シリーズ「一年一組」③ *口癖は「あげろうか」
相田孝雄君という男の子がいた。彼は幼稚園でも一緒で、入学直後から、割と仲良くしていた。
それには明確な理由がひとつだけあった。
― 遠足のとき、よくお菓子を分けてくれたから ―
ただ、それだけの単純な理由だった。幼稚園の頃、彼のリュックには、なぜか沢山のお菓子が入っていて、弁当箱の中にはおいしそうなおかずが豊富に詰め込まれていた。彼は、大きく涼し気な目と、おっとりとした性格の持ち主で、
「これあげろうか」
というのが、ほとんど口癖になっていた。
「あげようか」ではない。いつも「あげろうか」だった。彼独特の幼児発音だ。
入学後、彼の顔を見た途端に近付いて仲良くなった。六歳の僕にとって、「良い人」とは、「物をくれる人」に他ならなかった。実に現金なものである。遠足のときは、もちろん、彼のそばに張り付いていた。
相田君は、三階建ての鉄筋コンクリート製のアパートに住んでいた。昭和のその辺りでは、ほとんどの一般庶民が木造の一軒家に住んでおり、屋根瓦の被っていない白い建造物は、近未来的な輝きを放っているように見えた。お菓子を惜しげもなくくれるところからも、たぶんお金持ちの息子に違いないと思い込み、大層羨ましく思っていた。
その相田君の家のそばには、苗字は忘れてしまったが、「めぐみちゃん」という、同じクラスの女の子が住んでいた。丸顔で色黒、明るい性格の素直な子だった。
その二人が、学校帰りに、僕の誘いに乗って、ウチに遊びに来たことがあった。その後、三人で相田君のアパートに移動したのだが、このとき、男子二人はとんでもなく情けないことをしでかしている。
相田君のポケットに小銭がいくらか入っていて、それがちょうど子ども二人分のバス料金と同じ。一人分足りないのを残念がっていたら、めぐみちゃんが、こう言ってくれた。
「あたし歩いて行くから、二人でバスに乗っていいよ」
「ほんと? わあ、良かった!」
大喜びの男の子たち。
二人はバス停に並んで立ち、めぐみちゃんは歩き出した。
しばらくして走り出したバスの窓から、西田本通りを一人で歩いているめぐにちゃんを見つけた僕らは、喜んで手を振った。めぐみちゃんも笑って、手を振り返している。
「めぐみちゃんって、イイ子だね」
二人は顔を見合わせて、無邪気に笑っていた。自分たちの情けなさには、全く気付いていない。
相田君の家につくと、彼はニコニコしながら、面白い物を見せると言った。めぐみちゃんには見せられないからと僕を急かし、手を引っ張って屋上へと階段を駆け上った。
めぐみちゃんには見せられないって…、よっぽど特別な何かなんだ。それを僕だけに見せるって、第一の友だちだと思ってくれてるんだな…。
そんな気持ちが嬉しかった。
一階から二階へ、そして三階へと、一段一段上がるに連れ、相田君の言う「面白い物」への期待感も高まった。
そして、広々と開け放たれた屋上へと到着し、青空が眩しかった。期待感全開である。手を引かれて、救急隊みたいなスピードでその場に着いた途端、僕はがっかりした。
「面白い物」とは、壁の落書きだった。
― 何だ、これのことだったのか ―
白いチョークで描かれた、首から膝あたりまでの女性の裸体画。乱雑な線で描かれた、たぶん数秒で殴り書きしたものだ。
少し遅れて、嫌な気分に襲われた。
「一体誰が、どんなつもりで描いたんだろう?」
それと同時に、説明のつかないもやもやとした気持ちに包まれた。
めぐみちゃんは、僕らより十分ほど遅れて、ニコニコしながら到着した。
数日後、その壁の落書きと同じ柄を壁に描いた。
誰にも見られないように、自宅のトイレにこっそりと・・・。
でも、犯人が誰だかなんて、すぐにバレた。
いくらこっそり描いたつもりでも、場所が自宅のトイレなら、最初から「僕が書いたよ」と自白しているようなものだ。三人の子どもの中で男の子はただ一人。
「あんな絵を描くのやめなさい」
母からそう告げられた。
強くたしなめられるでもなく、平穏な口調だった。落書きの犯人だとバレたのだから、もっと強く叱られるものだと思っていた。
だから、僕は気楽に聞き返した。
「どうして?」
この一年坊主は、自分で描いた絵の意味さえ気づかずにいた。
母は、力なくこう続けた。
「どうしてって…、そんなのどうでもいいから、描いちゃダメだよ」
後年、母がこう言ったことがある。
「あんたは、ある時期まで、自慢の息子だったんだよ」
あの落書き一つで、その「ある時期」が終わったとは言わない。 けれど、まだ若かったあの日の母は、何故か少しだけ寂しそうに見えた。
その理由が何となく分かるようになったのは、その後、大人になってからである。
(※登場人物名は、すべて仮名です)
☞シリーズ「一年一組」④ *舟男君の孤独
