ミュージカル版『ノートルダムの鐘』は、最高|コラム
※ミュージカル版ラストのネタバレあり※
『レ・ミゼラブル』の著者として有名なフランスの小説家、詩人ヴィクトル・ユーゴー。
氏の傑作の一つである『ノートルダム・ド・パリ』(1831年)には、多数の映像作品が存在します。
その中で個人的に大好きなのが、ディズニーが製作したミュージカル版『ノートルダムの鐘』。
アニメ版に基づいた楽曲で構成され、日本では劇団四季により公演されています。
本記事は、そのミュージカル版の萌え語りとなり、ほぼフロロー大助祭の話です。弟ジェアンへの愛憎、カジモドへの投影について。
アニメ版とは一味違った魅力を持つ本作に、少しでも興味を持っていただける機会になれば幸いです。
また、本記事ではストーリーを詳細に追ってはいないので、すでにアニメ版等を視聴して展開を知っている方向きの内容かと思います。ご了承ください。
▼ストーリーやキャラクター紹介は公式サイトにて。
🔗劇団四季『ノートルダムの鐘』公式サイト
─ これは兄弟と、その一族の物語
本作にはオリジナル要素として、カジモドの父親ジェアンが登場します。
ジェアンはフロローの弟です。つまり、フロローとカジモドは伯父と甥の関係にあたります。
この設定によりミュージカル版は、キャラクターの関係性がややこしく、心理的に深いものになっています。
物語はフロローとジェアン兄弟の生い立ちから始まります。
二人は孤児(みなしご)で、教会で育てられました。
フロローにとって、ジェアンはこの世で唯一の家族。
心優しき兄であったフロローにとって、弟のジェアンがどれだけ大切な存在であったかは想像に難くありません。
「立派な信徒となり、兄弟なかよく教会で暮らす」、それがフロローの夢でした。
しかし、ジェアンはフロローとは正反対の享楽者。
勉強は大嫌いで、酒場などの盛り場を遊び歩く弟に、真面目な兄は失望します。
なんとか更生させようと努力しますが、ついにジェアンは教会から破門され、兄弟は違う道を歩み出します。
数年後、教会で権力を握るまで昇りつめたフロローが久しぶりに再会したジェアンは瀕死の状態でした。
フロローはジェアンから面倒を見てほしいと、赤子のカジモドを託されますが、母親がジプシーだったため拒否します。
しかし、ジェアンは死の間際に一言、強くこう言い残します。「俺の子だ」と。
そのまま息絶えたジェアン。悲嘆に暮れるフロローが腕の中の赤子に目をやると、それは怪物のような容姿をしていました。
この醜さは、「不貞を働いた悪人(両親である弟とジプシー)の罰」であり、「神の裁きである」と考えたフロローは、赤子を殺してしまおうと思い至ります。
しかし、その時、教会の外壁の石像からの視線を感じます。「神がみている」、"恐怖"を感じたフロローは、カジモドを育てることを決意します。
そして、その子に名前を付けます。「カジモド(できそこない)」と。
─ 葛藤と逃避行の"投影"
フロローにとって唯一の家族であったジェアンは死にました。
本当は弟を連れ戻し、教会という守られた聖域で一緒に暮らす。
それがフロローにとっての幸せ(責務)だったけれど、叶わなかった。
その理由は、弟が「邪悪だった」「弱かった」から。
そして、自分が無力で「できそこない」だったから。
弟の人間性に対する言及は、作品でも上記の言葉で吐露しています。
しかし、”自身が「できそこない」である”という自認は、フロローにはないと思います。
あくまで私の妄想であり、フロローの無意識下にあったのではないかというifです。
フロローは孤児であり、選択肢などない人生を送ってきたことが想像されます。
教会の唱える正しい教えに従い、神に尽くし、清貧で、真面目であることで生かされてきました。
過去の経験則により、ジェアンのように堕落した生き方は、フロローの生存本能は許さないのです。「できそこない」であることは死を意味します。
例え自身の一面に過ぎないとしても、フロローは「できそこない」であることを受け入れることはできないでしょう。その烙印を一度でも押してしまうと、自分の心が壊れてしまうから。
だから、フロローはその「できそこない」をジェアンへの憎しみも込めて、息子であるカジモドに付けます。その残酷な名前を。
ここに込められた「できそこない」は、認めたくない自分自身、弟への愛憎、カジモドの容姿の醜さ(=自分の血統への嫌悪)、複合的だと感じます。
フロローは認めたくない自身の中にある「できそこないの自分」をカジモドに投影したと思います。
そして、カジモドの人生で復讐を誓います。
ジェアンにはしてやれなかった、ジェアンでは叶わなかった夢を、責務を。
フロローのような"正しい人間"になることを。
フロローの中にはジェアンに対する愛憎が渦巻いていると思います。
元から明朗快活で自由を愛するタイプだったジェアンの本質に目を背け、自分のような真面目で熱心な教徒になることを強要しました。
大切だから、守りたいから、自分のコントロールできる存在でいてほしいという欲を優先させました。
口にはしないが、ジェアンに対する嫉妬もあったでしょう。
仮面を被って生きる自分に対して、権力に逆らい自分らしくありのままで生きる弟に、フロローは密かに憧れていたのではないかと感じます。
─ その繊細と矛盾は、人類共通の”既視感”
フロローはかなり繊細で、複雑な心の持ち主だと思います。
そして、それゆえにフロローはすべてを否定します。
エスメラルダも、ジェアンも、カジモドも。そして、誰かを愛する弱い自分も。
それは一種の自己防衛です。
フロローは融通も効きません。
完璧主義で視野が狭く、感情における柔軟性がありません。
しかし、その恩恵として大変な努力家であり、教会組織においてのし上がり権力を掴みました。良くも悪くも執念深いタイプです。
物語の冒頭で、久々にジェアンから届いた手紙に歓喜し、立場が危うくなるにも関わらず馬を走らせるシーンがありますが、深い人間関係の相手に対する愛は惜しみなく、一度心を開いた人間にはとことん尽くことも伺えます。
先にも述べたように複雑で繊細がゆえ、優しすぎるがゆえに一歩も譲れない、譲ったら自分が壊れてしまうから堅牢な城を作り、そこに籠城するしかなかったのかもしれません。
エスメラルダへの恋慕や情熱も、「邪悪な炎」と形容し、徹底的に軽蔑します。
エスメラルダを見ると、フロローは苦しくなります。
今まで目を背けてきた”本能の自分=本当の自分"が顔を出すから。
本当の自分とは、今まで自分が軽蔑してきた弟や、ジプシーたちのような人間。
息苦しい仮面など被らずに素顔で生きる、誰にも従わず自分の人生を生きている人間。
そして、ジェアンが愛した女性もジプシーでした。
弟をたぶらかし、奪った存在としてジプシーを憎んでいたはずですが、結局はジプシーであるエスメラルダに恋をします。
フロローは、そんな強烈な矛盾の中に生きています。
『ノートルダムの鐘』が、名作と成りえたのは、時代を超えてた人類共通の”既視感”がそこにあるからかもしれません。
─ ラストシーンと問い、「人間と怪物の違い」
この子を導いてやらねば
正しく生きていけるように
私のように
最初の二行はフロローの中の良心の声であり、信心深い慈悲の心です。
現にフロローはカジモドをこじらせレベル100ですが、愛しています。
カジモドの中に自身や弟の影を見ているから。
フロローはカジモドが成長しても「この子」と呼び、カジモドが勝手に外に出た時には、「二度と外に出るな」と叱責しますが、その声色は冷淡ではなく切実です。
自身がカジモドに行っている虐待行為を、善なる「導き」だと本気で考えています。
ただし、最後のセリフから分かるように、フロローにとっての「正しさ」の基準は自分です。
その視野の狭さと少ない選択肢が悲劇を招きます。
物語のラストシーン、フロローはカジモドの手により教会の上から投げ落とされ、命を落とします。
カジモドが最後にフロローに言い放った言葉は、これまでフロローから散々聞かれてきた言葉、「悪人は罰を受ける」でした。
そして、本作では冒頭からフィナーレまで、鑑賞者にある問いを投げ続けます。
答えてほしい謎がある
人間と怪物 どこに違いがあるのだろう?
ここでいう"怪物"はUMAや幽霊ではなく、概念としての"怪物"です。
カジモドはその容姿からずっと"怪物"だと罵られて生きてきました。
しかし、カジモドは実に心が美しく、優しいただの"人間"でした。
フロローを手にかけるまでは。
ラストシーン、出来事だけを見ればハッピーエンドです。悪は倒されました。
しかし、最後に残ったのは、人殺しという罪を背負ったカジモドだけ。
元はただの人間だった、"怪物"だけが残される。
そして、この世界では、悪人は罰を受けます。
─ 最後に
私は人間と怪物に差異はないと考えます。
怪物も元は人間であり、人間が怪物を生み出します。
人間の怒りの源泉が、恐怖や悲しみであるように。
ありもしないものを生み出し、怯え、破壊するのは、人間の繰り返してきた歴史そのものです。
これを読んでくださっているあなたの中にも"怪物"はいるかもしれません。勿論、これを書いている私の中にも。
それはどんな"怪物"か?
『ノートルダムの鐘』を聴きながら、少しだけ思いを馳せてみてください。
本作は、Apple Music等で配信されています。ぜひぜひぜひ聴いてみてください。
日本語版(四季版2種)、英語版、両方ありますが、個人的にオススメの盤を貼っておきます。
🔗劇団四季ミュージカル「ノートルダムの鐘」 (オリジナル・サウンドトラック 東京初演キャスト カジモド役:海宝直人)
─ 余談
原作小説において、エスメラルダが牢屋に捕らえられるシーンがあります。
このままでは処刑されるという時、フロローはエスメラルダに「自分の愛を受け入れるなら牢屋から出してやる」と持ちかけます。脅迫です。
フロローはそこで数ページにわたる超長台詞で、いかに自分がエスメラルダを愛しているかを語ります。
これがまた驚くくらい長い、くどい、しつこい。
しかし、それ以上に凄いのがエスメラルダです。
フロローの話を一切聞かず、「いいからフィーバス様に会わせて」の一点張り。
すぐに首を縦に振ると考えていたフロローも途中で焦り、何度も「いいから私の話を聞け」とエスメラルダをなだめる始末。
このシーン、フロローのキモ長台詞とエスメラルダの聞かん坊さの対比がすごく面白いのでオススメです。
※上記はAmazonアソシエイトを利用しています
