一生ボロアパートでよかった㉝
あらすじ
自慢だった新築の白い家が、ゴミ屋敷に変貌していく。父はアル中になり、母は蒸発し、私は孤独になった。
ーーー1人の女性が過去を振り返っていく。
↓前話
↓本編
「"照顧脚下"って言葉があるんだよ。足元をよく見なさいっていう意味の教えなんだって。」
「しょうこ、きゃっか?」
「言い換えたら、今の自分をよく見つめ直しなさいとか、身近にある幸せこそ大切にしなさいとか、そう言う意味」
「へぇ」
「ユイもまずは立ち止まって、足元をしっかり見ないとね。足元をいい加減にしてると、幸せがどっか行っちゃうよ」
幼い頃、母から何度も聞かされた話でした。玄関で靴を脱いだ後、揃え直すように注意される中で必ずその話をされました。でも、私は何度言われても家に帰ってくるとそんな話は忘れてしまって、靴を揃え直すことはしませんでした。母はそんな私を繰り返し注意しながらも、靴を揃え直してくれたのでした。
私は幼い頃の母との記憶を思い出しながら、徒歩30分で来た道を、早足と小走りで戻りました。嫌な予感は嫌な汗と共に繰り返し皮膚に浮かび、繰り返し拭い捨てました。体力もエネルギーもない私には苦しい道のりでした。でも、嫌な予感をどうにか打ち消したくて、私はわざと早足と小走りを繰り返しました。
息を切らし汗を滲ませてようやく見慣れた家に着くと、いつもより家が空虚に見えました。先程まで見ていた、それこそがらんどうだったボロアパートのほうが、あの日のシュウマイのように思い出がみっちり詰まっていました。この白い家はこんなにも物が溢れているのに、肝心なものはどんどん無くなっていく。ゴミ屋敷のくせに、がらんどうだと思いました。
鍵を開け、勢いよく閉めた玄関の扉の音も、いつもより大きく家の中に響いた気がしました。ゴミを掻き分けて廊下を進んでも、その時ばかりは邪魔には感じませんでした。無我夢中でした。目指すべきは母の部屋でした。
階段を駆け上がり母の部屋の扉を開けると、皮膚の上に滲む汗が急に冷たく感じられました。もとより母が家にいる時間ではありませんでした。でも、母がもうこの家に存在しないことはたしかに感じられました。それは、化粧台を見れば明らかでした。空でした。タンスやクローゼットの服の大部分は残っていましたが、下着類は見当たりませんでした。無駄に丁寧に敷に直されたシーツは、私が振りこぼしたマニキュアによってアートスティックに彩られたままでした。皺なく敷かれた白いシーツの上の芸術は、まるでキャンバスに描かれた絵のように不自然で、生命がそこに横たわっていないことを示していました。
そして、そのクイーンベットの上に寂しく一つだけ置かれた母の枕に視線がいきました。枕の上に、まるで投げ捨てられたかのような小さな紙がありました。
"もう1人にしてください。"
これしか書かれていませんでした。たった1行の手紙。いや、メモと読んだほうがいいのかもしれません。これっきりだったんです。本当に。これっきり、母は蒸発しました。
つづく
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