見出し画像

罪人A

この作品は、とらのすけさんの創作トライアル「罪人A」に参加して書いたものです。

十二月の冷え切った校舎の廊下で、僕はドアノブをにらんでいた。

金属の丸い部分に指を近づけては、引っ込める。
冬のドアノブは信用できない。
触れた瞬間、ぱちん、と小さな罰みたいな痛みを寄こしてくる。

「川島くん」

背後から声がした。

振り返った。

誰もいなかった。

廊下はまっすぐ伸びている。
窓の外では、暮れかけた空が薄い灰色をしていた。
床には、僕の上履きの影だけがあった。

「こっち」

また声がした。

鈴森春子の声だった。

「鈴森?」

「うん」

「どこにいるんだよ」

「川島くんの、右斜め前」

僕はそこを見た。

見えない。

何もいない。
ただ、白い息がひとつ、ふっと宙にほどけた。

「ごめん」

鈴森は、いつもより少し困ったような声で言った。

「私、朝起きたら透明になってて」

鈴森春子。
いつも窓際の席で、ノートの端に何か書いていた。
話したことはある。
だが、そこまで親しいというわけでもなかった。

「本当に?」

「うん」

「透明って、全部?」

「たぶん」

「服も?」

「そこ聞く?」

「いや、確認として」

「服も見えないみたい。朝、お母さんが私のこと探してたから」

廊下に、鈴森の小さなため息だけが浮いた。

僕は右斜め前を見続けた。
見えないのに、そこに鈴森がいる気がした。

「触れるの?」

「分からない」

「じゃあ、手、出して」

「どこに?」

「僕の前」

数秒後、僕の右手に、何かがそっと触れた。

指先の感触だった。

人の指の形をした、見えない何か。

僕は思わず手を引っ込めた。

「ごめん」

「いや、こっちこそ」

鈴森は小さく笑った。

「川島くん、今、すごく変な顔してると思う」

「見えてないだろ」

「見えなくても分かるよ」

姿が見えない以外は普通のやり取り。
僕は少しだけ安心してしまった。

次の日、鈴森は学校に来ていた。

朝の教室で、僕の隣から小さな声がした。

「おはよう」

僕は反射的に返事をしそうになって、口を閉じた。

周りにはクラスメイトがいる。

「おはよう」

結局、小声で言った。

前の席の男子が振り返った。

「川島、誰としゃべってんの?」

「いや、独り言」

「キモいよ、川島」

自分でも意味が分からなかった。

鈴森が隣で笑いをこらえている気配がした。

朝の会が始まった。

先生は出席簿を開き、名前を呼んでいく。
だが、鈴森春子の名前は呼ばれなかった。

鈴森の席はあるのに、最初から、そこは空席だったみたいに思えた。

「先生」

僕は思わず手を挙げかけた。

鈴森の声が、机の下あたりから聞こえた。

「いいよ」

「でも」

「いいの」

その声があまりにも静かだったので、僕は手を下ろした。

一時間目。
二時間目。
鈴森はずっと教室にいた。

ノートは取れない。
教科書も持てない。
でも、僕の机の端を軽く叩いて、今どこを読んでいるか聞いてくる。

「そこじゃない。次の段落」

「見えないのに分かるのかよ」

「川島くん、読むの遅いから」

「悪かったな」

「でも、字はわりときれい」

「褒めてる?」

「たぶん」

小声で話していると、また隣の男子に見られた。

「川島、また独り言かよ」

「してない」

「じゃあ誰と話してんの」

「自分と」

鈴森が机の下で笑った。
その笑い声は、僕にしか聞こえなかった。

放課後、僕らは校舎を歩いた。

「黒板に何か書いてみたい」

鈴森がそう言うと、チョークがひとりでに動いた。
黒板の隅に、小さな花が描かれる。

「これ、鈴森がいつも描いてたやつ?」

「うん」

「何の花?」

「知らない」

そう言って、鈴森はもう一つ花を描いた。

自販機の前では、鈴森が飲みたいものを迷った。

「ミルクティー」

「買うの僕なんだけど」

「あとで払う」

「透明なのに?」

「約束は守るよ」

僕はミルクティーを二本買った。
一本は窓際のベンチに置いた。

缶は、ゆっくりと少しだけ傾いた。

「すごいな」

「何が?」

「透明人間っぽい」

「透明人間だよ」

「そうだった」

鈴森は少し笑った。

でも、その笑いは長く続かなかった。

窓の外には、西日が細く差し込んでいた。

「鈴森」

「なに?」

「怖くないのか」

缶が止まった。

「透明になったこと」

少し間があった。

「うん」

「うんって、怖くないのか」

「だって、あんまり変わらないから」

「変わらないって何が?」

声が返ってこなかった。

代わりに、ベンチに置かれたミルクティーの缶が、かすかに音を立てた。

次の日の放課後、鈴森は自分の机を調べたいと言った。

「何か残ってるかもしれない」

「元に戻るヒント?」

「分からない。でも、見ておきたい」

教室には誰もいなかった。
ストーブだけが低く唸っていた。

鈴森の席だった場所には、誰かの荷物が置かれていた。
僕はそれをどけて、机の中を見た。

奥に、一冊のノートがあった。

「これ?」

「たぶん」

僕は机の上に置いた。

表紙の端に、小さな花の模様がある。
鈴森がいつも描いていた花。
その上に、黒いペンで線が引かれていた。
ぐちゃぐちゃに。花なのか虫なのかゴミなのか分からない形にされていた。

その瞬間、足が震えた。

覚えている。

あの日の昼休み、教室に晴れた光が差していた。
鈴森はいつもの席で、ノートの端に花を描いていた。

そこに、数人が来た。

誰かがノートを取り上げて、「なにこれ、キモい」と笑った。
笑い声がいくつか重なった。
鈴森は何も言わなかった。ノートは返された。

翌日、表紙の花が潰されていた。

鈴森は何も言わなかった。
新しいページを開いて、また小さな花を描き始めた。

僕は、傍観していた。

関係ない、と思ったのか。
どうせすぐ終わる、と思ったのか。
今となっては分からない。

笑ってはいない。
でも、止めてもいない。

「川島くんは、あの日も私のこと見えてたよね」

怒っているようには聞こえない。
泣いている声でもない。
ただ、十二月の廊下みたいに、冷たくてどこまでも続いている声。

僕は、机の上のノートを見ていた。

「見えてた」

声が出るまで、少し時間がかかった。

「うん」

「見えてたのに、何もしなかった」

「うん」

僕は自分の罪の輪郭を初めてはっきりと見た。

「ごめん」

そんな言葉で足りるはずがなかった。

でも、それ以外の言葉を、僕は持っていなかった。

「ごめん、鈴森」

ストーブが、低く唸った。

ノートの端が、かすかに動いた。

そこには、まだ消されていない小さな花があった。

僕は初めて、その花をちゃんと見た。

「川島くん」

鈴森の声がした。

「わたし、この花、好きだった」

気がつくと、鈴森の気配は消えていた。

翌朝、鈴森の名前は、やはり呼ばれなかった。

クラスの誰も、鈴森の席を見なかった。

僕だけが見ていた。

(川島くん)

隣から声がした。

「なに」

(今日も、変な人に見えるよ)

「もういいよ」

(いいの?)

「うん」

もう、返事はなかった。

曇った窓に描かれた線が、あの花のように見えた。

(了)


#小説
#短編小説
#青春SF
#透明人間
#見えないふり
#とらのすけさん企画

いいなと思ったら応援しよう!

一条 詩紋 いつも読んでいただき、本当にありがとうございます。 物語があなたの癒しになれば幸いです。 チップはご無用です。一緒にドキドキしてくれた思いを伝えてくだされば・・・。それがうれしいです。