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陽だまりの記憶 ~ 2歳の頃の思い出(改訂版)

 トラックの助手席に乗り込む若き日の父の姿を、道路の片すみから見ていた。ドアが音を立てて閉じられ、トラックは砂埃を舞い上げながら南へと遠ざかり、交差点を右折して視界から姿を消した。
 まだ幼かった私は、父が自分の知らないどこか遠い所へ行ってしまったのだと思い込み、声をあげて泣いた。背後に立っていた母が両の肩に手を添え、ささやきなだめてくれた。自分たちも、このあと同じ所へと向かうから大丈夫だと…。
 その日、大人たちがいくつもの段ボールを部屋の中から運び出していた。
 「そこだと邪魔になるから、もう少しこっちの方にいてね」
 部屋の隅に移動し、そこからじっと見ていた。
 たったそれだけの記憶。
 その短い一場面が、鮮やかに記憶に刻まれている。

 昭和三十三年十二月。二歳と九か月。鹿児島市鷹師町から常盤町への引っ越しの日のことだ。
 高校教師だった両親が、冬休み期間中を選んだのだと、母から聞いた。

 これから話すことは、その引っ越しの日より前、二歳九か月以前のことになる。
 まずは、その当時住んでいた家や庭、その周辺の様子などについて、記憶に残っていることを話してみたい。

 鷹師町平田橋西側交差点そば。その周辺はまだ交通量も少なく、平屋ばかりが立ち並ぶ静かな町だった。
 小さな我が家には南向きの窓があり、陽当たりが良く部屋全体が明るかった。
 窓にはよく布団が干してあった。差し込む日差しと暖かい感触が好きだった。ふかふかの布団に触れてぬくぬくしていると、せっかく干してるんだから触れちゃダメだと怒られた。
 東側には、奥行きが浅く狭い玄関があった。上がり框が二歳児にとっては高過ぎて、大人のように簡単に踏み越えることができず、カエルみたいな恰好でよじ登らなければならなかった。床板にしがみ付き、右足を振り上げて床板に乗せて乗り越える。その度に、玄関という場所を体全体で感じ取っていた。 
 覚えているのは、窓と玄関のことくらいで、台所や便所がどこにあったのか、家全体がどんな造りだったのか、まったく記憶にない。
 全体の様子はよく覚えていないのに、その中にラジオと柱時計があったことだけは、妙にはっきりと覚えている。音の出るその二つは、不思議な魅力を湛えたワンダーボックスだった。
 振り子が左右に揺れるたびに、カチコチと小さな音が聞こえる。そしてたまに鳴り響く金属音が、耳に心地よかった。

 引っ越し先の常盤町の家で、柱時計をどの位置に掛けようかと家族で相談していた。
 「そこだと蚊帳が吊りにくいよ」
 そのひと言だけが妙に耳に残り、柱時計というものが、蚊帳を吊るために不可欠なツールなのだという奇妙な思い込みが生じた。

 その頃、テレビはまだ珍しく、鷹師町の我が家にもまだテレビが無かった。 
 二歳児の関心の的は、父が買ってきた、横幅三十センチほどのベージュのラジオであった。
 その頃、『一丁目一番地』というラジオドラマが流行っていて、我が家でもそれを楽しみにしていた。軽快な主題歌の中に「一丁目一番地」と歌う部分があったことだけを覚えている。その歌が聞こえてくると、喜んで身振り手振りで踊り出したらしいが、本人は全く覚えていない。
 ドラマの内容はよく覚えていないが、小さなラジオの中から、人の話し声や環境ノイズの効果音が聞こえてくるが不思議で、中に小さなミニチュアサイズの町があるのだと思っていた。人形のような小さな人々が暮らしている様子が思い浮かび、それが面白くてたまらなかった。中を覗いてみたくて、手で触れてみたくて、どうにかして隙間から手を入れようと、ラジオに触れてばかりいた。
 その様子を見た父は、感電を恐れて一計を講じ、鴨井の上に板を取り付けて、その上にラジオを置いた。
 大好きなラジオが、どうして高い所に逃げて隠れてしまったのか、チビ助には分からなかった。うらめしそうにラジオを見上げて、相も変わらず中にあるはずのミニチュア世界を想像し続けていた。
 その頃の私は、甲高い声でよく喋ったらしい。夕飯の食卓で、父が魚の骨と皮を取り除いて口に運ぶと、口を開けて待ち受け、美味しそうに飲みこんだ後、大きな声で、
 「はやくはやく、お父さんは骨と皮」
 とせっついたらしい。
 後年、何度となく父から聞いた話であり、自分では全く覚えていない。
 一歳と九か月の時に、妹・優子が生まれているが、これについてもほとんど何の記憶も残っていない。歩けるようになったばかりの幼児の好奇心は、もっぱら家の外に向かっていた。部屋の中にいても、母は妹に掛かりっきりでかまってもらえず、つまらなかったのだろう。それか、単にうるさがられて「外で遊んでなさい」と追い出されていたかのか…、そのどちらかだ。

 南側の窓の外に細長い庭があり、軒下には、いつも木製の幼児用手押し車が置かれていた。前に突き出た車輪部分に動物をかたどった木片が横に三つ並んでいて、押して歩くと、ひとつずつ交互に跳ね上がり、カタカタと音を立てた。
 その様子が面白くて、いつもそこばかり見ているものだから、庭のあちこちに、いつもぶつけてばかりいた。
 庭の西側の奥は、裏隣りの家の敷地に繋がっていて、そのお宅は一家で水飴工場を営んでいた。
 工場は、建物の中ではなく、柱の上にトタン屋根が被せてあるだけのオープンな作業場で、大人たちが黒い長靴を履いて作業している姿が見えていた。
 近付いて、その様子を眺めていると、よく水飴を貰えた。それが嬉しくて、そちらの方向へと足が勝手に動くものだったが、母親からは、
 「そんなに何度も行くと迷惑になるからあんまり行っちゃダメだよ」
 といつも言われていた。
 忙しい最中に、小さな子どもがそばに立っていると、さぞかし邪魔になったことだろう。水飴をくれたのは、追い払うための方便だったのかも知れない。

 庭の片すみに咲いたタンポポの綿毛を飛ばしたことや、アリが行列を作っている様子を興味深々で見ていたことを覚えている。列を成しているアリを指差し、母に聞いたことがあった。
 「これなに?」
 返って来た答えは、
 「アリのギョーレツ」
 まだ「行列」という言葉の意味も解らず、「アリのギョーレツ」という響きだけが丸ごとインプットされた。
 地表をせわしなく歩き回るアリのことが、小さな人間のような存在に見え、自分には聞こえない小さな声で会話していると思っていた。
 自分もその中の一匹になったつもりで、その様子をじっと見ていた。互いにぶつかったり右往左往し、エサを運んでいる姿が、なんだか気の毒だった。
 自分のような大きなものがそばで見ていると、踏みつぶされそうで怖いだろうと同情した。
 そんなこともあって、アリに対する愛着はひとしおで、その後、幼稚園時代に音楽教室で習った『おつかいありさん』という練習曲や、テレビの幼児番組で歌われた“あんまりいそいでこっつんこ”という歌詞で始まる童謡に、他の曲とは一味違う親近感を覚えたものだ。

 庭の東端には、表通りに繋がる石段があった。そこに腰かけ、頬杖をついて日向ぼっこしながら通りを眺めるのが好きだった。
 半ズボン越しに感じる石段のザラついた感触とぽかぽかの陽射しが心地良く、そこにじっとしているだけで気分が良かった。
 まだ数少なかったクルマが通り過ぎる度に、未舗装の道路上に砂塵が舞い上がった。頭から真っ白になりながら、それを払おうともせず、石段に腰かけている姿を、母がよく見たという。私にとっては、この“石段に腰かけて、頬杖をついていたこと”が、もっとも印象深い記憶であり、それがそのまま鷹師町の印象となって残っている。
 なぜ頬杖をついていたか、それについても覚えていることがある。
 そのとき、母は食卓に斜座りし、帳簿のような冊子を広げ、頬杖をついていた。私はそのすぐそばで、その姿を見ていた。どうして頬杖をついているのか不思議に思い、自分も真似てみた。そのポーズが母独特のものだと思っていた。
 石段に腰掛けたまま、手のひらで自分の丸い頬に触れ、自分の存在を感じ取っていた。その丸い頬が可愛いと、よく大人から両手で挟まれ構われていたので、頬のふくらみが自分らしさを象徴するものだと思っていた。
 後付けの解釈になるが、妹が生まれ、あまり構ってもらえなくなり、その代わりに、母を真似たポーズで、自分の頬に触れ、自分で自分を構っていたのではないかと思われる。
 石段から立ち上がって、そのまま家に入ろうとすると、たちまち母に取っ捕まって、何やら小言を言われながら、体中に付いた砂をパンパンと叩き落される。それが煩わしくて、いつも逃げ出したくなった。

 こうして、当時の行動範囲を思い起こすと、西側に隣接していた水飴工場から、細長い庭を東側にたどり、石段から道路に踏み出して、そこからわずか十メートル前後の距離にあった平田橋西口交差点の角までと、総距離わずか二十メートル程度の限られた空間だったことが分かる。

 その慣れ親しんだ、自分のテリトリーから、外へと踏み出すこともあった。表通りに出て、北へ向かって歩いて行くと、新上橋西口そばの一角に市場があった。現在の鷹師二丁目七番地あたりだ。母に連れられて、市場まで歩いて行ったことがあり、そこまでの道筋が、ぼんやりと記憶に残っている。
 今、私はそのあたりの様子を思い浮かべながら、順路を辿るように記したが、残っている記憶は、そんなふうに時間の流れに沿ったものではない。アルバムから剥がれ落ちた数枚の写真が、道のあちこちにポツリポツリと置き忘れられている。そんな感じだ。
 買い物かごを下げた母の右側に身の丈半分くらいの自分がいて、左手をつながれて歩いたこと。
 川沿いを歩いていたとき、前方右側に新上橋欄干の西の端が見えたこと。
 市場に向かう手前には、道路の右側に広い空間があったこと。
 木造の簡易建築の中に、裸電球がぶら下がり、細い通路を挟んで、むき出しになった板張りの棚に、魚や野菜など、雑多なものが並んでいたこと…。
 そういったすべてが、子どもの目で、低い位置から見上げた断片的な場面として残っている。
 これらの中で、「新上橋の西端が見えた記憶」というのは、市場に向かうルートから外れることになるので、新上橋電停のあった国道方面に向かった時のものかもしれない。
 見えていた広い空間は、バスのロータリーだったことを後年母から聞いた。
 市場については、断片的な記憶ばかりで、全体の様子をはっきりと思い浮かべることはできない。その点は、庭周辺の記憶が鮮明なのとは対照的だ。
 
 生まれたばかりの妹に産院で初めて対面した時のことを、後年父から何度となく聞かされた。これについては、自分では全く覚えていない。
 病室に入ると、すぐにベッドサイドに近寄り、赤ん坊の様子を覗き込んで興味を示したらしい。
 「赤ちゃん、おめめキロン・キロン・キローンしてるねえ」
 始めのうちは上機嫌でそんなことを言っていたと、父が口真似して聞かせてくれた。
 その後、母が授乳のために抱き上げると、自分も抱いてほしいと両手を差し出した。だが、授乳しながら同時に二人を抱くことは出来ない。その要求は受け入れられることはなかった。
 「もうお兄さんなんだから甘えちゃおかしいぞ」
 父としては軽い気持ちでそう言ったのだと思う。大正生まれの父が、いかにも口にしそうな言葉だ。
 「ぐずるんじゃないかと思ったけどね、文句ひとつ言わなかったよ。くるっと後ろを向いて、じっと我慢しとったよ。しばらくしたら、だんだん肩が震えてきてね、頬を見たら涙が伝ってたよ。それでもよう黙って我慢したよ」
 父は、その様子を「まだ小さかったのに我慢強かった」と、褒めるような口ぶりだった。その頃、父の口からよく「我慢しなさい」という言葉を聞いた。幼児期の私は、そうすると褒められることを覚えていて、その時も、褒められたい一心で我慢したのだろう。だが、まだ甘えたい盛り。そんな気持ちを抑え込むには、少し幼過ぎたようだ。
 その後、退院して家の中にいたはずの妹の姿も、その世話をしていたはずの母の姿も全く思い出せないのは、単に意識が外に向かっていたということだけでなく、その時感じた寂しさのせいなのかもしれない。
 三年後に生まれた次女・貴美子のことは生まれた時から可愛がったのだが…。

 母が産院に入院していた頃、当時十四歳だった母の妹(私の叔母)も共に住むようになった。
 幼かった私が「じゅんこねえちゃん」と呼んでいた叔母が同居するようになったのは、太平洋戦争終結時の事情からである。
 母方の家族は、旧満州からの引き上げを経験している。国境を越える際、伝染病の予防注射を打たなければならず、その時体調の悪かった祖母は、たぶん、それが原因で亡くなった。
 満州で警察官をしていた祖父の内地での再就職はままならず、定職を得ることが困難だった。
 その後結婚して家庭を持った母が、まだ中学生だった叔母の衣食住及び学費等の一切を引き受けることになった。叔母の誕生年は、昭和十九年。昭和七年生まれの母とは十二歳の開きがある。さらにその十二年後に僕が生まれているので、母と僕の丁度に位置していることになる。
 こうして、“じゅんこ姉ちゃん”は、我が家の一員となった。
 定時制夜間高校の教師だった母は、夕方になると出勤のため不在となり、その間は、学校から帰って来た“じゅんこねえちゃん”が母親代わりを担ってくれた。まだ大人になり切っていない年齢で、限られた時間とはいえ、幼子の面倒を見続けるのは荷が重かったかも知れない。
 昼間はのどかなそのあたりも、夜になると闇に沈み、中学生だった叔母は、平田橋を渡るのが怖くて、いつも家に向かって全力で走っていたらしい。近くの国道三号線からは、鹿児島市電伊敷線の通り過ぎる音が、夜のしじまを縫って淋しげに聞こえてきたものだ。
 じゅんこ姉ちゃんが、よく「電車の音って寂しいねえ」とつぶやいていた。
 鷹師町時代、そして次の住居地常盤町での十年余りを、この叔母・順子の存在を抜きにして語ることはできない。この後の話にも何度か登場することになる。

 石段に腰かけていると、正面向こう側に石塀があり、右に視線を移すと、平田橋交差点が見えた。
 行動範囲は、母によってはっきりと決められていた。
 「道路の向こう側に行ってはダメ、こちら側は、橋の手前の交差点の角まで。それより外に行くと、人さらいに連れて行かれるよ」
 家には、生まれて間もない長女がいるので、母はどうしても息子にまで目が届かない。歩き回って迷子にならないかと気が気でなかったに違いない。そこでやむなく発せられたのが、脅かし混じりのそんな言葉だったのだろう。幼かった私は、それを忠実に守った。
 交差点を超えると、自分が決して行ってはいけない、ヒトサライの住む怖ろしい世界が広がっている。そう思い込んだ。
 引っ越しの日、父がトラックに乗り交差点を右折した途端に泣き出したのは、そのような背景があってのことだった。自分が絶対に踏み込めない世界に、父が消えていったような寂しさと怖ろしさを感じていたのである。

 その当時は、まだクルマの数も少なく、町全体が静かだった。高いビルなどもほとんど無く、デパートの屋上にあげられた宣伝用のアドバルーンや、セスナやヘリコプターからビラ広告が撒かれる様子などが広く見渡せた。
 それらは、すべて「行ってはいけない」と言われていた外側の世界であり、その外側の世界には、想像の世界が限りなく広がっていた。
 ふわふわと浮かぶ丸いアドバルーンは、下界をのんきに眺める大きな顔のようだったし、撒かれたビラたちは、楽し気にヒラヒラと空中を舞っているように見えた。
 ビラが舞う様子を自分でも真似してみたくて、部屋の中で小さな紙切れを掴んで空中で手を放してみたが、宙を舞うような気配など全く見せずに、そのままスーッと落下してしまった。
 一度では諦めきれず、ただひたすら「ひらひらと舞い上がって欲しい」という願いを込めて、同じことを繰り返したが、思いが伝わることはなく、何度試しても、紙切れは、やる気を出すことなくあっさりと落下するのであった。
 こういった経験を通じて、遠く離れた所には、こことは違う世界が存在し、身の回りとは全く異なる自然法則が働いているという思い込みが生じた。
 アドバルーンより、さらにもっと遠い所、ここから見えないどこかには、絵本で見た金太郎の住む足柄山や、桃太郎が遠征した鬼ヶ島、舌切り雀に出て来るスズメのお宿があるのだと思っていた。
 「お腹を出して寝ると、カミナリ様におへそを取られるよ」
 そんなことも言われていたので、鬼の姿をしたカミナリが、いつでも雲から降りてきて、近くに現れるものだと思っていた。
 母がよく口にした「ヒトサライ」も、それらと同じように、どこか知らない闇の世界からやってくる、鬼ヶ島のオニのような存在だと思っていた。

 いつどこからやってくるのか…、
 あの家の屋根の向こう側だろうか…、
 それとももっと遠い建物の陰に潜んでいるのだろうか…。
 まるで見張り番のように、周囲を見渡すことがあった。

 この得体の知れない「ヒトサライ」にまつわるいくつかの断片的な記憶が残っている。
 その頃、こんなことを信じていた。
 ― 自分はヒトサライにさらわれたことがある。―
 それが本当ならば、事件として世間を騒がせていたはずだが、そんなことは起こっていない。
 であるにも関わらず、

 ― 壁にはさまれた狭い空間で、背後から誰かに抱きかかえられ、激しい息づかいと低い唸り声を感じながら、視界が上下左右に揺れていた ―

 そんな妙にリアルな記憶が残っている。
 一体何故だろう?
 ヒトサライを怖れるあまり、それが夢に出てきたのだろうか?
 この謎は、後々まで、心の隅にぼんやりとした余韻を残し続けた。

 ヒトサライとは正反対に、明るくて楽しかったのが“ロバのパン”。その名のとおり、ロバにパンの屋台を引かせて売りに来ていた。実際はロバではなく、小型の馬だったらしいが、当時はロバだと思い込んでいた。
 ― ロバのおじさんチンカラリン♪ チンカラリンロンやってくる♪ ―
 陽気な歌を鳴り響かせ、三角の帽子を被り、美味しいパンをたくさん積んでやってくる。おとぎの国からやって来たかのような、カラフルな屋台は憧れの的で、いつか自分もそこに乗ってみたいと思っていた。
 ちょっとやせぎすで頬骨の出た浅黒い顔の優しいおじさん。子どもに気付くと、笑顔を浮かべて馬車を止めてくれた。
 待ってくれている間に、家まで走って母を呼んでくる。これがお約束のパターンとなっていた。
 石段によく腰かけていたのは、このパン屋さんを心待ちにしていたからでもあった。
 今か今かと、楽しみに待っていた“ロバのパン”だったが、ある日、ちょっと寂しい思いをしたことがあった。
 いつものように頬杖をついて石段に腰かけていると、ロバに引かれたパン屋さんの屋台がやってきた。
 ところが、その日はどういうわけだか、知らない人が手綱を取っていた。幼かった自分にとって「ロバのおじさん」は、となりのおじさんと同じように、この世に一人しかいない決まった人だった。
 それなのに、今日は、違う人がよそよそしい顔で御者台に乗っていて、待っている自分の存在に気付きもしない。
 心の中を冷たいものが吹き抜けた。
 ― この人、ニセモノだ ―
 通り過ぎる御者台を、嫌な気分で見上げていた。

 ロバのおじさん以外に、印象に残っているオジサンが何人かいた。その中に、街でよく見たチンドン屋の中のピエロ。
 カラフルな服を着て、列を作って楽しそうに楽器を奏でる姿に心惹かれた。
 三角の帽子を被ったその愉快なおじさんは、ロバのパン屋さんと同じくおとぎの世界からやってくるのだと思っていた。ついつい目を奪われ、後を付いて行きたくてしょうがなかった。
 すると、いつも母のこんな声が聞こえてきた。
 「ついてっちゃダメ。迷子になるよ」
 音楽を鳴り響かせながら遠ざかる一行を、何度も何度も振り返って見たものだ。
 ある日のこと。近づいてきたチンドン屋の中には、もちろん大好きなピエロもいた。
 近くでよく見ると、陽気に見えていた厚塗りメイクの顔の奥に、疲れた感じの知らないおじさんの顔が透けて見えた。
 ― 気持ちワルっ! ―
 何か、とんでもない正体を見たような変な気分だった。
 チンドン屋に付いてゆくと迷子になるのは、ピエロに化けたヒトサライがいるからなのか…。
 後に幼稚園で『ハーメルンの笛吹き男』の紙芝居を見たとき、このチンドン屋のピエロのことを思い出した。

 ちょっと変わったおじさんが他にもいた。たとえば、新上橋(しんかんばし)そばの鉄橋の下に住んでいたホームレス。その頃はまだ「ホームレス」なんていう呼び方は一般的ではなく、今では使われなくなった言葉で呼ばれていた。
 ヒゲぼうぼうの年寄りだと思っていたが、髪の色は黒かったので、当時思っていたよりは若かったのかもしれない。幼心に怖さを感じていたので、近寄ってしっかりと見たことはない。
 リヤカーか大八車を引いていて、昼間はそれで廃品を集めて回っていた。じゅんこねえちゃんも、このおじさんのことを怖がって、そばを通るときは、いつも足早に通り抜けたと言っていた。
 こんな具合に、ヒトサライが化けていそうなおじさんが、たまに姿を現した。

 ヒトサライ絡みの話が続いたので、ここらでちょっと、そこから離れて、人生初の大雪を経験した時の話でもすることにしよう。
 生まれて初めての大雪体験は、二歳児にとっては、ちょっとした事件だった。雪の光景を初めて目にしたときは、本当に驚いた。
 朝一番に窓から外を見ると、白一色と化した世界が目に飛び込んだ。まだ「雪」という言葉も存在自体も知らず、世界そのものが、本質的に変化したのだと思い込んだ。雪に覆われたその下に、いつもと変わらぬ同じ町並みが眠っているとは思いもせず、その魔法のように美しく変貌した世界の、白く鮮烈な輝きを、ただただ驚きの目で見つめていた。

 この大雪体験は、数々の思い出を残してくれた。
 まずは、庭で雪だるまや雪ウサギを作ってもらったこと、そして雪合戦を見たこと。「作ってもらった」とか「見た」という表現になるのは、まだ自分では何もできなかったから。
 雪だるの作り方を、じゅんこ姉ちゃんが教えてくれたが、雪玉を丸める作業を真似ようとしても、ただ直線的に転がすことしかできず、丸い形には近づかなかった。
 雪ウサギは、さらに形が複雑でまったく手に負えず、かじかんで思うように動かせなくなった手の上で溶けてしまった。動かなくなった指に驚き、困惑し動揺した。
 「暖かくしたらちゃんと動くようになるから大丈夫だよ」
 そう言われても簡単には信じられなかった。
 人というもの、平穏時のことより、不安や恐怖に駆られた体験のほうが忘れられないものらしく、指が冷たくなって動かなくなった時のことは妙にはっきりと覚えているというのに、「また動くようになってほっとした」なんていうことは、全然覚えていない。
 叔母が作ってくれた雪ウサギは、目の部分に、赤いマッチの先端が差してあり、自分にとって何か特別なものに見えた。思い起こすと、その時以来、一度も雪ウサギというものを拵えたことがない。そして、その後何年たっても「雪ウサギ」という言葉の響きと、二歳の時に見た記憶の中にだけ存在するその小さな雪の塊に、言葉にならない不思議な魅力を感じている。

 じゅんこねえちゃんが雪合戦をしている時は、本当に楽しそうだった。相手は、もっぱら裏隣りで水あめ工場を営んでいた石川さんの若いご主人と、その子どもたち。石川さんに雪玉をぶつけられた叔母が、勢いのある声で、
 「絶対に仕返ししてやる」
 と言いながら、息を弾ませながら嬉しそうに雪玉を丸めていた。
 自分もそれに加わりたくて、雪玉をひょいと投げた。ところが、それは遠くへ飛ばず、足もとにポトリと落ちた。
 「ここから見ていなさい」
 見物の位置を決められ、道の端っこから、じっと佇んだまま眺めていた。

 道路の向こう側の石塀の手前に、自分の背丈より高い大きな雪だるまを見たことも覚えている。その雪だるまには黒い土が混ざり薄汚れて見えた。高さは、一メートルほどだったと思われるが、身の丈がそれに満たない二歳児の目には、とてつもなくデカく見えた。どう頑張っても自分には作れない大きさだ。
 「行ってはいけない」
 いつもそう言われていた道路の向こう側、禁断の領域に立つ、バカでかい薄汚れた雪だるま。
 一体誰が作ったのかもわからないその姿が、何やら恐ろし気に見えた。

 ― もしかすると、ヒトサライが作ったのかもしれない。―

 かくして、またもや話は“ヒトサライ”へと戻るのであった。

 その怪しげな黒っぽい雪だるまは、あくる朝も溶けずに残っていた。日を越すということは、幼子にとっては“永遠の時”を意味していた。それはもう人にできることではないと思った。
 その不思議な「溶けない雪だるま」は、さらに翌々日にはどうなっていたか…、それがよく思い出せないのだが、数日経ってから、また姿を現した。
 一体どういうわけだ? 近寄って、そばからよく見てみたい。
 僕は、初めて母の言いつけを破った。
 恐る恐る近づいてみると、その雪だるまは、石に変わっていた。

 ― 雪に、土や小石を混ぜて作った雪だるまは、
   石になってしまうんだ ―

 その後、石段を補修する際、大工さんがセメントに砂を混ぜているところを見て、そのことを確信した。

 ― 土や砂を混ぜると、石みたいになってしまうんだ ―

 その石ダルマは、翌日にはふたたび姿を消したが、その後、たまに姿を現すことがあった。
 読んでいるあなたは、もうお気づきの事と思う。
 そんなこと実際にはありっこないのだ。
 石だるまが立っていたのは、夢の中だったに違いない。
 ところが、夢にしては妙に鮮明なのだ。
 その石だるまは、今でも溶けることなく、私の記憶の中に佇んでいる。

 寝かしつけられるとき、母がよく桃太郎の話を聞かせてくれたり子守歌を歌ってくれたが、同じ役目をじゅんこ姉ちゃんが担うこともあった。
 その子守歌の歌詞に謎めいた部分があって、どうにもそれが気になった。
 「でんでん太鼓に笙の笛」というのが、何なのかよく解らなかった。
 「あの山越えて里へ行った」というのは、さらに謎めいて怖かった。
 ここからしばらくな、その謎のフレーズが、話の中心となる。
    
 「サト」という言葉の意味が全くわからず、イメージさえも湧かず、じゅんこねえちゃんに聞いても、返って来たのは「こどもにはむずかしい」というひと言だけだった。
 たぶん、その恐ろし気な歌詞の影響だろう。じゅんこ姉ちゃんがどこかに姿を消してしまうのではないかというぼんやりといた不安を、いつも感じていた。
 当時のじゅんこ姉ちゃんは、歌うことが好きで、また流行歌手に憧れる年ごろでもあった。ラジオから聞こえてくる歌声に興味があって、ときおり「イカす」とか「品がある」などという言葉を発することもあった。
 
 「イカす」「品がある」

 二歳児にとって、その言葉はまったく理解できなかった。じゅんこ姉ちゃんの心が、自分のわからない謎めいた世界に向かっていて、今にもそこにかって走り去ってしまうのではないか…。そんな危うさを、いつも感じていた。
 そう思った理由は、他にもあった。通り過ぎようとする石焼き芋売りを、手をあげて追いかけながら呼び止めるときのじゅんこ姉ちゃんの足の速さ。あっと言う間に遠ざかる背中を見るにつけ、自分が決して追いつけない別次元的な能力を感じていた。

 雪だるまや雪ウサギを作ってくれる。
 おとなたちとの雪合戦に加わることができる。
 焼き芋屋さんを呼び止めてくれる。
 自分が追い付けないスピードで走れる。
 自分では決して出来ないことをやってくれる。

 そんな「じゅんこ姉ちゃん」への依存心は強く、それと同時に、どこかにいなくなってしまいそうな不安を感じていた。

 そして、こんな夢を見た。

 ― ピエロの恰好をしたおじさんが、人力車を引いている。二種類のおじさんがいて、片方のおじさんの正体はパン屋のおじさんで、もう片方は、焼き芋屋さんのように見えるが、その正体はヒトサライだ。じゅんこ姉ちゃんは「イカす!」と叫び、あとを追いかけて人力車に乗り込んだ。そのまますう~っと中空に浮かび上がり、北の方向の山を越え、その向こうの闇の空に、吸い込まれるように消えて行った。 ―

 得体の知れない恐ろしい夢だった。そこいらで見かけた様々な要素が、ごちゃごちゃと詰め込まれて出来上がったような不思議な一場面。じゅんこ姉ちゃんは、子守歌のように、

 あの山越えて、里へ行った。

 「サト」という闇の世界に消えてしまった。

 鷹師町にいた二歳の頃は、この夢を実際に起こった現実だと思っていた。この場面は、小学校にあがる頃まで、繰り返し何度も夢に現れた。

 このように、見るもの全てが、半分おとぎ話の世界に溶け込んでいるかのように感じられていた。現実認識に、ファンタジックな歪みが生じていたのである。
 そんなある日、母からじゅんこ姉ちゃんに向けてのこんな言葉が聞こえてきた。
 「今では私たちが親代わりなんだから」
 意味が分からなかった。混乱していた世界観の中に、また一つ大きな謎が加わった。
 母に対してこのように問いかけたことがあった。
 「じゅんこ姉ちゃんには、本当の親がいたけど、今ではお父さんとお母さんが、じゅんこねえちゃんの親なの?」
 その問いに対して、
 「そうだよ」
 という答えが返ってきた。
 実際に生みの親と育ての親が異なっているのだから、あながち嘘とも言えないのだが、この答えが決定打となって、この哀れな幼子の頭の中は、さらに混乱し、魔訶不思議な世界が出来あがった。

 ― じゅんこねえちゃんは、死神“ヒトサライ”を追いかけて、真っ暗な死の世界に消え去った。今のじゅんこねえちゃんは、そのあと、おかあさんのお腹から再び生まれてきた。生まれ変わったじゅんこねえちゃんは、前とは何か違う ―

 幼児期に抱いたこの妄想のことを、小学校一、二年の頃、母に話してみたことがあった。
 「小さい頃、じゅんこ姉ちゃんは一度死んだと思ってた。なんか一旦いなくなって、そしてまた戻ってきたような、そんな感じがしてた。戻って来たじゅんこ姉ちゃんは、何か前と違うって…」
 その問いかけに、母はしばらく考えた後、こう言った。
 「ははぁん、あんたがいなくなったと思っているじゅんこ姉ちゃんは、じゅんこ姉ちゃんじゃないのよ」
 謎めいた言葉だった。
 「じゅんこ姉ちゃんがウチに来る前に、家政婦さんに来てもらってたことがあるの」
 「え? そうだったんだ…、全然覚えてないけど」
 母の言葉は、驚きの連続だった。
 「あんたはまだ赤ちゃんだったからね。あたしが出産のために入院してたときだよ。中学を出たばかりの若い人でね。お金の管理に問題があったの。だから、すぐに辞めてもらったのよ。おばあちゃんに対してもバカにしたような態度で接するしね」
 「加世田のおばあちゃん?」
 「一緒に住んでたことがあるのよ。結婚前の千恵子伯母さんが来てくれてたこともあるんだよ」
 「へえ、それは知らなかった」
 「そのあと、じゅんこ姉ちゃんがウチに来たんだけど、家政婦さんとは年も近かったから、赤ちゃんだったあんたには区別が付かなかったみたいだね」
 そうか…、
 だからこの一節が心に刺さったのか…。

 ― 坊やのお守りはどこへ行った あの山越えて里へ行った ―

 じゅんこ姉ちゃんが、どこか知らない所にいなくなってしまう…、そんな不安を抱いていたのも、この“解雇された家政婦さん”の一件があったからなのか…。
 これで、謎が解けた。
 そう思っていた。
 だが、ひとつ大切なことを見落としていたことに気付いた。
 なぜ家政婦さんがやって来たのか…。
 そこに横たわっていたのは、母の不在である。
 妹が生まれたのは、わずか一歳九か月のときである。
 出産のために、参院に入院していた。
 そんな事情が、一歳児に理解できるはずがない。
 なぜか、母がいなくなった。そして家政婦さんがやってきた。その家政婦さんがいなくなり、代わりに叔母・順子がやってきた。
 そこに聞こえてきたのが、
 ― 坊やのお守りは どこへ行った
   あの山こえて 里へ行った ―
 だったのである。
 そして、母は戻ってきた。
 生まれたばかりの妹を伴なって…。

 父からは、こんな話を繰り返し聞かされた。 
 「めどうは、ロバのパンに轢かれたことがあるんだよ」
 轢かれたことなど自分では全く覚えていないが、焼酎の好きな父が、晩酌しながらご機嫌よろしく話して聞かされたので、話としてはよく覚えている。
 「その日は日曜日だったから、ウチでのんびりしていたんだよ。そしたら、玄関の扉をドンドンと叩く音が聞こえるもんだからね。何ごとかと思ってびっくりしたよ。急いで扉を開けると、青ざめた顔をしたおじさんがめどうを抱きかかえて立ってたんだよ。足先を轢いてしまったって、おろおろしてねぇ…、可哀そうなくらい困り切った顔をしてたよ。だけど、靴を脱がして見てみたら、別段赤くもなってなかったよ。実際は轢いてなかったんじゃないかねえ。轢いたとしても靴の先をかすった程度だったんだろうね。たぶん、びっくりして泣き出したんだよ。おじさんは、それを轢いたと勘違いしたんだね。ぺこぺこ何度も頭を下げてパンをたくさんくれたよ。一日の売上なんか大したことないだろうに、却ってこっちが気の毒だったよ」
 ほろ酔い加減で、上機嫌な笑顔を浮かべながら話すものだった。小学校に上がる頃まで、いかにも楽しそうに繰り返されたため、心にしっかりと刻まれ、その後、大学時代に参加していたサークルの文集や、三十代のときに加入した文芸同人誌、趣味で編集した自作のエッセイ集と、何度も文章化している。

 そして、七十歳になった現在、こうしてまた書いているわけだが、今まで繰り返し書いてきたというのに、今になるまで気付かずにいたことがある。
 自分では覚えていないと思っていた「ロバのパンに轢かれた事件」。実際には、この時のことをしっかりと記憶していたのだ。

 意識の底に転がっている“記憶のカケラたち”について述べてきた。それらの中の幾つかを、ここでもう一度改めて拾い集めてみる。
 自分はヒトサライにさらわれたことがあると勘違いしていた。
 どこか狭い空間で、誰かに背後から抱きかかえられた時の、鼻息と唸り声と激しく揺れ動く視界。
 ロバのパンの御者席に、知らない人の顔が見えた。
 ロバのパンに轢かれた事件。

 これらのうち、父によって語られた“ロバのパンに轢かれた事件”と、自分の思い込みである“ヒトサライ事件”。実は同一の出来事で、他のすべての事もその時起こったことだと、長い時間を経て、ようやく気づいたのである。
 ロバのパンの御者台に見知らぬオジさんが乗っていて、冷たい顏で通り過ぎてゆく。嫌な気持ちになったことをはっきりと覚えている。二歳児であれば、そんな状況下に置かれれば、たぶん声をあげて泣き出すだろう。

 その日、いつものように、ロバのパン屋が近づいてきた。ところがこのときは、馴染みのおじさんとは違う人が馬車に乗っていた。
 その顔を見た瞬間、ニセモノだと思い、嫌な気分になった。
 そのおじさんは、知らん顔をして通り過ぎて行く。
 いつも笑顔で馬車を止めてくれていたのに、ニセモノのオジさんは、自分を完全無視。その冷ややかな態度に、混乱とショックで泣き出してしまった。
 突然の泣き声に、パン屋は驚いた。てっきり轢いてしまったと勘違いし、あわてて御者台から飛び降り、一刻も早く保護者に伝えようと、泣いている幼児を抱えあげた。
 その瞬間、僕は確信した。
 ― さらわれる! 偽のパン屋の正体はヒトサライだった! ―
 いつ来るか、どこから来るかと、いつも恐れていた人さらいが、ついにやって来た。事もあろうに、大好きなロバのパン屋さんに化けて…。
 ショックと恐怖でパニック状態となり、さらに激しく泣いた。
 うろたえたパン屋は、大慌てで自分を抱え上げ、家に向かって駆け出した。
 荒々しい息づかいと唸り声が聞こえ、視界は上下左右にと激しく揺れた。
 父は激しいノックの音を聞き、我が子を抱えたパン屋の、オロオロとした姿を見ることになる。
 「すみません! 子どもさんの足を轢いてしまいました」
 バラバラに散らばっていた記憶のカケラが全て繋がり、その時の様子がありありと目に浮かんだ。
 ― 壁にはさまれた狭い空間 ―
 そう感じられたのは、目の前にパンの屋台が聳えていたからだ。
 このとき、幼子がいかに恐ろしい思いをしたか…、そんなことには誰も気づいていなかった。

 常盤町に引っ越してしばらくは、その新しい環境になかなか慣れなかった。周囲を低い山々に囲まれた静かな町。目の前を車が通るような広い道路もなく、陽のあたる石段も水飴工場もなければ、ロバのパンもやってこない。鷹師町にいた頃、身の回りにあふれていた魅力的なものたち。それらすべてが消え去ってしまった。
 ― ここには何にもない ―
 退屈を感じながら庭先に立ち、鷹師町のある東の方向を眺めたことを覚えている。
 引っ越しによって激変した環境の下で、鷹師町を懐かしむ。そんな時間があったからこそ、三歳以前の記憶が後々まで残ったのかと思ったりもする。

  続編です。
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