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信州より、ふるさと鹿児島へ

 平成十五年九月。日曜日の午前中、母から電話があり、父に認知症の軽い症状が出ていることを告げられた。
 長年の飲酒で海馬が委縮し、数分前のことを忘れるのだという。
 「今日は何曜日か?」と繰り返し訊いたり、食事を終えてすぐに「ご飯は食べたかね?」と訊いたりする。
 それ以外に意識の乱れなどは無く、面と向かって話している分には、ごく普通で、日常生活を送るうえで、目立った困難はないという。

 「電話したのは、あんたに今どうして欲しい、っていうことなじゃいの。ただ、病院の先生から、『このことは家族には知らせておいたほうがいいですよ』って言われたから、こうして電話しているの」
 「そうか…、うん、わかった」

 そう答えて受話器を置いた。
 後からじわじわと思った。

 ― 母は、医者がそう言ったから、電話しただけだと言った。そんな言葉を額面通り受け取って、「はい、わかりました」のひと言だけで済ませて良いものだろうか? 本当に、このまま、なにもせずに放っておいて良いものだろうか? ―

 十九歳で故郷を離れてから、二十八年が経過していた。長野県上田市に二十年住み、その土地にすっかり馴染んでいた。
 そこでの生活をいきなり捨てて、鹿児島で暮らす。そんなことは、イメージすることさえ難しかった。

 知人に電話し、その状況を話してみた。福岡に住み、音響関係の会社を営む、高校時代からの友人だ。
 彼はこう言った。

 「いざという時に、長野は遠すぎるんじゃない? こっちだと長野よりは仕事も多いし、何かと協力もしてあげられる。こっちに来れば?」

 ありがたい提案に心が動いた。

 その話を、勤務先で話してみた。社長夫人で、経理を担当している三歳年上の女性だ。
 その方は、こう言った。
 「福岡じゃなくて、鹿児島に帰ってあげなさいよ。そばにいると、両親も助かるよ」
 その方は、たまたま僕と同じ鹿児島出身で、以前から、何かと後押ししてくれていた。
 「でも、鹿児島だと仕事がみつからないですよ」
 「営業所を構えればいいよ。あなただったら大丈夫だよ。商品はこっちから送るから」
 その場で「はい分かりました」なんて答えられるようなことじゃなかった。
 だが、それ以降、顔を合わせるたびに、
 「鹿児島に帰ってあげたら? 本社の社長にも掛け合ってあげるから」
 そんな言葉が繰り返され、次第に気持ちが固まった。
 鹿児島の両親のことを思うと、やはり、そばにいてあげたかった。

 十一月二日早朝、僕は上田を離れた。
 まだ明けきらぬ寒空の下、吐く息が白く見えていた。愛車のマーチに乗り込み、ハンドルを執った。
 高速を使わず下道を辿り、松本から木曽路を抜け西へと向かう。
 冬の近づく信州から遠ざかるにつれ、季節は夏へと少しずつ後退し、街並みを彩る木々の紅葉も、次第に鮮やかな緑へと変化していった。
 途中で琵琶湖に寄り、さらに京都経由で、従弟の住む大阪へと向かった。

 従弟のマンションに三泊した後、山陽道を西へと向かった。
 瀬戸内海を左に眺め、まるで沈みゆく太陽を追いかけるように、その眩しさに目を細めながらハンドルを繰る。
 関門トンネルを潜り抜けて、ようやく九州にたどり着いたときは、万感胸に迫る思いがあった。

 福岡では、高校時代からの友人宅を訪ね旧交を温め、そこで二泊した後、鹿児島に向けて、朝早く出発。
 そこからの道のりが、思いのほか長かった。
 特に熊本から先は、長距離に渡る旅の疲れが出た。
 行けども行けども、低い山々が続き、一体どこまで続くのかとじらされた。
 ようやく車での旅も終わりに近づき、国道三号線沿いに鹿児島市に入ったときは、ほっとした。
 甲突川沿いを南下し、架け替えられ幅の広くなった玉江橋を初めて渡ると、懐かしい坂道が待っている。中高生時代に何度も歩いた懐かしい道だ。
 右へ左へと大きなカーブを二つ過ぎると、いよいよ我が家が近づいてくる。
 胸の高鳴りを感じながら門をくぐり、コールボタンを押す。 
 家の中から、静かな足音が聞こえてくる。
 「どうぞ」
 母の声だ。
 ガラス張りの格子戸をガラガラと開けると、
 そこには、両親が並んで立っていた。二人揃って、満面の笑みで迎えてくれた姿が、今でも忘れられない。

 故郷鹿児島は、秋が深まる信州とは様相が異なり、夏の余韻さえ感じられた。丸っこい山々を覆う常緑樹の輝きが鮮やかだ。
 軽石交じりの白っぽいシラス土壌、暮れてもなおしばらく青い輝きを残す西空、街角に見かける実を付けた蜜柑の木など、幼少期には普通に見ていたはずの景観が、鮮やかに目に飛び込んできた。
 すっかり変わって見える町風景のあちこちに、昔の面影が残っていて、まるで時が昔に戻ったかのように、かつて見た子どもたちの姿や、少年の日の自分の後ろ姿が思い浮かんだ。


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