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石塀の見える風景

 ふるさとを離れてから、およそ三十年が過ぎていた。鹿児島に戻ってきた時、僕は、四十七歳になっていた。

 懐かしい風景に胸を震わせ、鹿児島市内のあちこちを訪ね歩いた。市内に限らず、県内各地に足を運んだ。

 そんな中で、とりわけ幼稚園、小学生時代を過ごした常盤町には何度も足を運び、思い出の痕跡を拾い集めるように、隅々まで歩いた。

 だが、常盤町に住む以前、三歳になる直前までを過ごした鷹師町を訪ねたのは、もう少し時間が経ってからだった。

 当時住んでいた家がすでに無くなっていることは、故郷を離れるときに分かっていた。三歳以前ともなると、行動範囲は、庭先とその近辺のわずかな範囲に限られていた。そのわずかな場所も、家とともに姿を消し、当時の面影をとどめてはいない。
 そして、時が経ち過ぎていて、自分が知っている鷹師町全体が変貌し、すでに自分の記憶の中にしかないのだろうと思っていた。

 ところが、文章として書き始めると、気持ちが変わってきた。当時のことを思い出しながらタイピングしているうちに、町への愛着が戻って来た。

 たとえ街並みは変わっていても、道路の形や、背景の山々は、昔の面影をとどめているだろう。少しでも昔の名残が残っているかもしれない。わずかな痕跡でもよい。それらを掬い上げ、拾い集めてみよう。そんなつもりで足を運んだのは、町を離れてから約半世紀後のことだった。

 新上橋から南へと歩を進め、かつて家があった場所へと向かう。やはり、町はすっかり変わっていた。変貌した町に、記憶の中の町並みを重ねながら歩く。そして、思い出の場所にたどり着いた。

 そこで僕は、意外なものを目にし、思わず立ち尽くしてしまった。


 かつて自分が見ていた石塀。それだけが、昔と変わらぬ姿で、そこに立っていたのだ。
 あの頃、僕はよく石段に腰かけ、道行く人や通り過ぎるクルマを眺めていた。その向こう側にいつも見えていたのが、この石段だった。昔見ていたそのままの形で残されていた。
 僕は、腰をかがめ、昔と同じ低い位置から、見上げてみた。
 目に映ったのは、まさに、二歳のときに見えていたそのままの風景だった。
    
 当時の記憶が、くるくると蘇ってきた。
 道路のこちら側には、小さな我が家があった。
 若き両親、そして生まれて間もない妹と共に住んでいた。
 
 家の前には小さな石段があって、そこに腰かけて外を見るのが好きだった。
 そして、道行く人の姿や、たまに通り過ぎる自動車を見送った。
 クルマが通り過ぎると、砂塵が舞い上がり、
 頭から真っ白になったまま、頬杖をついていた。

 行動範囲は、「道交差点の角まで」としっかり決められていて、
 そこを超えると、ヒトサライに連れていかれると言われた。

 ここが、その交差点だ。



 引っ越しの日、助手席に父を乗せたトラックが、砂埃を巻き上げながら走り出し、右折して見えなくなったのは、この交差点だった。
 そのとき僕は、父が遠い世界に行ってしまうと思い、声をあげて泣いた。

 その頃、路面はシラス土壌がむき出しのままだった。カッチリと固められた歩道も信号機も無かったし、コンクリート製のビルも建っていなかった。

 すっかり変わってしまった町。

 その中で、石塀だけが、変わらず待っていてくれた。そして、昔と同じように、僕の視線を受け止めてくれた。 


 大雪の日、でっかい雪だるまが立っていたのも、この石塀の前だった。
 ロバのパンがやって来たときも、その向こう側にはこの石塀があった。

 焼き芋屋さんの屋台が通り過ぎようとすると、じゅんこ姉ちゃんが追いかけて声をかけえくれた。
 その向こうの北の方向には、緑の山肌が見えていた。


  現在では、このようにビルが立ち並んでいて、
  山は、少ししか見えないが、あの頃は、ほぼ全容が見えていた。
  その頃聞いた子守歌の一節。
  ― あの山越えて 里へ行った ―
 「あの山」とは、鉄橋の向こうに見える緑の山だと思っていた。

  その上空を鳥のようにゆっくりと越えて、
 「サト」という謎めいた場所に向かっていく。
  そんな夢をよく見た。なんだか怖い夢だった。
    「あの山越えてサトへ」と向かうと、  
     いつもその途中で目が覚めた。
 「サト」があると思っていたあたりに、今では霊園があって、
   そこには、ご先祖様とともに両親も眠っている。
   子守歌を聞いていた頃、まだその霊園はなかった。



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