若干の動物性の脂と野菜の香りがあった。おそらく、それらは『のみ』ではないほうに入っているのだろう。箸先で掬うようにして、ひとくち食べてみる。淡白で、粘性はなく、歯でつついたくらいですぐに崩れて、あっという間に飲み込んでしまったのでひと口目の感想が湧かなかった。これはいけないともうひと口。ネギとチリペッパーらしき粉の味と、スープの味。おお、豆腐の味がいつまでも遠い。どこだ。どこにあるのだあなたの実態は……。豆腐とは、ミステリアスである。
「アンノは豆腐のこと、どう思った?」
問いながら振り返ると、アンノはアームを伸ばして卓上に空になった皿を置いたところだった。やはり食べるのがはやい。
「そうですね、優しいと思います」
「なるほど。たしかに優しいかも」
ミステリアスで優しいというのは美質だ。スマホを取り出し、シャッターに「シャッターって豆腐みたい」と送る。「アンノもそう思ってるよ」
もう少しすると、おまかせ五種盛り合わせが運ばれてきた。当然ながら串に刺さっているので皿の上は整然としていて、まじめだ。
「左から、ハラミ、カシラ、タンモト、シロ、チレだよ」
どうしよう、オカミの説明が理解できない。唇をむにゅりとして黙り込んでいると、目の前の男がなにやら咳払いをしてメニュー表を裏返した。するとそこには豚と牛の簡易な断面図に、各部位の名称が示してある。「なにこれすごい」われはそれを手に取って、アンノと一緒に図を眺める。「すごいね。肉、とか、内臓、ってひとまとめにしていないよ。諦めていない」「そ、うですね。そうですね。食への探求心ですね」……腹具合を話し合って、アンノには各串を一ピースずつあげることにした。箸で串から外すのはすこしコツが要ったが、なんとか成して皿を彼に渡す。我も一切れずつ食べてみるが、どれもこれもなにもかもが違うので面白かった。ひと口ごとにビールを挟み、豆腐も挟む。
「アンノはどれがスキ?」先例に漏れず、彼はあっという間に完食していた。流石はロボットだ。「どれも甲乙つけがたいですね」「そうだね。われは、シロがスキかな」
そこでわれは当初の目的を思い出した。栞がほしいのだ。スマホで時刻を確認すると、まだ三十分ほどしか経っていないが、雑貨屋の探索で時間を取られる可能性がある。
「あぶない。時間がない」われは急いで残りの串を食べる。
「どうした、仕事終わりじゃないのか」と隣の男が問うてくるが、われは口が塞がっていてうまく説明ができない。
「実はクラクさんは記憶を頼りに雑貨屋を探しているのです。なんでも以前サイアノさんが連れていってくださったのだとか」
代わりに説明してくれたアンノの頭を撫でていると、三人は顔を見合わせて一瞬黙り込んだあと、ひとりが卓上にあったナプキン入れから一枚を取り、そこにツナギのポケットから取り出したペンでなにやら書き記しはじめた。「バカ、そっちは危ないだろ」「あんまり曲がらないほうがいいよな」などと三人で相談をしながら。そうして完成したらしいものを、われの前に置いた。
「ここの通りをこのまま真っ直ぐに行くと、角に青い看板のコーヒーショップがある」その太い指が、そこに記された地図の上を滑るのを見て、われは彼らがその雑貨屋を教えてくれようとしているのだと察した。「そこを左に曲がって、そのまま通りを二本突っ切る」「ふむふむ」ああ、シロは噛み切りづらい。「そうすると、女物……って言い方はアレか。可愛い感じ……? のものを扱う店が多い通りに出るから、出てきた道から見て斜め右方向の、通りの向こう側の……この辺りにある。たぶんな。ここがたとえ目当ての店でなくても、この通りを探せばその店がある確率が高い」
これが、ウィンドフォールか。われは口の中のものを飲み込むと、「ありがとう、相席の人たち」とお礼を言って、女将に会計を頼んだ。そうして女将が端末に表示させたコードをスマホで読み取って、サイアノがしていたように決済の手順をとる。
「われ、はじめて自分の食事を、自分で払うんだよ」と、なんだか緊張しながら漏らすと、三人は「おお、すげえじゃん」「やったれ」「落ち着いてやればできる」と色々言葉をくれた。そうしていざ、決済のアイコンをタップする。するとたちまちぴぴぴと電子音。画面には完了のチェックマーク。われが「やった」とぴょんと跳ぶと、三人はなぜか拍手までくれた。
「われ、もう行くね。相席についてと道を教えてくれてありがとう。ヤキトン、おいしかった」
彼らに礼を言って、アンノと一緒に、踵を返す。すると、
「お嬢ちゃん、どっから来たんだ?」
と呼び止められた。われは振り返って、彼らに手を振る。
「上からだよ! 今度会ったら握手しようね! ばいばい!」
地図は簡素だったが、たいへんわかりやすかった。横切った通りは二本とも興味をそそられる様相をしていたが、寄り道をせずに進む。「アンノ、おなかいっぱい?」「いっぱいですね」「だよね。われ、けさはハンバーガーを食べたんだよ。こんなにおおきいの」「それはすごいですね」「でも、労働をするといくらかおなかがすくね」「そうですね。いいことです」……その『可愛い感じのものを扱う店が多い通り』に出た瞬間、われは「ここだ」と直感する。ここには来たことがある。そこでわれは握りしめていたペラペラの地図を開く。「ええと、斜め右……通りの向こう側……」……あった。あの店構えには覚えがある。われは駈け足で道を渡ると、その店の前に立った。
「ここだ! ここだよアンノ!」
「おお、見事到着しましたね!」
アンノのアームとハイタッチ(アンノからしたらハイタッチだ。われは屈んだ)をして、店に入る。するとなんだかお香のような甘い香りが全身を包んだ。これだ、この感じだ。われは到達したのだ。であれば、あとは目的を果たすだけである。すこし薄暗いが間接照明の雰囲気がいい店内を進み、きらきらとした雑貨や、かわいい動物の似姿を掻き分け掻き分け、奥に出ると、目当ての棚の前に辿り着いた。この棚には可愛らしい文房具が沢山並んでいるのだ。
「たしかこのあたりに……あった!」
ふわふわのついたペンや、きらきらの定規と同様に、栞が瓶詰にされているのを見つけて、われは栞のひとつひとつを抜き取って絵柄を確認する。リボンのついた金や銀のフレームに、柄の入った布が挟み込まれているのが可愛くて、われは覚えていたのだ。昨今は紙の本を読むなんてことは滅多にないらしく、瓶には『ぶらさげて飾ってみては?』と書いてあるテープが張ってあったが、それは素人のすることである。われは本来の用途で使うのだ。
「ううん、迷っちゃうよ」絵柄はざっと見た限り同じものがない。花柄も可愛いし、時計柄もいい。ドレス姿の少女の柄も素敵だ。ああ、うさぎの柄も猫の柄もある……。「あんまり時間がないのにー……」「時間はまだ大丈夫ですよ?」「ううん、時間がないんだよ。あっ、これ可愛い」香水瓶の柄だ。これにする。ひとつ決まれば、あとはすんなり決まる。天使の柄と、ユリの柄。あとは薔薇の柄だ。リボンが黄色くて可愛い。そうして会計をすると、われは店の外に出てからカバンを開け、香水瓶柄の栞を本に挟んだ。「いいね、いいね」嬉しくってアンノと一緒に一回転する。われは自分のものを自分で買ったのだ。これに推進力を得て、われは今いる通りから細い路地を抜け、別の通りへと出る。「クラクさん。戻らないのですか?」「もうひとつ、やることがあるんだよ」そうして、雑貨屋とは違って、きちんと覚えていた道順に従う。じきに民家やアパートメントの多い通りへと出ると、とある家の玄関ベルを鳴らした。するとインターフォンから「どちら様ですか」と女の声がしたので「クラクです」と名乗った。「あら、ちょっと待っててね……」と言われたので、待つ。数十秒後に出てきてくれたのは、あの母親と、あの生まれたばかりの赤子だ。このちびっちゃくてふくふくとした健康な赤子は、『アンゼリカ』と名づけられたと聞いている。
「クラクちゃん、こんにちは。きょうはどうしたの?」
われは彼女……ティテラと娘が退院するまで診療所にたびたび通っていた。われが祝福した赤子がちゃんと元気でいるか、心配だったのだ。退院したあとは、サイアノとスティルマンのふたりと一緒に記念品を贈りにいったので、家の場所は覚えていたのだ。
「あの、このあいだ自分で贈り物をできなかったから、きょうは持ってきました」
そう言って、われはバッグの中から先ほど買ったばかりの栞を三葉取り出して、彼女に差し出した。
「ちゃんと、自分で労働をして買いました。三人分、あります。ええと、今は紙の本をあまり読まないみたいだけれど、ええと、たまには、読んでみてください……アンゼリカも、本を読むようになってくれたら、うれしい」
すこしもじもじしてしまったが、言いたいことはいえた。栞を受け取ったティテラは「まあ、嬉しい! ありがとうクラクちゃん!」と笑って、それを腕の中のアンゼリカに翳して見せた。するとアンゼリカはぷくりと唾液で泡を作りながら、垂れたリボンのひとつを握った。われの栞とおなじ、青いリボンである。
「あら。この天使さまの柄が気に入ったのね。じゃあこれはあなたのね……」
身体を揺らしながらティテラは優しい顔をする。このうつくしい光景を見られただけで、労働の疲れが吹き飛ぶかのようだ。しかし彼女は目の下あたりに疲弊を引き摺っているようなので、われは早々に去らなくてはならない。
「これからも家族みんなが健やかでありますように。じゃあ、お邪魔しました……」
そう言って踵を返そうとすると、ティテラは「来てくれてありがとう」と言って、赤子のちいさな手を左右にちいさく振ってくれた。「お姉さん帰るって。ばいばーい」
「うん。ばいばい。またね」
ああ、どきどきした。その動きを確かめるように胸に手を当て、帰路を向く。これから大急ぎで診療所に帰らないといけない。アンノに「走るよ!」と促して、来た道を戻る。「うう、近道。近道ないかなあ」もう時間はあまり残されていない。
「クラクさん、近道はいけません。来た道をそのまま戻りましょう」
アンノの諫言を拒絶したくなるが、シャッターとアンノの言うことは聞くと約束したので仕方がない。われは走るのになれていない。スピードを上げると「ひいひい」と荒れた息が喉をひりつかせた。「アンノ、疲れていない……?」「大丈夫ですよ」「アンノは、すごいね……」ヘイストなりなんなりで一気に戻りたかったが、『能力使用禁止』を掲げたエリアは多い。万が一、お縄にでもなってしまったら、われは縞々の服を着させられて檻のついた部屋に閉じ込められてしまうに違いない。そうしたら、サイアノとずっと一緒にいると交わした約束もびりびりにやぶれてしまう。だからわれは走るほかない。喉がかっかと熱い。「わ、われ、と、途方に、暮れるよ……暮れながら、走るよー……!」
そのとき、アンノの声がした。
「クラクさん、乗ってください」
思わぬ言葉に立ち止まり振り返ると、アンノが並行二輪車に変形していた。「えっ。すごい。かっこいい」と漏らすわれを、アンノは「ほらほら」と急かす。それに従うと、今度は「きちんとハンドルに掴まっていてください」と促された。ぜえぜえと身を預けるようにハンドルに掴まった途端、アンノは急発進した。「法定速度は、守ります!」なんと頼もしい宣言だろう。びゅんと風になったアンノにしっかりとしがみつき、いかづちのように進む。「法定速度、けっこうはやい……!」「皆さん、出前にはだらだら行きたいですからね。ここまで出す人は少ないです」「すごいよアンノ、走り屋だね……!」はためく上着のポケットに入れていたシマエナガの似姿(ぬいぐるみというらしい)が飛び出しそうになるのをぎゅっと押し込む。
「メシ代ぶん、飛ばすぜ! 気持ちな!」
「おお、アンノ先輩! 頼もしいよ!」
診療所が閉まるまで、あと五分。「間に合えー!」と叫ぶ。頑張っているのはアンノだが、われが代わりに叫ぶのだ。これではわれの足で帰ったということにはならないかもしれないが、アンノのいうことは聞けと言われている。それに、このほうが、心がまんまるい。自分で飛ぶより顔に当たる風が制御不能でぶわぶわと賑やかで、まるで大風のなかを佇んでいるかのようだ。いま、われは誰かと嵐のなかにいるのと同じなのだ。先が見えなくて、まんまるい。
「飛び込みますよ!」
車は急には止まれない! アンノの号令に身構えると、彼のアームが目前に迫った診療所に向かって伸ばされるのが見えた。このまま扉を開けて中に突っ込むつもりなのだろう。そうしたらわれはくるりと宙返りでもして着地すればいい。
「いっけええー!」
われがふたたび大音声をあげたそのとき、診療所の扉が開いた。出てきたのはシャッターで、おそらく『本日の診療は終了しました』と書いてある看板を出しにきたのだろう。
「シャッター! 避けて!」
われが高い声でそう注意を促した途端、シャッターがこちらを振り返り、「は?」と気の抜けた声を発したのが聞こえた。しかしそのときにはもう彼の顔にはわれとアンノという影が差して。瞬間、硬くて柔らかいクッションとして機能せざるを得なくなった彼とともに、われらは吹っ飛んだ。
「おっおおおおお」
この叫びは、われとシャッターの合唱だ。われら三人は一塊となり、ごろごろと診療所前の通りを転がると、数メートル先のベーカリーの前で静止した。われとアンノの下敷きになったシャッターは仰臥して、目を見開いて何度もはっきりとしたまばたきをしていたが、そのうちのそりと上体を起こすと、真面目な声色で、
「クラク。羽は折れたりしていないか」と、訊いてきた。
われは上着の中で羽をごそごそと動かして、「だいじょうぶだよ」と頷く。すると今度は立ち上がって埃も払いもしないままの彼に、首根っこを掴まれたので、われは浮いたまま「約束、守ったよ」と宣言した。シャッターが首から下げていたスマホを見るに、刻限ぴったりだ。
「キミな……。おい、アンノ。無事か?」
その体勢のまま、シャッターは地面に五体投地のようなフォルムでへばっているアンノの安否確認をする。
「ぶ、無事です……申し訳ありません、マスター……!」
アンノの無事を確認したシャッターは、大きくゆっくり溜め息を吐く。そこでわれは「シャッターも無事そうだね」と労う声をかけた。すると彼は一瞬にしておそろしい表情になると、
「全員無事ならいい。無事ならこれから説教だ」
と言って、我を宙に浮かせたまま診療所まで歩き始めた。
「ええ……説教は嫌だよシャッター!」
出発する前と同様にわれは暴れるが、シャッターの力は強すぎる。われは多少振り子のように揺れただけ。彼は獲物と記念撮影をする狩人のような手つきでわれを掲げてはばからない。
「お散歩五箇条改め六箇条を制定してやる。……乗り物で人に突っ込むな」
「わかった」
「知らない人について行ってないな?」
「うん。でも相席はしたけれども」
「……相席?」
「写真、見せてあげるね。約束通り、お話も、します。だから説教は、それからにしてね……」
われの訴えとシャッターの「どうかな」と突き放す声が、診療所の中に吸い込まれてゆく。屋内に入ったことで一気にひんやりとした体感温度になり、われが「お茶飲みたい」と訴えると、シャッターは「大したタマだよキミは」と呆れた顔で笑った。
*
「我はロボット。ごちそうさまでした」
なぜか顔馴染みからそんなメッセージとともに入金があったので、オレは首を捻る。金額は七レミス。軽いメシ代程度だ。送金主は今朝バーガーを食っているときに声をかけられた三人組のうちひとりで、彼になにか奢った覚えがあるわけでもないので、俺は軽く唸って考えてみたが、思い当たらない。誤送金の可能性もあるが、とはいえ小額であるし、向こうがなにか言ってきたら返すつもりで俺は通知のポップアップを削除した。そんなことよりも今は仕事に集中すべきだ。
「……やっぱこの辺りは気が滅入るな」
ひとり呟き、インサイドの暗い通路をひとり歩く。処理場のある辺りはまだマシな景観で、それよりも奥深いエリアは灯りが生き残っていれば御の字という有様。非常灯の小さな灯りや、投棄された機械の電源ランプなんかが主な光源となる。オレはそんな中を携帯ライトを持って極力静かに進む。漏水の甘い悪臭と埃にざわめく肺を宥めすかし、気分転換にミントガムを噛んでいると、追分道に出る。ここまでの道中はクリア。このまま探索を続けてもよかったが、その前に今回の仕事の発注者への挨拶と情報収集を挟みたくて、オレは向かって右の道を進んだ。そのまましばらく歩くと、大きな両開きの扉がひとつ。オレはその脇に備え付けられた通行証リーダーに、回収事業者身分章を翳した。すると低く鈍い音とともに重厚な扉が開いた。一歩踏み入り、オレは目の前に広がる景色に気合を入れ直すつもりで肩甲骨を寄せた。少し高台にある入口から、下方に広がる薄暗い廃墟群を見渡し、そういえば廃墟ではないことを思い出して薄く笑った。
ここはマルチプライド・テセラ──棄てられた機械たちの自治区である。
到底生命が暮らしているとは言えないこの場所に住んでいるのは、主に旧式のロボットたちだ。一見してゴーストタウンではあるが、彼らには明かりや食事は必要がないので殺風景な景観のままでも構いはしないらしい。天蓋のヴィジョンにもなにも採用しておらず、古びた配管が剥き出しになった空の下を、かつて生命体が居住していたであろう建築物が抑揚なく整列している。都市構造的にはすり鉢状になっており、テセラの中央に向かって穏やかな傾斜が続いていた。その斜面を、体重一〇〇キロオーバーのオレが乗るには心許ない錆びたゴンドラに乗って、市街地へと向かう。電気さえ通っていればいい街には温もりがない。オレは浮遊感に身を預けながら腰に巻いていた上着を羽織ると、タバコを取り出した。ここにはそもそも喫煙に関するルールすらないし、オレも今までなにか言われたことはない。スイッチを入れ、煙をふかすとほんの少しだけあたたかかった。そうしてそのぬくもりにどこか縋りつくように一本吸い終えた頃に、ゴンドラが停止した。立て付けの悪い転落防止のスイングドアを壊さないよう跨って越え、降り立った先は街の中心地『タイムズ』である。中心地とはいってもこのテセラ自体がそう大きくはないので、二〇〇メートル四方程度の広さしかない。歩いて数分で全体を見て回れるようなエリアだが、ここだけ来客を歓迎する手配があるのか多くの灯りがついている。その暖色灯るなかに一歩踏み入ると、住人の旧式ロボットたち(大抵が幾何学的な見た目のやつだ。頭部にモニターがついているような)が一斉にこちらを向いた。
「おお、ヒトだ」そんな合成音声が聞こえてくる。ここの住人はこうして発声ができる者と、文字で会話する者が半々くらいだろうか。文字の場合は、モニターに表示されたり、ボディの周辺にフキダシを模したホログラムが浮き上がったりする。そんな彼らの歓迎モードを一身に受けながら、身分章を翳して見せると、一機のソルジャータイプの警備ロボットが近づいてきた。まだ新しい真っ白なボディをしているが、脚部に損壊を修理したような別素材の継ぎ接ぎがあった。大方、督国から落ちてきた比較的新しい個体なのだろう。
「サイアノ様ですか」
彼は流暢な──要は、ヒトっぽいということだ──音声でそう問うてきたので、オレは「そうだ」と頷いた。すると「こちらへどうぞ」と先導する気らしいので、その後に続く。少し歩いたところで子供型愛玩ロボットが「すごい! ヒトだ! お兄ちゃんは、どういうイキモノなの?」と無邪気に纏わりついてきたので、オレは若干申し訳なさそうにしている警備ロボに手のひらを向けてから、子供ロボに「なんだと思う?」と問い返してみた。
「うーん、水属性っぽいね! 歯も鋭いし身体も大きいし……サメ?」
ああ少年。よく観察したほうだがそれはオレの『地雷』ってやつだ。……しかし相手は機械とはいえ、そんな個人的な不満をガキ相手に匂わせるほど、オレは腐っちゃいない。
「サメなわけあるか! ちゃんと見ろ、シャチだシャチ!」
そう訂正すると、彼は「図鑑で見てみるね!」と手を振って駆けて行ってしまった。子供ロボは、子供ロボだ。一生、子供ロボである。ここでは皆が各自与えられた役割を元にロールプレイをしている。だからきっとあの少年にも『親代わり』の個体がいるのだろう。
「お優しいんですね」
そう言って再び背を向け歩き出した彼に、オレは名前を訊ねてみる。すると彼は、
「WI11型A-78号です。皆からはウィルと呼ばれています」
と、要は愛称で呼んでほしいことを仄めかしてきた。
「オーケー。ウィルか。いい名前だ」
「しかし、もしも同型機がここにやってきたら名前が被ることになりますので、78号でも結構です」そう言葉を付け足す彼はすこし小さくなっている、ような。見かけた中では一番無骨でカッコいいデザインをしているくせ、それを笠に着ない奥ゆかしい情緒があるらしいところに、オレは好感を持った。
「じゃあ二番目が来たらソイツはあっくんでいいだろ。ウィルはオマエだ」
だからこそ、オレも普通の知り合いにするみたいに適当に返す。
「あっくん、ですか」
彼が戸惑うことも見越しつつ。
「そうだよ。Aナントカなんだからソイツはあっくんでいいだろ」
「……そのときがきたら、それでいいか確認してみます」
我ながら雑だが、俺だってここの住人を無機物だといって差別するつもりはないし、住人達の搭載している学習型AIは既に独自の発展を遂げているのだから、なんの引っかかりもなく一個人として扱う。オレたちの中には機械は機械だと、要は「飼い犬は犬であってヒトとは違う」というような主義の奴らも少なからずいたりもするが、統制局が機械住人のみのエリアもテセラとして認めているのだから、同じ住人であることに変わりはない。オレは差別をしない……多分。言い切りはしないが。
ウィルに連れられて訪れたのは機械たちのメンテナンス工場だった。そう称するとなんだか大仰だが、印象としてはシャッターの診療所とそう変わらない。専門知識のある『工場長』が高いところから落ちただとかショートしただとかそういう個体を修理する場所である。他のテセラの企業や個人からも、マニアックな機械を直してくれと注文があったりするらしい。
そんな工場の一角に、青いビニールシートをかけられている謎の盛り上がりがあった。
「酷いもんだよ。まあ、見てくれ」と言ったのは工場長だ。
必要があるのかどうか全くわからないゴーグルを頭にかけた彼は、シートをひと思いに取り払った。その下から現れたのは、二足歩行ロボットの下半身だ。胴体の真ん中には文字通り引きちぎられたかのような『噛み跡』があり、上半身は当然無い。まるで、巨大な猛獣にひと口でばくりといかれたかのようだ。そしてそのイメージ通りに、獣の唾液のような液体が噛み跡には残っていた。
「……食われたのか」
オレの言葉に、工場長とウィルは黙り込んだ。オレは配慮が足りていなかったかと、短く「ゴメン」と謝る。すると工場長は「いいんだ」と片手を上げると、「今月三件目だ」と情報を共有してくれた。
「俺たちが未開拓エリアにある配電線やら設備やらを修理したり、設置したりして生計を立てていることは知っているだろう? 開拓者たちがやってくるまでの下準備係だ。……その仕事に赴いた個体ばかりがやられていてな。しかしまあ、これだけ残っていたのは幸いなほうだ。遺留品があればいいが、ないまま失踪した個体をこの件の被害として含めれば、十体は下らない。それが俺たちにとってどれだけの損失か……オマエさんには、わかるかい」
そうだ。この街には有機生命体がいない。この街では次代は生まれない。たまに流れてくる個体が数機いる程度で、人口が一気に増えるわけでもなく、かといって『突発的な死』や『寿命』はしっかり存在していて。それをどうにかしようとしている工場長みたいな『医者』もいたりして。稼働していることに対する愛を以って、この街はゆるやかに続いていくはずだった。最後の一機がこわれる、そのゴール地点まで。終わることを理解していて、壊れるまで動いていく。それは停滞かもしれないが、これが彼らの選んだ人生だ。そこに、この機械喰らいが一石を投じたのだ。統制局の有力者の名義でホルダーへの依頼を出したのは、彼らなりに自体を早く収束させたかったからだろう。もし彼らの名義だったなら、一般ハンターアプリに落ちていってもしばらく受注者が見つからなかったかもしれない。それほどまでに、ここは暗い。そういう、イメージがあるのだ。
「わからねえけど、わかるよ。だから迅速に終わらせる。早速だが被害者たちの遺留品があった地点を送ってくれ」
オレが機械じゃないからだとか、機械に合わせているとかではなく、必要だと思ったから話を切り上げた。オレは仕事をしにきた。生活をするためにやってきたのだ。だから、同じ生活者である彼らにほんのちょっとだけ同情するのも身勝手ではない筈だ。たとえそれが海面上に浮かび上がらず、他者の目から見えなくとも、オレはそれでいい。これはオレのやる気だ。
「……いま送った。その機械喰らいが有機物を食うかどうかは俺たちにはわからん。気をつけてくれ」
「はいよ。じゃあ朗報を期待してな」
オレは軽い調子で返事をすると、メンテナンス工場を出てゴンドラのほうへと向かう。するとウィルが追いかけてきて「お供します」だなんて言うものだから「馬鹿いうなよ」とその腕の辺りを叩いた。即座に弾き返される装甲の感触が、彼が元々高級機械兵だったことを窺わせる。
「オマエが今まで討伐に出なかったのは、戦闘モデルの住人が少ないからだろ。機械喰らいがここ攻めてきたらどうすんだよ。自分の仕事をしろってリシュヴェリ王に言われなかったか?」
それは彼の肩に入っている紋章を揶揄した軽口のつもりだったが、意外なことにも彼は「はい。そういったお言葉をいただきました」と言って項垂れるものだから、つい「マジかよ」と声が出た。「陛下、実物もカワイイのか?」
「えー……と、美醜の判断は私たちにはいたしかねますが」
「じゃあ写真のまんまか?」
「それは、そうですね。写真ですから」
「マジかー。じゃあ相当カワイイな……」
オレは顎を揉んで我らが王の美質に感心するが、そんなふうに浮かれている場合ではなかった。「でもまあ、そういうことだよ」と雑に締め括って、ゴンドラに乗ると、発進スイッチを押して「じゃあ、いってくる」とウィルに手を振る。すると彼はメモリに刻まれているのか督国流の敬礼を返してくれた。
そうしてオレは再びインサイドへと戻ると、先ほどの追分道の左方向へと進んだ。サングラス型のウェアラブルデバイスを装備し、接視界に先ほど工場長から送ってもらった位置情報を表示する。一人分の足音とどこからか響く水の滴る音だけが響く廃道は、それでも『仕事』をしに出るロボットたちの足場として適切に整理してあるらしく、コンテナが数々置かれてはいたものの、ある程度の道幅と電源が保証されていた。整理整頓とは外部へのホスピタリティだ。その無機質な清潔感のお陰か、処理場のあたりでは間々姿を見かける吸血性の小型獣なんかは生息していないようだった。しかし、ただただ陰鬱なほど静かで、根源的恐怖を感じさせる。水の中のほうが余程賑やかだ。
マップにマークされた地点にやってくると、床や壁には機械油の飛び散った痕跡があった。一番若いマークポイントだ。それらの滲みをライトで照らして、飛沫の軌跡を想像し、対象の大きさを測る。二足歩行ではなさそうだ。それに、結構大きい。四足獣と仮定するならば体高は三から四メートル。サイズ感のイメージとしては、ゾウとかその辺りが近いだろう。鋼鉄を噛み千切れるほどの歯と顎力。腹に一個体あたり一〇〇キロ以上はある機械の塊を収めても平然と行動できる四肢の太さ、強さ。これは骨が折れそうだと踏んで、オレは背負っていた得物を手に取った。
オレの武器はハープーン・ガン……鯨銛である。火薬で直射砲からワイヤーのついた銛を打ち出す、文字通りホエールキラーの武器だ。片手で取り回せるよう小型に改造してあり、用途によって先端部分を付け替えることが可能である。移動や追跡にはグラップリングフックを。単純な殺傷には金属製の銛を採用する。オマケに電気も流せる便利仕様だ。装填する銛は素手でも扱えるようにしてあるので、近接攻撃にも使うことができる。これさえあれば大抵のイキモノには致命傷を負わせることができるが、果たして今回はどうか。
マークされた中で最も古いのは、同時に最も深いポイントでもあった。その辺りはそのうちスティルマンが手を入れる予定の開拓予定地だったはずで、それより先には進めない。つまり、最奥に身を潜めていたジャンパーに最初の被害者が見つかってしまったことをきっかけに、被害の前線がマルチプライドの方面へとジワジワと移動してきているのだ。追い込み漁をするかのように。或いは、こちらに餌があるのではないかと探るように。であれば、この一番手前の現場からすぐ近くに標的がいる確率が高い。
周囲を見渡す。まだ気配はない。この近辺に巨大な獣が身を潜められる場所などもない。進むか、戻るか。いや、待て。どうしてあの遺体には下半身しか残らなかったのか。他の被害者も足首から下だとか車輪パーツだとかばかりと聞いている……。そのことを頭に思い浮かべた瞬間、ぞっとした。上だ。頭上から、ばくりといかれたのだ。だから標的の足跡のようなものが見当たらないのだ。
「……勘弁してくれってー……」
オレの推測が当たっていれば、もう姿は見られている。武器を手にしていてよかった。細く息を吐き、一度ゆっくりまばたきをして、手にしていたライトを、視線とともにゆっくりと頭上へと向ける。するとそこには、裸の女が張りついていた。二メートルほど頭上だろうか。一瞬心臓が気味悪く揺れたが、オレはホラーは平気なクチだ。その上で、ジャンプスケアは絶対に許さない……というのは、今は置いておいて。
「えっと、幽霊ちゃん、カナ……?」
そんな拍子の抜けた声をかけた直後、その女が身体をこちらに向けた状態で天井に張り付いていることに気がついた。四肢はどこにも掴まっていなければ縛りつけられてもいない。そして全然、生身だ。それを認めた瞬間、オレは前方に跳び込んだ。背後で超重量級の落下音。地鳴り。揺れる足元を踏ん張って、もうひと跳び分の距離を取る。天井から埃やなにかの部品がぱらぱらと落ちてきて、噎せそうになったが堪えてハープーン・ガンを構えながら振り返ると、そこには『怪物』がいた。
分析していた通りの体高。奥行きある四足の体躯は暗色の体毛に覆われ、マンモスを思わせるが、胴から上はつるりとぬめる生肉の質感で、そこから無数の短い触手のような突起──イソギンチャクみたいだ──を生やしている。波打つようなその皮膚の下の蠢き。愚鈍そうで締まりのない頭部は、垂れるように地面に向き、その巨大な口からは唾液をぼたぼたと垂らしていた。これだけならば神様が利き手でないほうでデザインした生物として納得できたかもしれない。しかし、そのイキモノは垂れた頭から背にかけて、ヒト型の女を仰向けに背負っていた。つまり、女の逆様の頭部が、俺と目を合わせているのだ。そしてその女は明らかにその怪物の一部で、べったりとヒトデのような格好で獣の頸から背に癒着している。
「ホラーかと思ったらバイオハザードじゃねえか……」
もう、笑うしかない。しかも極めつけにその怪物は巨大な口から、
「おなかすいた」
と、あどけない女の声で言葉を発する。その瞬間、数分遅れで鳥肌が立った。この女には、いくらかヒトとしての意識がある。
「おなかすいた。おなかすいた。おなかいっぱい。おなかすいた」
ずるずると這うように、ソレは距離を詰めてくる。するとなにやら金属が擦れるような音がした気がして、オレは一歩一歩後退りをしながらその音の出所を探る。……腹だ。その巨躯の中に、膨張した腹部に、消化も排出もままならずにただ揉まれ、擦れ合う音を発しているマルチプライドの住人の残骸があることを察し、オレは動揺を隠すように歯列の隙間から大きく息を吸った。そして、問う。
「……食糧がないから、仕方なく食ってんのか。機械の、連中を」
「おなかあすいたああままあああいたいいあああ」
巨躯から発せられているのに、声が細い。クラクと同じくらい、細く、ちいさい。その原因が、空腹だけではないと、オレはすぐに直感した。獣の体側にまだ新しい裂傷痕があるのだ。もしかしたらどこぞのハンターもこの獣にやられてしまったのかもしれない。女の部分では眼球だけが忙しなくぎょろぎょろと動いていて、獣の部分とヒトの部分の、どちらが本体なのかという問題は些細なことのように思えた。どちらにせよ、胸糞確定だ。
「ままママままままーああああーままあ」
「ここは月下界だぜ、姉ちゃん」オレはトリガーに指をかける。「ツイてなかったな」
その女のほうの眉間に向かって、オレは稲妻ほど太い銛を、撃ち込む。しかし、それは突如顔を上げた獣の方の口に、歯列に、咥え込まれてしまった。オレは「嘘だろ」と漏らしながらワイヤーの伸びる範囲で後退し距離を取り、巻き取り用のスイッチを押したが、ロールは虚しく空転するだけで少しもワイヤーは戻ってこない。
「なんつー、力だ、これ……!」
改造しているとはいえ元は捕鯨用だ。それを受け止めて踏ん張るとは恐ろしいほどの顎と四肢の力をしていることになるが、それは今回の連続殺人事件で証明されていたことだ。この程度で怯むほどオレはヤワじゃないと己を鼓舞し、腰を落としてガンを抱え持つと、背中のハーネスに挿していた投擲用の銛を手に取った。口が塞がっている今が好機と判断し、もう一度巻き込みスイッチを押す。跳ぶ。すると怪物に向かってぎゅんと勢いよく身体が引き寄せられる。刹那、接近。オレは口から鮮血を溢れさせながら呻いて頭を振る怪物の額に、女の顔面に、握った銛を突き刺した。
「あっ」
頭蓋を叩き割る感触。押し込む。ばりんと破裂する。そのまま身体を翻し、獣の頸に、女の肉体の上に跨ると、潰れた女の頭部から銛を引き抜いた。それで女の部分は動かなくなったが、途端に巨躯のほうが暴れ馬のように跳ね始めた。これで本体が獣のほうだという答え合わせとなったが、そんなことは今はどうだっていい。「いたい、まま、いたいよおうあああはあんへえええあああ」地鳴りの中、微かに聞こえる間延びしたちいさな声を無視して、オレはなんとか吹き飛ばされないよう獣にしがみつく。これは吐きそうなタイプの揺れだ。暴走ライドの最中、何度も巻き取りスイッチを押すが、戻ってこないどころかワイヤーはどんどん伸びていく。銛が飲み込まれていっているのだ。
「美味くねえから食うんじゃねえ!」
内容が彼女に届かないことを知りつつ、叫ぶ。オレのハープーン・ガンが飲み込まれでもしたら一大事だ。住人と一緒に文字通り墓場行きである。オレのワイヤー捌きに抵抗して、獣は頭を反らせたり丸め込んだりしながら、泣いている。もう眼球はないが、彼女は確実に泣いていた。見知らぬ土地に落とされ、ママはいないし暗いし腹は減ったし、狩りをして食べても満たされなくて、もうしっちゃかめっちゃかなのだろう。……食べても満たされない? そうか。腹の中には住人の残骸があるのだ。一か八かで、銛に電流を流すスイッチを入れる。すると直後、くぐもった爆発音とともに、獣が爆ぜるように跳んだ。いや、実際に腹部が爆ぜたのだ。その衝撃でオレは派手に吹っ飛ばされ、ごろごろと回転しながら更に数メートルの距離を滑っていく。
「いっでえ……」
銛だけを握った状態でなんとか立ち上がると、向こうに獣が斃れていた。胃の中の機械部品のショートを狙い、熱暴走を起こしたわけだが、それでもかなり丈夫な骨格をしているらしく、外傷的には腹部が破裂しただけで済んだようだ。しかしその外気に触れてしまった肉体の内側はしっかり焼け焦げており、仮に腹部が破裂せずともマルチプライドの連中の残骸が孕んだ熱によって致命傷になったことだろう。オレは煙とともに異臭を放つその死骸にゆっくりと近づくと、目標が完全に沈黙したことを確認して、スマホで任務完了報告を入れた。そして遠くに転がって無事だったハープーン・ガンを拾い上げる。飲み込まれたぶんのワイヤーが千切れてしまっているが、本体が無事なら御の字だ。袖で顔面に散った返り血を拭き、「割に合わねー!」とひとり叫ぶ。まったく、後味が最悪の任務だった。しかし、食われた住民に助けられたことに間違いはない。ドロドロに溶けて一塊となった彼らを弔うつもりで振り返ると、少し離れた位置になにか白いものが落ちていることに気がついた。近づいてみると、自然と「さっすが高級機械兵」とその白を褒め称える声が漏れた。
マルチプライド・テセラに戻ると、オレは第一声に「シャワーとかねえの?」と返り血やら脂やらでギトギトになった身体を清めたい旨を工場長に訴えた。すると「そこにホースならあるぞ」と機械の洗浄に使うらしい蛇口を指されたので、「もうこれでいいわ。ホントマジ最悪だよちくしょうめ」と小言を漏らしながらホースの水を頭から被る。顔面の血とワイヤーを激しく手繰ったせいでボロボロになった手を洗い、口の中も何度か濯ぐ。そして血などがべっとり付着した投擲用の銛も洗い、濡れた髪を後ろに撫でつけていると、ウィルが戻ってきた。なんでも複数箇所ある出入口付近を重点的に哨戒をしていたらしく、任務完了報告を受けて戻ってきたのだとか。
「お疲れ様でした、サイアノさん。そしてありがとう」
彼がオレを呼ぶとき、様でなく『さん』付けになっていることが、なによりの報酬のように思えた。
「んー。現場処理にはあとで局の連中がくるから放っておいていいぞ。それと、アレ。開けて見てみ」
親指で近くの作業台の上を指すと、彼は「なんでしょう……」とオレの上着に包まれたモノに触れた。しかし感触だけではなにかわからなかったのか、ソレを包んでいた袖の結び目を、彼は存外に優しい手付きで解く。そして中から出てきたものを見て、彼はギュインと勢いよく頭部だけをこちらに向けた。しかし言葉を失っているらしく、目元と思しきバイザーの奥だけがチカチカと明滅していた。
「あっくん、いたみたいだな」
そう。彼が手にしているのはWI11型機械兵の頭部だ。それは獣の腹の中から出てきたもので、つまり、あの獣に応戦した個体がいたことを指している。住人になる前に自分の仕事をしようとしていた個体が。
「それにしてもスゲー耐久性だよ。他にそれっぽい部品は見当たらなかったから、どっかにボディも落ちてるかもな」
もう使い物にならなくなったロンググローブを脱ぎ、工場長に向かって「ここに捨てて行っていーか?」と声をかける。すると無言で廃品を入れるコンテナを指されたので、グローブ丸めて振りかぶり、投げ込んだ。「よっしゃ入った!」ガッツポーズでひとり喜ぶ。「あっくんのメモリ、生きてるといいな」
「……流れの感じであっさり言いますね?」
「いやだってオマエ、保証はできねえし」
オレの言葉にウィルは再びバイザーの下を明滅させると、今度は力強く「生きてると、いいですね」と言った。「私たちは生きてるかどうかも、わからないんですけど」
「なんだよそれ。新手のロボットギャグか?」
「あ、はい。ではそういうことで」
「オイ、いま面倒臭くなって流そうとしただろ」
最悪な体験をしたあとに、湿っぽい話はしたくない。せめて任務が成功したことだけは景気よく祝うつもりで、そしてここでの体験は晴れやかに終わらせたくて、オレはウィルのボディに平手でツッコミを入れる。またしても、即座に跳ね返される高級な装甲の感触。手が痛くて少し笑う。「さすが高級機械兵」「それロボットギャグとして使いますね」「お? あっくんとお笑いコンビでも結成するのか?」「いやでもあっくん生きてるかわかんないんだもんなー。ねー、あっくん」……真新しいロボットギャグにも、笑う。
工場長に修理してもらったハープーン・ガンが仕上がった頃に、実際は代理の依頼人だった統制局の権力者から報酬の入金があった。オレはそれまでウィルや子どもたちと一緒にバスケットボールをして遊んでいたのだが(アームを伸ばしてダンクするとか無法すぎるだろ)、そろそろ帰らないとクラクが淋しがるだろうからと、彼らに別れを告げて帰路に就いた。
再び暗く陰鬱なインサイドを進んでいると、スティルマンからリトルネロが届き、いつも通りの「いいことあったか?」という挨拶から始まる内容を読んだことには、次回の開拓時にはマルチプライド・テセラに駐屯地を置くことに決まったので、手土産として喜ばれるものを教えてほしいというものだった。おそらく、今回の任務の担当者がオレだということを確認して連絡をしてきたのだろう。
「いいこと:ダンクシュートは腕を伸ばせば簡単だと知った。腕を伸ばせればの話だが」
先ずはそう挨拶を返し、オレは一二分悩んだあと、質問への返答を打ち込んだ。
「バスケットボール」「お笑い」「金属板をいくらか」「あとシャワーはねえからなんとかしろ」
すると「お笑いってなんだよ」と返ってきたので、「ロボットギャグに対抗できるやつだよ」と返事をしてスマホをしまう。そして最寄りのメトロの駅に到着すると、エレベーターに乗り込んだ。それからシャッターに「そろそろ回潮に着く」と送ると、まだ診療所にいるという旨が返ってきたので、ゴンドラが目的階に停まったあとは真っ直ぐに診療所を目指す。クラクの奴は淋しがって泣いてるんじゃなかろうか。なんせ、こんなに長時間傍にいなかったことなどないのだ。きっとオレに飛びついて喜ぶに違いない。
しかしそんな期待に反し、クラクはぐっすり眠っていた。ヘルパーロボットのアンノと一緒に診察台に蹲って呑気に寝息を立てているのを見下ろし、「こんのクソガキが……食っちまうぞコラ」と漏らすと、帰宅するため私服に着替えて出てきたシャッターが、「疲れているんだ」とフォローを入れる。
「今日は労働もしたし、大冒険もしたからな」
「あ? どういう意味だよ」
オレが説明を促すと、シャッターは患者用の椅子にオレを座らせた。そうして彼は「本日の報告の報告」と生真面目な様子で親指を立て、「質問は報告の後だ。いいな」と念を押し、今日のできごとを語り始めた。
クラクが労働をしたいと言い出したこと。自分の金で買い物がしたいと話したこと。試しに洗濯をさせてみたがきちんとやってくれたので、シャッターが報酬を支払ったこと。その金でいますぐに買い物に行くのだと駄々を捏ねたこと。シャッターは仕方なくお散歩五箇条なるものを制定し、アンノと外に行かせたこと……については一言二言意見があったが、質問はあとだというので堪えた。そしてなにやらヤキトンを食べて、そこで相席になった男たちが偶然オレたちの顔見知りであったらしい。彼らの写真と、ご丁寧に撮られたCTBのロゴマークの写真を見せてもらいながら、オレはクラクが彼らに対し少なからず警戒心を抱いていたことと、抱こうと決めたその真面目な心の機微を察してなんとなく、この子は大丈夫だ、と曖昧な希望を抱いた。きちんと警戒した上で他者を受け容れる姿勢があるということは、彼女が人嫌いではないという証左である。それから、「アンノはビールを一気飲みするそうだぞ」と笑いを噛み殺すシャッターを見て、オレはあの謎の入金の真相を知る。「やっぱりすごいなアンノは」と返すオレの声も震えている。クラクはマルチプライド・テセラの住人と仲良くできるかもしれない。「あと俺は豆腐に似てるらしい」「……それはなんで?」食事のあと、彼女は無事に欲しかった栞を買い、そのあとあのときに生まれた赤ん坊の家に挨拶に行き贈り物を渡したそうだ。門限に間に合わないことを察し、走ったこと……を、クラクは臨場感たっぷりに語ったという。そうしたらアンノが並行二輪車に変形してクラクを乗せてくれ、ギリギリ間に合ったと。
「じゃあそれは飲酒運転だろ。アンノが」
思わず口を挟む。これは質問ではなく、ツッコミだ。
「だな。しかも看板を出しに出た俺に向かって突っ込んできた」
「あーあ、やっちまったな」
「そうだ。だからお散歩五箇条を六箇条に改定して、それからふたりとも説教してやった。こっぴどくな。なのに途中で寝たんだぞ、お前のご主人様は」
シャッターの説教で眠れるとは、流石の胆力としか言いようがない。オレが「すげえじゃん」と腕を組むと、頭を軽く叩かれた。そのまましばらく軽い叩き合ってじゃれ合っていると、彼は、
「とまあ、これが今日のできごとだ。そしてサイアノ、すまない。クラクを外に出してしまった」と、締め括って頭を下げる。しかしオレは、「いや、終わり良ければ総て良し、だろ」とその謝罪を拒否した。元はといえばクラクを任務に連れて行けないからとシャッターに預けたオレの責任であるし、シャッターの理性的な部分や人となりにオレは全幅の信頼をおいているのだから、とやかく言えはしない。
「また託児頼むな」
そう言って「メシ行こうぜ」とシャッターを促すと、彼は「そのことについてなんだが……」と言葉を濁した。そして「本人から聞いてくれ」と口を噤む彼が指す先を視線で辿ると、ちょうどクラクが目覚めたところらしく、彼女はオレを見ると、「あ、サイアノ。おはよう」と微塵も淋しがっていないかのような普段通りの態度で身体を伸ばす。
「あのね、サイアノ。きょうはね、色々あったんだよ」
寝起きの甘い声でそう言って、彼女はスリープモードのアンノの頭部を撫でた。
「……おう。後で聞かせろ」
オレはなにも聞いていない体でそう返す。すると彼女は診察台から降りてオレの前にやってくると、オレの両肩に手を置いて、言った。
「われ、ハンターになる」
は、と腑抜けた一音だけが、オレの喉から転がり落ちた。ような。
「サイアノとおなじハンターになって、ギザギザをもらって、労働をするよ」
真面目な小顔に添えられたグッドサイン。オレは呆けた顔もそのままに、シャッターのほうを向くと、彼は肩を竦めて首を傾げた。これには流石のシャッター先生もノーコメントらしい。宣言するだけしてクラクは満足したのか、オレとシャッターに「おなかすいたよ。ごはんを食べよう」と意見して、いそいそと置いてあったボディバッグを身につけはじめる。
「ええとだな……クラク、ちょっと、話し合おう」
頭ごなしには否定しない覚悟だけ決め、しかし基本的には反対する心持ちでクラクに向き直ると、クラクは、
「いいよ。話し合おう」
と、小指を立て、オレの手を取ると、無理矢理小指同士を絡めてきた。
「一緒にいるって、約束したから。だからなんでも、話し合おうね、サイアノ!」
背後からシャッターが膝を叩いて笑う声が聞こえる。どうやらオレのご主人様は、とんでもなく肝が据わっているらしい。
QUEST CLEAR!

お散歩五箇条が進化した!▶お散歩六箇条
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