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小説『先生になる前の先生』第三話 頭のいい先生


一 東都大学の先生

 六月に入ってから、教室の入口には傘が増えた。

 細いビニール傘、大きな黒い傘、子ども用の短い傘。傘立てに入りきらなかった一本が、壁にもたれて床に小さな水たまりを作っている。

 窓の外は、夕方になってもまだ白く曇っていた。

 湿った空気のせいか、机の上のプリントも、いつもより少し柔らかく波打って見える。

 三橋信吾は鞄を置きながら、教室の奥で東条悠真が理科の教材を広げているのを見た。

 プリントの端には、太陽、地球、月の図が小さく印刷されていた。

 東条は、説明がうまかった。

 三橋は、そう思っていた。

 東条は三橋と同じ大学一年生だったが、ステップバイステップには三橋より三か月早く入っていた。たった三か月の差なのに、教室の中ではずっと慣れて見える。

 それに、大学名の力もあった。

 東都大学。

 名前を聞くだけで、保護者の表情が少し変わる大学だった。

東条はそれを鼻にかけるタイプではなかった。むしろ穏やかで、礼儀正しく、言葉も丁寧だった。

この日の三橋は授業担当ではなかった。

来週末にある模試の準備を頼まれている。

国語、算数、理科、社会。

教室の隅で模試の冊子を学年ごとに分けながら、足りない部数がないか確認していた。

「結局、学習効率を上げるには、想起練習と間隔反復が大事なんですよね」

三橋は模試の部数をチェックしながら、曖昧にうなずいた。

「そうなんですね」

「インプットよりアウトプットです。あと、ただ読むだけの復習は効率が悪い。自分で思い出す練習をしないと定着しません」

「なるほど」

「もちろん、子どものタイプにもよりますけど」

 その言葉まで含めて、東条は正しかった。

 正しいことを、正しい順番で、正しい言葉で説明できる。

 三橋には少し眩しく感じた。

 自分はまだ、子どもの鉛筆が止まる理由さえ、尾山先生に言われなければ見えない。美咲先生の授業でも、違和感の正体を自分ではつかめなかった。

 その点、東条は違う。

 勉強ができる人は、勉強の仕方まで説明できるのだと思った。

「今日の宮原くんも、理科の月ですよね」

 三橋が聞くと、東条はうなずいた。

「はい。月の満ち欠けです。暗記に見えますけど、整理すればかなりパターン化できます」

 東条はノートに表を書いた。

 縦に、新月、上弦、満月、下弦。
 横に、東、南、西。

「いわゆる、しじまか表です。これを使えば、月の出、南中、月の入りの時刻が整理できます」

「しじまか表」

「新月の“し”、上弦の“じ”、満月の“ま”、下弦の“か”です。中学受験では有名です」

 東条の字はきれいだった。

 表も整っている。

 三橋は、それを見て素直に感心した。

 わかりやすい。

 美咲先生の優しさとは違う。東条の授業は、頭の中が整理される感じがした。

 その時、入口のガラス戸が開いた。

「こんにちはー!」

 元気な声が教室に響いた。

 小五男子の宮原蓮だった。

 ランドセルの肩ひもを片方だけ外し、もう片方に体重を預けるようにして立っている。髪は少し跳ねていた。目がよく動く。教室に入ってから数秒の間に、時計、コピー機、カウンター、東条のノート、三橋の顔まで順番に見た。

「東条先生、今日って月?」

「そう。月の満ち欠け」

「月ってさ、地球から見ると丸く見えるけど、宇宙から見ても丸いの?」

 東条は少し笑った。

「それは面白い質問だけど、今日はまずテキストの内容からやろうか」

「えー、でも気になる」

「あとで時間があったらね」

 蓮は口を尖らせたが、すぐに椅子に座った。

 その後ろから、母親が入ってきた。

 宮原怜子。

 紺色のジャケットに、白いブラウス。髪はきれいにまとめられている。手には教育書が入っていそうな布製のバッグを持っていた。

 怜子は東条を見ると、安心したように微笑んだ。

「今日もよろしくお願いいたします」

「こちらこそ、よろしくお願いいたします」

 東条は丁寧に頭を下げた。

「先日お話ししていた復習法の本、読んでみました。想起練習のところ、すごく納得しました」

 怜子の声が少し弾んだ。

「本当ですか。あの本、かなり良いですよね」

「はい。やはり、ただ読むだけではだめなんですね。自分で思い出す練習をしないと」

「そうです。そこを家庭学習でも入れられると、かなり変わると思います」

 東条と怜子は、自然に話が噛み合っていた。

 三橋はその様子を見ながら思った。

 頭のいいお母さんだ。

 そして東条は、その頭のよさにちゃんと応えられる先生だった。

 蓮だけが、二人の会話を聞きながら、机の上で鉛筆を転がしていた。

二 月じゃない表

 授業は、東条の作った表から始まった。

「まず、今日は月の見え方を整理します」

「はい」

 蓮は返事だけは元気だった。

「新月、上弦、満月、下弦。この四つを縦に書く」

「し、じ、ま、か?」

「そう。しじまか表」

「なんか呪文みたい」

「覚えやすいでしょ」

 東条は笑った。

怜子も、教室の隅の椅子で小さくうなずいていた。

本来、ステップバイステップでは保護者の授業見学はあまり入れていない。他の生徒もいるし、子どもが親の視線を気にしてしまうからだ。

今日は授業後に面談があるため、怜子には終わりの時間に来てもらう予定だった。

けれど怜子は、少し早く教室に着くと、野島に言った。

「たまには授業の様子を見せていただくくらい、よろしいでしょうか。家庭での関わり方を見直すためにも、塾でどう進めているのか知っておきたいんです」

野島は少し困った顔をした。

「お気持ちはわかります。ただ、他の生徒さんもいますし、蓮くんが気にしてしまうこともありますので」

「もちろん邪魔はいたしません」

怜子は穏やかに言った。

「隅で静かに見ているだけです」

野島が返事に迷っていると、

「いいじゃないですか」

東条が笑った。

「宮原くんのお母さん、すごく熱心ですし」

「いや、でもね」

「僕は大丈夫ですよ。むしろ家庭と塾でやり方を合わせられた方がいいと思います」

怜子は少し安心したように東条を見た。

「ありがとうございます」

野島は丸眼鏡を外し、ニットベストの裾でレンズを拭いた。

「じゃあ、今日だけですよ」

結局、教室の隅に椅子が置かれた。

蓮の真後ろではない。

だが、蓮からは母親の姿が見える位置だった。

 東条は表の横に「東・南・西」と書いた。

「月が東から出て、南を通って、西に沈む。この流れは太陽と同じ」

「じゃあ、月も朝出て夕方沈むの?」

「月の形によって違う。だからこの表で覚える」

「なんで違うの?」

 蓮はすぐに聞いた。

「太陽と月の位置関係が違うからだよ」

「位置関係って、地球から見て?」

「そう。ただ、まずは表で整理した方が早い」

 東条は赤ペンを持った。

「新月は、太陽と同じ方向にある。だから昼に南中して、夕方に沈む。満月は太陽と反対側にある。だから夕方に出て、夜中に南中して、朝に沈む」

「反対側って、地球の向こう?」

「そう」

 蓮の目が少し輝いた。

「じゃあ、満月って太陽と反対にいるから全部光って見えるの?」

「そうそう」

「じゃあ上弦はその途中?」

「そう」

「じゃあさ、宇宙から見たらずっと半分だけ光ってるの?」

 東条は一瞬止まった。

「いい質問だけど、今は表を完成させよう」

 怜子が横から柔らかく言った。

「蓮、その話はあとでいいから。まず先生の表を写しなさい」

「でも、今わかりそうだった」

怜子が、後ろの椅子から静かに言った。

「わかるために表を書くの」

声は穏やかだった。けれど、蓮の口はそこで止まった。

 鉛筆を持ち直し、東条の表を写し始める。

 三橋は少し離れた机から見ていた。

 怜子の言葉は間違っていない。
 東条の表も正しい。

 けれど、蓮の目から光が少し消えたように見えた。

 さっきまで、太陽と月と地球の位置を考えようとしていた。

 今は、表を写している。

 どちらが勉強なのか。

 三橋には、まだはっきりとはわからなかった。

「蓮くん、ここは覚えるところだからね」

 東条が言った。

「うん」

「まず型を入れて、それから問題で使えるようにしよう」

「はい」

 蓮は母親の方をちらっと見た。

 怜子は満足そうにうなずいた。

 蓮もそれを見て、小さくうなずいた。

 その顔は、お調子者の顔ではなかった。

 母親を安心させる顔だった。

三 正しい大人たち

 授業後、怜子は東条の説明に深くうなずいていた。

「やはり、蓮は自己流に走りがちなんです」

 怜子は言った。

「興味があることには食いつくんですけど、試験で点になる形に整理するのが苦手で」

「好奇心は強いですよね」

 東条は言った。

「ただ、その好奇心を学習成果につなげるには、やはり型が必要だと思います」

「そうなんです。私もそう思います」

 怜子は少し身を乗り出した。

「家でも、テキスト通りにまとめてから問題を解くように言っているんです。でも途中で関係ないことを言い出してしまって」

「理科は特に、知識の整理が大事ですからね」

「ですよね」

 二人の話は、滑らかに進んだ。

 三橋は横で聞きながら、何も間違っていないと思った。

 怜子は勉強家だった。
 東条も勉強家だった。

 どちらも蓮のためを思っている。

 それなのに、蓮は隣の机で、表の隅に小さな月の絵を描いていた。

 新月。
 上弦。
 満月。
 下弦。

 その横に、太陽と地球の丸も描いている。

「蓮」

 怜子の声が少しだけ鋭くなった。

「落書きしないで、まとめを完成させなさい」

「落書きじゃないよ」

「今は表を覚えるところでしょ」

「でも、こう描いた方がわかる」

「テストでは表で聞かれるの」

 蓮は黙った。

 東条が穏やかに間に入った。

「宮原くん、図で考えるのは悪くないよ。ただ、まずは問題で使える形にしよう」

「はい」

 蓮は返事をした。

 また、母親を見た。

 怜子は困ったように微笑んだ。

「本当に、自由すぎるんです」

 東条も少し笑った。

「発想力はありますよ」

「でも点数にならないんですよね」

「そこは、これから整理していけば大丈夫です」

 その時だった。

「なるほどねぇ」

 聞き慣れた低い声がした。

 三橋は振り向いた。

 尾山がカウンターの横に立っていた。

 今日は来る日だと、野島が言っていた。いつから授業を見ていたのだろう。

 高級そうなスリーピーススーツ。アイロンのかかっていないシャツ。整えれば格好よくなりそうなのに、整える気のない髪。

 尾山は、蓮のノートを見ていた。

 しじまか表。
 東条の字。
 怜子が家で赤ペンを入れた宿題。
 蓮が隅に描いた太陽と月と地球。

 尾山は表を指さした。

「これ、誰のノートだ」

 東条が答えた。

「宮原くんのノートです」

「そうは見えねえな」

 怜子の顔が少しこわばった。

「どういう意味でしょうか」

 尾山は蓮の描いた小さな図を指で叩いた。

「この子のノートはここだけだ」

 蓮が顔を上げた。

 怜子は困惑したように言った。

「でも、それは落書きで……」

「違います」

 尾山は即座に言った。

「この子、月を考えてます」

 教室の空気が、少し止まった。

「こっちは表です」

尾山はしじまか表を指す。

「こっちは月です」

小さな図を指す。

「お前ら、月を教えてねえ。表を教えてる」

東条の顔が赤くなった。

三橋は息を飲んだ。

その言葉は乱暴だった。

けれど、蓮の目が少しだけ明るくなった。

野島が丸眼鏡を外した。
ニットベストの裾でレンズを拭く。

「宮原さん」

「はい」

「今日の面談なんですけど」

「はい」

「実は尾山にも同席してもらおうと思ってるんです」

怜子は少し驚いたようだった。

「尾山先生にも、ですか」

「はい」

「蓮くんの様子を見てもらっていました」

怜子は尾山を見た。

尾山は相変わらず蓮のノートを見ている。

「勉強はしている」

野島は言った。

「お母様も熱心に見てくださっている」

「はい」

「ただ、そのわりに結果が安定しない」

怜子の表情が少し曇った。

「……そうですね」

「だから今日は、いつもと少し違う角度から見てもらおうと思いまして」

野島は尾山を見た。

「尾山」

「だいたい見えた」

「じゃあ行きましょうか」


四 勉強家の母

面談室には、野島、尾山、東条、怜子が入った。

蓮は教室に残った。

「三橋くん、悪いけど少し見ててくれる?」

野島がそう言った。

「はい」

三橋はうなずいた。

蓮は理科のノートを開いたまま、椅子をくるくる回そうとしている。

「回るなよ」

「まだ回ってない」

「回そうとはしてるだろ」

「なんでわかったの」

「見てたから」

蓮は少し笑った。

面談室のドアが閉まる。

教室は狭い。

三橋は蓮の斜め向かいに座り、模試の部数確認を続けながら、ときどきプリントの進み具合を見ることにした。

面談室のドア越しに、声だけはとぎれとぎれに聞こえてきた。

 野島の声がまず聞こえた。

「宮原さん、今日は責める話ではありません。お母様がとても熱心に見てくださっていることは、こちらもよくわかっています」

「はい」

 怜子の声は少し硬かった。

「ただ、蓮くんの勉強の進め方について、少し整理したいと思いまして」

 少し沈黙があった。

 次に、尾山の声がした。

「お母さん、勉強しましたね」

 怜子はすぐに答えた。

「はい。できる限りは」

「本も読んだ」

「はい」

「勉強法も調べた」

「はい」

「だから、蓮くんのやり方が不安になる」

 怜子の返事は、少し遅れた。

「……はい」

「自己流に見える」

「見えます」

「遠回りに見える」

「はい」

「点数にならないように見える」

「そうです」

 尾山はそこで、少し黙った。

「お母さんの言ってることは、だいたい正しいです」

 怜子は驚いたようだった。

 三橋も、ドアの外で顔を上げた。

 尾山が保護者を褒めるのは珍しい。

「正しいなら……」

 怜子の声が揺れる。

「なぜ、うまくいかないのでしょうか」

 尾山は言った。

「正しい方法が、正しい処方とは限らないからです」

 面談室の中が静かになった。

「蓮くんは、暗記が嫌いなんじゃない」

 尾山の声が続く。

「納得してないものを覚えるのが嫌いなんです」

 怜子は何も言わなかった。

「この子は、表が嫌いなんじゃない。表だけ渡されるのが嫌いなんです」

「でも、テストでは……」

「テストでは必要です」

 尾山は遮らなかった。

「だから表も使えばいい。ただ、あの子の場合は順番が違う」

「順番……」

「先に位置関係を見たい。太陽と地球と月がどう並んでいるのか、そこを掴みたい。そのあとなら表は入る」

 東条の声がした。

「でも、効率を考えると、典型問題は先に表で処理した方が……」

「東条」

 尾山の声が少し低くなった。

「お前は効率の話をしてる。蓮くんは納得の話をしてる」

 東条は黙った。

「お母さんと先生が賢いと、子どもは黙るんです」

 尾山は言った。

「二人とも正しいことを言う。だから子どもは反論できない。でも、反論できないから納得したわけじゃない」

 三橋は、蓮の方を見た。

 蓮はプリントを見ている。だが、どこか落ち着かない様子で、面談室の方をちらちら見ていた。

 お母さんが好きなのだ。

 三橋はそう思った。

 蓮は自由にやりたい。
 でも、お母さんを困らせたくない。
 だから、なるべく合わせようとしている。

 そして合わせようとするほど、蓮の頭は動かなくなる。

五 一週間の処方

 面談室のドアが開いた。

 怜子は、少し疲れた顔をしていた。

 東条は黙っている。

 尾山だけが、いつもと同じ顔だった。

「一週間だけです」

 尾山は怜子に言った。

「家で理科の勉強を見ないでください」

 怜子はすぐには答えなかった。

「見ない、というのは」

「教えない。直さない。表を作らせない。まとめ直しをさせない」

「でも、宿題が間違っていたら」

「間違えたまま持ってこさせてください」

 怜子の目が揺れた。

「それで点数が下がったらどうするんですか」

「今、上がってないでしょう」

 尾山は淡々と言った。

 怜子は言葉を失った。

 野島が少しだけ苦笑した。

「尾山、言い方」

「これでも選んでる」

 尾山は怜子を見た。

「何も言うなとは言いません。一つだけ言っていいです」

「何ですか」

「どう考えたの?」

 怜子は聞き返した。

「それだけですか」

「はい」

「答えを教えてはいけない」

「はい」

「やり方も」

「はい」

「テキスト通りにしなさい、も」

「禁止です」

「表にまとめなさい、も」

「禁止です」

 怜子は深く息を吸った。

「……私にできるでしょうか」

「難しいと思います」

 尾山は即答した。

「でも、お母さんが一週間黙れるかどうかで、蓮くんの頭がどれだけ動くか見えます」

 怜子は蓮の方を見た。

 蓮は母親と目が合うと、すぐに笑った。

 少しおどけた顔だった。

 大丈夫だよ、と言っているようにも見えた。

 怜子の表情が揺れた。

「わかりました」

 彼女は小さく言った。

「一週間、やってみます」

 尾山はうなずいた。

「東条」

「はい」

「次の授業から、勉強法の話を減らせ」

 東条は顔を上げた。

「減らす、ですか」

「研究の話じゃなくて、蓮くんの頭が今どう動いてるかを見ろ」

 東条は黙った。

「お前の言ってることは正しい。でも、正しいことを言って気持ちよくなってる時は、生徒を見てない」

 三橋は、その言葉に胸が痛くなった。

初日の授業で自分が尾山に言われたことと似ていた。

 わかりやすい説明で気持ちよくなるのは、先生の方。

 今度は東条が、その場所に立っていた。

三橋はふと思い出した。

塾では時々、尾山のことを「オヤコ先生」と呼ぶ人がいる。

尾山浩一を短くしただけだと思っていた。

けれど今日、尾山が見ていたのは蓮だけではなかった。

母親も見ていた。

東条も見ていた。

三橋は、その呼び名の意味が少しだけわかった気がした。

六 一週間後

 一週間後、宮原蓮は少し早く教室に来た。

 入口のガラス戸を開けるなり、言った。

「先生、俺、月わかったかもしれない」

 東条は顔を上げた。

 三橋も近くの机で教材を整理していた。

「月、わかった?」

「うん。たぶん」

 蓮はランドセルから理科の宿題を出した。

 ノートは、前より少し汚かった。

 しじまか表は、端の方に小さく書かれている。

 その代わり、太陽、地球、月の図がいくつも描かれていた。

 満月の時。
 新月の時。
 上弦の時。
 下弦の時。

 矢印もある。
 丸もある。
 ところどころ、言葉も書かれている。

 太陽と反対だから満月。
 太陽と同じ方だから新月。
 半分ずれたら上弦。
 反対に半分ずれたら下弦。

 東条はノートを見て、しばらく黙った。

「これ、一人でやったの?」

「うん」

「お母さんは?」

「聞かなかった」

「本当に?」

「うん。聞きたかったけど、聞かなかった。お母さんに『どう考えたの?』って聞かれたから、説明した」

「それで?」

「そしたら、お母さんが『そう考えたんだ』って言った」

 蓮は少し得意そうに笑った。

「で、俺、もう一回考えた」

 東条は宿題をめくった。

 丸が多かった。

 すべてではない。

 間違いもある。

 けれど、最初の提出でここまで丸がついたのは初めてだった。

 以前は、家で一度やって、母親と直して、ようやく丸が増える宿題だった。

 今日は違う。

 蓮の一回目だった。

 東条は、何か言おうとして止まった。

 そこへ怜子が入ってきた。

 いつものように整っていたが、今日は少しだけ表情が柔らかかった。

「お世話になります」

 怜子は東条に頭を下げ、それから蓮のノートを見た。

「この一週間、本当に大変でした」

「大変?」

 三橋が思わず聞いた。

 怜子は苦笑した。

「口を出さないことが、こんなに大変だとは思いませんでした」

 その声には、少し笑いが混じっていた。

「何度も言いそうになりました。そこは表で整理した方が早い、とか、まずテキストを見なさい、とか」

「言わなかったんですか」

「三回くらいは言いかけました」

 怜子は正直に言った。

「でも、尾山先生に言われたので」

「どう考えたの?」

 蓮が母親の声を真似した。

「そればっかり言うんだよ」

「だって、それしか言ってはいけないと言われたから」

 怜子は少し照れたように言った。

「でも、蓮が説明してくれたんです。太陽と地球と月の位置を、何度も」

「めっちゃ説明した」

「うん。長かった」

「お母さん、途中で眠そうだった」

「眠くはなかったです」

 怜子は真面目に否定した。

 蓮は笑った。

 三橋はそのやりとりを見て、少し驚いた。

 一週間前の怜子なら、蓮の脱線を止めていた。

 今は、その脱線を聞いている。

 蓮もまた、母親の顔色を見ながら話を短くするのではなく、思ったことを口に出している。

 そして、その結果として宿題の丸が増えている。

 不思議なことのようで、尾山には不思議ではないのだろう。

七 ようやくこの子のノート

 しばらくすると尾山が来た。

 蓮のノートを見せられると、しばらく黙ってページをめくった。

 丸の数ではなく、図を見ているようだった。

 消し跡。
 矢印。
 自分で書いた説明。
 間違えて直した問題。

 それから尾山は言った。

「ようやくこの子のノートになったな」

 怜子はその言葉を聞いて、少し目を伏せた。

 東条も黙っていた。

「丸が増えました」

 怜子が言った。

「はい」

「でも、それより……」

 彼女は蓮のノートを見た。

「この子が何を考えていたのか、初めて少し見えました」

 尾山はうなずいた。

「それです」

 怜子は静かに言った。

「私は、正しいやり方を教えているつもりでした」

「はい」

「でも、蓮が何を考えているかは、あまり聞いていなかったのかもしれません」

 尾山は何も言わなかった。

 東条が口を開いた。

「僕も、勉強法の話をしすぎていました」

 尾山は東条を見た。

「しすぎてたな」

「はい」

「勉強法が悪いんじゃない」

「はい」

「お前の勉強法が、蓮くんより前に出てた」

 東条は唇を噛んだ。

「正しい方法を知っていれば、教えられると思っていました」

「正しい方法を知ってる人間は危ないぞ」

 尾山は言った。

「なんでですか」

 三橋が思わず聞いた。

 尾山は三橋を見た。

「子どもを見なくても、正しいことが言えるからだ」

 三橋は黙った。

 その言葉は、東条だけに向けられたものではなかった。

「蓮くん」

 尾山が呼ぶと、蓮は顔を上げた。

「月、好きか」

「うん。ちょっと好きになった」

「表は?」

「まあ、ちょっと嫌い」

 怜子が少し笑った。

 尾山も口の端だけを動かした。

「嫌いでいい。でも使え」

「えー」

「嫌いな道具でも、使えると便利だ」

「じゃあ、図で考えてから表を使うのはあり?」

「あり」

 蓮の顔が明るくなった。

「じゃあそれでやる」

 怜子は何か言いかけて、止まった。

 そして、ゆっくり言った。

「どう考えたのか、あとで聞かせて」

 蓮はにやっと笑った。

「長いよ」

「少しだけ短くして」

「じゃあ、ちょっとだけ短くする」

 三橋は、その会話を聞きながら、胸の奥に小さな温かさを感じた。

 親が変わると、子どもの声が変わる。

 子どもの声が変わると、ノートが変わる。

 ノートが変わると、丸のつき方まで変わる。

 それは、子どもだけを見ていたら見えない変化だった。

八 先生たちの表

 その日の授業後、東条は自分のノートを開いていた。

 いつものように、きれいな字で何かを書いている。

 三橋が近づくと、東条は少し恥ずかしそうにノートを閉じた。

「何を書いてたんですか」

「反省です」

「反省」

「今日の」

 三橋は隣に座った。

「東条先生でも反省するんですね」

「しますよ」

 東条は苦笑した。

「僕、勉強法を知っていれば、生徒を助けられると思っていました」

「はい」

「でも、今日、蓮くんのノートを見て思いました。僕はあの子に、月を見せていなかったのかもしれません」

 三橋は、蓮の小さな図を思い出した。

 太陽。
 地球。
 月。

 表より乱れていて、東条の字よりずっと下手だった。

 けれど、そこには蓮の頭が動いた跡があった。

「僕も、初めての授業の時に尾山先生に言われました」

 三橋は言った。

「説明してる時間は、生徒がサボってる時間だって」

 東条は少し笑った。

「言いそうですね」

「はい」

「僕は今日、正しいことを言ってる時間は、生徒を見なくて済む時間なのかもしれないと思いました」

 三橋はその言葉をゆっくり聞いた。

 教室では、森田が椅子を片づけている。

 美咲はカウンターの内側で、生徒の宿題メモを書いていた。

 野島は電話中だった。

 尾山はもう帰っていた。

 いつも通り、必要なことだけ言って、いつの間にかいなくなっていた。

 三橋は思った。

 自分は、説明する先生だった。

 美咲先生は、優しい先生だった。

 東条先生は、正しい先生だった。

 けれど、三人とも、どこかで子どもを見失っていた。

 先生になる前の先生は、一人ではない。

 そのことが、少しずつ見えてきた。

 東条がノートを開き直した。

 そこには、こう書かれていた。

 正しい方法が、正しい処方とは限らない。

 三橋はその一文を見て、尾山の声を思い出した。

 お母さんと先生が賢いと、子どもは黙る。

 その言葉は乱暴だった。

 でも、今日の蓮の声を思い出すと、否定できなかった。

 蓮は、ようやく話し始めたのだ。

 月のことを。
 自分の考えを。
 お母さんに聞いてほしかったことを。

 そしてその声が出た時、ノートの中の月は、ただの暗記表ではなくなっていた。

 それは、蓮が自分で見つけた月だった。


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