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【小説・ヴィーナス症候群】(77)朝のペンギン騒動

檜皮谷奈緒はその朝も、義手をつけずに散歩に出ていた。

季節は初夏。黄色のタンクトップにショートパンツ、グレーのレギンス。サンダルの甲に鍵を挟んで歩くのは、彼女の日課であり、「トルソーさん」という仕事の一部でもあった。体型維持は、商品管理のひとつ。だから歩く。姿勢よく、まっすぐ。

奈緒が働いているのは「Felice」っていうドレス系ブランドで、ブライダルや舞台用の衣装をつくってる。ちゃんと雇用されてて、立場としてはトルソー枠。いわば“着る側の備品”みたいな感じだけど、ただ突っ立ってるだけの存在じゃない。
この仕事自体、いまやFeliceに限らず、Confeitoみたいな他のアパレルでも広がってて、一部の義肢メーカーが絡むケースもある。障害者雇用の制度の中で、きちんと役割として確立されてきてる。プラスチックのトルソーにはできないこと、できる体がある。

今日は午後から下北沢のスタジオで撮影。たしか、マーメイドとAラインのドレスが1着ずつって聞いてたっけ。資料にはあんまり詳しく書いてなかったけど、両方とも腰の位置が高めらしい。となると……お腹と背中、ちゃんと締めておかないと。

「……じゃ、着圧ソックスは持って行こう。ベージュのインナー。義手は撮影のときに外すから、保管袋も……」

義手は生活に必要なものだ。買い物だって電車だって、義手があるからスムーズに動ける。ただ、散歩くらいなら外しても困らない。鍵とサンダルさえあれば、十五分そこらどうとでもなる。

スタジオ担当の名前は田所さん。以前、浅草のイベントで一緒になった人かも。ちょっと言葉はきつかったけど、仕事は早くて、あのときはわりといい雰囲気だった気がする。

「洗濯、出る前に回して……冷えピタは帰りでいいか……」


そんなことを考えながら歩いていたときだった。

角を曲がった先、なんだか妙に空気がざわついていた。人が数人、立ったまま同じ方向を見ている。パトカーが1台。青白いワンボックスには「動物管理センター」の文字。制服の警官が二人と、私服の男がひとり。刑事、だと思う。シャツの襟元から薄いネックホルダーが覗いていた。

門の前で、警官のひとりが無線機を肩に押し当ててしゃべっていた。通りを挟んでいても、その声は風に乗って聞こえた。

「用賀署現着。現場は3丁目7番地、木造二階建て住宅。通報者は近隣住民。対象生物、フンボルトペンギン1体、室内バスルームにて確認済。特定動物指定種、飼養許可未確認。対象個体は現在、動物管理センター職員により保定中。生活安全一課および動管職員と連携のうえ、これより対象者を任意同行予定。オーバー」

それに続いて、白衣の上に作業ベストを着た中年の動管職員が、銀色の輸送用ケースを門の内側から押して出てきた。ケースの通気孔には保冷剤が取り付けられている。ひとりが台車を押し、もうひとりは持参した備品リストにチェックを入れていた。会話は交わさず、慣れた動作。

門の奥では、スリッパを履いた中年の男が立っていた。刑事が何かを問いかけ、それに頷くようにして、男は両手を前に差し出した。手錠はない。任意同行なのだろう。横にいた制服の警官が、無言で記録用の写真を撮っていた。真正面、側面、対象者と住居の関係が分かるように――警察署の証拠写真でよく見る構図だった。

「ほんとにいたのよ。ペンギン。風呂場に」

「名前、“ししゃも”だったんですって」

「毎朝コンビニで氷買ってたの、それ用だったんだって……」

奈緒は立ち止まらなかった。ただ、少しだけ歩くスピードを落とした。

ペンギンが風呂場にいた、という話も。名前が“ししゃも”だったという噂も。信じがたいけれど、目の前で動物管理センターの人が保定ケースを閉じる様子を見てしまえば、納得せざるを得ない。

奈緒はまた歩き出した。数分後には、何事もなかったかのように住宅街が元の静けさを取り戻すのだろう。
でも、今日は撮影。背筋を伸ばして、腹を引っ込めて、衣装が映えるように。
彼女にとっては、いつもと変わらない仕事のある朝だった。

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