一生ボロアパートでよかった㉜
あらすじ
自慢だった新築の白い家が、ゴミ屋敷に変貌していく。父はアル中になり、母は蒸発し、私は孤独になった。
ーーー1人の女性が過去を振り返っていく。
↓前話
↓本編
春の昼間は、穏やかでした。風にゆらめく青い草木、香り立つ花々、そしてまばゆい太陽。遠い空は霞んで見えて、私を安心させました。私はボヤけて見える春の景色が好きでした。景色がボヤけて見えた方が、自分の存在もあやふやにできる気がするからです。
春の景色を楽しめば目的の公園まではあっという間でした。徒歩30分。多少息はあがれど、適度な運動をした心地良さを感じられました。
でも、辿り着いた公園に桜は咲いていませんでした。たしかこの辺に桜があったはず、と記憶を頼りに公園内を歩くと、桜と思わしき古樹を見つけることができました。その幹は所々抉れていて、どうやら寿命を迎えたようでした。枝先は切り落とされ、幹だけが聳え立っていました。私は自分の背丈の2倍はある古樹を見上げて、可哀想に、と思いました。
周囲の遊具を見渡すと、ブランコも滑り台も子供が遊ばないように封鎖されていました。使用禁止の札をぶら下げ、ロープで雁字搦めにされて窮屈そうでした。私の子供の頃は、どの遊具もカラフルで太陽の光をよく反射していました。でも今は塗装が剥がれ、錆だらけになって光を吸収するかのように黒ずんで見えました。懐かしい公園は、すっかり廃れていました。
公園の端に鎮座した同じように廃れた木のベンチに、私は腰掛けました。座るとベンチの足元がぐらつきました。ベンチの野太いように見える木の足も、虫食いが進んでいました。このベンチももう寿命なんだろうと思いました。
ベンチに座って公園を眺めると、幼い頃の私が見える気がしました。3歳か4歳のころでしょうか。幼い私は、滑り台の階段を短い手足で登ろうとしていました。その隣には父が立っていました。私が階段を踏み外して落ちないように、父が背中を支えてくれていました。そして父は小走りに滑り台を滑る私の先回りをして、カメラを向けて私を写真におさめました。
ブランコで背中を押してくれていたのは母でした。危なくない程度に勢いをつけてくれて、でも私はもっと勢いをつけて欲しくて「お母さん、もっともっと」とわがままを言っていました。2人とも私を見守って、背中を押して、そばにいてくれたんですよね。
私はおにぎりを食べるのは後にして、昔住んでいたボロアパートも見に行きたいと思いました。あの場所はそれこそ、幼い頃の神聖な記憶が詰まっていました。
公園の脇にある坂道を登って左折すると、見覚えのある住宅街が広がりました。一軒、二軒、三軒と築20年を過ぎた古い家々を通り過ぎました。そしてそこにボロアパートがありました。4世帯を収納するはずのボロアパートは、がらんどうになっていました。私たちが住んでいた1階左側の部屋には、後から高齢の女性が入居していたはずですが、その人もいなくなっていました。台所の窓が割れていたので、すぐに分かりました。
ぼうっとボロアパートを眺めていると、また幼い頃の私が現れました。私の右横を駆けて通り過ぎて、ボロアパートの敷地内に入っていきました。あれは5歳年長の私。手に青々とした雑草を持っていました。さっきの公園でそれを摘んできたのです。そして、幼い私を追うように、若かりし母が私の横を歩いて通り過ぎました。
「その草どうするのー?」
母が幼い私に大きな声で問いました。
「おうちに飾るのー」
大きな声で幼い私が答えました。
「えー、それ飾るの?」と言う母の顔は笑顔でした。玄関前に立った2人は会話を重ねます。
「それもうお花取れちゃってるじゃん」
「きっとまた咲くもん」
「本当?咲くかなー?」
母はバックの中にある鍵を取り出そうとしていました。
「これ、お父さんとお母さんと私なの」
幼い私の手の中にあった青々とした雑草は、3本の花のないオオイヌノフグリでした。小さな青い可愛いお花は、茎から詰んでまもなく、首が落ちるように取れてしましました。オオイヌノフグリはその辺に生えているありふれた雑草です。でも、当時の私にはその小さな青いお花がとても可愛らしく思えました。だから家に持って帰ることにしたのです。でも何度摘み直しても、花の部分は首から取れてしまうので、結局草の部分だけを持って帰りました。
母がバックから鍵を見つけて、家のドアをガチャリと開けました。その横顔は微笑んでいて、私を優しく見つめていました。私の大好きな微笑みでした。母はとても綺麗でした。
玄関が開くと、幼い私は乱暴に靴を脱ぎ散らかして、部屋の中に入りました。早くオオイヌノフグリを水につけようと思ったからです。そんな私を見て、すかさず母は「靴はちゃんと揃えるー!」と注意しました。でもいつも私はすぐに自分のことに夢中になってしまうので、結局靴を揃えてくれるのは母でした。
2人を追うように、現実の私は一歩前に足を踏み出しました。でも、規制線のように引かれたやる気のないたるんだロープに歩を止められました。少し離れた塀の横には、立ち入り禁止の札がありました。入れない。そう、そこは聖域でした。
私はまたボロアパートを見ました。キッチンの割れた窓ガラスから母の顔が見えた気がしました。母はキッチンで小瓶を探していました。幼い私から3本のオオイヌノフグリを受け取って、使い道のなかった塩の空き瓶に刺しました。水を入れ、それを母手作りのレース編みのコースターの上に乗せて、3人の食卓にしては小さいローテーブルの真ん中に置きました。幼い私は、これでおしゃれな食卓になったと満足しました。今の私だったら、あんな犬のおしっこがかかっているかもしれない雑草、絶対に摘まないのに。幼い私はそんなことは気にせず詰んでいました。だって、母も笑顔で受け取ってくれると確信していましたから。
その夕方、いつもより早く帰宅した父はお土産と言って、大きなシュウマイの入った箱を私に手渡しました。シュウマイは3つ入っていました。母は無駄遣いだと怒っていました。でも父は「こんなに大きなシュウマイ珍しいだろ、この辺じゃ売ってないぞ」と言ってニコニコしていました。その夜は、みんなでその大きなシュウマイをニコニコしながら食べました。私は5口以上かけてそれを食べました。食後には、母が牛乳ゼリーを出しました。3つです。父が「これは無駄遣いじゃないのか?」とニヤニヤしながら母に言うと、母は「これは手作りだからいいの!」と勝ち誇った顔で答えました。3人で食べる時はいつも、3人共笑顔でした。くだらないバラエティ番組に父がゲラゲラ笑っていて、母は「ほんとこれしょーもないね」と言いながら笑っていました。私もその様子を見て笑っていました。いや、小さな食卓の上にある3本のオオイヌノフグリを見て笑っていました。花なんてなくても、そこには確かに華やかさがありました。
3人で過ごしたボロアパート。狭くて物で溢れて、思い出がギュッと詰まったボロアパート。ここはたぶん、そう遠くないうちに取り壊されるだろうと私は思いました。同時に、早いうちに取り壊されて欲しいとも思いました。それは、朽ちていく姿を見たくないという、私の願望でもありました。あの桜の古樹のように、可哀想な存在になって欲しくなかったのです。
私はボロアパートから目を背け、ポケットに手を入れておにぎりを感じながら、来た道を戻りました。頭の中ではずっとボロアパート時代の神聖な記憶がリフレインしていました。
公園横の坂道を下る時、一つの神聖な記憶が、違和感に変わっていくのを感じました。
「靴はちゃんと揃えるー!」
若かりし頃の母の言葉が、頭の中で反響し続けていました。
そして、今日の玄関を思い出しました。昨日は揃えられていた私の靴が、今日は揃えられていませんでした。違和感は強大な嫌な予感に変わっていきました。坂道を下る足がどんどんと速くなりました。私は無意識に、ポケットの中のおにぎりをギュッと握りしめました。
つづく
---次回、物語が大きく動き出す!?
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