一生ボロアパートでよかった㉚
あらすじ
自慢だった新築の白い家が、ゴミ屋敷に変貌していく。父はアル中になり、母は蒸発し、私は孤独になった。
ーーー1人の女性が過去を振り返っていく。
↓前話
↓本編
家までは風に吹かれて帰りました。時に風に背中を押され、時に髪が靡く方へ誘われて、気がつくと家の前に立っていました。朝は重い足取りで一歩ずつ地面を踏み締めて学校へ向かったのに、帰りは地に足がついていないかのような身軽さでした。風が私を浮かせてくれたのかもしれません。私の中の重りは、すっかり無くなっていましたから。
鍵を開けて家に入ると、玄関の扉がバタンと大きな音を立てて閉まりました。ドラム缶の中のようによく響くその音を聞いて、帰ってきた、と思いました。こんなゴミ屋敷でも、やっぱり私の居場所はここなんだと思いました。いつもは嫌で仕方がないのに、廊下を埋め尽くすゴミ達を見て安心しました。でも、ただいまは言いませんでした。
玄関で靴を乱暴に脱いで、自分の部屋へ向かいました。制服は脱いだ後、床に放り投げました。もうすでに皺だらけだったので、わざわざハンガーにかけようとは思いませんでした。シミのついたヨレヨレのパジャマに袖を通して、薄寒い布団に入りました。
疲れた。ようやく自分の巣に戻ってきて思ったのはそれだけだったように思います。いや、その時も色々と考え事をしたような気もしますが、疲れたことしか覚えていません。どうしようもない自分に、疲れたんです。
あれこれ考えて現状から這いずり出ようとしても、結局帰着する場所はゴミ溜めで、全く成長できないままの自分が、もうどうしようもなくて疲れました。私はゴキブリとしてしか生きていけないのではないかとも思いました。
夜、父が帰ってきて私の部屋の扉をノックしました。返事がない私の部屋の扉を遠慮がちに開けて、父は言いました。
「パン、買ってきたぞ。今日、学校どうだった」
期待に満ちた声色でした。うまくいっていて欲しいという願いも、その言葉には込められていたのかもしれません。しかしこの父の言葉は、その時の私にとってただの重荷にしかなりませんでした。被っている薄寒い布団の上にのしかかるような重みを感じて、私は潰れてしまいそうでした。しばらくの沈黙を挟んで、私の無言から今日の不出来を察した父が言いました。
「そうかぁ。パン、ここに置いとくな」
また、パンでした。朝も昼もパンだったのに、また夜もパン。夜くらいおにぎりでよかったのに。そう思いましたが、父の「そうかぁ」の一言を反芻すると、その不満は消え去りました。怒る気力がなかったのもありますが、私はこの「そうかぁ」に優しさを感じたのです。それは私のことを否定しない言葉でした。ダメだった私を怒るでも貶すでもなく、ただ事実を受け入れてくれたんですよね。それを優しさだと感じました。
一方で、期待に応えられなかった自分が一層情けなくなりました。1日を思い返せば後悔しかありませんでした。どうしてあの時おはようが言えなかったんだろう。どうしてあの時野口くんみたいに宿題忘れましたって開き直れなかったんだろう。どうしてあの時アオイちゃんに何も言い返せなかったんだろう。どうして。どうして。
溢れそうになる思いを一度は目の端に留めました。何か一言でも喋ったら決壊して溢れそうで、父に何も言い返せませんでした。でも、父が「今日はな、サンドイッチにしておいたから。子供の頃好きだったもんなぁ。菓子パンばっかりじゃ飽きるだろう」と付け足したのを聞いて、結局留めていたものは溢れてしまいました。
ぐずぐずと私が布団の中から泣き声を出し始めると、父はしん、と何も言わなくなって、気不味い空気が流れました。
私は別に、サンドイッチが嬉しくて泣いたわけではありませんでした。
父の優しさが痛くて泣いたんです。
どうしてこうなっちゃうんだろう。どうして私は生きるのが下手くそなんだろう。どうして私ばかりハズレを引くんだろう。どうして毎回自分でハズレにしちゃうんだろう。そう、思いました。
ハズレにしているのは自分なんだと、薄々気がついていました。父の優しさを知っているに両親をハズレと決めつけているのが自分だということにも気がついていました。悪くない状況を悪くしているのは自分だということにも気がついていました。
「まあ、無理するな、別に休んだっていいんだから」
父がそう言いました。私は泣き声の隙間から絞り出して、ようやく父に応えました。
「うっ、う゛っ、あ、した、は、休む」
「…そうかぁ」
落胆した声とはまた違う、静かな声でした。「じゃぁ、先生には明日お父さんが電話しとくからな」と続けて、静かに扉が閉まる音がしました。私はそれから泣き腫らして、一眠りしました。目が覚めたのは夜の0時になる前でした。家の中は静かでした。私は真夜中にサンドイッチを貪りました。
父が、私に今日1日頑張ったご褒美に買ってくれただろうサンドイッチ。菓子パンよりも値段が高かっただろうサンドイッチ。私が子供の頃好きだったのを覚えてて買ってくれたサンドイッチ。栄養不足を心配して買ってくれたのかもしれないサンドイッチ。
でも食べてみると残念なことに、サンドイッチの断面近くにしか具材が入っていませんでした。卵は半分くらい、レタスとトマトはほぼ断面付近にしか配置されていませんでした。詐欺です。私の期待に対してパンの中身が裏切るのは、まるで私の期待を裏切るこの世界と自分自身のようでした。
つづく
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