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【自己紹介】普通なワタシが海外で始めたnote


現在、私はボランティアとして中央アジアにある小さな国、キルギス共和国で理学療法士として子どものリハビリに携わっています。

どちらかと言えば「普通の人」が、回り道しまくりながら、今を生きています。
今回は自己紹介なので、普通のワタシが海外でボランティア活動するまでをnoteで書いていきます。


幼少期は多動で器械体操を勧められる

私は幼少期、いわゆる“多動児”でした。
マンションの屋根で滑り台ごっこをしたり、排水管を1階から6階まで登ってみたり。
3歳の頃には独学で逆上がりを覚え、鉄棒でぐるぐると回っていました。

見かねた母が器械体操クラブに通わせてくれ、そのエネルギーはようやく安全に昇華されました。
特に鉄棒の大車輪が大好きで、感覚統合療法のような役割を果たし、私は少しずつ落ち着きを取り戻していったように思います。

器械体操現役時代
(写真嫌いだったため、一人だけやらされてる感)

中学では部活動に憧れながらも、地元の中学には器械体操部がなかったため、クラブチームを継続。
しかし中学3年の秋、大会の前日に跳馬の着地に失敗し前十字靭帯を断裂、それでも競技復帰を目指し、手術とリハビリをしました。

高校では念願の器械体操部のある学校に進学。

手術とリハビリを経て競技を続けるも、競技レベルでは以前よりも思うように膝が使えず…。また、その期間に手首に負担のかかる技ばかりを練習させられ、ついには手の骨が疲労骨折し、全治半年と診断され、高校2年の夏に退部を決意。
私の長年の夢だった器械体操の道は、ここで終わりました。


青春の思い出の唯一の写真
部活が終わるといつも爆睡
下から二番目が私


体操の道が断たれ、進学も諦めかけた高校時代

体操に打ち込んでいた私は、「何かひとつ頑張っていればいい」という家庭の方針に甘え、勉強からは逃げ続けていました。

朝から晩まで体操に明け暮れて、13年間体操中心で過ごしてきたので、急になくなると何をしたら良いか分からず…

勝手にバイトを始めたり、ちょっとグレてみたり…
その結果、親まで学校に呼び出され、「クラスに悪影響を与えるから退学してほしい」とまで言われてしまいます。

なんとか退学はまぬがれましたが、指定校推薦やAO入試の道は閉ざされました。
私のクラスは推薦で大学を決める生徒が多く、一般受験組は少数派。
居心地の悪さと焦り、そして将来への不安が重なって、何度も「もう高卒で働こうかな」と思いました。

そんな私の背中を押してくれたのは母でした。
「夢があるなら、今からでも遅くない。諦めないで」
その言葉で、理学療法士を目指すことを決意しました。


まずは自分の学力を知ろうと、塾のクラス分け相談を受けました。
数回の口頭試問でレベルの低さがバレてしまい、渡されたのは「中学3年・夏期講習」の問題集

「いや、私、高3なんですけど…」と思いつつも、開いてみると一問も解けず、愕然としました。

母子家庭で経済的に余裕がなかった中、英語だけは塾に通わせてもらい、あとは独学で3教科に絞って受験勉強。(国公立対策は間に合わないため速攻諦めました)

そして、なんとか第一志望の大学に現役合格しました!

実は、前期受験で落ちてしまい、滑り止めで受かった大学にしようか悩みましたが、諦めきれずに後期受験でリベンジしました。
なので、卒業式後にも試験が控えていました。

卒業式の日、
一人だけ残って自習室で勉強してたら友達が来てくれた



大学に入ってから“こどものリハビリ”を知る

大学時代は、母への負担を減らしたくて、飲食や携帯販売員など複数のバイトを掛け持ち。
青春も味わいたくてダンス部にも所属していました。

ダンス部のイベントにて

とはいえ試験は再試のオンパレード
でも留年はせず、国家試験も一発合格できたことは奇跡です。

理学療法士を目指したのは、器械体操で自分が怪我をした経験から。
最初はスポーツリハビリに興味がありましたが、その業界で食べていけるのはごく一部の人だけ。大学に入ってからより身近にその話を聞くにつれて私には向いてないかも…

そんな時に出会ったのが「こどものリハビリ」でした。
子どもが好きだったこともあり、ゼミは小児リハビリ研究室を選択。
スポーツや脳卒中分野などリハビリの大多数を占める分野からするとマイノリティーな分野ですが、逆にそこに希少価値があるのではと思い、卒論も小児リハビリについてまとめ、私はその魅力にどっぷり浸かっていきました。


“幸せ”がわからなかった私

私は幼い頃から「幸せって何だろう?」とよく考えていました。
物心ついたときには父は家に帰らなくなり、その後離婚。

「私が可愛くなかったから?好かれる努力が足りなかったから?」
そう自分を責め、愛や幸せを感じられないのは自分のせいだと思っていました。

正式に離婚が決まった頃には小学4年生だったため、母は『子どもの環境を変えさせたくない』と苗字変更や引越しをせず、近くに身内がいない埼玉でそのまま住み続け、朝から晩まで働いてくれました。
そのため、母がいつも疲れていることを子どもながら察し、甘えることができませんでした。
中高校生になり、それが反抗期となって母に冷たくあたってしまいました。

大学卒業後、就職までの春休みにひとりでカンボジアの孤児院を訪問
そこで出会ったのは、大変な環境におかれながらも目をキラキラさせて笑う子どもたち。

私は彼らの笑顔に救われ、「国際協力」という生き方に強く惹かれるようになったのです。

初めてカンボジアの孤児院を訪れた時の子どもの笑顔


その頃から将来は子どものリハビリに関わっていきたいなと強く思うようになりました。
そこで、国立病院機構の一部に小児対象の患者がいる病院へ就職しました。
その後、理学療法士3年目の頃に休暇を使い再びカンボジアを訪問
孤児院やアンコール小児病院、北原国際が建てたプノンペンのクリニックも訪問させていただきました。

再びカンボジアの孤児院へ
プノンペンにある北原国際のクリニックへ訪問


その時感じたことは
「今の私では力不足で現地で役に立たない、もっと日本で小児リハビリの専門性を高めてから行きたい
と思うようになりました。

そこで、子どものリハビリで核となるものは何か?を考え、出した答えがまずNICU(新生児集中治療室)での経験が必要だと。

しかし、NICUのリハビリに力を入れている病院はとても限られており、しかも枠がかなり少ない…

そこで、タイミング良くNICUのリハビリに力を入れている小児総合病院の産休代替の応募があり、真っ先に飛びつきました。
そこでの2年間でNICUやその他小児に関わる様々な診療科や外来、在宅移行などを経験することができ、私の小児リハビリの基盤ができたと実感してます。

その後も2つの小児総合病院を産休代替として勤務し、重症児デイサービスや訪問リハビリも掛け持ちした時期もありました。
最終的には小児に特化している在宅クリニックや訪問看護ステーションで訪問リハビリの常勤として働いてました。

NICUにて自作クッションチェアと共に記念写真


まじめに学会発表してみたり…


失恋からの海外ボランティア

そんな中、2020年の冬(当時27歳)
4年付き合っていた彼から別れを告げられました。
ショックは大きかったです。
当時も海外ボランティアに憧れはありましたが、付き合っていたので、応募する勇気が持てずにいました。
もしくは、色々落ち着いたらシニアボランティアでも良いかなとも考えていました。

今思えば、当時は好かれるために相手に合わせなければならないと無意識に思っており、自分自身の人生を選択する勇気が持てなかったのだと思います。
そのため、それが重荷に感じたのかも知れません。


しかし、こうなった結果は変えることができません。
これを糧にして前に進みたい」そう思い、
本格的に海外ボランティアへの道を決め、
2020年の春募集に応募!



しかし、コロナ禍に…



何もかも上手くいかないことに嫌気がさし、
このままではいけない、
精神的に自立した女性にならなければ!
と考えるようになりました。

みなさん、自立とはなんだと思いますか?

当時の私は一人暮らしもしていて、
経済的にも自立した生活はしていました。

でも、何かが足りたいと感じたのです。

そこでひらめきました。

自分で火をおこせて、その火でご飯が炊けて、自分で寝床も確保できたら、どこでも生きていけるかも。


まさに求めていた精神的な自立!!…と


そうして始めた

自立のための火おこし

医療職である私はコロナ禍で行動制限が厳しく、山奥でのソロキャンプは数少ない自由空間

幼少期に返ったようなワクワク感…
ゼロから生み出す喜び…
上手くいかない時の試行錯誤のハラハラ感…

次第にハマり、気がつけば野営スタイルまで極めていました。
ちなみに火おこしはライターやマッチ、市販の着火剤などの現代の叡智の結晶は使わず、ファイヤースターターで火花をおこし、麻糸をほぐしたものを着火剤にして火を育ててました。


「インフラが整っていない国に派遣されても、私は大丈夫」
そんな自信も、そこで身につけました。


直火可エリアにて火おこしからの炊飯
野営スタイルにハマっていく
ぼっちキャンプ


コロナ明けに再チャレンジ

2022年春、コロナ明けで再開したJICA海外協力隊に応募し、10月に合格。
「せっかく2年間、開発途上国で活動するなら、学術的な証も残したい」
そう考えて、JICAの活動をフィールドワークとして単位認定してもらえる大学院を探しました。
そして、2023年4月(当時31歳)、大学院へ進学。
研究という形でも、自分の活動を記録に残す準備が整いました。

そして2024年1月29日から、キルギスでのボランティア活動が始まりました。

そしてキルギスへ

派遣先の首都ビシュケクは、思っていた以上に都会でした。
火起こしは…一切必要なし(笑)
インフラも整っていて、普通にガスもWi-Fiも使えます。

ビシュケクの夜景

でも、山に囲まれたこの国で、
時に自然を味わいながら、自分の選んだ道を生きています。


キルギスでの登山(アルティンアラシャン)


おわりに

Instagramでは、派遣前訓練からの記録をゆるく発信しています。
良かったら覗いてみてくださいね!

このnoteでは、少しだけ“私の中の根っこ”を綴っていこうかなと思っています。

特別な才能もない、ごく普通の私。
遠回りしながら挫折を味わい、少しずつでも前に進んできました。
今思えば、これら全ての経験は今の道へと繋がって、活かされているなと感じることがあります。

また、今こうして海外でボランティアとして活動できているのは、たくさんの人に支えられてきたからこそです。
この経験が、どこかで誰かの力になれたらいいなと思っています。

これからは、私だからできる発信や視点で更新していこうと思っていますので、応援していただけると嬉しいです!



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