【アノクラクラ】STAGE.3 PILOT
⚠このシリーズはフィクションです。
⚠一部グロテスクな表現や性的な表現があります。(R/RG15程度)
「パイロット」
われがそう口にすると、われの目の前の席で定食なるもの──ライスと、スープと、おかずがセットになっているものらしい──をつまんでいたスティルマンは目を丸くして、「それがそのシマエナガの名前か」と、どこか驚いたようなニュアンスの感想を口にした。
「そうだよ、この鳥の似姿氏は、パイロットという名前になった」
われは拳ほどの大きさをした氏を掲げ、その翼で優雅に滑空をするイメージで、彼をテーブルに並べられた料理の上で飛行させる。それから、ばびゅーんばびゅーんと加速。そして最高にいい感じに背面飛行に切り替えたそのとき、パイロットはわれの手から滑り落ちた。あっ、と声が漏れる。このままではふたりで分け合うために注文した『白麻婆豆腐』の中に彼が落ちてしまう! ……しかし、それは成らなかった。スティルマンが目にも止まらぬ速さで以てパイロットを受けとめてくれたからだ。
「よし、不時着しなかったな」
そう言って彼は、われに捕まえたパイロットを返してくれる。われは「ありがとう。おかげで、彼は洗濯機にゆかずにすんだ」と礼を言うと、受け取った彼を上着のポケットに詰め直した。ぐいぐいと底まで押し込み、きちんとボタンも閉め、それから置いていたレンゲを取り、白麻婆を食べる。赤い麻婆豆腐がヒリヒリだとすると、白はピリピリだ。ソーダを飲んだときのようにはじけて波うつ舌を、豚のかたちをした叉焼包を齧って鎮める。金柑の香りがするとろとろの甘い肉がいい。
「写真は、彼と写ってもいいかな」
ピリピリが収まった舌でわれが問うと、スティルマンは「どうかなあ……」と消極的な様子で顎を揉んだ。「訊いてみるほかないな」
「みんなは撮らないの? 似姿と」われは続けて問う。
「撮らない、かな。ほら、サイアノの身分章はぬいぐるみと写っていないだろ?」スティルマンはなめらかに答えてくれる。
「でもそれって、サイアノにはまだわれがいなかったからかも」
すると、爆糟肉なる定食の肉おかずを口に運んでいたスティルマンは「ふは」と笑い声を上げて、噛みちぎった肉をライスの上に一旦着地させた。
「クラク、キミは自分をぬいぐるみだと思っているのか」
その言葉に、われは首を傾げる。
「ん? われは似姿だよ」
「どういう意味だ?」
「天使の似姿」
この言葉に、なぜだかスティルマンは黙り込んだ。われは気にせず、「残りの白麻婆、もらっていい?」と申し出る。
金星飯店を出ると、スティルマンは「そろそろいい頃合いだろう」とスマホを見ながら言った。それにはテセラ・オフィスに戻ろうという意味が込められていることを察したわれは、「手続きって、時間がかかるんだね」と、いいよという意で言葉を返す。
「役所の手続きってのは、どの時代のどの地域でも時間がかかるようになっているのさ」
スティルマンの苦笑には、なんだか自嘲めいた色が滲んでいた。彼も役所に類する組織の人間だからだろう。
その役所にわれらは、朝からついさきほどまで缶詰になっていた。なんでも、サイアノとおなじ『ホルダー』というのになるには、まず一般の『回収業者』として事業者登録をして、それから一定量の実務経験を積んだ後に、改めて申請をしなくてはならないらしい。きょうはその事業者登録手続きに、仕事が休みなうえ申請関係に造詣が深いというスティルマンが付き合ってくれていた。ほかのふたり──われがほかのふたりというとき、それはサイアノスティルマンシャッターのうちいずれかふたりを指すんだよ──は、仕事。われは初めてスティルマンをふたりきりで外に出たわけだが、彼はなんというか、人となりが軽やかで、お喋りが上手い。人々はこういった特徴の人物のことを『紳士』と呼ぶのだとか。
「おっ、終わってるな?」
役所の窓口で、スティルマンは暗に「手続きを終わらせただろうな?」という圧力の滲んだ声音で職員にそう切り出した。われは最近、人々のこういう言外のニュアンスを理解できるようになっていた。読書のお陰であるが、それでも推測の域は出ない。しかし、その推測というのは、なかなかに楽しい。
「はい。勿論です。あとは上の階でライセンスカードの発行をしていただくことになります」
「オーケー。説明は結構」
そう短く切り上げたスティルマンに促され、エレベーターで二階に上がる。そしてまずは写真撮影という運びとなったので、われは担当職員に向かって「あの、パイロットと一緒に撮ってもいいですか」と、ポケットから彼を取り出し、申し出てみた。すると、写真担当の彼女は「えっ」と戸惑ったような声を上げたあと、「上に確認してきます」と言って席を外した。
「上ってどこ? 三階とか、四階?」
われが首を傾げると、スティルマンは苦笑しながら「それはごちゃごちゃまわりくどい手順を踏むって意味だ」と言って、それから「ちょっと吸ってくるな?」と手でタバコを表現すると、廊下の先へとさっと歩いて行ってしまう。……それは、知らなかった。われもまだまだ読書量が足りないらしい。残されたわれは、手元のパイロットの顔をもちもち伸ばしながら、「いろんなところに行って帰ってくるって、まさにキミだね」と彼に呼びかけた。
しかし、いろんなところに行ったとて、首尾よく戻ってこられるわけではないようだ。
「申し訳ございません……上に確認したところ、ぬいぐるみと撮るのは前例がないということで……」
少しして戻ってきた職員は、しょんぼりした眉でそう言った。それはつまり、彼女は申し訳ないと思っているということで、われは「じゃあ、しかたないね」とパイロットに呼びかけ、ふたたび彼をポケットに押し込んだ。すると今しがた喫煙から帰ってきたらしいスティルマンが、「頭に乗せたらヘアアクセサリーってことにならんかね」と、待機所の椅子に腰を下ろしながら言った。
「ボリュームのある髪型やヘッドドレスはアリだろ? 顔がわかればいいってやつなんだから。それともイヤリングに加工してから持ってこようか?」
すると、撮影担当の彼女の背側から、神経質そうな顔の男が顔を出した。
「スティルマン開拓部長、あまり上から意地悪を言わないでやってください」
その物言いからして、男はスティルマンと顔見知りのようである。彼の言葉に、スティルマンはぱっと両手を挙げて、「別に職権濫用のつもりじゃないぞ。テセラ・オフィスは自治体、統制局は国。上下じゃないだろ。一市民としての意見だ」となにやら言い訳をして、撮影担当の彼女に「ごめんな」と一言謝った。そして傍らのわれを振り返り、
「ごめんな、今回は我慢してくれ」
と苦笑して、われの頭に手を置く。今度の苦笑はなんだか優しい苦笑だったので、われは「うん、いいよ」と頷いた。
撮影が終わると、回収事業者のライセンスカードはすぐに発行された。しかしそれはサイアノの持っているようなギザギザマークのカッコいいやつではなく、普通のカードだった。表面には回潮・テセラの自治体マークが印刷されており、裏返せばわれの顔と二次元コードが浮き上がって見える。
「ほんとに可愛いな、キミは……こういうときの写真というのは写りが悪くなるもんだが」
「そうなの? でも、カードはカッコよくないよ」われはほんのりしょんぼりする。
「それはただの事業者登録の証明だからな。たとえば金星飯店のマスターとか、あの角のパン屋の店主とかもそれと同じのを持ってる。こういう業種で商売しますよって証明だ。シャッターは医者だからちょっと違うんだが……まあ似たようなのを持ってる。サイアノもこれ自体は持っているはずだ。それを手に入れたわけだから、これでキミも回収事業者として仕事ができるってことだな。おめでとう」
彼から差し出された手を、われは握る。
「ありがとう。つまり、これで店をやっている人たちとおそろいってことだよね」
「そうだ」
「あとでみんなにカードを見せてもらおう。写りが悪い、という状態なのかどうかも確認してみたいからね」
「んん……? クラク、それはやめておいたほうが」
「それに、みんなが大事な似姿と一緒に写ってないからって、心のまんなかで納得できるかも」
われがそう言うと、スティルマンはまた黙った。われがなにかを言うと、他人が黙ってしまうことがたびたびあるのが不思議だ。もしかすると、一般的には変なことを口走っているのかもしれないが、それはわれには察知できない。それから十秒ほど口を噤んでいた彼は、俄かに膝を曲げると、われの目線の高さまで屈んで、切り出した。
「……クラク。がんばってホルダーになろう。そうしたら、あのギザギザを申請するときにまた写真を撮ることになるんだ。そうしたら今度は局の管轄下だから多少は融通が利く。なにか言われても、俺が職権濫用してやるから。それまでパイロットを失くすなよ。な?」
スティルマンは、紳士だ。
われは「うん、なる」と返事をすると、カードをボディバッグにしまった。そうしてポケットをちょっとだけ開き、「まっててね」と中からこちらを見上げてくるパイロットに声をかける。すると彼は心なしか頷いてくれたような気がした。「上と相談、してくるね」「……それはちょっと意味合いが違うんじゃないか?」
午前は缶詰になったおかげか、午後にはもうむつかしいことはなにもなかった。役所を出たあと、スティルマンががんばったご褒美に新しい服を買ってくれるというので、一緒にブティックを回った。彼が着るにはだいぶ窮屈そうな品揃えの店ばかりだったが、彼はわれの服を選ぶこと自体は得意そうだった。
それから、猴賽雷・ストリートまでやってきて、おやつを食べようという話になった。「気になるのがあったら言えよ」とスティルマンに促され、われは初めて通りの店を一軒一軒じっくりと吟味する。すると少しして、『タピオカ』と書いてあるポップな色合いのホログラム広告を見つけた。われは知っている。これはいま流行りのむちむちとした食感のボールのことなのだ。ネットで見たから、われは知っている。二回言った。大事だからだ。われは、知っている! ……うれしくって、三回目だ。そこは本当にちいさな店舗のようだったが、店前にはちょっとしたベンチやカウンターがあり、多数のぷりぷりのギャルたちで賑わっていた。気になるものの、混んでいるからいやだなあ……と思っていると、ふと彼女たちがなにやら専用の台座の上に購入物を置き、その隣にちいさな似姿たちを並べて写真を撮っているようすが窺えて、われは立ち止まる。なんとみんな、多種多様の似姿を持っているではないか。われは思わず、そんな彼女らの背中に「あのう」と呼びかけた。するとカラフルな化粧をした彼女らはこちらを怪訝そうに振り返る。
「ええと、それは、どういう儀式ですか? その、われも、ちいさい似姿を持っているので、気になりました……」
途中から少し気恥ずかしくなって、声が小さくなる。しかし彼女らは親切なことにも、「これはぬい撮りだよ」と教えてくれた。なんでもお気に入りの似姿を外に持ち出し、色々なスポットで写真を撮ることで、あたかも『似姿が世を冒険している』かのように認識し、可愛く感じる行動なのだとか。そういう彼女たちの提げる鞄には、似姿専用の容器がぶら下げられており、そこに収められたちいさな似姿らも、透明な窓のある空間から世界を眺めてニコニコしているようだった。
「たまに専用の撮影ブースを用意してくれるお店があるんだよ」
そう言って、彼女らのうちひとりが先ほどまで撮影をしていた台座を指して教えてくれる。なるほど、似姿族歓迎の店なのだろう。
「それでね、隣の店でぬい関係のグッズも売ってるんだよ。このケースとか、このカチューシャとかも、そこで買ったの」
彼女の言う隣の店に視線を向けると、ショウウィンドウの奥ではなにやらこまごまとした雑貨を扱っていることが窺えた。こちらもまたちいさな店舗だが、タピオカの店と中で繋がっているようにも見えるので、同じオーナーがやっている店なのかもしれない。
「ええと、いろいろ教えてくれてありがとうございました。気になるので、行ってみるね」
「うん。推し活楽しんでねー」
気持ちよく手を振って別れた彼女らの背中を見送りながら、『推し活』なるものがなんなのかを考えていると、それまでわれを静観していたらしいスティルマンが、「パイロットにも色々買おうか」と肩を叩いてくれた。われは嬉しさのあまり、「うん!」と普段よりおおきな声で頷くと、まずは雑貨を扱う店に入った。
黄色いドアが可愛らしいその店に入ると、中は三、四メートルほどの奥行きをした廊下といったような狭さだった。その壁に取り付けられたラックには、たくさんのちいさな雑貨がかけられており、それらの種類の豊富さにわれは圧倒された。ちいさいから、たくさん並べられるのだ! と気づくと、ここがなんだか広大な城のように思える。
「ゆっくり見ろよ」
そう言うスティルマンは、服の入った袋のせいで少し窮屈そうだったが、隣の店と中でくっついているらしい空間の出窓から顔を出した店員に、「ここに置いていいですよ」と会計台をの上を勧められたので、いくらか身軽になったようだ。
そうしてふたりで色々と眺めていると、われは飛行機のかたちをしたケースを見つけた。ぷっくりと簡略化された輪郭がかわいらしく、これならパイロットにもぴったりである。するとスティルマンも「いいの見つけたじゃないか」と言ってくれたので、購入することに決めた。それからスティルマンが候補に挙げたちいさなヘルメットとサングラスを持って、会計機に向かう。
「待て、俺が払う」
そんな彼の申し出をわれは、
「ううん。サイアノもわれのものを買うから、われもパイロットのものを買うんだよ」
と断り、シャッターの診療所で労働をして貯めたお金で支払った。最近はサイアノが仕事に出ることが増えたので、もう随分と貯まっていたのだ。それからその場で買ったものを開封し、パイロットに装備させる。ああ、なんて勇ましいのだろう! 飛行機に乗り込んだ彼はまさに宇宙にまで飛び立ってゆけるほど「いいね」だった。
「ほう、なかなかイカしてるじゃないか」
「だよね。すごい、素敵だよパイロット……」
一段といい感じになった彼を手に、今度はタピオカの店に移動する。するとなにやら『推し色』という配色を打ち出したフレーバーが大々的に宣伝されていたので、よくわからないなりに似姿の色に近いもののことをいうのだと理解し、白色を表現した『杏仁ミルクヨーグルト』を選んだ。一方、スティルマンは橙色を表現した『マンゴーピンクグレープフルーツ』を選んだので、われは思わず彼を振り返った。「そんな目をするなよ。恥ずかしいだろ」「ちがうよ、いいねの目だよ」「それは、うん、どうも……」
受け取り口でドリンクを貰って、カウンターに設置された撮影台の上にカップと飛行機に搭乗したパイロットを並べる。その台座の上からはキラキラとした星型のオーナメントがぶら下げられており、まるで「タピオカの星、発見」のようですばらしい。なんて物語のある画なのだろうか! われは夢中でスマホカメラのシャッターを切った。そのうち最もよく撮れたと自負する一枚を、四人共有のリトルネロのトークルーム『イツメン』に送る。それから、われの様子をタピオカを飲みながら眺めていたスティルマンを振り返り、インカメラで一緒に一枚。それもトークルームに送信し、「おしいろ、というやつなんだって」と添えた。すると震えたスマホを取り出した彼が、「あっ、こら、クラク!」と焦った様子でこちらを睨んでくる。直後にトークルームにはサイアノから「最高」と送られてきて、その数十秒後にはシャッターからなんとも言えない顔をした蛇のキャラクターのスタンプが送られてきた。顔を上げると、スティルマンは顔を真っ赤にして震えているようだったが、われが「みんないいねって言ってるね」と解釈を共有すると、「そうだな。そうに違いない」と眉を下げて微笑んだ。
それからスティルマンが自宅まで送り届けてくれた。少し前に帰宅していたらしいサイアノが玄関先まで出てきて「推し色いいねえ」と茶化せば、彼は「いいだろ?」と受け流す。そして「いいことあったか?」「昼に入った飯屋でおかずオマケしてもらった」と、なにやらふたりのお決まりの挨拶であるらしいやりとりをする。
「手続きは終わったから、あとはお前が面倒見てやれ」
そう締め括って、スティルマンはサイアノの肩を叩き、踵を返した。その背中に「きょうは、楽しかったよ! ばいばい!」と手を振ると、彼は手を挙げて返してくれた。それから部屋に入って、今日の手続きで獲得したカードを見せびらかすと、サイアノは「オマエ、ほんとにカワイイな……」とわれの写真を見て呟いた。スティルマンと同じ反応である。
「ねえ、サイアノも同じものを持っているときいたよ。みせてほしいんだよ」
われがそう請うと、彼は「あ? ちょっと待ってろ……」と言って、彼がいつも事務作業をしているデスクの抽斗を漁りはじめた。それからすぐに「あったあった」と漏らしながらわれに見つけたカードを手渡してくれる。写真を見てみると、いつもの顔半分を隠している彼ではなく、髪を纏めて顔がよく見えるようにしている彼が写っていた。この状態の彼とはお風呂でしか遭遇しないので、すこし珍しい。
「……かっこいい」
われがそう呟くと、サイアノは「なんだよいきなり」とちいさく言って、すこし照れたようだった。
「いつもよりかっこいい」
「おい、蛇足だろそりゃ」
それまで頭を掻いていた彼のおおきな手が、われを捕まえる。そしてあっという間に肩に担がれ、ベッドに放られた。これはセックスというのをするやつだなと雰囲気を察しながら、手にしていたサイアノのカードをなんとなしに裏返す。するとそこには見慣れぬマークがあった。
「ん、回潮・テセラのマークじゃないよ」
われがそう指摘すると、サイアノは上着を脱ぎながら、
「ああ、こっちに来る前は上のテセラにいたんだ」
と言って、それからカードを受け取った。
「へえ、お引越しをしてきたんだね」
「まあな。スティルマンやシャッターと違ってオレは身軽だし……オマエがその気ならどこへでも行くさ」
「ちがうよ、サイアノ。われとサイアノは、一緒にすみよいところを探すんだよ」
われの言葉に、サイアノは吐息だけで「そうだな」と発してどこか心細げに微笑すると、われの右の涙ぼくろにキスをした。彼の肌や髪からはシャンプーやソープの熱感あるいい匂いがして、われが帰る前に風呂に入ったのだろうということが窺える。つまりそれは汗だくになったり血塗れになったりして、『仕事が大変だった』という証左にほかならない。だから多少感傷的になるのも当然のことであるし、われはそれを許容する。
「おつかれさま」
思うに、サイアノはすこしよわい。なぜだかときたま、そう感じるのだ。
われは手を伸ばし、彼の左右非対称に刈られた髪の、長く垂れているところをそっと掻き上げる。すると夕映えの色をした虹彩と藍銅鉱のような瞳孔がもう一組露わになり、たいへん得をした気分になった。これは落日の海の借景。とてもよいものだ。われだけがこんなに近くで、二倍お得なのだった。このお得な気分でサイアノを抱き締めるとき、われはなんだかひとまわりもふたまわりも大きくなったかのような心地になる。われの腕に、彼の巨躯をまるごとぜんぶ収めた感覚がするのである。
事が終わってからそのまま寝落ちてしまった彼の寝顔を覗き見る。疲弊に開く口をえいやと閉じてやり、その薄い唇を指でひっぱってしばらく遊んでから、風呂に入ろうと起き上がると、サイアノは眠ったまま、われの肩を捕まえてその胸にぐっと抱き込んだ。「羽が折れちゃうんだよ」と小声で訴えても、聞こえてはいない。しかし彼がわれの羽を折ることはないので、われはちょっと肩甲骨を捩って位置を整え、そこに落ち着いた。彼の肌は、めっぽう熱い。熱いから、血潮が香り立ってすばらしくいい匂いがする。
「あついよー……」
彼の汗でつめたく湿った肉体は、われの羽に触れるとよく蒸れた。羽毛では弾くことのできない、細かな水分である。しかしこれがどうにも不快でないのは、われがサイアノと契約しているからだろうか。とはいえ、不快でないことと暑いというのは共立する。彼の胸に押しつけられた羽になんとか通気したくて肩甲骨を寄せていると、耳の後ろから「はっ」と短い声がした。
「やべ、寝てた……」
どうやら彼の午睡は意図したものではなかったらしい。少し甘い声でそう漏らしたサイアノは、そこでまた更にわれをぐっと抱き込むと、背中を丸めて筋肉を伸ばしたようだった。
「ごめん、腹減ったか? シャワー浴びるか」
「まだ空腹ではないよ。タピオカを喫したからね。シャワーは浴びたいよ」
すると彼は、われを抱えたまま「よし」と勢いづいて起き上がった。そして「今日は祝いだな」とにっかり笑って、われの手を引く。
それから家の前の明天再聊・ストリートに出てゆき、すこし前にできたというポルトガル料理なるものを扱う店に入ってみた。オオヤマネコ種だという大柄の店主は気のよい豪快な人柄のようだったが、カウンターテーブル内の省スペースな厨房で小さくなって調理している姿はなんだか可愛らしかった。店はこぢんまりとしていて、テーブル席がふたつとカウンターが四席。見た限り、彼ひとりで回しているようだ。
ポートワインで乾杯し、料理をいくつか頼んだ。カルネ・ジ・ポルコ・ア・アレンテジャーナ(豚とアサリのアレンテージョ風)という名の炒め料理は、サイアノがごろごろとした豚肉を食べ、われがアサリをちゅっとやった。バカリャウ・コン・ナタシュ(タラのグラタン)は塩漬けのタラがクリームとよく合っておいしかった。アロース・デ・ポルヴォ(タコご飯)は、シンプルな調理をしているようだったが、われはかなりスキだった。スプーンでねっちりと炊き上げられた米をむちむちと食べていると、不意にサイアノが頬杖をついてわれの顔をじっと見つめていることに気がついた。その眼差しに首を傾げて返せば、彼は口角をにゅっと持ち上げ、「カワイイなあオマエ」としみじみ漏らし、それから欠伸を噛み殺したようだった。やはり、彼は疲れているようだ。われは最近、サイアノが仕事をより多く入れていることを、なんとなく察している。
「カワイイ、は、そうかもしれないね」
われがそう返事をすると、彼は「お、強気だな」と眉を持ち上げた。
「だって、スティルマンもライセンスカードの写真を見てそう言っていたよ。それに、前にシャッターも言っていた。つまり、われのまわりの三人中三人がそう言っているのだから、それはたぶんカワイイということなんだよ」
われの披露した見立てに、サイアノは少し呆れたふうに、
「あー、自分の名前をカワイイだと思ってる犬猫みたいなことか……」
と、上げた眉を下げる。
「うん? まちがっている?」
「いいや、間違っちゃいないな。どうか、そのままでいてくれ」
どうかそのままでいてくれ。その言葉を一度反芻し、飲み込んでみる。すると喉のあたりがうっと詰まって、われはそれを想像上でからんと吐き出した。味が合わないと感じたのだ。だから主張する。
「それはむつかしいね。われは変わってゆくから」と。
するとサイアノは目を丸くしたかと思えば、「はっ」という高い声を皮切りに笑いはじめた。そうだな、と合間に挟みつつ。
「オマエ、こっちに来て自分が変わった実感はあるか?」
「あるよ。人の考えていることや気持ちを……想像できるようになったと思うよ。それは、いろんな人とお話してみたり、本をたくさん読んでいるからかも。でも、人の気持ちを想像できるということと、それが真実なのだと決めつけることは違うね。これは、ずっとわかっているよ。その点、人のことはわからないというわれのなかの前提は、揺らいでいないことになるかな」
問われた通りに所見の一端を述べると、サイアノは嬉しそうににんまりと笑った。それは得意顔といってもいいような意気のあるもので、それを受けてわれも若干、嬉しいような心地になる。サイアノが嬉しそうだとわれも嬉しい。ときたま連鎖するこの心模様が、われには不思議でならないが、悪い気はしなかった。だからこそ、嬉しみ以外の感情も共振できるのではないかと、われは切り出す。
「サイアノは最近、なにが不安なの?」
すると彼は一瞬、表情を消した。それから卓上でぼんやりと手遊びをしつつ、思考を声にして聞かせてくれる。
「不安か……言語化されるとビビるな」
ビビる。そうは言っているものの、彼の声はゆったりと静かだった。
「その気持ちを言語化していなかったってこと?」
「そうだな。向き合うのが嫌だったからな」
「どうして?」
「身勝手だとわかっているから」
その俯き加減の眼差しは、窓際に寄せられたワイングラスに向けられているのに、なぜかわれに向けられているような気がした。
「身勝手?」
われは首を傾げる。すると彼は、
「……オレは、オマエが可愛いんだ」
と、切り出すように言って、組んだ手指とともに卓上で距離を詰めてきた。
「そうだろうね」われは頷く。
「そうだよ。だから、オマエに怪我してほしくない」
「んん? それはありがとう。それがサイアノの順接なんだろうね。カワイイと、怪我をしてほしくないが、まっすぐに、つながる」
われが指でポイントツーポイントを表現すると、サイアノは「ああ」と頷いた。
「だから本当は……ハンターになんかなってほしくないんだ」
ポイントが、もうひとつ増えた。これでは手が足りない。われは引っ込めた手で、おしぼりをくちゃくちゃと握る。
「んん? でもサイアノは、事業者登録をしてもいいって言ってたし、その申請のために手続きに明るいスティルマンを呼んでくれたよね?」
「そうだよ。だから、身勝手だって言ってるんだ。自覚、してるよ……。オレもずっと、自分は単純だとばかり思っていたから、自分の身勝手さに自分で困ってるんだ」
彼は長いほうの髪をくちゃりと揉む。われとおそろいの動きだ。
「気持ちというのは、だいたい身勝手だよ。だから身勝手であることは怒らないよ。でもどうしてそう思ったの?」
「……ハンターになると、どうしても身を危険に晒すことになる。場合によっては、心もだ」
「それは、そういう仕事だから、当然だと思うけれど……」
「そうだよ。だから、反対しなかった手前、オレの中でケリをつけなきゃいけない気持ちなんだ。オレはそれをまだ、抱えてる」
つまり、サイアノはわれのことで思い悩んでいるのだ。
「だから最近仕事増やして……余計なことを考えないようにしたり、この仕事も結構悪くないって思いたかったり、してる。あとはオレがもっと沢山働いて稼げばオマエが働かなくてすむかなとも思ったり」
「……いろいろ、試行しているんだね」
「まあな。でも仕事詰めても余計なことってのは案外考えられちまうモンだし、結構悪くないと思いたくてもバケモン相手の仕事とか汚れ仕事ばっかりだし、オマエはそもそもあんま金かかんねえし。驚くわ。もっとなんか欲しがれって。……オレひとりならなんとも思わないのに、オマエといると色々難しいよ。自分が難しくなる」
「自分が、難しくなる……」
われにも、自分が難しかったことは、ある。この身に覚えのある感覚に、われのからだはぎゅっと縮こまるようだ。われもそんな気持ちに『ケリ』をつけるために、様々な本を読み、色々と観察をしてきたわけだが、まだ成ってはいない。まだ、『上に相談』している段階なのだ。
「あ、別れたいって意味じゃないぞ。いや、別れるもなにも、アレか……」
「アレって?」
「いや。なんでもない。……でも、オマエはもう事業者登録しちまったわけだし、止められないのはわかってる。短い付き合いだが、オマエがオレのこういう懊悩を理解するタイプだとも思わないし、そうしてもほしくない。だから、うん……そうだな。聞いてくれてありがとな。ちょっと軽くなったよ」
そう締め括って、サイアノは残りのワインを飲み干すと、「デザート食うか?」と壁掛けのメニューを指した。デザートというのは、甘味だ。甘味は好きであるから、われは喜んでメニューをぢっと見る。するとカウンターの奥から店主が出てきて、壁からメニューを外して近くまで持ってきてくれると、それを引き寄せた別卓の椅子に立てかけてくれた。
「まだ見ぬおいしいやつがいいな」
われは上着の中で羽を躍らせる。
「つめたいのとあたたかいの、どっちがいい?」
店主がそう声をかけてくれたので、われは「つめたいのがいい」と答える。すると彼は「ちょっと待っててな」と言って、のっしのっしとカウンターの中に戻ると、なにやらちょいちょいと作業をしたあとデザートの乗ったサンデーグラスとコーヒーを持ってきてくれた。
「ドス・ダ・カーザっていうんだ。砕いたクッキーの上に、甘いソースをかけてあってな。基本の型はあるが店によってレシピが違うんだ」
そう教えてくれた彼に、「へえ、おいしそう。食べてみるね」と返し、われはスプーンを手に取る。そしていざ食べようとしたとき、われはふと思い立って店主に訊ねた。「あの、似姿と写真を撮ってもいいですか」
「似姿……?」店主はその太い首を傾げる。
「ああ、ぬいぐるみって意味だ」サイアノが食後のコーヒーを飲みながら補ってくれる。
「ああ、若い子がよくやるやつか。いいよ。いい感じに撮ってくれ」
笑って許してくれた彼に礼を言って、われは鞄にぶら下げていた飛行機型のケースを外し、新しいおしぼりで拭いてからグラスに寄せた。それから、スマホでパシャリと写真を撮る。「ドス・ダ・カーザの星、発見」だ!
「うーん、いいねいいね……」われはパイロットを元の位置に戻すと、改めてスプーンを手に取り、クリームの上にその先端を挿し込む。柔らかい手応えだが、中腹にはしゃりりとした手応えがあった。そうして掬い取ったひと匙ぶんを口に運ぶと、まずまったりとした甘さがあった。生クリームの下のソースはコンデンスミルクっぽい風味。その下にはソースを吸って柔らかくなったクッキー。それから底のほうにある薄黄色いムースからは、バニラと少し柑橘の香りがした。派手なところはないが、食感には統一性と意外性が混在して面白く、かつ素朴でしみじみおいしい。
「うん。おいしい。いいねだね」
われが親指を立てて店主を見上げると、彼は「そうかい、ありがとな」と笑って、客の帰ったカウンター席の片付けをはじめた。
「ところで、サイアノはわれの仕事についてきたらいいと思うよ」
残りのドス・ダ・カーザをつつきながらわれがそう言うと、コーヒーカップを傾けていたサイアノは唐突にその中身を噴き出した。そして「いきなりなんだよな」と漏らし、汚した部分をナプキンで拭き取っている。
「われが心配であるのなら、心配じゃなくしたらいいと思うよ。心配っていうのは、心がざわざわすることでしょう。ずっとざわざわしていたら、きっと苦しいよ。ざわざわしながら仕事をするより、ざわざわしないための仕事をしたらいいんだよ。……どうかな?」
われの提案に、サイアノは「オマエって身勝手だよな……」と眉間をぎゅっと寄せて漏らしたあと、「でもまあ、オレも身勝手だしな」とそのままの眉で笑って、なにか納得したようだ。
「見ていてくれる?」
われはぴょんと椅子から立ち上がって、彼の目の前に顔を突き出す。
「わかったよ」
サイアノは座れ、と手で表現しながらも、そう答えてくれた。
「ありがとう。生きているっていうのは、誰かに生きているところを、見ていてもらうことだからね。われ、生きてるね。われもサイアノのこと、見ているね」
椅子に戻りながらそう言うと、彼は目を丸くして黙り込んだ。またわれが由来の沈黙である。しかしなすすべのないわれは、そのうちにドス・ダ・カーザを食べ切ってしまおうと、スプーンを動かす。
「オマエって、なんかすでに完璧だな……」
なにか眩しいものを見るかのように目を細めたサイアノは、そこでようやく彼の分も用意されていたおそろいのデザートにスプーンを入れた。彼の鋭い歯列の奥にふるふるのクリームが消えてゆくのを眺めながら、われは呟く。
「われは、完璧じゃないよ。生きているものというのは、おしなべて、完璧じゃない」
「そうか?」サイアノは手元を見ながらそう相槌を打つ。「たとえば我らがリシュヴェリ王なんかは完璧だろ。あんなに美人で、カリスマ性もあって、お優しいしな。臣民に対する深い愛と洞察もある」
「……其は、GOATかもしれないけれど、それと完璧であることは違うんだよ」
さいこうけっさく。だからといって、生きてゆく許可を世界からもらえるわけじゃない。払う犠牲の多寡で、愛や尊さは測れないのだ。ゆえに、痛いばかりの人生だからといって報われるかどうかについては、なにものも担保してくれない。であれば、ひと思いに世界に対して冷たく生きてもよいのではないか、そのほうが楽なのではないかと、われは疑ってしまう。ついついそれについて思考してしまう。考察してしまう。それ及び、かなしい王さまについて。かなしい王子さまについて。
「そういう哲学を持っていること自体、オレには眩しいよ」
サイアノの言葉に、われは顔を上げる。
「オマエは、オレの中では一番完璧。に、近い。それが、誰かを見ていたいってことだろ。目を離せないってことだろ。それとも、それじゃダメか?」
いい見解だ。われはまたしても椅子からぴょんと立ち上がりたい衝動を堪えて、おんなじ熱の見解で返す。
「サイアノって」
「うん?」
「われのこと、すごく好きだね」
「おう……」
サイアノは、恐らく同意を示した。そうして彼は少し焦ったようにドス・ダ・カーザをかき込むと、カウンターの内側で微笑みながら作業をしていた店主に、「勘定頼む」と手を挙げ呼びかける。
その後、席での会計が済み、タブレット端末を手にこちらに背を向けた店主の肩越しに、われは額装された事業者登録証明が壁に掛けてあるのを見つけた。思わず「あの!」と声を上げたわれは、急いでボディバッグを身につけると、怪訝そうにしながらも立ち止まってくれていた彼に、「事業者ライセンス、見せてください!」と食いついた。
「えっ、覆面調査員とかかい……?」
そう言って驚いた様子で固まる彼にサイアノが、
「ああ、ただ見たいだけなんだ。保健所でも税務調査でもなんでもねえよ」
と、説明をしてくれる。
「そうなんだよ。悪いことやずるいことは、なんにもしないんだよ」
われが補足を重ねると、店主は「別にいいが……なにも面白いものじゃないだろうに……」漏らしつつも、われにおいでと手招きをしてくれた。そうして業務用タブレットの定位置であろう、入口の隣に会計台のように配置されたキャビネットと壁のあいだのスペースにわれを入れてくれると、いくらか高い位置にあった額を外して、われに手渡してくれた。
「おお……ふつう……」
食品衛生管理に関する書類と一緒に収められたそれは、ごく普通のライセンスカードだった。しかしわれはごく普通であることを確かめたくてこれを見たがったのだから、本懐は遂げられたことになる。額装されているため写真とコードのある面しか見られないが、写真の中で店主は真面目な顔をして、顎を引いて、顔がよく見えるように写っていた。撮影の際にわれに出された指示の通りである。写真うつりが悪いなんてことはない。
「お嬢ちゃん、どうして見たかったんだい」
そう言ってわれから返却された額を壁に戻しながら、店主はそう問うてきた。なので覆面調査員ではないわれは素直に答える。
「われもきょう、ライセンスを貰ったんだよ。だから他の人のが、どんなものかと気になったから、見て回ることにしたんだよ」
「へえ、お嬢ちゃんはどういう事業形態なんだい」
「われは、ハンターだよ!」
なんだか誇らしくって、胸を叩きながらそう宣言した。すると彼は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしたが、すぐに繕うような咳払いをすると、「へえ、立派なモンだなあ」と腕を組んだ。
「なにかあったら、われに言ってね。なんでもお手伝い、しますから」
われの言葉にサイアノが、
「オマエ、なんでも屋じゃねえんだから」
と指摘してくるが、われはめげない。
「われ、期待の新人なんだよ。だから草の根活動が、大事。これはビジネス書にも書いてありました。期待の新人なので、まずはなんでもやって、知名度を上げて、それから仕事を選ぶんだよ」
「おう……マネジメントちゃんとしてるじゃねえか……」
サイアノも褒めてくれたことなので、われは店主に「ほんとうにぴちぴちなので、名刺もまだないんだよ。だからこれは、レアだよ」と言いながら、ナプキンに名前と連絡先、それからパイロットの絵を書いて手渡す。すると彼は笑顔で、「ありがとう、クラクちゃん」と書いた名前を読み上げてくれた。
「うん。またくるね。おいしかったよ、イニシオ」
われもライセンスに書いてあった名前を呼んでそう返すと、その新規オープンのポルトガル料理店『アテロゴ』の店主は白い歯を見せてにっかり笑ってくれた。
*
光輪保持者。それは簡単に言えば超上位種のことである。王種や神獣、或いは天使などがこれに該当する。それらの中で抜群の知名度を誇るのが、我らが『王』であられるリシュヴェリ陛下だ。普段流通している議会誌上ではたいへん愛らしい笑顔を見せてくれている其であるが、儀式で撮られた写真などでは、見る者に畏怖の念を抱かせるような神秘あるヘイローを冠している。写真越しにも肌を刺して伝わるそのかがやきは、まさに威光と呼ぶに相応しい。
ゆえにヘイローホルダーというのは、其にこそ数段劣るとしても、皆が皆、凄まじい生物強度をしているのだと認識していた。……しかし。
「へあ、へあ、サイアノー……われ、もう、お膝が、お膝が笑っちゃうよ……! ケラケラだよー……! ん、いや、ガハハかも……」
クラクは、体力ザコだった。
「ハンターじゃなくお花屋さんとかだろ。オマエが目指すべきは」
地面にへたり込んで息を切らしているクラクに近寄ってそう言ってやると、彼女は、
「お花屋さんは、体力勝負だよ……なめては、いけないよ……」
と、謎の注釈を入れるために浅い呼吸を中断し、そのせいで噎せた。
「はいはい。ほら、水飲め」
へばっている彼女に蓋を開けた水のボトルを手渡すと、「こあっ」と水を喉に詰まらせ、また盛大に噎せる。ぜえぜえと鳴る背中がなんとも哀れで、オレは膝を折ってその背中を擦った。羽を巻き込まないように、気を遣いながら。
本格的にハンターの仕事を開始する前に、オレは軽く業務指導でもしてやるつもりでクラクをインサイドへと連れ出していた。事前に申請を出さずとも、身分章のタッチひとつでインサイドに出られるのがホルダーの特権のひとつだ(一人まで同行可能である)。テセラ内の市街地では能力使用禁止であったり戦闘行為禁止だったりするところが多いので、そういった制限がまるっきりない場所に出てきたわけだが、そこでちょっとした準備運動がてらクラクに、「オレに一発当ててみろ」と促した結果がこれだ。彼女は十分もしないうちに音を上げ、水を喉に詰まらせるほど息を乱している。
「クラク……あんま言いたかねえが、オマエ、ハンター向いてないんじゃねえか」
「それ、こころ、鬼……?」
「そうだな、鬼にしてるな」
撫でる背越しに伝わるその骨の浮きよう。からだの薄さ。彼女が外見通りの虚弱さをしているらしいことには、対峙してすぐに察した。外見が強さに影響しないため、見た目で練度を判断しない傾向にあるオレたち人外族であるが、それにしたってクラクはあまりにも『まんま』で弱すぎる。最初こそちいさな拳を作って「ホアチョなんだよ!」と意気込んでいたクラクだったが、オレがさっと避ければへにゃりと体幹を崩すし、「えい!」と繰り出す拳は羽根みたいに軽かった。オレは途中から、「もしかしてコレ、ヤバいんじゃねえのか」と固唾を飲み彼女の動きに合わせていたが、すぐに見ていられなくなり、中断しようとしたタイミングで彼女は座り込んだのだ。
「オマエ、ヘイローホルダーだろ……なんかもっと、こう、ねえのかよ……」
「ううう……こんなはずでは……」
「こんなはずってなんだよ。ナーフでもされたのかよ」
「そう……ナーフ、なんだよ……」
「はいはい。てかオマエ、元々武器とか持ってなかったし、明らかに戦闘不得意そうだしな……」
オレもまさかここまでクラクのフィジカルが弱いとは思っておらず、どうしたものかと困惑しながら、動き回って乱れた彼女の上着を整えてやる。するといつも通り、その体躯に不釣り合いな乳房にファスナーが一度引っかかり、そこでオレはとある可能性に思い当たった。
「オマエ、魔法攻撃のほうが得意なんじゃないのか?」
人外族は、肉体の各所に通じる帯状の回路の他に、髪と乳房に魔力を溜めておくことができる。なので戦う個体は髪を伸ばしていることが多いし、性差として女性体は男性体に魔力量で勝るのだ。かく言うオレにも、胸の大きな女は強そうで魅力的だと思う感性がある。大は小を兼ねるし、大というのは大概セクシーだ。
「む……やってみる……」
いくらか呼吸も落ち着いたのか、クラクは頷いて立ち上がる。そのふらつく身体を即座に支えてから、オレは先ほどと同じように彼女と対峙した。三メートルほどの距離を取り、出方を窺っていると、ふとクラクは「あの、上着、脱いでいい?」とまだ喉が辛そうな声で言った。
「ん……? まあ、誰も来ねえだろうし、少しならいいぞ」
そうして彼女が上着を脱ぐのを待つ。あらわになるのはいつ見ても綺麗で、それでいてムカつく羽だ。無性に腹が減る。
「うん……動きやすい」
「そりゃあ、なにより」
そうしてクラクは体勢を整えると、「たぶんだいじょうぶ」と言って、それから。一瞬にして俺の懐に突っ込んできた。瞬時に戦闘モードへのスイッチが入ったオレは、なんの攻撃がくるかもわからないまま、ギリギリのところでその未知の一撃を防ごうとする。そんなオレの腕に、しゃがむような姿勢のクラクが両足の裏を押しつけ、ぴたりと密着してきたが、衝撃の予測が空振りするほどに軽い。このまま押し戻すか。いや、「えい!」の拳なら多少魔力バフがあったとて受け切れる。ではここで一撃貰ってやろうか。
しかし俺は、魔法攻撃と言ったはずである。であれば、拳なんてくるはずがなくて──
この判断は、クラクが飛びついてきてからコンマ一秒以下の内に行われたはずだ。しかし俺が次の行動に移るより前に、その膝のあいだから覗いたクラクの人差し指が、オレを指す。直後、衝撃。オレはほぼ反射でその一撃を受け止めた勢いで、自らの防御に引いた腕で顔面を強打した。そうしてそのまま後方へ吹っ飛ばされる。視界の処理としては、足裏、指、ダイヤモンドスパーク、オレの腕、しっちゃかめっちゃかな上下左右。……転がりゆく身体が壁際で止まると、まだなにが起こったのかわからず、頭上にマジのピヨピヨがループしているオレの視界に、こちらを見下ろすクラクの姿が映った。
「サイアノ、油断はよくない」
そう言い放つ彼女の声は普段通りのトーン。しかし俺は、本能に訴えかけてくるような脅威を感じ取っていた。
「われはサイアノが受けとめきれると想定していたよ。でも油断されるなんて思っていなかった」
これはなんだ? なんの属性攻撃だった? あのスパークは、大きさにして弾丸の一発がはじけた程度の光。クラクの言う通り、オレが吹っ飛んだのは『油断分』だ。生存本能が必死に分析をするが、身体は動かない。これは威力の問題ではない。地鳴りのような動悸。しかし負傷は鼻血程度で軽微。なのに、自由がきかない。──この感覚は、恐怖だ。このオレが、恐怖で動けないだと?
「サイアノ、『んなわけねえだろ』って言って」
脳にりんと響く声だ。視界はクリアなのに、あのときと同じようにスピってる眉間。ぼやぼやと感覚にライトリークがかかる。自然と、口が開く。
「んなわけ、ねえだろ……!」
すると、途端に身体の奥から活力が湧いてきて、オレは仰臥していた身体を起こし、壁に凭れて座り込んだ。鼻血が服に垂れる。
「うう、サイアノ、痛かった……? ごめんね」
クラクがしゃがみ込んでオレと視線を合わせてきた。それから彼女が差し出してきた手に頬を寄せると、その瞬間に鼻血が止まった感覚があり、痛みも引いた。なるほど、これが主従契約の恩恵か。
「オマエ、ヘイスト使えんのかよ……!」
一気に『普段通り』の感覚が戻ってくる。オレが「言えや」と彼女を小突くと、クラクは「聞かれてないからね」と笑って、オレの隣に腰を下ろした。オレはアームカバーで鼻血を拭うと、腰から提げていた水のボトルを開けて飲んだ。水分が喉から胃に落ちる頃には、もうすっかり動悸は治まっている。
「あのね、さっきのやつが精いっぱいみたいなんだよ」
クラクはちいさな膝を抱え、前後に揺れながらそう口にする。それはなんだか拗ねているかのようなニュアンスで、その情緒の由来を発見できずにいるオレはただ、「おう」と相槌を打つことしかできない。
「われ、これで戦えるかなあ……」
「……速さは申し分ないと思うけどな」
「でもヘイストも、連発できなくなってる」
その不貞腐れたような言葉のニュアンスに、オレは昔はもっと自分の思うままに動けたことがあるのだろうと察する。しかし、今はなにも言えない。その心情の内訳は、同情半分、恐れ半分。ヘイローホルダーだと知っていたのに、オレは心のどこかでクラクがオレの手に負える存在であると想定してしまっていたのだ。だから攻撃を受けてやるだなんて思えてしまった。それが見当はずれだと体感し、なんというかオレはオレを恥に思う。謎のイキモノであるという前提を、彼女のシマエナガみたいなザコフォルムのせいで忘却しかけていたのだ。でもクラクは、思ったよりも得体が知れない。
「サイアノは、いつもどうやって戦っているの? あのばきゅんって感じの銛で、どうするの?」
きっとオレのひそかな懺悔や悔悛に、クラクは気づいていない。オレの腕に凭れかかって、ただ表情の変わらない目で靴先を眺めている。
「そりゃ、ばきゅんだ。あの銃で銛を射出して、敵に突き刺したり、距離を詰めるのに使ったり……オレの受ける依頼は大物が多いからな。臨機応変にやってるつもりだ」
オレはいま初めてクラクに己の仕事関係の話をしているような気がする。今まで仕事に関しては、「おつかれさま」と言われて「疲れた」と返事をするというような、上辺の会話しかしてこなかった。オレが、クラクにハンターになってほしくなかったから。もう少し話をしていれば、クラクはライセンス取得前に自分の現在の力量を把握でき、事前に対策を練れたかもしれないのに。
「臨機応変……いいね。いいねな言葉だ」
そう言ってクラクはオレを見上げると、「お水ちょうだい」と俺の手からボトルを引き抜いた。
「そのときになってみないと、わからないこともあるね。サイアノみたいに、わからないことに向き合ったときに、いろいろ選択肢を用意できるのって、すごいことだね」
「……そう、かもな」
「われは、想定外のことに、わりとびっくりしちゃうから。動けなくなっちゃうんだよ」
「そうなのか?」
「うん。それをどうにかしたくて、色々知ることで、自分で考えられるようになりたいなと、思うようになったんだよ。だからわれはわれの見解を、われなりに、サイアノの前で述べるんだよ。意見を交換こして、ときには虫相撲みたいにして、あたらしい可能性に気づきたいから」
「……そうか」クラクは、ほんとうによく、オレと対話をしてくれる。
お水もうないよ、とクラクが吐息で漏らすので、オレは「じゃあそろそろ帰るか」と立ち上がる。そして、「もういいの?」と遅れて起立する彼女の上着を拾って、着せてやった。
「オマエの強みはわかった。帰ってメシでも食いながら、それをどう生かすか考えよう。スティルマンとシャッターも誘ってな」
すると彼女はぴょんと跳ねてオレの手を取った。それからふたりで暗い帰路に就く。
スティルマンは月の約半分ほど街を留守にしている。彼とシャッターは診療所近くの物件で二人暮らしをしており、オレは普段あまり彼らの自宅付近には近寄らないようにしていた。回潮・テセラは天蓋(階層の天井部分)に夜空の投影をしているため、四六時中消えない街灯りを頼りに人々は思い思いのサイクルで生きており、それら常夜の雰囲気のせいか、カップルが『盛り上がっている』時間というのも分散しているのだ。流石に下ネタが大好物のオレも、不用意に親友カップルの住処に特攻して雰囲気をぶち壊しにしてしまいたくはないので、その点には心を砕いている。開拓に明け暮れるスティルマン同様に、シャッターも数少ない医者の立場として忙しく、ただでさえふたりでゆっくり過ごせる時間は限られているのだ。業務時間外では、ふたり静かに、しかしおおいに睦み合っていただきたい。……心から。
「きょうはシャッターには会いにいかない」
断定形と疑問形の狭間の発音でクラクはそう言って、それまで膝に抱えていた本から顔を上げた。その『自室』からの一言に、カウンターキッチンにいたオレは料理の下拵えをしていた手を止めて、「そうだな」と答える。きょう診療所は休診日で、かつスティルマンが帰ってきているはずだ。どうやらクラクも、なんとなくオレの意向を察してきているらしい。
「われがいない人生のあいだは、そういう日にはどうしてたの?」
われがいない人生のあいだ。その表現が可笑しくて、オレは鼻で笑ってしまいながら「まあ色々だよ」と答える。その内情の大半が女なんて、このちびシマエナガに言えるはずもない。かといって、クラクに丸一日『付き合え』と誘えもしないしで、ここのところオレがこのテセラに来てから整えてきた生活リズムは、乱れっぱなしだった。
「さみしかった?」
気づくとクラクは近くまで寄ってきており、彼女はそのままカウンターチェアに腰を下ろすと、「さわやかな香りだね」と身を乗り出してオレの手元を覗き込んできた。その、直前の問いかけをあまり重要視していない態度に、オレはなんだかいいなと歓心しながら「さみしかったかもな」と応じる。「そしてこれはライムだな。セビーチェを作ってるんだ」
「せ、び……また知らない料理だ。すごいね。料理って、たくさんある」
「そうだな。オマエも料理するか? あとは和えるだけだけどな」
「してみる」
クラクは短く返事をすると、カウンターを回り込んでオレの隣にやってきた。オレは彼女と並んでライムの果汁を絞っていた手を洗うと、白より優しい色合いをした髪を纏めてやる。それから彼女にマリネの工程を説明してやったあと、空きスペースで同時進行していたロモ・サルタードも仕上げてしまおうと、フライパンを熱し、そこに調味料に漬けていた肉を投入する。するとそのタイミングで、インターフォンが鳴った。オレは火を止め、作業に熱中しているらしいクラクに「これには熱いから触るな。刃物もダメだ」と釘を刺してから、壁際のモニターへと向かう。……アポなしで誰かが家に来るだなんて、女だろうか。だとしたら普通に追い返すだけだが、揉めるだろうか。そんなことを考えながらモニターを覗き込むと、そこにはシャッターとスティルマンが映っていた。
「回潮市警だ!」
そんな組織はないのにそう大声で名乗り、スティルマンとシャッターは「ガサじゃコラ!」「はよ開けんかいコラ!」と強盗さながらにロックのかかったドアをガチャガチャと抉じ開けようとしてくる。それに「どっちがヤクザだよ!」と返して、オレはスイッチでドアを開錠した。すると室内にずかずかと入ってきた私服姿のふたりが鼻を効かせながら、「あ、いただきまーす」と滑らかに食う気でいることを示してきたので、オレは「ご予約のお客様ですかあ?」とガラ悪く絡んだ。「あ、初めてですう」「一見はグッバイ」「トモダチだろー? つれないこと言うなよ」スティルマンがそう言うと、シャッターが無言で素のまま掴んでいた酒瓶を差し出してくる。これはもう、酒盛りのパターンだ。
「オレは別にいいけど連絡入れろや。セックスしてたらどーすんだよ」
「構いやしないだろ」
「構うだろ。こっちは慮ってお宅に寄りつかないようにしてんのによ」
このコメントをするには、実は結構勇気が要った。オレは実のところ『イツメン』を、二人と一人にわかれていると捉えているからだ。
「なに、お前そういうの気にしてんのか? 馬鹿、来たらいいだろ。真っ最中だったら追い返すなり、『あと十分!』とか、返事は色々あるんだから」
さらりとオレのそこそこ溜め込んだ憂慮を受け流して、スティルマンはカウンターの内側にいるクラクに視線を向けると、「お、料理してるのか。偉いな」と彼女に笑いかける。するとクラクは、「料理の、せびを、しているんだよ」と得意げに言ってシリコンスプーンを掲げた。
それからオレがざっと料理を仕上げているあいだに、スティルマンとシャッターは勝手にグラスや氷を出してソファスペースに陣取っていた。そして勝手にモニターを起動し、「サイアノのー、視聴履歴を見てみたいー」と手拍子をして、ゲーム機のコントローラーで動画のサブスクリプションサービスを起動する。
「俺は最新履歴をスプラッターに賭けてた。ティルズはアダルトだっけか」「そうだ。さて結果は……おい、ヌンチャク・パンダかよ! クラクの仕業だな……というかこれ、結果どっちだ?」「クラクの総取りだろう」「だな。クラク、こっち来てスマホを出してくれ。キミの勝ちだ。小遣いをやろうな」
「おい、人の履歴で勝手に賭けんなや。てかオマエらなに? 酔ってんの?」
オレは勝手に盛り上がり、勝手に消沈するふたりの前に料理の皿を持って割り入り、コの字型に配置されたソファの奥に詰めろと蹴散らす。彼らからは既に酔っ払っているような気配はしないが、やけにハイテンションだ。もしかすると、一杯だけ引っかけてきたのか、それこそ盛り上がった余韻を引き摺っているのかもしれない。
そんな彼らからそれぞれ小遣いをもらって、「われ、ギャンブラーの才能があるかも」と漏らすクラクに、オレは「早計だよ!」をツッコミを入れる。今この場を締める役回りができるのは、深刻なことにもオレしかいなかった。
「はいはい、乾杯乾杯」
そう言って、彼らが持ってきてくれていたピスコのロックで乾杯をする。偶然にもきょうの料理と同じ国で生まれた酒だった。
「久々にサイアノの料理食ったなあ。やっぱ好きだなー」
たったさっき仕上げたロモ・サルタード(牛肉と野菜をアジア風の味付けで炒めたものに、フライドポテトを添えたものだ)を口にして、スティルマンはそんな感想を口にする。紳士的だと老若男女問わず慕われている彼だが、完全にオフの日だと態度が崩れる。それは昼休みに一緒に飯を食ったり、ふたりで仕事をするときよりも顕著だ。髪を撫でつけて職場のロゴ入りの衣服を身につけているときと、それを脱いでいるときだと気持ちの入り方が違うのだろう。
「前はいつだっけか、作ってくれたの。開拓先に来てくれたときか?」
「あー、そうかもな。大鍋掻き回したときだ。オマエら開拓者連中が雑過ぎるレーションとかばっか食ってんだもんよ。どうにも気の毒になってな」
「現場まで仕出しがあるわけでもないからなー。胃袋掴まれてるからアイツらオマエのこと気に入ってんだぞ。また来い。士気が上がる」
「依頼しろよ。直接な。ピンハネされたかねえ」
オレたちがそんな話をしている傍らで、シャッターとクラクは「これ、われが心をこめて和えたんだよ」「伝わってる。美味いよ」「やはり! さすがはお医者だね」「そうだ、お医者だからな」と、和やかに噛み合ってるんだか合ってないんだかよくわからない会話をしていた。ああ、やっぱり偶数はいいなと思いながら、オレはふたりが酒と一緒に持ってきたテイクアウェイのフライドチキンの封を開けた。
「で、今日はなんの用で来たんだよ」
「特にない」
「嘘吐け」
「半分嘘。前に言ってたモノが仕上がったから持ってきたんだ。別に今日じゃなくてもよかったんだが、まあ近くに来たし押しかけようと思ったのは本当だな」
オレの手にしたチキンをそのまま齧るスティルマンに、オレは半分複雑な気分で「そーかよ」と答えて、齧られたチキンを彼の皿の上に置く。それからウェットティッシュで手を拭いていると、スティルマンの視線がオレの顔に向けられていることに気づいたので、「なんだよ」と横目で答えた。
「いや。……そうだ、早いとこ渡さないとな。酔っ払って持ち帰りかねない」
そう言って彼は、ソファの背凭れにかけていた上着の懐からちいさな箱を取り出すと、それをクラクに手渡して、「開けてみろ」と促す。するとクラクは、一緒に渡された鍵を使ってその文庫サイズほどの箱を開けた。
そこには、ちいさな白いデリンジャーが入っていた。
「わ。銃だ」
クラクはそう言って、繊細な装飾の入ったそれを手に取る。オレが慌てて「あぶねえから人に向けんな」と注意すると、スティルマンは「まだ弾は入っていない」とオレをなだめて、続けた。
「けさ、マルチプライド・テセラに注文していたのが完成したって連絡が来てな。このあいだの駐屯の礼を渡しにいくついでに取りに行ったんだ。ついでに子どもたちとバスケもしてきたぞ」
「勝てたか?」
「無理だろ、チート技使いやがる」彼は腕を指して眉を持ち上げる。「オレもシャッターもまったく歯が立たなかった」
「シャッターも行ったのか」
「たまには散歩デートでもしないとな」
「あそこまで薄暗いだろ」
「薄暗いほうが盛り上がるだろ?」
「うーわ。うーわ」
「ティルズ」
そこで、シャッターがぴしゃりと恋人を呼んだ。クラクの前で余計なことを言うなという意だろう。途端に両手を挙げて口を噤むスティルマンを見て、オレが口の動きだけで「ワーオ」と茶化すと、すかさずシャッターが睨んできたので姿勢を正した。これ以上は拳が飛んでくることを、オレとスティルマンは身体で知っている。
「……で、だ。」スティルマンは手を叩く。「このあいだ聞いた話からして、クラクは羽を露出していないと魔力が使えない。そうだな?」
「うん。そうみたい。ちょっと試したんだよ」
クラクは頷く。このあいだ、インサイドから帰ってきたあと、俺たちはスティルマンにその日得た所見を伝えていた。それを聞いた彼はなにかじっと考えるような素振りを見せたあと「ちょっと持ち帰る。依頼を受けるのはそれからにしてくれ」と言ったのだ。
「──ハンターの仕事はインサイドだけでおこなわれるものでもないし、知らない奴らとチームを組むこともある。だから、いつでも羽を出しておけるわけじゃない。ということで、魔力充填式の銃を用意した。一発一発ストックできて、最大七発まで。まあ、一発使えばリロードもできるから装弾数をどう捉えるかは自由。クラクの筋力で扱うにはこれが妥当だと考えたわけだ。図面は俺が引いた。感謝しろよ、サイアノ」
オレのハープーン・ガンの図面を引いたのもスティルマンだ。現場で数々の機械を扱う彼ならではの特技である。
「ああ、ありがとな。いくらだ?」
「要らん。俺からの開業祝いだ。どうしてもというならクラクに本でも買ってやれ」
まっすぐに拒絶されたので、ここは引き下がった。クラクも「祝福だね!」と喜んでいるから、野暮は言えない。
「で、ボディベルトで肌に直接身につけていれば、収納している間にも回路越しにリロードできる仕組みを……」
そう補足するスティルマンの言葉を、クラクは止めた。
「なら、これがいいんだよ!」と。
その威勢のよい声に彼女を見遣ると、クラクは唐突に胸の谷間にデリンジャーを突っ込んだ。「ここなら隠しておけるし、ベルトは窮屈だからね!」……一抹の曇りもない超真顔で言われて、場は水を打ったように静まり返る。デリンジャーはむちゃくちゃ自然に、シンデレラフィットしていた。
「うん、いい感じ。スティルマン、ありがとうのあめあられなんだよ」
その言動に、スティルマンはすっと目を閉じ細かく頷き、オレは腕を組んで天井を仰ぐ。シャッターだけが真面目に、「汚れたらきちんと綺麗にしてからそこに収めろよ」と応対している。待て、決定したことにするな……と指摘したかったが、クラクが大発見とでもいいたげに胸を張っているので、オレからはもうなにも言えなかった。
「……ん、んん!」スティルマンはわざとらしい咳払いをして、話題の軌道修正をする。「とにかく、サイアノと一緒に戦い方を考えてくれ。俺たちだってキミに怪我をしてほしくはない。あと、攫われそうになったら遠慮なく使え。見た目は護身用だからな。相手も油断するだろ」
最後そう締め括った彼に向かってクラクは「わかった」と頷くと、羽をぱたぱたと動かしながらフライドチキンを手に取った。羽の生えているイキモノがフライドチキンを食べるさまはなんだかシュールだなと思いながら、彼女が除けた骨を回収していると、スティルマンが「世話焼きだな」と漏らす。するとシャッターが目を細めて「昔からだ」と呟いた。
「はいはい、そうですねー」
そう言って、唐突にスティルマンは立ち上がった。そして「クラク、一緒に酒を買いに行こう。あとツマミが足りない」と言って、クラクを促す。確かに、四人で飲んでいると酒の一本などすぐになくなるし、料理も二人分の分量(しかも、小食のクラクに配慮した二人分だ)だったので、皿にも余白が目立ってきていた。「いく! きょうは外に出ていないから、歩きたいんだよ」「よしよし、上着を羽織ってくれ」支度をする彼らに「迷子になんなよ」と声をかけると、ほぼ同時に「帰巣本能!」と声が上がる。
「お、おう……気をつけろよ」
「クラク、好きなものを買ってもらえ」
オレとシャッターが座ったまま見送っていると、彼らは「よし、階段は競争だ」だのなんだのと元気に外へ出てゆく。その背中に「競争すんな!」と注意を呼びかけて、ふたりが出て行ったのを確認してから息を吐く。それから皿を片づけようと余った料理を取り分けていると、シャッターがオレの名を呼んだので顔を上げた。
「お前、最近なにか悩んでいるふうだったが、大丈夫か」
思わぬ言葉に、オレは一瞬目を丸くするが「そう見えたかー?」と流す。「オレも老けたかな」
「見える」シャッターはいつも通りの真顔だ。「お前はそういうとき、わりと顔に出る」
「へえ。知らなかったぜ」
「お前のことをよく見ていればわかるさ」
「あー、なんかクラクにも似たようなこと聞かれたな。そうか、そんな顔に出てんのか。気をつけるよ」
すると、彼はいつもとは違うニュアンスの真顔になって、溜め息を吐いた。
「……サイアノ。俺には話せないか」
「ちげーよ。もういいんだ。クラクの適正問題はスティルマンが解決……とまではいかねえが、まあ糸口が掴めたしな。これでようやくぐっすり眠れるってモンだぜ。先生が気にするこたあない」
顔の前で手を振って否定すると、シャッターは「そうか」と相槌を打って、空いた皿とグラスを纏めるのを手伝ってくれた。そしていいと言っているのに洗い物を処理してくれている彼のそばで、オレは新しいグラスを用意しながら、問いかける。
「スティルマンは家事できるようになったかー?」と。たまに、そして定期的にする話題だ。
「いや……相変わらず座らせておくほうがマシなレベルだ。自分の世話すら雑なんだからもうとっくに期待はしていない」
一緒に暮らしているシャッターが言うのだから、本当に進歩がないのだろう。あの男は紳士だと持て囃されてはいるが、実のところとにかく雑で、生活能力が低い。働きぶりはちゃんとしているが、オフになるとからっきしなのだ。遠征中に会いに行けば髭は生やしっぱなしだし、メシや洗濯も適当。ランチに寄る金星飯店でいつも定食ばっかり食べているのも、単に栄養効率を気にするシャッターにそう言われているからだ。とんだ外面詐欺であるが、オレもシャッターも、そっちの顔の方が馴染み深い。今のスティルマン、いやオンのスティルマンは、シャッターがアスファルトを塗り込め整えた作品なのだ。しかもある意味で業務向けの、意匠のない工業製品である。
「アイツ、オマエがいて幸せだよなあ。綺麗好きだもんな。さすが医者」
「料理はそんなに得意ではないけどな」
「そうか? そいつがいつも食ってるってだけの味に文句言うやついないだろ」
「……お前って、ほんとうにそういうところは善だな」
シャッターは顔を上げてそう言うと、カウンターから出てきてグラスを運ぶのを手伝ってくれた。それから手持ち無沙汰に「ゲームでもするか」という話になり、格ゲーを起動し、ふたりで対戦をする。うちで飲むときにはこうしてゲームをすることも多いが、なんだか今日は昔が懐かしくなるような雰囲気があった。昔。ガキの頃。勝った奴が皆に菓子を奢るだのなんだの……そういう、あたたかいオレンジ色の記憶。
「なあ、いつ練習してんだよ? 強すぎだろ」
コマンドを可能な限り素早く連打しているのにもかかわらず、シャッターのキャラのコンボがハマって、オレはコントローラーからパッと手を離す。体力ゲージからしてK.O.確定だ。
「ケンカと同じだろ。ノリだ」
最後の一撃まで決め切って、シャッターは勝利エフェクトに軽くガッツポーズをする。にやりとする彼に、「さっすが拳だけ反社」と肩を竦めると、「なにか言ったか?」と軽く凄まれたので、「言ってないっす」と顔を背けた。そしてふたりどちらともなく笑いだし、小突きあう。しかしすぐに手を引っ込めて、「タバコ吸ってくる」と声をかけると、「吸えばいいだろ、お前の部屋なんだから」とローテーブルの下段に入っていた灰皿を出された。そう言われては断る理由もないので、電子タバコのスイッチを入れる。
「……クラクとはどうだ?」
なんだよいきなりと言いたい声は、煙に阻まれた。オレは、んーと間延びした声を発しながら、再度キャラ選択をする。お互い、次の試合で使うキャラも、さっきと同じ。三人ともお決まりの担当キャラというのがあって、これはいくら新キャラが増えようとも、対戦モードでは昔から変わらない。
「まあ、普通……? いや、仲は良いんだろうけど、アイツとはなんか『なかよし!』って雰囲気じゃないというか」
「ふ……そうだな。わかるよ」
その優しい相槌を受けた瞬間、オレはなぜだかスティルマンがわざと出て行ったのだと悟った。クラク抜きでゆっくりと話をさせたかったのだと。確かにこの組み合わせのこの感じ、懐かし度がブーストされているぞ! とコミカルに思いながら、オレはゆっくりと煙を吐く。
「あっさりとか、サバサバとか、そういう話でもねえんだよな、クラクって」
「そういう性質なんだろう。『われはわれ』だからな。でもお前は、甘えたいほうだろう」
「は? そんなことありませーん」
コントローラーを必死に操作しながら、オレは否定した。甘えたいということは、さみしいということだ。そんなザコムーブ、オレはしない。しかしあらゆる面でザコでないと喧伝したとしても、格ゲーではどうしてもシャッターには勝てなくて、オレは一側面ではかなりザコ。悔しいが、もうずっとそうなのだ。
「あーもうどうなってんだよ」
対戦はまたしても敗北。コントローラーを投げ出せば、シャッターは「壊すなよ」と笑ってオレの膝を叩いた。その感触がこそばゆくて大袈裟に身体が跳ねると、彼は「なにが怖いんだお前は」と笑顔のままの指摘してくる。「別になにも」と答える言葉もきっと信用されていないのだろうが、まあそれでもいい。
「サイアノ」
また不意に、名前を呼ばれる。
「なんだよ」
「謝らなくてすまない」
「すっげえ矛盾」無意識のうちに、ラグなく飛び出す指摘。それはつまり、言葉の表層以前にその意図するところがわかるということだ。「つうか、今更だし。逆に謝られたら困るし」
「わかってる。でもお前は、なんというかクラクが来てから、殊更に弱く見える」
「は? 逆だろ。守るモンができたんだから」
「そうやって強くなると、そのぶん弱くなる。俺は、ティルズがいると強くなれるが、そのぶん彼を奪われたら苦しい。彼のことが気がかりで、萎れそうにもなる。お前も、俺と同じような不安を抱えているように見えるというか、そういう側面が俺には強く感じられるんだ。たぶん、ティルズもそう思ってる」
「おっ、惚気るねえ」俺の軽口を、シャッターは沈黙で許す。「オレは大丈夫だよ。クラクが強いからな。なんつうか、メンタル的に。アイツはオレにとって完璧なんだ」
自分の弱さの否定を忘れたな、と思っていると、シャッターは言った。
「お前たちはまだ日が浅いから……これから、どうなるかわからないから。なにかあったら、いつでも話を聞くから」
その妙に優しい言葉を、オレは心のまま否定する。
「俺は……お前がこうやって隣にいてくれるだけでいいよ。トモダチって、そういうモンだろ。きっと」
交わらない意見。しかしこの隔たりを断絶と決めつけるには、オレたちはトモダチすぎる。もうずっとトモダチなのに、やることなすこと『捉え方次第』なんて生温い余白が多すぎるのは、オレが皆で記してきたページを破ってしまったからだ。でもシャッターも、スティルマンも、間違いなくトモダチという名の本の登場人物で、共同著者で。だからこそ、ページを破ったからといって、オレだけでこの本を処分することなどできないのだ。そして、そういう意識があることは、あまり共有していない。オレには、それが難しいから。
シャッターは困ったように微笑んでいる。もう少し酒を飲んでから、もう少し人生で酒を飲んでから、また話したいなと思う。まだ置きどころに困っているこの感情は、きっと『イツメン』時以外のオレの人生にも関わってくることだから、フクザツだから、今はまだ、彼らが隣にいてくれるだけでいい。なにかが変わるまで、待っていてほしい。……ああオレは、ずっと身勝手で、ずっと自分が難しかったのかもしれない。
「アイツら遅いな」
「だな。でもなにかあれば連絡がくるだろう」
「……」「……」
言葉はいらない。それはこの世すべての友の秩序だ。たぶん。オレはまだトモダチというものの精髄を知らないなりに、そう理解したい。
*
階段での競走は禁止された。しかし階段徒競走が無言のうちに開幕したので、われとスティルマンはさささっと階段を降り、同着。互いの栄誉を「うぇーい」「えーい」と讃えあった。それからエントランスから外の通りへと出て、「どこへゆくの?」と訊ねてみると、彼は「この通り沿いに酒屋がある。あとは……コンビニにでも寄るか」と言って、大体の道順を指で示した。
それから酒屋までしりとりをしながら移動し、スティルマンが酒を選んでいるあいだ、われは並べられている酒のラベルに書いてある字をたくさん読んだ。われは字が好きである。お酒は成体になってから。蒸留酒。ブレンダーズ・チョイス。限定醸造。メルロー。辛口。長期低温熟成。……その品に添えられたうえでの意味合いはわからないが、色々な言葉があって面白い。われは特に「お楽しみください」という文言が気に入った。これは多くの酒のラベルに小さく記されており、見かけるたびにわれはわれに話しかけられているような気がして、「あ、どうも」と会釈をした。
「お楽しみ、ください……」
口に出すと、なんだか快い。楽しむことを要請している。いや、推薦しているのだ。そしてこれにはきっと「楽しんでくれるといいな」という期待も込められている。消費者に対するワクワクの念だ。とてもよい。
「それは買いませんよ……?」
どうやら会計を済ませたらしいスティルマンが、豪奢な箱に入った酒を眺めていたわれにそう声をかけてきたので、われは「うん、要らないよ」と答えて一緒に店を出る。それから各テセラに展開しているというコンビニエンスストアに入った。「好きなものを持ってこい」と言われたので、われは店内に解き放たれた。そうして片端から商品の包装の文字を読んでいると、まだ四つ目の商品だというのに「食べ物な」と注意された。われは手にしていた『おそうじシート』を元の場所に戻すと、スティルマンの後に付いて回ることにした。それから買い物カゴに入れられた商品を手に取って、包装を読む。純粋地底湖水。ライム果汁入り炭酸水。ポテチーヤ(名店『オー! タコス!』監修サルサ味)。モンキー印の麦芽クラッカー。下剋上ジョロキアくん。タカラヤマ牧場クリームチーズ。毎日の品おつけもの三種セット……。
「クラク、なにもいらないのか?」
カゴの中身を手に取っては戻しを繰り返していると、不意にスティルマンがわれを見下ろしながらそう問うてきた。われが「お楽しみくださいって、書いてないね」と発すると、彼はぽかんとした顔をしたが、すぐに「よし、じゃあアイス買って外で食おう」と提案して、われを冷凍コーナーへと促した。そしてスティルマンは『エクストリームアズキモナカ』を、われは『ソーダソーダ!』という棒アイスを選んだ。アイスコーナーにも「お楽しみください」はなかったので、いちばん色が好きなものを選んだ。
会計を済ませて店から出ると、「やっぱこれだねマルコロチキン」と書いてある幟の隣にふたり並んでしゃがんで、アイスの封を開けた。そうしてふたり同時に頭をキンとさせ、呻く。それから二三口無言で食べていると、徐ろにスティルマンは口を開いた。
「なあ、マイリトルフレンド」
そんな呼びかけに、われは嬉しく、得意になって、
「なあに、マイモモタロウフレンド」
と返す。すると彼は「モモタロウ……?」と面食らった様子でいたが、やがて「俺の打ち明け話を聞いてくれるかい」と真剣な顔で切り出してきた。しかし、われが「いいよ」と頷いたにもかかわらず、彼はなかなか言葉を発さずにいる。われはそういうこともあるかと思いながら、水分の滲みてきた棒アイスをじゅっと吸った。
「キミにはたぶん野暮な前置きはいらないな。いや、これは呪いになり得るか……?」スティルマンはひとりごとのように悩んでいる。
「ん? ならないよ。スティルマンはわれを呪わない。トモダチだからね」
「……そうか。じゃあ、そのまま聞いていてくれ」
そう言って彼は、われにモナカの一ブロックぶんを割って寄越してきた。それを受け取って、われは齧る。……われのと味も食感も違いすぎる! 楽しい!
「サイアノは昔、シャッターのことが好きだったんだ」
「へえ」われは相槌を打つ。
「いい反応だな。好きだぞ」彼は苦笑する。優しい苦笑だ。
「そのスキと、サイアノからシャッターへのスキはちがうスキ。……合ってる?」
「まあ、人によっては。でも、この場合はそうだ」
水を吸い取ってしまった残りの氷は、齧るといくらか味が薄い。われがぼそぼそとアイスを咀嚼して、しょっぱくないのにしょっぱい顔をしていると、彼は続けた。
「俺にはそれがわかってたんだが、取っちまった」
しずかな声である。まるで、広い広い沙漠の果てで、ひとり途方に暮れているかのようだ。
「んん? シャッターはサイアノのものだったわけではないよね?」
「そうだ。……そうだな。でも、知ったうえでトモダチの好きな人を取るってのは、罪なんだよ」
「へえ。きいたことないよ」われは疑心を口にしながら、首で頷く。
「サイアノは気持ちのいい奴だからな。別に怒ったり悲しんだりを、俺たちの前ではしなかった。とくべつ態度も変わらない。今のアイツに、シャッターに対するそういう好意がないってことも、わかる。トモダチだからな。でも……」
そこで彼は、手を滑らせてモナカを取り落とした。包装のお陰で中身が汚れはしなかったが、落ちてしまった。われはなぜかそのとき、すこし後悔をした。彼がパイロットを白麻婆豆腐の上に落とさないでくれたように、われもそうしてあげればよかった。
スティルマンは落ちたモナカをもう食べることはしなかった。それを見て、われは『穢れ』の概念について考える。
「以来、アイツは昔みたいに呼んでくれなくなったんだ」
そう言った横顔をわれは見上げる。サイアノがよくする顔だった。
「前は、アイツは俺のことをティルズ、シャッターのことをシャットと呼んでいた。長く一緒にいれば呼び名が変わるなんてよくあることだが……その頃、アイツにも色々……人生に色々あったみたいでな。だから余計に、ものすごく傷ついたんだと、俺は思うんだ。俺は謝るつもりなんてなかったし、その態度を貫かないとかえって申し訳が立たない。でも、タイミングが悪かったというか……俺はじわじわと、やっちまったと、思えてきて……」
買い物袋を引っかけた腕で作った拳に、彼は額を押しつけ、懺悔するように掠れた声を漏らす。われは自分のアイスに視線を向ける。味はもう薄いのに、水分は時間経過でしとしとといくらでも滲み出すようだ。
「なるほど」われはまた頷く。「サイアノの恋は、こわれたんだね。あなたたちのためにはもう取っておけないから、こわれることをゆるしたんだ」
すると、スティルマンは「う」と短く呻いた。まだ頭がキンとしているのだろうか。
「サイアノは、そのこわれた恋を元手に、『イツメン』がこわれないよう、再構築しようと、がんばっているんだね。いいね。ここにネジしかない、と捉えるのではなく、まだネジがあると考える、という精神だね。あるものを使って、現状をどうにかしようとしてる。あきらめていない。われは、あきらめていないものが、大好きだよ」
われは所見を述べると、残りのアイスをぜんぶ口に収めてしまった。われの口にはすこし大きすぎる一塊だったが、アイスなので、すぐになんとかなる。そうして膝に顔を埋めて蹲っているスティルマンの手から落ちたアイスを受け取ると、「ちょっと待っててね。そこにいるんだよ。かどわかされたり、迷子はだめだよ」と彼に声をかけ、店内に入ってゴミを捨てた。それから「やっぱこれだねマルコロチキンをください」と店員に声をかけると、「マルコロチキンですね」と復唱された。なるほど、正式名称は「マルコロチキン」の部分であるらしい。勉強になった。支払いをし、あつあつのそれを受け取ってスティルマンのところへ戻ると、われは「これわけっこしよ」とチキンのパックを差し出した。
「さむくなっちゃったからね。ん……中身は五つだよ。あなたがひとつ多く食べてね」
われはまだ蹲っている彼に向かってそう続けて、ピックに突き刺したチキンを口に運ぶ。「あひゅい」持ってあつあつなのだから、舌にもあつあつなのは当然であった。何度も細く息を吐きながら、噛み締める。じゅわじゅわして、繊維があって、やっぱりあつあつ。
「わ。さっきのフライドチキンとおんなじ味だよ……やっちまった」
われが思うところを共有すると、スティルマンは蹲ったまま「ぶはっ」と噴き出した。そしてあははと笑いながら顔を上げ、われが新しくピックに刺したチキンを、口で奪っていった。それを咀嚼しながら、彼はなおも笑いつづける。このままではおなかが爆発して死んでしまうのではないかと心配になったわれは、「あぶない。もう笑わないで」と彼の腕を掴んで揺すった。
「うん……うん、ありがとう。ありがとなあ、クラク」
スティルマンはまた額に拳を押し当てていたが、もう苦しそうではなかった。だから、われはさっきの話をいま一度繰り返すようなつもり──ああ、これは友を慰めたいという気持ちなのだ──で、親切に教えてあげた。
「うん。……サイアノは、たぶんね、いま上に相談してる。待ってたら、そのうち帰ってきて、よかったのかわるかったのか教えてくれるよ。だからスティルマンも、タバコを吸いにいったり、自分も上に相談したりして、待ってたらいいんだよ。気持ちっていうのは、お役所仕事だから。時間がかかるようにできてる。だめだったら、職権濫用、しようね。それまで、お楽しみください」
さいごに彼の肩を叩いてあげる。友人というのは、肩を叩くイキモノなのだと、われは『イツメン』を見て知っている。すると彼は「クラク、トモダチのハグをしよう」と、われに『イッテラッシャイノチュウ』と似たような新しい概念を教えて、ぎゅっと抱きしめてきた。サイアノより薄く、なんだか弱い肉体である。なんだみんな弱いのだなと、われは得心して彼を抱きしめ返した。スティルマンと、シャッターと、サイアノの匂いがした。
QUEST CLEAR!

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それでもわれは、見ているよ。
