【#映画感想文】 陰陽師0 催眠術で終わらせてくれればよかったのに byオーマ 【#Podcast エピソード紹介】
「Reel Friends in Tokyo」は、パーソナリティの“まこ”と“オーマ”がお送りする映画紹介Podcastです。このnoteでは、ポッドキャスト本編で取り上げた話題作や名作、はたまた迷作たちを、番組で語りきれなかった裏話や個人的な深掘り、そしてリスナーの皆さまへの補助情報として、二人ならではの視点で掘り下げていきます。
毎回、Podcastで交わしたトークやディスカッションの要点、まこ・オーマ両名による独自の考察、時に脱線しがちな本音トークから個人的に見た映画Reviewまで、記事としてまとめております。リスナーの方も、そうでない方も、ぜひ肩の力を抜いてお楽しみください。
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序章 蛙を殺さなかった男が、龍を呼ぶまで
安倍晴明という人物は、この映画の冒頭から、観る者の予想を裏切るかたちで登場する。
寺の庭に蟾蜍(がま)が一匹いる。居合わせた貴族たちが、狐の子と噂される晴明に呪術で殺してみせろと絡む。晴明はそれに応じるように見える。葉を一枚取り、呪文を唱え、蛙は弾け飛ぶ——少なくとも、その場にいた者たちの目にはそう映った。だが実際には蛙は死んでいない。晴明の足音に驚いて逃げただけだ。幻覚作用のある香と催眠的な誘導、水しぶきを血に見せるトリック。そのすべてが、呪術ではなく「人の知覚を操る技術」として設計されている。
ここで重要なのは、晴明がこのトリックを得意げに披露しているわけではない、ということだ。彼はむしろ冷めている。陰陽師になる意欲も興味もなく、授業をサボり、人嫌いで、周囲から距離を置かれている。呪術の天才と呼ばれながら、本人は陰陽師の本質を「暗示と催眠術」だと見なしている。占いは統計学であり、お祓いは真似事にすぎない。そう言い切る晴明にとって、蛙の一件は本気の呪術ではなく、「呪術などこの程度のものだ」という態度表明に近い。
この冒頭が面白いのは、晴明がただの合理主義者として描かれているからではない。彼が陰陽寮にいる理由が、合理からはまったく説明できない場所にあるからだ。幼い頃に両親を殺され、犯人の顔を思い出せないまま育った晴明。彼を引き取り、陰陽師としての才能を見出した賀茂忠行の恩義——晴明が陰陽寮に留まっているのは、恩師の顔を潰さないためであり、信じてもいない世界の内側に義理で座り続けている人間の姿がそこにある。
呪を否定しながら、呪の世界に身を置いている。その矛盾こそが、この映画における安倍晴明という人物の核だと思う。彼は呪を嘘だと思っている。けれど、嘘だと知りながらその技術を使いこなし、しかもその嘘が人を動かすことを誰よりも理解している。「事実と真実の違いを知っているか」と博雅に問いかける晴明のあのセリフは、呪を否定する男がなぜ呪を扱えるのかという問いへの、半ば自分自身への回答だろう。事実としては何も起きていない。だが、真実として——つまりその場にいる人間の主観の中では——蛙は確かに弾け飛んだ。真実は個人の知覚に依存する。そう割り切れる人間だからこそ、晴明は陰陽道の技術をまるで手品のように操れる。
『陰陽師0』が従来の陰陽師作品と明確に異なるのは、この入り口の設定にある。これまでの映像化作品——野村萬斎版にせよ、その他にせよ——安倍晴明はどこかしら超常の存在として描かれてきた。妖しく微笑み、人ならざる力を行使する陰陽師。「狐の子」という伝説が先にあり、その神秘をどう演出するかが作り手の腕の見せどころだった。だが本作の晴明は、その神秘を自分の手で剥がすところから始まる。呪をロジックで分解し、催眠と暗示と自然現象の組み合わせとして再定義する。これは単なる脱神秘化ではなく、「呪とは何か」を人間ドラマの文法で語り直す試みだった。
ところが、この映画はその自ら敷いたルールを、終盤において自分で踏み越えてしまう。晴明が精神世界に入り、水龍を召喚し、それが現実世界にまで作用して人を殺す。意識を物質化する——それが呪術の神髄だと映画は言う。しかしそれは、前半で丹念に組み上げた「呪とは人間の知覚を操る技術である」というフレームをまるごとひっくり返すものだった。蛙のトリックで観客を引き込み、殺人事件の推理で人間ドラマとしての強度を見せたこの映画が、最後の最後で「やっぱり本物の超能力でした」と着地する。その落差は、晴明という人物の魅力そのものを裏切りかねないほど大きい。
この考察では、その裏切りも含めて、晴明をはじめとする人物たちの言動を追っていく。呪を信じない男が、なぜ呪の世界で最も強い力を持つのか。この映画が本当に描こうとしたものは、前半と後半のどちらにあるのか。
第1章 まっすぐな男が、斜めの男を動かすとき
安倍晴明と源博雅は、あらゆる意味で正反対の人間として出会う。
晴明は人嫌いで、言葉には常に距離がある。物事を見るとき、まず構造を疑い、裏を読み、相手の意図を計算に入れてから動く。陰陽寮の中で孤立しているのは、周囲に排除されたからというより、自分から人を遠ざけた結果に近い。対する博雅は、言葉がそのまま感情であるような男だ。貴族でありながら身分を笠に着ることがなく、徽子女王への想いも、晴明への頼み方も、嘘がない。だからこそ不器用で、だからこそ晴明の目には異物として映る。
二人の出会いのきっかけは、徽子女王の屋敷で起きた怪異だった。夜な夜な琴が鳴り、弦が切れる。その調査を晴明に持ちかけたのが博雅である。この依頼の場面からして、二人の関係の輪郭がはっきり見える。博雅は晴明を頼っているが、媚びてはいない。晴明は依頼を受けるが、博雅に心を開いてはいない。噛み合わない会話、衝突する態度。だがそのぶつかり合いの中に、互いを値踏みし合うような緊張がある。これは単なる凸凹バディの定型ではなく、「信じる」ことへのスタンスの違いが二人の間に張られた線なのだと思う。
晴明は呪を信じない。すべてを暗示と催眠と自然現象の組み合わせとして解体できると考えている。一方で博雅は、理屈の手前にある感覚——目の前の人が苦しんでいるからなんとかしたい、という衝動——で動く人間だ。博雅が晴明のもとに来たのは、陰陽道への信頼ではなく、徽子女王を助けたいという一点に尽きる。この動機の率直さが、晴明にとっては厄介だったはずだ。計算で動かない人間は、計算では退けられない。
徽子女王の怪異について晴明が見せる態度もまた、彼の人物像を深めている。琴から立ち昇る金の龍を封じてみせる晴明は、確かに「呪術の天才」として振る舞っている。だがこの時点での晴明は、自分の行為をあくまでテクニックの範疇で処理しているように見える。金の龍を瓶に封じるという行為自体が、ある種の暗示操作として成立する余地を残している。つまり、晴明はまだ自分の世界観を壊されてはいない。呪は技術であり、人の知覚を操作する手段にすぎない。そのフレームは保たれたまま、彼は依頼をこなす。
物語が動き出すのは、得業生の橘泰家が井戸の中で死体となって発見されてからだ。呪殺か、それとも殺人か。陰陽師を育てる場である陰陽寮の中で、陰陽師の卵が死んだ。この事件に対する陰陽寮上層部の反応が、この映画を単なるファンタジーから人間ドラマへと押し上げる。陰陽頭の藤原義輔や天文博士の惟宗是邦ら上層部は、呪殺されたという事実を隠蔽し、「自殺」として処理しようとする。陰陽師が呪い殺されたとなれば沽券に関わる——つまり、呪を扱う側の人間たちが、呪ではなく政治的な打算で動いている。ここに、この映画の人間ドラマとしての本質がある。
呪が効く世界かどうかはさておき、人は出世のために嘘をつき、体面のために真実を隠し、立場を守るために他者を切り捨てる。平安時代という舞台設定はそのまま、組織の論理で個人が踏みつぶされる構造に読み替えられる。犯人を見つけた者を次の得業生にするという布告が出されたとき、学生たちの目の色が変わるのも当然だろう。彼らが追っているのは真実ではなく、出世の切符だ。
この状況の中で晴明が見せる行動が、彼をただの冷笑家ではない人間として際立たせる。晴明は泰家の死体を検分し、足跡や状況証拠から「呪殺ではなく毒殺」だと推理する。穢れとされた死体に触れることすら厭わないのは、呪による穢れを信じていないからであり、同時に、目の前の事実から目を逸らさないという態度の表れでもある。この場面の晴明は、陰陽師ではなく探偵のように振る舞っている。呪を信じないからこそ、呪に頼らず事件を解こうとする。そして、それが人間ドラマとしてのこの映画を最も強く支えている時間帯だと思う。
だが同時に、晴明は追い詰められてもいく。百姓出身で後がない貞文が、筆跡の一致を根拠に晴明を犯人だと名指しする。捕えられ、尋問される晴明。ここで晴明が感じた「奇妙な鐘の音」と違和感は、後の展開への伏線だが、この時点での晴明はまだ、自分の合理で世界を制御できると信じている。すべてには理由がある。すべては説明可能だ。その確信がまだ揺らいでいない。
博雅が馬で駆け込んでくるのは、まさにそのときだ。徽子女王が金の龍に攫われた。晴明は縄を解かれ、博雅と共に馬を走らせる。ここまでの晴明は、自分から誰かのために動くことのなかった人間だ。だが博雅の切迫した声に応じて走り出す晴明の中には、理屈ではない何かがすでに動き始めている。それを友情と呼ぶには早い。しかし、人嫌いの男がまっすぐな男に引きずり出される——その力学が、この映画で最も信頼できる人間関係の軸になっている。
第2章 信じろ、と言った男が壊したもの
精神世界に足を踏み入れてからも、この映画はしばらくの間、自分が敷いたルールの内側にいた。
晴明が博雅と共に徽子女王を追い、意識の中へ入っていく展開。火龍が暴れ、博雅が両手を焼かれ、楽が奏でられないとパニックに陥る。晴明が水龍を召喚し、火を制する。この一連のシーケンスは、確かに映像としては派手だが、理屈としてはまだ筋が通っている。あくまで精神世界——人の意識が作り出した空間——の中での出来事だからだ。催眠や暗示によって人の知覚を操作できるのが呪の本質だと映画が前半で定義したのなら、その延長線上に「意識の世界に入り込み、そこで起きることを操る」という能力があっても、飛躍はあるが逸脱ではない。現代風に言えば、他者の無意識に介入する一種のセラピストのような存在として、晴明を捉えることができる。火龍が貞文たちの怨念の具象化であるという設定も、組織の権力闘争が人の心に残した傷跡として読めば、人間ドラマの回路はきちんと残っている。
博雅が焼かれた手にパニックを起こし、晴明が「信じろ」と言う場面。この一言が重い。呪を信じるなと言い続けてきた男が、初めて「信じろ」と口にする。精神世界の中で起きていることは身体には及ばない——だから手は本当には焼けていない——それを信じろ、という意味にも取れるし、もっと単純に、俺を信じろ、という意味にも取れる。どちらにしても、合理の殻に閉じこもっていた晴明が、初めて他者との関係の中で言葉を発した瞬間であり、この映画で最も感情が動く場面のひとつだ。ここまでは、いい。ここまでは、この映画のルールが生きている。
問題は、そのあとにやってくる。
精神世界から戻った晴明は、両親を殺した犯人が陰陽頭の藤原義輔であることを思い出す。そして義輔との対決が始まる。義輔は晴明を殺そうと短刀を突き立てるが、刺されたのは幻の晴明だった。ここまでなら、まだ暗示や催眠の応用として解釈できる余地がある。義輔の知覚を操り、偽の晴明を「見せた」のだと。だが晴明はここで、致命的な一言を口にする。内緒だが、自分は精神世界の物体を現実世界に持ち帰ることができる、と。
この宣言によって、映画のルールは根底から崩れる。
晴明は現実世界に飛梅を呼び出す。平安最大の怨霊である菅原道真を召喚する。飛梅が義輔を拘束し、道真の放った雷が義輔を打ち殺す。これらは精神世界の中の出来事ではない。現実に、目の前で、物理的に起きている。さらに晴明は、形見の人形を現実世界で出したり消したりしてみせる。意識の中で操作するのではなく、意識の中にあるものを現実に引っ張り出す。これはもう、催眠でも暗示でも刷り込みでもない。純然たる超能力だ。
蛙を殺さなかった男を思い出してほしい。あの場面で晴明は、呪術のように見えるものの正体を一つひとつ解体してみせた。幻覚作用のある香、催眠的な音声誘導、視覚のトリック。蛙は逃げただけであり、何も超常的なことは起きていない。泰家の死体検分でも、呪殺ではなく毒殺だと推理した。穢れを恐れず死体に触れたのは、呪による穢れという概念そのものを信じていなかったからだ。こうした積み重ねの末に観客が手にしていたのは、「この映画の世界では、呪とは人間の心理を操る技術であり、超常現象は存在しない」という確信だった。
義輔の対決シーンは、その確信を一瞬で無効にする。
しかも厄介なのは、精神世界での龍のシーンがまだ許容範囲だったからこそ、落差が大きいということだ。あのシーンでは、すべてが意識の中の出来事として処理されていた。晴明が目を覚ましたとき、彼は陰陽寮で縛られたままだった。身体は動いていない。だから精神世界で何が起きても、現実の物理法則は侵されていなかった。だが義輔のシーンでは、現実に雷が落ち、現実に飛梅が現れ、現実に人が死ぬ。精神世界と現実世界の間に引かれていた境界線を、晴明自身が踏み越える。
これが敵側の能力として描かれていたなら、まだ話は違ったかもしれない。義輔が禁忌に手を染めた結果として超常的な力を得ていた、という設定であれば、晴明はあくまで知恵と技術でそれに対抗する側に立てた。だが実際には、超能力を持っているのは晴明の方だ。呪をトリックだと断じていた本人が、最も純粋な意味での呪——意識を物質化する力——を最初から持っていた。蛙の場面で晴明が見せた知性も、泰家の検分で見せた合理も、すべてが「本当は超能力があるのにあえて使わなかっただけ」にすり替わってしまう。
この映画が前半で描いた晴明の魅力は、超常の力を持たないからこそ人間の心理を読み、技術で乗り越える、という姿にあった。それは陰陽師ものとして新しく、人間ドラマとして誠実な描き方だった。催眠術としての呪、刷り込みとしての陰陽道。その解釈は知的で大胆で、「この手があったか」と思わせるだけの説得力を持っていた。だからこそ、義輔との対決で晴明が飛梅を呼び、道真を召喚した瞬間、観ている側は裏切られたと感じる。前半の知性が、後半の異能によって踏みにじられたように見えるのだ。
映画は最後に、博雅との語らいの中で「事実と真実は違う」というテーマに戻る。だが、この言葉はもう前半と同じ意味では響かない。事実と真実の区別は、人間の知覚の問題として語られていたはずだ。それが終盤を経た今では、「物理法則を超える力を持つ者にとって、事実と真実は本当に区別できない」という、まったく別の命題に変質している。
第3章 呪は飾りにすぎなかった
この映画で最も恐ろしいのは、龍でも怨霊でもない。陰陽寮という組織そのものだ。
陰陽寮は、呪いや祟りから都を守るための学校であり、同時に行政機関でもある。博士と呼ばれる上級陰陽師たちが占いで国政を左右し、その下で学生たちが陰陽師を目指して日々学んでいる。一見すると平安時代の専門学校のような場所だが、この映画が丁寧に描いていくのは、そこが極めて苛烈な階級社会であるという事実だ。
得業生の橘泰家が井戸の中で死体となって見つかったとき、陰陽頭の藤原義輔と天文博士の惟宗是邦がまず考えたのは、真相の解明ではなかった。彼らが即座に動いたのは、死因の改竄だ。呪殺された可能性が高いにもかかわらず、「自殺」として処理する。理由は単純で、陰陽師を育てる機関の中で呪殺が起きたとなれば、組織の信用が失墜するからだ。ここには呪への畏れも、死者への弔いもない。あるのは体面と保身だけだ。
注目すべきは、この隠蔽が特別な悪意として描かれているわけではない、という点だろう。義輔も是邦も、隠蔽の判断を淡々と下す。彼らにとってそれは異常事態への対処ではなく、組織運営上の通常業務に近い。都の政治を占いで動かす立場にある人間たちが、自分たちの足元で起きた殺人を政治的に処理する。この構図は平安時代の話でありながら、現代のあらゆる組織の病理とほとんど重なっている。陰陽寮の内部で起きていることは、呪術の世界の話ではなく、権力が真実を歪める普遍的な力学の話だ。
さらに映画がえぐいのは、犯人捜しの動機づけにある。是邦が学生たちに告げるのは「犯人を見つけた者を次の得業生にする」という報酬だ。泰家の死の真相を解くことは、正義のためでも死者のためでもなく、出世の手段として学生たちに提示される。この一手によって、学生たちの目の色が変わる。彼らが追い始めるのは真実ではなく、得業生の椅子だ。
この構造の中で最も痛ましい存在が、平群貞文だ。百姓の出で、45歳になっても陰陽寮に在籍し続けている男。里に残した母を楽にさせるために結婚も諦め、ひたすら勉学に励んできた。貞文が晴明を犯人に仕立て上げたのは、悪意というよりも追い詰められた人間の必死さに近い。全学生の筆跡を調べ上げ、呪いの木簡の文字が晴明のものだと言い立てる。その執念は、呪術の才能ではなく、45年間の焦燥が生み出したものだ。
貞文という人物を通して見えてくるのは、陰陽寮が学生たちに何をしてきたかということだろう。呪術を教え、陰陽道を説きながら、実際にこの場所が育てているのは「出世のためなら他者を踏み台にできる人間」だ。貞文は元々そういう人間だったのではない。百姓から這い上がろうとして、45年の歳月をかけてそうならざるを得なかった。彼が晴明を陥れようとするとき、そこにあるのは陰謀の知恵ではなく、もう後がないという切実さだ。この映画が貞文を単純な悪役として描かなかったことは、人間ドラマとしての誠実さの表れだと思う。
そして、この構造の頂点に立つのが藤原義輔だ。陰陽頭という組織のトップでありながら、さらに上——帝の専属陰陽師である蔵人所陰陽師の座を狙っている。義輔が行っていたのは、学生たちを使った蠱毒だった。蠱毒とは、毒虫を一つの器に入れて殺し合わせ、最後に生き残った一匹の毒を呪いに用いる術だ。義輔はこれを人間でやっていた。学生同士を競わせ、潰し合わせ、その過程で優秀な者を先に排除する。泰家の死もまた、この蠱毒の一部だった。
この設定が恐ろしいのは、蠱毒が「呪術」であると同時に、組織内の出世競争の比喩としてほぼ完璧に機能しているからだ。閉じた器の中で生き残りをかけて争わせ、最後の一人を利用する。それは呪術の語彙を借りてはいるが、やっていることは徹底的に人間の所業だ。義輔は超常的な力で学生を殺したのではない。競争の仕組みそのものを利用し、学生たちが自ら潰し合うように環境を設計した。現代の言葉で言えば、構造的な搾取であり、制度としてのハラスメントだ。
義輔が晴明の両親を殺した理由もまた、呪いや怨念ではなく、きわめて世俗的な打算だった。晴明の父が優秀な陰陽師だったから、出世の邪魔になるから殺した。それだけだ。この動機の卑小さが、逆に義輔という悪役をリアルにしている。彼は狂人でも怨霊でもない。組織の中で地位を積み上げてきた、計算高く冷酷な政治家にすぎない。
だからこそ、義輔を倒す方法もまた、人間の領域で決着してほしかった、とどうしても思ってしまう。この映画が描いた陰陽寮の腐敗は、呪術ではなく人間の欲望と制度の歪みが生んだものだった。蠱毒という呪の衣を纏ってはいても、その本質は人間ドラマそのものだった。ならば、義輔を追い詰めるのも人間の知恵であるべきだったのではないか。晴明が蛙の場面で見せたようなトリックの応用で、義輔の陰謀を白日のもとに晒す。あるいは、貞文のように追い詰められた学生たちの証言を束ねて、組織の内側から義輔を告発する。そうした解決であれば、前半の知的な興奮と後半の決着が一本の線で繋がったはずだ。
しかし映画が選んだのは、飛梅と道真の雷だった。組織犯罪を暴くのではなく、超常の力でトップを物理的に消す。人間ドラマとして練り上げられた悪が、人間ドラマの文法では裁かれない。この不整合が、義輔という悪役の造形をも損なっている。蠱毒で学生を殺し、出世のために晴明の父を殺した男——その罪が、推理でも告発でもなく、雷に打たれるという超常的な天罰で清算されてしまう。義輔の悪が人間的であればあるほど、その決着の超人的さが空虚に映る。
この映画の人間ドラマとしての最高到達点は、陰陽寮の腐敗を描いた中盤にある。そこには呪を必要としない恐怖があり、陰陽道を必要としない人間の真実があった。
終章 壊れた映画の中
この映画は、自分が一番うまくやっていたことを、自分で手放してしまった作品だと思う。
陰陽道を催眠と暗示として再解釈し、呪を人間の知覚操作の技術として定義する。蛙のトリックに始まり、泰家の毒殺を推理で暴き、陰陽寮の蠱毒を組織犯罪として描く。その道筋の中で、『陰陽師0』は従来の陰陽師作品がやらなかったことを確かにやっていた。神秘を剥がし、人間を剥き出しにする。呪がなくても人は人を殺すし、呪がなくても組織は腐敗する。その冷徹な視線こそが、この映画の最大の武器だった。
それなのに、終盤で晴明に超能力を与え、飛梅を現実世界に呼び出し、道真の雷で敵を殺す。なぜこうなったのかと問えば、おそらくは「安倍晴明を"本物"にしなければ映画が閉じられなかった」ということなのだろう。晴明が陰陽師になる前の物語——タイトルの「0」が示す通り、この映画は晴明がまだ何者でもない時点から、「本物の陰陽師」として覚醒するまでを描くオリジンストーリーだ。物語の構造上、晴明はどこかで「本物」にならなければならない。そして映画が選んだ「本物」の定義が、知恵や技術の極致ではなく、意識を物質化できるという異能だった。
ここに、この映画の根本的な矛盾がある。前半で「呪は人間の技術だ」と定義したのなら、晴明の覚醒もその延長にあるべきだった。暗示と催眠を極め尽くした果てに、誰にも真似できない領域に到達する——それが「本物」だという着地なら、前半と後半は矛盾しない。だが映画は、技術の延長ではなく、技術の否定として覚醒を描いた。催眠では説明できない力、暗示の範疇を超えた力。それが「本物」だと言ってしまった時点で、前半の知的な組み立ては「本物に至る前の未熟な段階」に格下げされる。
けれど——と、ここで立ち止まりたい。
この映画が壊したものの話ばかりしてきたが、壊されなかったものもある。それは晴明と博雅の関係だ。
ラストシーン、二人は酒を飲みながら語り合っている。晴明は金の龍の正体を博雅に説明する。あれは徽子女王の想いが具象化したものだった、と。琴の弦が切れたのも、龍が現れたのも、すべて徽子の心が生んだものだ。五行思想の金生水——金は水を生む——という理屈を添えながら、徽子の想いが博雅を救ったのだと晴明は語る。
この説明を聞いたとき、博雅が何を感じたかは映画には描かれない。だが、徽子女王が帝の後宮に入ることを承諾した事実を、博雅はすでに受け入れている。精神世界での体験を通じて、博雅との繋がりが恋愛を超えた深いものだと知った徽子は、だからこそ博雅のそばを離れる選択をした。悲しいが、それが彼女の幸せだと博雅は納得する。この決着は、超常的な力で解決されたものではない。人が人を想い、その想いの形を受け入れ、手放す。ここには飛梅も道真も雷もいらない。人間の感情だけで完結している。
晴明と博雅の関係もまた、超能力とは無関係の場所で成立している。人嫌いの合理主義者と、まっすぐな貴族。この二人を繋いだのは、呪の力ではなく、博雅が晴明に対して嘘をつかなかったという一点に尽きる。博雅は晴明の能力を利用しようとしたのではなく、ただ徽子を助けたかった。その率直さが、計算で人を遠ざけてきた晴明の防壁をすり抜けた。晴明が精神世界で博雅に「信じろ」と言えたのは、博雅が先に晴明を信じていたからだ。あの場面に超能力は関係ない。人間が人間を信じる、ただそれだけの瞬間だった。
この映画が「人間ドラマにした」ことの価値は、終盤の失敗によっても消えない、と思いたい。陰陽師ものでありながら、想いの力で奇跡が起きるという定型を避け、催眠と暗示という地に足のついた解釈で呪を語り直した前半の志は、本物だった。陰陽寮の権力構造を通じて、出世と嫉妬と保身という人間の業を描いた中盤も確かに冴えていた。蠱毒を組織犯罪の比喩として機能させ、貞文という人物に45年の焦燥を背負わせた脚本には、人間を見る目があった。
ただ、最終的にこの映画が観客に残す印象は、そうした美点よりも、終盤の裏切りの方が強くなってしまう。丁寧に積み上げたものを自分で崩す映画ほど、もったいないものはない。あと一歩、あと一歩だけ、自分が前半で作ったルールを信じ切っていれば。義輔を人間の知恵で倒し、晴明の「本物」を技術の極致として描き、博雅との関係を軸に映画を閉じていれば。『陰陽師0』は、陰陽師映画の歴史を本当に塗り替える一本になっていたかもしれない。
博雅が龍笛を奏で、映画は終わる。その音色は、前半の知的な興奮も、中盤の人間ドラマの熱も、終盤の落胆も、すべてを含んだまま夜の平安京に消えていく。壊れた映画だ、と思う。けれど壊れ方そのものが、この映画が持っていた可能性の大きさを証明してもいる。壊れるほどのものがなければ、こんなに悔しくはならない。
podcasterの まこ(@_macobana)が、メインチャンネル『ポケットに沼を』(#ポケ沼 )では語り足りないアレコレを一人語りするポッドキャスト番組、『#よもやまこばなし 』(#まこばな )にて展開された映画談義がついに専門チャンネルに。
語りたい映画なんて尽きることない!
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