小説『先生になる前の先生』第二話 優しい先生
一 人気の先生
連休が終わると、教室の空気は少しだけ緩んだ。
四月にはまだ硬かった子どもたちの挨拶も、五月に入る頃には少し雑になっていた。靴を脱ぐ音、教材を机に置く音、先生を呼ぶ声が、以前より近く聞こえる。
三橋信吾も、初めて来た日のように入口で立ち止まることはなくなっていた。
それでも、教室に入るたび、少しだけ背筋は伸びる。
先生と呼ばれることには、まだ慣れていなかった。
佐伯美咲の机には、いつも小さなものが置いてあった。
薄いピンク色のペンケース。
猫の形をした付箋。
花柄のマスキングテープ。
それから、生徒にもらったという小さな消しゴム。
三橋が初めてそれを見た時、塾の長机の上に置かれたそれらは、少し場違いに見えた。
個別指導ステップバイステップの教室は、相変わらず整っているようで整っていなかった。カウンターの上には保護者への連絡メモが重なり、コピー機の横には使いかけの赤ペンが何本も転がっている。長机には、生徒が消し残した鉛筆の跡が薄く残っている。
その中で、美咲の机の周りだけが、少し明るかった。
「美咲先生、こんにちは」
小学生の女の子が教室に入ってくるなり、手を振った。
「美優ちゃん、こんにちは」
美咲は顔を上げて、にこっと笑った。
小柄な先生だった。
大学四年生。髪は肩の少し下で、やわらかく内側に巻いている。声もやわらかい。笑う時に、少しだけ首をかしげる癖がある。
三橋より三つ年上だった。けれど年齢の差以上に、美咲は教室の中で先生らしく見えた。
少なくとも、生徒からはそう見えていた。
「今日も算数?」
「うん。でも宿題むずかしかった」
「そっか。じゃあ一緒に見ようね」
「やった」
美優と呼ばれた女の子は、嬉しそうに美咲の隣に座った。
吉岡美優。小学五年生。
髪を二つに結び、筆箱にはキャラクターのキーホルダーがついている。よく笑う子だった。授業前から、すでに楽しそうだった。
その様子を見て、三橋は少し羨ましくなった。
水澤翔の授業以来、三橋は自分の授業に少し慎重になっていた。
説明しすぎていないか。
子どもは本当に問題を見ているか。
自分は「いい先生らしさ」を探していないか。
考えすぎると、声をかけるタイミングさえわからなくなる。
その点、美咲は自然だった。
「美優ちゃん、まず宿題出してみようか」
「はーい」
「お、ちゃんとやってきたね」
「でも丸少ない」
「丸少なくても、やってきたのがえらいよ」
美咲がそう言うと、美優はぱっと笑った。
三橋は思った。
こういう先生になれたら、子どもは安心するのだろう。
その時、カウンターの内側から野島が声をかけた。
「三橋くん、今日ちょっと美咲先生の授業、後半見ておいてくれる?」
「僕がですか」
「うん。勉強になると思うから」
野島は丸眼鏡を外し、ニットベストの裾を引っ張ってレンズを拭いた。
「美咲先生はね、保護者人気が高いんだ」
「そうですよね。生徒もすごく懐いてますし」
「うん」
野島は眼鏡をかけ直した。
「ただ、人気がある授業と、力がつく授業は、いつも同じとは限らないから」
三橋はすぐには返事ができなかった。
それは、また何かが起きる前の言葉のように聞こえた。
二 先生と一緒ならできる
美優の算数は、割合だった。
「定価の二割引きで売ったら、売値は千二百円でした。定価はいくらでしょう」
美優は問題文を読んで、すぐに美咲の顔を見た。
「これ、苦手なやつ」
「割合?」
「うん。何がもとにする量かわかんない」
「そっか。じゃあ一緒に整理しよう」
美咲はピンク色のペンを取り出し、問題文に線を引いた。
「まず、二割引きっていうのは、定価から二割安くするってことだよね」
「うん」
「じゃあ、売値は定価の何割になる?」
美優は少し考える顔をした。
だが、その目は問題ではなく、美咲のペン先を見ていた。
「えっと……八割?」
「そうそう! すごい」
美咲はすぐに丸をつけた。
美優は嬉しそうに笑った。
「じゃあ、千二百円が八割ってことだね」
「うん」
「定価が十割だから、どうすればいいかな」
「えっと……」
美優の鉛筆が止まった。
止まると同時に、美優は美咲を見た。
美咲はすぐにノートの余白に小さな図を書いた。
「ここを十割、ここを八割って考えるとわかりやすいよ」
「あ、わかった」
「じゃあ、割合の公式、覚えてる?」
「く、も、わ……?」
「そうそう。比べる量、もとにする量、割合。今回は何を聞かれてる?」
「定価だから……もとにする量?」
「うん。比べる量は?」
「売値の千二百円」
「割合は?」
「八割。だから……0.8」
「そう。もとにする量を出す時は?」
「比べる量わる割合」
「そうそう」
美優は式を書いた。
1200÷0.8=1500
「できた!」
「できたね。よく頑張ったね」
美咲は大きく丸をつけた。
美優は満足そうにノートを眺めた。
「美咲先生とやると、なんかできるんだよね」
「嬉しいな」
「でも家でやるとできないの。不思議」
美優は本当に不思議そうに言った。
三橋は、その一言に引っかかった。
家でやるとできない。
先生とやるとできる。
それは、よくある話のようにも思えた。
先生がいると安心するから。
先生がわかりやすく教えてくれるから。
家では一人だから。
けれど、今の問題を見ながら、三橋は少しだけ不思議に思った。
美優はたしかに解けていた。
美咲の説明もわかりやすい。
声も優しいし、子どもも楽しそうだ。
実際、美優はずっと笑っていた。
それなのに、なぜか胸の奥に小さな引っかかりが残った。
何が気になるのか、自分でもよくわからない。
ただ、美優が「先生とやるとできるんだよね」と言った時、その言葉だけが妙に耳に残った。
先生といるとできる。
それは良いことなのではないだろうか。
三橋には、まだわからなかった。
三 ありがたい先生
授業の終わりが近づいた頃、美優の母親が迎えに来た。
吉岡沙織。
明るく、よく笑う母親だった。教室に入ってくると、美優がすぐに手を振った。
「ママ、今日もできたよ」
「よかったね」
沙織は美咲に向かって、深く頭を下げた。
「先生、いつもありがとうございます。本当に、美咲先生になってから、この子、塾を嫌がらなくなったんです」
「いえいえ、そんな」
美咲は少し照れたように笑った。
「美優ちゃん、いつも頑張ってます」
「家では全然なんですけどね」
沙織は苦笑した。
「先生と一緒だと、楽しそうに解けるんです。でも家で宿題をやると、全然進まなくて。丸もつかないし、すぐ『わかんない』って」
美優は口を尖らせた。
「だって、家だと先生いないもん」
「それはそうだけど」
沙織は笑った。
「やっぱり先生の力なんでしょうね。横にいてくださるだけで、こんなに違うなんて」
美咲は小さく手を振った。
「そんなことないです。でも、美優ちゃんは褒めるとすごく伸びるタイプだと思います」
「そうなんです。前の塾では先生が怖かったみたいで、全然だめで。美咲先生みたいに優しく見ていただけると、本当に助かります」
三橋は、その会話を聞きながら、少し胸がざわついた。
母親は、美咲を責めていない。
むしろ感謝している。
美優も楽しそうだ。
美咲も嬉しそうだ。
誰も困っていないように見える。
ただ一つ、家ではできないという事実だけが、机の隅に置かれたままになっている。
その時だった。
「なるほどねぇ」
聞き慣れた低い声がした。
三橋は反射的に振り向いた。
尾山が、いつの間にかカウンターの横に立っていた。
そういえば、今日は尾山先生が来る日だと野島塾長が言っていた。
いつから授業を見ていたのだろう。入ってきた気配も気づかなかった。
高級そうなスリーピーススーツ。アイロンのかかっていないシャツ。整えれば格好よくなりそうなのに、整える気のない髪。
尾山は美優のノートを見ていた。
丸が多いノートだった。
赤ペンの線も、図も、言葉も多い。
美優は尾山を見ると、少しだけ美咲の方へ寄った。
美咲がそれに気づいて、すぐに笑顔を向けた。
「大丈夫だよ」
尾山はその様子を見て、少しだけ目を細めた。
「その『大丈夫』、誰に向けて言った?」
「え?」
美咲が顔を上げる。
尾山は美優のノートを指で軽く叩いた。
「この子、今日何分考えた?」
美咲は一瞬、意味がわからないという顔をした。
「何分……ですか」
「そう。合計で」
「えっと……」
美咲はノートを見た。
ノートは何ページも進んでいた。
前回の宿題の解き直し。
その横には、美咲が書いた割合のまとめ。
新しく扱った例題も三問並んでいる。
赤ペンの丸は多かった。
ただ、一つ気になることがあった。
美優が書いた文字よりも、美咲が書いた文字の方が圧倒的に多かった。
美咲は少し戸惑ったように言った。
「けっこう考えていたと思いますけど」
尾山は首を横に振った。
「一分も考えてねえぞ」
教室の空気が、少し止まった。
美咲の頬が赤くなる。
「でも、解けています」
「お前がな」
尾山は淡々と言った。
美咲の目が揺れた。
三橋は息を飲んだ。
言い方がきつい。
けれど、意味はわかってしまった。
尾山は、美優を見ていないようで見ていた。
美咲のペンが動く時間と、美優の鉛筆が動く時間。
美咲がヒントを出す速さ。
美優が困った顔をしてから助けが入るまでの短さ。
そこを見ていたのだ。
「先生と一緒だと解けるんじゃない」
尾山はノートを見たまま言った。
「先生が横で解いてるんだよ」
美優は不安そうに美咲を見た。
美咲はすぐに何か言おうとした。
その瞬間、尾山が言った。
「ほらな」
美咲の口が止まる。
「今も、お前が助けようとした」
四 優しさの記憶
美咲は、厳しい言葉が苦手だった。
子どもの頃からそうだった。
父は悪い人ではなかった。
仕事も真面目で、家族思いで、美咲の将来を本気で心配していた。
ただ、勉強を教える時だけ、別人のようになった。
「なんでこれがわからないんだ」
「さっき説明しただろ」
「泣いてもできるようにはならない」
リビングのテーブル。
消しゴムのかす。
赤鉛筆で直された計算式。
低い父の声。
美咲は問題を見る前に、父の機嫌を見るようになった。
考えようとすると、頭の中が白くなった。
数字を見ても、式が浮かばない。
間違えないようにと思うほど、手が止まる。
家で教えても成績が上がらないと見ると、父は美咲を個別指導塾へ入れた。
面談の席で、父は塾長に言った。
「うちの子は甘いので、厳しい男性の先生につけてください」
最初に担当した先生は、父の希望通りの先生だった。
声が大きく、説明も速い。
宿題を忘れると、はっきり叱った。
間違えると、「これは基本だよ」と言った。
美咲はその先生の前でも、やはり頭が動かなかった。
成績は上がらなかった。
むしろ、塾の日が近づくと、お腹が痛くなった。
ある日、塾長が父に言った。
「先生を変えましょう」
父は不満そうだった。
「もっと厳しくした方がいいんじゃないですか」
塾長は首を横に振った。
「この子に必要なのは、厳しさではないと思います」
次に担当になったのは、若い女性の先生だった。
その先生は、最初の授業で言った。
「ゆっくりでいいよ」
美咲は信じられなかった。
「まず、どこまでわかるか一緒に見よう」
間違えても、声は荒くならなかった。
「ここまでは合ってるね」
「ここで迷ったんだね」
「じゃあ、次は一つだけやってみよう」
その先生の隣では、美咲は初めて問題を見ることができた。
父の顔ではなく。
先生の機嫌でもなく。
問題そのものを。
少しずつ、算数が怖くなくなった。
点数も上がった。
美咲にとって、優しい先生は、ただの理想ではなかった。
自分を救ってくれた存在だった。
だから美咲は、先生になった時、決めていた。
私は絶対に、子どもを怖がらせない。
私は絶対に、子どもが安心できる先生になる。
今、美優が不安そうに自分を見ている。
助けたい。
その気持ちは、美咲の中でほとんど反射になっていた。
五 助けているのは誰か
授業後、野島は小さな面談室を使うことにした。
「吉岡さん、少しお時間よろしいですか」
沙織は少し不安そうな顔でうなずいた。
美優は森田が見ている机へ移る。
美咲も呼ばれた。
最後に尾山が無言で面談室へ入る。
「三橋くんは授業見学の続きね」
ドアを閉める前に、野島がそう言った。
「はい」
三橋は返事をした。
だが、自分の机へ戻る気にはなれなかった。
先ほどから尾山が何を見ていたのか、気になって仕方がなかった。
面談室のドアは閉まっている。
けれど教室は狭い。
ドアの向こうの声は、とぎれとぎれに聞こえてきた。
面談室には丸いテーブルと椅子が四つある。壁には合格実績の紙が貼られていたが、紙の端が少しめくれている。
美咲は椅子に座っても、背筋を伸ばしたままだった。
吉岡沙織は、その向かいに座った。
野島が場を整えるように、ゆっくり話し始めた。
「吉岡さん、今日は急にお時間をいただいてすみません。何か大きな問題があったというより、今後の授業の進め方を少し相談したいと思いまして」
沙織は不安そうに美咲を見た。
「美咲先生に何か問題があるということですか」
「いえ、そういう話ではありません」
野島はすぐに首を振った。
「美咲先生は、美優ちゃんにとって大事な先生です。そこは間違いありません。ただ、家で一人になると解けないというお話がありましたよね」
「はい」
「そこを、少し見直したいんです」
野島はそこで、尾山を見た。
「尾山、頼む」
尾山は美優のノートを開いていた。
丸のついた問題。
美咲が書いた図。
美優が書いた式。
途中で止まり、美咲の補助で再び動いた鉛筆の跡。
尾山はしばらくそれを見ていた。
それから顔を上げた。
「このノート、丸はついてます。でも、美優ちゃんの思考の跡が薄い」
沙織は眉を寄せた。
「思考の跡、ですか」
「はい。先生の説明の跡は多い。先生の図も多い。先生の言葉も多い。でも、美優ちゃんが迷った跡、選んだ跡、試した跡が少ない」
美咲は小さく唇を噛んだ。
「でも、美優ちゃんは算数が苦手で、不安になりやすいんです。だから、最初は安心させてあげないと」
「悪くない」
尾山はすぐに言った。
美咲は少し驚いた。
「優しさは悪くない。安心も必要だ」
尾山は続けた。
「ただ、安心させることと、考える時間を奪うことは違う」
面談室が静かになった。
沙織はまだ納得しきれていないようだった。
「でも、先生と一緒だと本当に楽しそうなんです。前の塾では嫌がってばかりだったので、私はそれだけでもありがたくて」
「それも大事です」
野島が言った。
「嫌がらずに通えるようになったのは、美咲先生の力です」
美咲の目が少し潤んだ。
尾山は美咲を見た。
「お前、昔、怖い先生に当たったろ」
ドア越しに聞こえてきた尾山の言葉に、三橋は思わず顔を上げた。
美咲先生のことだろうか。
面談室の中が少し静かになる。
次の言葉は聞こえなかった。
しばらくして、
「先生というか……父です」
という美咲の声が聞こえてきた。
三橋は思わず息を止めた。
声が小さくなった。
「父が、勉強に厳しくて。そのあと塾でも、厳しい男の先生につけられて。でも全然だめで。最後に、優しい女の先生に変わって、それで初めて勉強が楽しくなって、成績も上がりました」
尾山は黙って聞いていた。
「だから、私は……」
美咲は一度、言葉を切った。
「私は、子どもに怖い思いをさせたくないんです」
「だろうな」
尾山は言った。
その声は、いつもより少し低かった。
「それで救われたんだろ」
「はい」
「なら、その先生はいい先生だったんだろう」
美咲は顔を上げた。
尾山は続けた。
「でもな、あの時のお前と、今の美優ちゃんは別人だ」
美咲の目が揺れた。
「お前は美優ちゃんを見てるようで、昔のお前を見てる」
「そんなこと……」
「ある」
尾山は短く言った。
「厳しさで潰れた子を見れば、優しさが処方になる。でも、優しさに慣れて考える前に助けを待つ子には、別の処方がいる」
美咲は黙った。
「お前を救ったのは、優しさだけじゃない」
尾山は美優のノートを閉じた。
「その塾長の診断だ。この子に厳しさは違う、と見抜いた。だから先生を変えた。処方が合ったから、お前は伸びた」
美咲は何も言えなかった。
「今のお前は、優しさという薬を、全部の子に出してる」
尾山の声は静かだった。
「薬は合えば効く。合わなきゃ副作用が出る」
沙織が小さく息を吸った。
「副作用……」
「考える前に助けを待つ。先生がいないと解けない。できた気持ちだけ残る。でも力はついていない」
美咲の手が、膝の上でぎゅっと握られた。
「私は、助けているつもりでした」
「助けてる時もある」
尾山は言った。
「でも今日は違った」
美咲は顔を上げた。
「今日は、美優ちゃんを助けてたんじゃない」
尾山は一拍置いた。
「美優ちゃんの不安に、お前が反応してただけだ」
その言葉に、美咲の顔が歪んだ。
沙織もまた、黙っていた。
優しい先生。
ありがたい先生。
子どもが嫌がらない先生。
その言葉の奥に、初めて別のものが見えたようだった。
六 待つ授業
尾山は、授業をやり直すと言った。
美優は同じ長机に戻された。
美咲は隣に座る。
ただし、今度は口を出さない約束だった。
三橋は少し離れた机から見ていた。
野島はカウンターのそばに立ち、沙織はその横で手を組んでいる。
尾山は美優の前に、新しい問題を置いた。
「定価の三割引きで売ったら、売値は千四百円でした。定価はいくらでしょう」
美優は問題を読んだ。
そして、すぐに美咲を見た。
美咲の肩が動いた。
いつものように、
「まず何がわかるかな」
と言いかけたのが、三橋にもわかった。
けれど美咲は言わなかった。
尾山が美優に言った。
「先生を見るな。問題を見ろ」
美優はびくっとした。
美咲が思わず身を乗り出しかける。
尾山は美咲を見ずに言った。
「まだ助けるな」
美咲は止まった。
美優は問題を見た。
一分。
教室の音が、いつもより大きく聞こえた。
隣の机で中学生が英単語を読む声。
赤ペンのキャップが閉まる音。
誰かの椅子が床をこする音。
美優の鉛筆は動かなかった。
二分。
美優の目に、少し涙がにじんできた。
沙織が小さく口を開きかけた。
野島が手で制した。
三分。
美咲の指が、机の下で震えていた。
三橋は、その手を見た。
美咲は今、何と戦っているのだろう。
美優のために助けたいのか。
昔の自分を助けたいのか。
泣きそうな子を見ていられない自分を助けたいのか。
尾山は何も言わなかった。
美優は問題文を見ていた。
逃げてはいない。
目は揺れている。
口元も固い。
けれど、問題文の中を何度も往復している。
四分。
美優が小さく言った。
「三割引き……」
誰も返事をしなかった。
「三割引きだから……」
美優は鉛筆を持ち直した。
「七割?」
美咲の顔がぱっと明るくなった。
でも、まだ言わない。
尾山も何も言わない。
美優は不安そうに美咲を見ようとして、途中で止めた。
そして、ノートに小さく書いた。
7割 1400円
それから、しばらく止まった。
「あ」
美優が小さく声を漏らした。
「くもわだ」
誰も答えない。
美優は問題を見たまま続けた。
「比べる量わる割合……」
1400÷0.7
鉛筆が動く。
2000
「……二千円」
その声は、自信があるわけではなかった。
でも、誰かに言わされた声ではなかった。
尾山は言った。
「今の顔だ」
美優は顔を上げた。
「え?」
「今、解いてた」
尾山はそれ以上褒めなかった。
美優はしばらくぽかんとしていた。
それから、美咲を見た。
美咲は、少し泣きそうな顔で笑った。
「美優ちゃんが、解いたね」
美優はノートを見た。
丸はまだついていない。
でも、その式は自分で書いたものだった。
美優は小さく言った。
「先生が何も言わなくても、できた」
沙織が口元を押さえた。
その声は、喜びとも驚きともつかなかった。
七 優しさの置き場所
授業が終わった後、美優はいつもより少し静かだった。
だが、暗いわけではなかった。
ノートを何度も見ていた。
丸がついた問題より、自分で悩んだ一問を見ている。
「ママ」
「なに?」
「今日の最後のやつ、家でもう一回やってみる」
沙織は驚いた顔をした。
「うん。やってみようか」
「でも、わかんなかったら、すぐ聞かないで少し考える」
美咲はその言葉を聞いて、目を伏せた。
沙織は、美咲に向かって深く頭を下げた。
「先生、すみません。私、先生が横にいると解けるのは、先生の教え方がすごく上手だからだと思っていました」
「いえ……」
「もちろん、それもあると思います。でも、家で解けない理由を、ちゃんと見ていなかったのかもしれません」
美咲は首を振った。
「私も、見ていませんでした」
その声は小さかった。
尾山はカウンターの横で、何かのプリントを見ていた。
聞いているのか聞いていないのかわからない。
三橋は美咲の隣に立った。
「美咲先生」
「うん」
「さっき、助けないで待っていたところ、すごかったです」
美咲は少し笑った。
「すごくないよ。手、震えてたし」
「でも、待ってました」
「うん」
美咲は教室の長机を見た。
美優が座っていた席には、消しゴムのかすが少し残っている。問題用紙の端が、机の上で少し浮いていた。
「私、優しい先生になりたかったんだ」
「はい」
「怖い先生になりたくなかった」
三橋は黙って聞いた。
「でも、今日わかった。私、優しい先生をやってたんじゃなくて、怖くない先生をやってたのかもしれない」
三橋はその違いを考えた。
優しい先生。
怖くない先生。
似ているようで、違う。
美咲は続けた。
「美優ちゃんのために助けてると思ってた。でも、本当は、困ってる子を見るのが私が怖かったのかもしれない」
三橋は何も言えなかった。
その時、尾山がプリントから目を離さずに言った。
「優しさは捨てなくていい」
美咲が振り向く。
「置き場所を間違えるな」
「置き場所……」
「考える前に置くな。考えた後に置け」
尾山はプリントをカウンターに戻した。
「考える前の優しさは、逃げ道になる。考えた後の優しさは、支えになる」
美咲は、その言葉をゆっくり飲み込んだ。
「はい」
尾山は美咲を見た。
「あと、お前を救った先生まで否定するなよ」
美咲は目を見開いた。
「あの先生は、お前に必要なことをした。今日は、お前が美優ちゃんに必要なことを間違えた。それだけだ」
それだけ。
尾山は簡単に言った。
だが美咲には、その言葉が長い時間をかけて届いたように見えた。
八 先生になる前の先生
夜、教室の生徒が少なくなった頃、三橋は美優の問題用紙を片づけていた。
最後の問題の横に、美優の小さな字が残っている。
7割 1400円
1400÷0.7=
2000円
途中式は少し曲がっていた。
でも、それは美優が自分で歩いた跡だった。
翔は、三橋の顔ではなく、初めて本文を見た。
今日の美優は、美咲の顔ではなく、初めて問題を見た。
三橋は、二人の目の動きを思い出した。
先生の顔。
母親の顔。
赤ペン。
ヒント。
丸。
子どもは、思っているよりたくさんのものを見ている。
そして先生もまた、思っているよりたくさんのものを見ていない。
美咲はカウンターの内側で、今日の授業記録を書いていた。
いつものかわいい付箋は、机の端に寄せられていた。
その横顔は、少し疲れていた。
けれど、どこか晴れてもいた。
野島が三橋の隣に来た。
「どうだった?」
「難しいですね」
「何が?」
「優しくすることも、待つことも」
野島は笑った。
「そうだね」
「尾山先生は、優しさを否定したわけじゃないんですね」
「うん。あいつは、だいたい否定してるように聞こえるけどね」
野島は眼鏡を外し、ニットベストの裾で拭いた。
「でも、本当はあまり否定してない。分けてるだけなんだと思う」
「分ける」
「その子に必要なものと、先生が与えたいものを」
三橋は、美咲の背中を見た。
美咲は優しい先生だった。
けれど、今日の彼女は、優しい先生でいることよりも難しいことをした。
助けたい手を止めた。
自分を救った方法を、一度疑った。
三橋は思った。
先生になる前の先生は、自分だけではない。
美咲先生もまた、今日、先生になる前の場所に立っていた。
尾山はすでに帰っていた。
ガラス戸の向こうには、夜の階段が続いている。
三橋はその戸を見ながら、尾山の言葉を思い出した。
考える前の優しさは、逃げ道になる。
考えた後の優しさは、支えになる。
その違いが、まだ三橋には完全にはわからなかった。
けれど、美優が自分で書いた「2000円」の文字だけは、はっきり覚えていた。
その字は、丸よりも少し頼りなくて、丸よりもずっと力強かった。
