中学受験するかしないか(3)
過去にこんな記事を書いてきました。
https://note.com/mananbo1/n/n61b5bacb7e40
https://note.com/mananbo1/n/n3759ed09aa6d
まだ引っかかってるところがあるので書いてみますが、現時点では結論めいたものはなくモヤモヤしています・・・
最初の記事では、中学受験はメリット・デメリットのバランスが悪すぎるからやる必要なしという意見を書き、次の記事では、自分はド田舎公立中高からなんとかやってこれたから子どももそれでという考え方自体が自分の能力を高く評価する傲慢な考え方であったという見解を書きました。
今回の話はそこから直接つながるわけではないですが、中学受験について気になっている点です。
そもそも自分にとって多くの試験というものは「合格することを目指すもの」というよりは「合格する能力をその時点で有しているかを判断するもの」という認識でいます。
学校の定期テストも同じで、何らかの水準(例えば90点以上)を目指すものというよりは、現時点での到達度や理解度を確認するもの、と思っています。
なので、子どもが学校のテストで100点をとったからといって別に「偉い!」とはなりませんし、逆に50点以下でも「何やっとんじゃ!」ともなりません。
どこがわからなかったのかな?どうして間違えたのかな?次同じ問題が出たら解けるかな?という視点でしか見ていません。
その考え方は完全にではないですが中学高校大学入試にもいえると思っています。
もちろんどうしても必要な資格試験であったり、どうしても入りたい学校というのがあればそれを目指して勉強を頑張るというのが意味がない行為だとは思いません。
ただ、入試は「それをくぐり抜けさえすればあとはどうでもいいゲート」のようなものではなくて、その学校に入学するのに適した学力・能力があるかを測るためのものだと思っています。
結果的に不合格だったとして、努力が足らなかったという側面もあるかもしれませんがそれよりはその時に受験した他の学生との比較において、少なくとも受験科目に関わる能力が示せなかった、ということだと受け止めています。
わかりにくい話ですが、受け取り方として、不合格を受験の「失敗」と受け取るのではなく、「結果的にそこでの能力の相対的な不足が明らかになった」と受け止めるという感じです。
目指して駄目だった、ということよりも、足りていなかったのがわかった、という感じ。
競走馬で例えるともう少しわかりやすいかもしれません。
重賞やG1レースに向けて調教をしてきて、ステップレースをこなし、いざ出走したものの残念ながら優勝はおろか入着もできなかったというケースがあったときに(というか競馬のほぼ99%がそれですが)、その事実をしてその出走は失敗だった、とは言わないですよね?
「このクラスでは足りなかったか」というのが競馬関係者やファンの中で極めて日常的に使われる言葉です。
※メジロマックイーンがゴールデンフェザントやダイユウサクに出し抜けを食らったり、ディープインパクトがハーツクライの先行逃げ切りを許してしまったりというのは「失敗」と言われてしまうかもしれませんが、そういうのはレアケースとして。
なので、模擬試験にせよ入試にせよある種の能力だめしみたいなものであって、それで測れるのは現時点の学力であり、それが思ったより悪かったとしてもサクッと次を考えようみたいな気持ちでいます。
そのうえで、では中学受験とは一体何を測っているのか?というのが引っかかりはじめたわけです。
中学受験の試験内容は普通に小学校に行っていては6年生でもまともに解けるものではないかなり高度なものであるようです。
なので皆さん小学3年生くらいから専用の塾に入れて中学受験に向けた早巻きのというかある種特殊な勉強を始めることになるわけです。
さらに、難関中学に無事合格したとしても、その後は塾にもいかず伸び伸びと過ごすのかといえばさにあらず、周囲においていかれないように更に過酷な塾や予備校通いをするそうです。
これは理解できなくはありません。上でくどくど書いたように、試験というのは「その時点での学力の到達度」を測るものであり、到達度が高ければ高いほど有利になるわけなので、どんどん詰め込んで先に進んで難しい問題に慣れていけば行くほど試験で高得点が取りやすくなるわけですから。
ただここで、多くの学生が同じような環境で同じように努力した場合、最終的に試験で測定されているものは一体何なのか?というのがわからなくなってきたのですね僕は。
もちろん測定されているのはその時点での学習到達度なんですが、皆が同じような努力をしている中でその学習到達度に差が出るとしたらそれは何によるものなのか?というのがわからなくなってくるんですね。
結論からいうとそれは勉強への適性となるわけで、もっとぶっちゃけていえば「地頭」の差となるわけですよね。
また競走馬の例えになりますが、同じメニューで同じ量調教してもめちゃくちゃ強くなる馬とそうでない馬がでてくるわけで、それは人間の学習にも同じことがいえるわけです。
つまり、中学受験とかそれを経由しての大学受験というと、親も含めたものすごい努力の成果、と一般的に言われがちだと思うのですが、皆が皆同じように努力した結果何で差がつくのかというと結局生まれ持っての才能、地頭だよねという結論になるのではないかと。
努力の質と量で勝負していたつもりが、結果的には才能を比較し合ってただけだったということになっていませんか、と。
そうなると、
https://note.com/mananbo1/n/n3759ed09aa6d
こちらの記事に書いた、能力に絶対の自信がなく経済的に余裕がある人は中学受験が合理的という結論についても不安になってきます。
最終的に難関大学に入れる可能性を少しでも高めるために難関中学を目指し、ごく一部の早熟の秀才を除き大多数がダメ元でというか祈るような気持ちで親子で受験に取り組んでいるのだと思いますが、最終的にその合否(中学も大学も)は持って生まれた能力・才能・地頭によって決まる(決まっている)とするならば、その時間、費用、エネルギーは得られる結果に見合ったものなんだろうか?と。
もちろんその中には、本来の能力でいけばいけなかったランクの大学に行けた、そしてそれで意味があったのだということはあるのかもしれませんが、それで満足できるケースというのは受験者全体の何%いるものなんでしょうか。
中学受験に関して語られる多くのケースは、競馬でいうとG1を勝てた馬を取り上げて、だから意味があったといっているようなもので、勝てない大多数の実態についてあまりに語られていないのではないか、と感じるわけです。
ダラダラと書いてきましたが、中学受験からの大学受験というのは、受験時点での学習到達度を高めるための最適化というか高速化、もっというとある種の「ハック」みたいなものだと自分は感じていることがわかりました。
そしてその結果測られるのは実は到達度を通した地頭=CPU・メモリといったハードそのものの処理能力みたいなものであると。
そう思ってみるとすごく虚しいというかバカバカしいことにみんな一所懸命になってるなあと感じますが、一方でそれに夢中になる人がいるのもなんとなくわかるなあという気もしています。
ゲームなどでも、よくぞそこまでというくらい効率を追求して最大の結果を得ようという信じられないくらいの努力をする人っていますよね。
ハック的な道があるのであればそれを追求しない手はない、と考える人が一定いるのだろうと思います。
自分としては、結局地頭が測られるのであれば親子無理して受験戦争みたいなものに突っ込むほどの魅力はやっぱりないなあと思いましたし、最後の入試となる大学受験で問われる内容というのは、普通に公立高校でも教わるものでしかない(もちろん問題としては大いにひねってあって難しいのですが、高校より上の知識は必要としないという意味で)ので、普通に高校受験して行ける大学にいってくれればいいやと思いましたし、もしかしたら受験に向かない地頭かもしれないのでその場合は勉強以外で伸ばせる技能分野に進んでくれてもいいなと思いました。
長々と書きましがそんなところです。お読みいただきありがとうございました。
