刻まれた記憶 ― 再会した古ぼけた定規―
部屋の整理というのは、時に思わぬ過去と対面させてくれる。 先日、棚の奥を片付けていた折、ふいにあるものが指先に触れた。約五十年の歳月を共に歩んできた、プラスチック製の古い定規だ。
十年前、家の中の机を移動させた際、忽然と姿を消してしまったものだった。どこへ紛れ込んだのか、あるいは誤って捨ててしまったのか。以来、私の机からその姿は消えていたが、このたびの整理で、まるで機が熟したかのようにひょっこりと姿を現したのである。
記憶の空白と、直感の形
この定規を手にしたのは、誰かからの譲り受けたものだったか、あるいは前任者の机に残されていたものだったか、正確な記憶はない。しかし、初めて手にした時の感覚だけは鮮明だ。
定規の多くは、端が斜めになった三角形の断面をしていたことが多かった。しかし、これは珍しい「台形型」をしていた。その独特なフォルムが、手にも、そして感性にも、驚くほどしっくりと馴染んだのだ。

仕事で行き詰まり、考えに耽る時、私はいつもこの定規を傍らに置いた。無意識に指先で触れ、その感触を確かめる。すると不思議なことに、凝り固まった思考が解け、新たなアイデアが次々と湧き出してくるのだった。この定規は、単なる計測道具ではなく、思考を呼び起こすための「鍵」のような存在になっていた。
陰陽の線をなぞる
再会を果たした今、改めてこの定規を見つめ、ある光景が脳裏をよぎった。 かつて野村萬斎氏が演じた安倍晴明が、空に鋭く線を走らせ、十字を切る、陰陽道の所作である。
この定規に刻まれた無数の「線」。考え事の最中にそれに触れるという行為は、混迷した思考に筋道を通し、雑念を「斬る」という儀式に似ていたのかもしれない。
陰陽道において、何もない空間に一本の線を斬る、線を引く、陰陽を分けるなどの行為が、定規に触れ、線を意識することであり、停滞した思考を動かし、新しい発想を誕生させるためのスイッチを入れる儀式となったといえる。
陰陽道は『易経』『五行』『風水』を源流に、平安の日本で花開いたものだ。『易経』『五行』『風水』これらの学問を長年研究してきたものにとって、この定規との縁は、単なる偶然とは思えない。
五十年前の空気を纏い、十年の空白を経て戻ってきたこの小さな道具。 再び指先に触れるその台形の稜線は、古の理と現代の思考を繋ぐ、一本の確かな「線」として、今日も静かに机の上に横たわっている。
