復職したのに"前の私"に戻れない——その正体は、睡眠負債の蓄積だった
「産前は、もっとできてたのに」
復職して数ヶ月。仕事はなんとかこなせている。でも、なんか違う。
会議でとっさに言葉が出てこない。資料をまとめるのに、前より時間がかかる。「あれ、なんて言うんだっけ」が増えた。アイデアが湧かない。判断がぼんやりする。
「私、バカになったのかな」
そう思って、落ち込んだことはありませんか。
違います。バカになったんじゃない。脳が、まだ「借金を返し終えていない」だけです。
その借金の名前は、睡眠負債。妊娠中から産後、育休中にかけて静かに積み上がり、復職後も体の奥に残り続けている。それが「前の私に戻れない」の正体です。
◎ 睡眠負債とは何か——借金は、静かに積み上がる

睡眠負債とは、慢性的な睡眠不足が積み重なった状態のことです。
1日の睡眠が1時間足りなければ、1週間で7時間分の「借金」が積み上がる。問題は、この借金が自覚しにくいことです。
ペンシルバニア大学のヴァン・ドンゲン博士ら(Van Dongen et al., 2003)の研究では、6時間睡眠を2週間続けたグループは、丸2日間徹夜した人と同じレベルにまで認知機能が低下していたにもかかわらず、本人たちは「少し眠いけど大丈夫」と感じていました。

脳は、自分の機能低下に気づけない。慣れてしまうから。
「最近調子が悪い」ではなく「これが私の普通」になってしまうのが、睡眠負債の最も怖いところです。
◎ 産後〜育休中に蓄積した「見えない負債」の正体

産後の睡眠がどれほど分断されるか、経験した方はわかると思います。
新生児期の授乳は、2〜3時間おき。まとまって眠れる時間は、長くて3時間。睡眠の深さを決めるノンREM睡眠(深睡眠)は、90分以上連続して眠ってようやく得られます。つまり、深く眠れない夜が何ヶ月も続く。
こどもが少し大きくなっても、夜泣き、発熱、添い寝の寝返り——眠りを分断するものは尽きません。
ウォーカー博士(Walker, 2017)は、睡眠の「量」だけでなく「分断されないこと」が認知機能の回復に不可欠と述べています。たとえ8時間眠っていても、それが細切れなら、脳への修復効果は大幅に下がる。
産後から育休中にかけての1〜2年。この時期に蓄積した睡眠負債は、復職したからといって自動的には消えません。蓄積された借金は、ちゃんと「返す」必要があります。
◎ 復職してもパフォーマンスが戻らない、脳科学的な理由

睡眠負債が慢性化すると、前頭前野の機能が落ちたままになります。
前頭前野は、論理的思考・言語化・判断・アイデアの創出を担う「脳の司令塔」。ここが慢性的に疲弊すると、「言葉が出てこない」「考えがまとまらない」「前はできたことが時間がかかる」という状態が続きます。
さらに、記憶の中枢である海馬も影響を受けます。睡眠中に海馬は日中の情報を整理・定着させますが、睡眠負債の状態では、この「記憶の転送」がうまくいかない。仕事で覚えたことが翌日頭に残っていない、同じことを何度も確認してしまう——これは海馬の疲弊によるものかもしれません。
「産前はもっとできてた」は気のせいじゃない。産前の脳と、睡眠負債を抱えた今の脳は、文字通り「違う状態」にあります。
みんな"自分の体"の経営者です。そのことを知るだけで、「私はバカになった」という自己否定から「私の脳は、今まだ回復途中にある」という客観的な視点に移れます。
◎ 「前の私」は消えていない——負債を返すと、戻ってくる

ここが、一番伝えたいことです。
脳には「可塑性(plasticity)」があります。睡眠負債が蓄積した脳も、質の高い睡眠を積み重ねることで、機能が回復していきます。
バンクスとダイングス(Banks & Dinges, 2007)の研究では、睡眠制限後に十分な回復睡眠を取ると、認知機能のほとんどが元のレベルに戻ることが示されています。
「前の私」は、消えたのではありません。睡眠負債の下に、眠っているだけです。
睡眠を整えると、戻ってくる。ゆっくりと、でも確実に。
ゴールが先だ! 方法は後だ!——「産前のパフォーマンスを取り戻した自分」というゴールを先に置いて、そのための手段として睡眠を整える。この順番で考えると、今夜からやることが見えてきます。
◎ 頭が重いまま復職して、3ヶ月後に変わったこと

ある30代のお母さんのお話をさせてください。
復職して半年、「前の自分と別人みたいで怖い」と話してくれた方がいました。会議で意見が出てこない。企画書を書くスピードが産前の半分以下。「私、この仕事向いてないのかも」とまで思い始めていたそうです。
一緒に見直したのは、睡眠のリズムだけ。起床時間を固定して、寝る前のスマホをやめて、照明を落とす時間を決めた。それだけ。
2ヶ月後、「なんか頭が軽くなった気がする」と言ってくれました。3ヶ月後には、久しぶりに会議で手を挙げられたと。「あ、私まだここにいた」と思ったと、笑顔で教えてくれました。
前の私は、消えていなかった。ただ、眠っていただけでした。
◎ まとめ
今日お伝えしたことを、3つに整理します。
・睡眠負債は自覚しにくい。「これが私の普通」になってしまうのが最も怖い
・産後〜育休中の睡眠分断は、復職後も脳に残り続ける「見えない負債」
・脳には可塑性がある。睡眠を整えると、前頭前野と海馬は回復し、パフォーマンスは戻ってくる
睡眠はスキルであり、手段です。「前の私に戻りたい」と思ったとき、まず手をつけるべきは睡眠の質を整えることです。
時間は未来から流れてきています。産前のパフォーマンスを取り戻した自分は、今夜の眠りの中に、すでに始まっています。
——今日も、お喜楽さんに行ってらっしゃい
■ 参考文献
・Van Dongen, H. P. A., et al. (2003). The cumulative cost of additional wakefulness. Sleep, 26(2), 117-126.
・Walker, M. (2017). Why We Sleep: Unlocking the Power of Sleep and Dreams. Scribner.
・Banks, S., & Dinges, D. F. (2007). Behavioral and physiological consequences of sleep restriction. Journal of Clinical Sleep Medicine, 3(5), 519-528.
