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#000 noteを始める。まずは自己紹介から。

これまでSNSに長年書き連ねてきた日記と、最近思うことをnoteに吐いてストックすることにしました。

1.何者か?

怪しいものでは御座いません。
浜松という日本の中では比較的恵まれたエリアで会社勤めをしながらキャリアコンサルタントをしています。
キャリア相談・キャリア教育・カウンセリングの経験はそこそこ、企業人としての専門領域は人事全般、人材開発、キャリア採用、キャリア形成支援と、コミュニティ活動を少々。特に地方の会社員、製造業、ローカル企業で悶々と苦悩する人の支援に心を燃やします。

サッカー狂人です。動物行動学者デズモンド・モリスのいう"部族の随行者"にして、侵入者・ジャーニーマンであります。自身の綱渡りのキャリアを、美しきローカルライフを、薄汚れたフットボールの世界に投影し、スタジアムのフィールドの向こうに広がる美しくも理不尽な世界を見つめます。

2.どんなキャリア?

(1)学生時代

学生時代からサッカーに魅せられ、アジアにその名轟く世界最高のプロサッカークラブ”ヤマハFCジュビロ磐田”の成長とともに過ごしました。多感な時期に、プロ化に出遅れて出し抜かれた復讐心をむき出しに清水エス●●スを引き摺り落としながら、野心的な投資で一気にアジア王者まで駆け上がった当時のジュビロを追い掛けられたことは私の人格形成に大いに影響を与え、その後のジャーニーマン的なキャリアに繋がる広い世界への憧れと、アンダードッグ・メンタリティを養うことができました。

憧れのジャーニーマン 高原直泰選手。彼を追い掛けてアルゼンチン、ドイツを訪ねました。

そんな自分は大学生になるや否や当時黎明期のインターネット中毒者となり、当たり前のようにサッカーの掲示板サイト運営に手を出し、まあまあなアクセス数を稼ぎ出します。webサイト制作のバイトなんかもやってました。昼間はバイト、夜中~明け方はネットで黙って口論、週末はスタジアムのゴール裏で大声で口論を重ね、金が貯まれば海外サッカー観戦に出掛けてユニフォームを買い漁る日々。英国のマーガレット・サッチャー首相が「国の名誉を汚す野蛮な爆発」と非難したスタンドのならず者"ウルトラス"やフーリガニズムの研究にも手を出し、社会不適合者への道を進んでいきます。ロクに通わなかった大学で唯一惹かれたのが、大学図書館にあった当時絶版となっていた書籍”サッカー人間学:マンウォッチング2”でした。サッチャー曰く野蛮な国の恥である私たちサッカーファンを猿を観察するがごとくじっくり見つめ、大真面目に人間理解を深めるこの書は私の生き方を優しく肯定してくれている気がして、いつの間にか人生の道標になっています。後年、書斎でこの本を見つけた我が子から「おとうの最終学歴はサッカー人間学部フーリガン学科」と小馬鹿にされたとき、何故だか自分の生き方を子供に認めてもらえた気がしました。

(2)屈辱のファーストキャリア

新卒での就職は大失敗しました。私はいわゆる就職氷河期世代です。ここ数年は氷河期世代の救済が政治のやや柔らかめな論点になり、ありがたいことに世の中からの優しいまなざしを勝手に浴びて気持ちよくなっていますが、南米サッカーとレアルマドリーの記事を読むために覚えたスペイン語検定5級くらいしかスキルがなく、ワークもライフも何のキャリアの展望も持たない当時の私に優しくしてくれる企業などあるはずも無く、100社エントリーをしたところで内定を出すのは高回転率のブラック企業2社だけ。
何とか滑り込んだ会社はどう見ても過労死としか思えないお悔み情報(死因が書いてあるから大体わかる)が頻繁にイントラに流れてくる当時のブラック・スタンダードで、体力も精神力も無い私は仕事にも職場にも適応できず、ストレスと死の恐怖に震えながら終電を逃し続けている間にあっという間に精神疾患に罹ります。
労働社会にさっぱり適応できない日々への反動から、仕事をサボってジュビロのACL(アジアチャンピオンズリーグ)遠征に出掛けたときに得た快楽と生きている実感に味を占め、もう一度渡航しようとするも会社にバレてあえなく失敗。仕方がないので翌年の同大会に照準を合わせて会社を辞めました。おかげで、その後今日まで低迷期に入るジュビロ最後の国際舞台を無事に見届けることができたので全く後悔はありません。

国際試合で現地の軍隊や警察に囲まれながら我がクラブを応援する喜びといったら、ない。

(3)やはり踏み外すセカンドキャリア

最初の転職も失敗しました。
私が数年の社会経験で得たスキルは同期入社者よりはるかに劣り、社交性はゼロ、しかも精神疾患持ち。どう見ても社会不適合者です。
相変わらず何のキャリアの展望も持っておらず、社会経済のこともさっぱり勉強していなかった私ですが、世界のサッカーのことだけは真面目に追い掛けていたおかげで、サッカークラブのスポンサー広告から、当時のグローバリゼーション、特に日本の製造業の世界での躍進と、就職氷河期の終焉とともにやってきた第2新卒採用ブームに目を付けました。
好況で人手不足のグローバル製造業に潜り込んでしまえば、仕事は何でも良し。国内で少ない仕事を奪い合い、人件費を踏み倒した会社が受注する構図のIT業界よりもマシな生活ができるはず…当時の私なりに考えた会心のキャリアサバイバルプランでしたが、入社後の現実は全く甘くはありませんでした。

いつの時代も、サッカーユニフォームからグローバル経済を見通すことができます

転職した会社は国内外で急成長を続けており、毎年のように海外工場を増設していました。下請けのため受注量をコントロールできず、品質・コスト・納期、あらゆるキャパが限界を超えて火だるま状態。また、当時の田舎の製造業は、第2新卒採用はおろか、中途採用にも慣れていません。またオンボーディングなどという小賢しい横文字はまだ存在すらしない時代、よそ者への寛容さなんてあるわけもなく、厳しいビジネス環境下であればなおさらです。運よく潜り込めただけで何のスキルも知識も社交性も無かった私は入社数か月で精神疾患をこじらせてあっさり自ら白いタオルを投げ込みます。やっぱりここでも適応できませんでしたね。
当然、忙しい先輩や同僚からはここには書けないような凄まじい暴言を次々と浴びせられました。若くして窓際に座り、すっかり社会人生活と対人コミュニケーションへの自信を無くした私は、ヒマを持てあましてお休みをもらい、人とあまり会わなくても仕事ができる資格を調べたり、海外にサッカーW杯を観に行ったりしていました。今思うと、この状況下で行くんかい!という感じですが、W杯は超楽しかったし、まだ自分は生きているんだと実感できたので全く後悔はありません。

ここで再びスキルも経験も無いまま好景気の波に乗って次の仕事にありつければ、カルロス・カイザー※のようなドラマティックな綱渡りキャリアが待っていたのかもしれません。私にもカイザーのような狡猾さとメンタルの強さが欲しかった(笑)

※ブラジル出身の元サッカー選手。「稀代の詐欺師」と称され、巧みな話術と演技で契約を勝ち取るも、怪我のフリ等で20年以上一度も公式戦に出場しないまま現役を続けた。

そうこうしているうちに常に人手が足りなかった会社はもう一度私にチャンスをくれました。というか、増員ができないので仕方なくゴミ捨て場に持ち込んで資源回収を待っていた家電を修理せず再使用した感じでしょうか。
「捨てる神あれば拾う神あり」運良く数少ない優しい先輩に仕事の仕方を一から教えてもらい、事業分野で何とか人並みに仕事ができるようになりました。すると私は、仕事と生活が安定してきたのを良いことに、平日は仲の良い取引先とのサッカー談義にうつつを抜かし(サッカーファンは世界のどこで働いていても出会う。そしてどういうわけか不真面目な人が多い。)、夜間と休日は転落の危機に陥っていたジュビロの応援に心血を注ぎ込みます。当時の私は、社会人キャリアの序盤戦があまりに辛かったのと、精神疾患のぶり返しを恐れて、人並みに働けるようになってもワザと真面目に働かないようにして、労働社会に報復してやった気になっていました。若かった。

幕、旗、マフラー、スタンドで配るビラ。
何でも手作りして、ピッチにインパクトをぶつける過程がたまらなく楽しかった。

ところが意外にも、不真面目に働いていた当時の取引先や、ファン・サポーター界隈の付き合いから学んだことは大っっっ変に大きかったのです。身の回りのいろいろなものごとに意味がつき、ナラティブとしてつながり、私のキャリア観、いや人生観が見えてきました。具体的には、ビジネスの現場で何度も聞かされた日本サッカーを牽引した丸の内御三家(三菱・日立・古河)の存在や、サッカーとバスケのプロ化を牽引した川淵三郎さんを始めとした大先輩方の会社勤め時代の逸話は魂が震えるほど面白かったし、自分が狂ったように追い掛け続けてきたサッカー界と、いまお喋りにうつつを抜かしているビジネスの世界が深く繋がっていたこと、彼らが作ってきたビジネス界とサッカー界に今の自分が生かしてもらえていること、そして、その世界に地方から果敢に挑み、日本とアジアの頂に何本もの旗を突き立てながら地域のスポーツ文化を育んできたヤマハ発動機とそのサッカー部(のちのジュビロ磐田)の歴史と、先人たちがいかに偉大かということ。
いろいろな人から話を聞くうちに、それらが自分の経てきたライフやキャリアと結び付いて、この地域で働く意味、この地域でサッカーを愛し、見守っていく意義を見出すことができ、この地域で生きていこうと覚悟が固まった気がしました。だから当時の不真面目な働き方にも全く後悔はありません。

(4)最初のちゃんとしたキャリアチェンジ

ようやく普通に仕事をして普通にお金が稼げるようになり、なんとかやれる手応えを得たところで、私の天職・人事の仕事をするチャンスが訪れます。キャリアで初の異動でしたが、異動の決定権を与えてもらい、熟考して決めることができたのでありがたかったです。私は幸せなことに、これまで勤め先から強制的に異動させられた経験は殆ど無く、これ以降の異動も転職もほぼ全て自分で進路を決めてきました。強制ジョブローテのせいでいわゆる受身体質になったり、やる気を失ったことは数えるほどしかありません。

人事の仕事は思いのほかおもしろく、人手不足もあって普通の製造業で求められる国内外の人事の修羅場は勿論、行く先々の会社で複雑な人事制度改訂を何度も担当させてもらいました。海外子会社に関わることも多く、現地労組とのストライキ交渉、人事制度設計、新会社設立など、痺れる仕事を立て続けに貰い、子会社の人事だけでなく経営やそこで展開されている事業のことも現場で学ばせてもらいました。ジェトロの本を片手に飛行機に飛び乗り、その国の成り立ちや歴史、資源起点のサプライチェーンから労働行政や雇用慣行を読み解きつつ、その地域その会社に合った制度を設計していく過程はメチャクチャ面白いものでした。私が呼ばれたのは新興国ばかりでしたが、知らない国に出掛けて、よくわからない国や地域に関心を向けて学び、必死に働いて、その結果をそこで働く人達に喜んでもらえることは本当に誇らしかったし、日本とは違い自律的に自分のキャリアを歩んでいる人達からの真剣なフィードバックを浴びたり、意見交換して良いアウトプットが出たりすると、この人も自分も一生懸命に自分の人生を生きている、切り開いているんだな、そんな感触が得られました。
そんな刺激的な日々を過ごすうちに、グローバルビジネスの成功に貢献することよりも、その国、その地域、そこで働く人のために働くことに自分の喜びがあるんじゃないかと考えるようになりました。

ズタボロなメンヘラからスタートした私のキャリアも、ここへ来てようやくキラキラエリート駐在員みたいなヒストリーに・・・なりませんよ。
渡航中の生活はと言うと、会社から貰える海外手当をケチり、食事はスーツケースいっぱいに持ち込んだカップ麺(しょうゆ味がベター 日本人に配ると求心力が高まる)、現地人と出掛ける屋台メシ(日本人と付き合うより安上がり)、薬局の安いパン等で済ませて節約していました。浮いたお金でその国、その街のサッカークラブのユニフォームを買い集めていました。普通なら人付き合いが悪いと嫌われそうなところですが、類は友を呼び、どの国に出掛けても部族の仲間が現れます。気付いたらいろいろな国の仲間からユニフォームをせびられたりプレゼントされたりするようになり、週末の試合観戦の情報も彼らから得ることができました。サッカーはやっぱり最高のグローバルスポーツ。そして、当時出会った趣味なのか仕事なのかよく分からない不真面目なサッカー部族の随行者たちとの美しい交流は今も続いています。

1枚1枚、全てのユニフォームに、出会った場所と、その時の思い出が刻まれています。

(5)キャリアでいちばん恥ずかしい仕事

ようやくキャリアが充実してきたところで、今度は会社の雲行きがおかしくなってきます。
立ち上げた海外子会社を設立途中で畳むことになり、立ち上げに携わっていた私が現地スタッフを全員解雇することになりました。
仕事なので当然、会社をリスクから守りつつヒヤヒヤしながら解雇をしたわけですが、解雇の主因は会社の事業の見通しの甘さです。なのに解雇された人達は誰1人悪態をつくことなく、日本人スタッフと一緒に涙を流し、1時間後には送別会の店まで予約して解雇実行犯の私にも声を掛けてくれました(合わせる顔がないので断りましたが)。この解雇は私のキャリアで一番恥ずかしい仕事でした。
他にも、地域や行政との向き合い方にもイマイチなところがあり、地域に迷惑を掛けながらグローバルビジネスの尖兵役を務めるのにウンザリしてしまいました。
解雇の数日前に観た、街のサッカークラブの試合が胸熱な展開で、家路につく観客のみなさんの笑顔がとても素敵だったのも、余計に心に引っ掛かりました。

素敵なサッカーを見せてくれる街の人に失礼なことをしてはいけない。

(6)たくさんの転機と向き合う

そうこうしているうちに今度は日本の本社が大きな会社に買収されます。自社のビジネスへの思い入れが枯れかけていたのに、買われた新しい会社にはさらに思い入れがありません。立場上、私もPMI(会社と会社の事業を統合しシナジーを最大化させるプロセス)を推進する立場でしたが、買収が決まった時点で、会社と仲間に迷惑にならないところまで進めたらお先に失礼しようと心に決めていました。
この買収で、キャリアが分断されて苦しむ人、環境の変化に適応できず病んでしまう人、流れに身を任せて失敗する人、お湯が沸騰しているのに気付こうともしない蛙等、たくさんのキャリアの岐路を目にしました。一方で、人のキャリアを支えられない私のような人事担当や、再配置することで手一杯な経営の仕事ぶりも、どうなのよと思いました。私の住む地域には他社でも工場閉鎖、事業の再編、希望退職の募集が相次いでいたこともあり、岐路に戸惑うこの人達を支えて、気持ちよく働ける社会を作らないと、せっかく買収やM&Aを行っても機会損失は計り知れない。これはまずいと思いつつも、当時の私は自分の身の振りを考えることで精一杯でした。

転職活動は、ブラックIT企業から命からがら逃げ出したキャリア序盤の転職とは見える景色が変わり、選択肢の少ない地方ではあるものの、たくさんの企業から声を掛けていただけました。JTCも、町工場も、世界トップクラスの外資も見て回り、たくさんの人と話し合い、学ばせてもらい、自信と勇気を手に入れました。キャリア探索の旅が楽しくなってしまい、気付いたら7ヶ月くらい転職市場を徘徊していました。

私のキャリアジャーニーのロールモデル "ロボ・グラウ"  ゴールで行く先々の街のみんなを笑顔にした、でもちょっと胡散臭い男。かくありたい。

(7)キャリア支援者になってみる

長旅の末にたどり着いたのは、業種も職種もあまり変わらない会社。残念ながら安息の地とはならず、苦労や逆境もたくさんありましたが、それでも心から応援したいと思える愛すべき人達に囲まれ、自分の生き方、アイデンティティを見つめ直せた素晴らしい数年間でした。
自分の好きな人事を中心に人事総務系の大半のマネジメントを任せてもらえたし、何より良かったのは、上場企業であり、グローバルビジネスを展開しつつもきちんと社会と向き合う人達がいて、地域社会や業界とのつながりがあったこと。お客様の方だけを向いて仕事をすることにウンザリしていた私に、会社の外の人たちと連携しながら事を成す面白さを教えてくれました。
しかし、入社して程なくして主力事業が傾き始め、キャリアへの不安からプロパー社員の多い社内の雰囲気がどんよりしてきました。これは私にとってはいつか見た景色。でも、まだ会社を畳んでしまったわけでもないし、港には黒船もホワイトナイトも来ていません。まだ何とか出来るはずだと思い、様々な人事制度を見直す傍ら、上司に掛け合って国家資格キャリアコンサルタントの資格を取らせてもらい、社内にひとりキャリア相談室を設置。この本を片手に相談とカウンセリングの仕事を始めました。

勢いで資格を取ってすぐに始めた素人キャリア相談室です。社員に怪しまれるかと思いきや思いのほか好評で、先々まで予約が埋まり、ひとりでは対応しきれないほどでした。
相談支援を行っているだけでは、ただちに業績が回復したり事業の将来が明るくなることはありませんが、地域で働く人の抱える課題、会社の組織風土の課題が面白いように見えてきて、キャリコンとしてのスキルと、これまで積み上げてきた人・組織・経営分野の経験を組み合わせれば、地域で苦労しているもっと多くの人や組織の役に立てる手応えを得られました。そして、もっと役に立てそうなフィールドを探したくなってきて、また踏み外してしまいました。

3.よろしくどうぞ

こんな紆余曲折、艱難辛苦を経て、自分のキャリアの後半戦のテーマがはっきり見えてきました。
地域で働く人を支える仕事をして、地域に恩返しをすること。その積み重ねが、地域の物心両面の豊かさに繋がるはず。そして、ジュビロのスポンサーが増え、グラスルーツの競技者も増えれば、再びアジアを獲ることができます。清水⚫︎ス⚫︎⚫︎スなんて思う存分叩けますよ。

というわけで、地域をふらふらと見て回り、つなぎ、つながりながら気付いたこと、感じたことをつらつらnoteに吐いて、スッキリしたいと思います。
キャリアの話も、サッカーネタも、どうかお付き合いくださいね。
どうぞよろしく。  

ちゃうちゃう

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