罪人A
この作品は、とらのすけさんの創作トライアル「罪人A」に参加して書いたものです。
十二月の冷え切った校舎の廊下で、僕はドアノブをにらんでいた。
金属の丸い部分に指を近づけては、引っ込める。
冬のドアノブは信用できない。
触れた瞬間、ぱちん、と小さな罰みたいな痛みを寄こしてくる。
「川島くん」
背後から声がした。
振り返った。
誰もいなかった。
廊下はまっすぐ伸びている。
窓の外では、暮れかけた空が薄い灰色をしていた。
床には、僕の上履きの影だけがあった。
「こっち」
また声がした。
鈴森春子の声だった。
「鈴森?」
「うん」
「どこにいるんだよ」
「川島くんの、右斜め前」
僕はそこを見た。
見えない。
何もいない。
ただ、白い息がひとつ、ふっと宙にほどけた。
「ごめん」
鈴森は、いつもより少し困ったような声で言った。
「私、朝起きたら透明になってて」
*
鈴森春子。
いつも窓際の席で、ノートの端に何か書いていた。
話したことはある。
だが、そこまで親しいというわけでもなかった。
「本当に?」
「うん」
「透明って、全部?」
「たぶん」
「服も?」
「そこ聞く?」
「いや、確認として」
「服も見えないみたい。朝、お母さんが私のこと探してたから」
廊下に、鈴森の小さなため息だけが浮いた。
僕は右斜め前を見続けた。
見えないのに、そこに鈴森がいる気がした。
「触れるの?」
「分からない」
「じゃあ、手、出して」
「どこに?」
「僕の前」
数秒後、僕の右手に、何かがそっと触れた。
指先の感触だった。
人の指の形をした、見えない何か。
僕は思わず手を引っ込めた。
「ごめん」
「いや、こっちこそ」
鈴森は小さく笑った。
「川島くん、今、すごく変な顔してると思う」
「見えてないだろ」
「見えなくても分かるよ」
姿が見えない以外は普通のやり取り。
僕は少しだけ安心してしまった。
*
次の日、鈴森は学校に来ていた。
朝の教室で、僕の隣から小さな声がした。
「おはよう」
僕は反射的に返事をしそうになって、口を閉じた。
周りにはクラスメイトがいる。
「おはよう」
結局、小声で言った。
前の席の男子が振り返った。
「川島、誰としゃべってんの?」
「いや、独り言」
「キモいよ、川島」
自分でも意味が分からなかった。
鈴森が隣で笑いをこらえている気配がした。
朝の会が始まった。
先生は出席簿を開き、名前を呼んでいく。
だが、鈴森春子の名前は呼ばれなかった。
鈴森の席はあるのに、最初から、そこは空席だったみたいに思えた。
「先生」
僕は思わず手を挙げかけた。
鈴森の声が、机の下あたりから聞こえた。
「いいよ」
「でも」
「いいの」
その声があまりにも静かだったので、僕は手を下ろした。
一時間目。
二時間目。
鈴森はずっと教室にいた。
ノートは取れない。
教科書も持てない。
でも、僕の机の端を軽く叩いて、今どこを読んでいるか聞いてくる。
「そこじゃない。次の段落」
「見えないのに分かるのかよ」
「川島くん、読むの遅いから」
「悪かったな」
「でも、字はわりときれい」
「褒めてる?」
「たぶん」
小声で話していると、また隣の男子に見られた。
「川島、また独り言かよ」
「してない」
「じゃあ誰と話してんの」
「自分と」
鈴森が机の下で笑った。
その笑い声は、僕にしか聞こえなかった。
*
放課後、僕らは校舎を歩いた。
「黒板に何か書いてみたい」
鈴森がそう言うと、チョークがひとりでに動いた。
黒板の隅に、小さな花が描かれる。
「これ、鈴森がいつも描いてたやつ?」
「うん」
「何の花?」
「知らない」
そう言って、鈴森はもう一つ花を描いた。
自販機の前では、鈴森が飲みたいものを迷った。
「ミルクティー」
「買うの僕なんだけど」
「あとで払う」
「透明なのに?」
「約束は守るよ」
僕はミルクティーを二本買った。
一本は窓際のベンチに置いた。
缶は、ゆっくりと少しだけ傾いた。
「すごいな」
「何が?」
「透明人間っぽい」
「透明人間だよ」
「そうだった」
鈴森は少し笑った。
でも、その笑いは長く続かなかった。
窓の外には、西日が細く差し込んでいた。
「鈴森」
「なに?」
「怖くないのか」
缶が止まった。
「透明になったこと」
少し間があった。
「うん」
「うんって、怖くないのか」
「だって、あんまり変わらないから」
「変わらないって何が?」
声が返ってこなかった。
代わりに、ベンチに置かれたミルクティーの缶が、かすかに音を立てた。
*
次の日の放課後、鈴森は自分の机を調べたいと言った。
「何か残ってるかもしれない」
「元に戻るヒント?」
「分からない。でも、見ておきたい」
教室には誰もいなかった。
ストーブだけが低く唸っていた。
鈴森の席だった場所には、誰かの荷物が置かれていた。
僕はそれをどけて、机の中を見た。
奥に、一冊のノートがあった。
「これ?」
「たぶん」
僕は机の上に置いた。
表紙の端に、小さな花の模様がある。
鈴森がいつも描いていた花。
その上に、黒いペンで線が引かれていた。
ぐちゃぐちゃに。花なのか虫なのかゴミなのか分からない形にされていた。
その瞬間、足が震えた。
覚えている。
あの日の昼休み、教室に晴れた光が差していた。
鈴森はいつもの席で、ノートの端に花を描いていた。
そこに、数人が来た。
誰かがノートを取り上げて、「なにこれ、キモい」と笑った。
笑い声がいくつか重なった。
鈴森は何も言わなかった。ノートは返された。
翌日、表紙の花が潰されていた。
鈴森は何も言わなかった。
新しいページを開いて、また小さな花を描き始めた。
僕は、傍観していた。
関係ない、と思ったのか。
どうせすぐ終わる、と思ったのか。
今となっては分からない。
笑ってはいない。
でも、止めてもいない。
「川島くんは、あの日も私のこと見えてたよね」
怒っているようには聞こえない。
泣いている声でもない。
ただ、十二月の廊下みたいに、冷たくてどこまでも続いている声。
僕は、机の上のノートを見ていた。
「見えてた」
声が出るまで、少し時間がかかった。
「うん」
「見えてたのに、何もしなかった」
「うん」
僕は自分の罪の輪郭を初めてはっきりと見た。
「ごめん」
そんな言葉で足りるはずがなかった。
でも、それ以外の言葉を、僕は持っていなかった。
「ごめん、鈴森」
ストーブが、低く唸った。
ノートの端が、かすかに動いた。
そこには、まだ消されていない小さな花があった。
僕は初めて、その花をちゃんと見た。
「川島くん」
鈴森の声がした。
「わたし、この花、好きだった」
気がつくと、鈴森の気配は消えていた。
*
翌朝、鈴森の名前は、やはり呼ばれなかった。
クラスの誰も、鈴森の席を見なかった。
僕だけが見ていた。
(川島くん)
隣から声がした。
「なに」
(今日も、変な人に見えるよ)
「もういいよ」
(いいの?)
「うん」
もう、返事はなかった。
曇った窓に描かれた線が、あの花のように見えた。
(了)
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いつも読んでいただき、本当にありがとうございます。
物語があなたの癒しになれば幸いです。
チップはご無用です。一緒にドキドキしてくれた思いを伝えてくだされば・・・。それがうれしいです。