【小説・ヴィーナス症候群】(20)水着カタログの撮影現場
原因不明のいわゆる「第2サリドマイド事件」の影響で、生まれつき両腕がないヴィーナス児である大里ひかりは、私立大学の文学部を卒業後、アパレルブランド「Confeito」に就職した。専門は現代詩。ファッションとは無縁だったが、現在の職種は「試着モデル」、通称「トルソーさん」。商品を着用した状態で撮影に臨むこの仕事は、ヴィーナス児にとって近年比較的多く選ばれている就職先のひとつだった。中にはウェディングドレスや一般のファッションブランドに行った子もいる。
ひかりは現在、春夏向けの新作水着カタログ撮影に参加している。商品はハイビスカス柄のホルターネック水着。撮影場所は都内近郊のロケスタジオで、プールサイドを模した屋外空間には白い柵と植え込み、青く澄んだ水面。午後のやわらかい陽光が差し込んでいた。

義手は装着していない。撮影時は衣服に干渉するため、原則として外すことになっている。
「ひかりちゃん、半歩右に……はい、そこで」
カメラマンの声に、ひかりは静かに頷く。声は出さない。返事によって表情がわずかでも動いてしまえば、もう一度撮り直す必要が生じるからだ。彼女はそれを理解している。長い撮影経験の中で、自然と身につけてきた所作だった。
「目線、少し上……そのままで」
レフ板が傾けられ、スタイリストが脇腹の布地を直す。撮影対象はあくまで水着のシルエットであり、モデル本人の感情や魅力は求められていない。だからこそ、動かず、しゃべらず、ただそこに立つ。ひかりはその役割に徹している。
撮影は30分で終了した。カット数も予定通り。
ひかりは軽く会釈をして、ひとことだけ口にする。
「お疲れさまでした」
その場にいたカメラマンやスタッフも、それに応じて笑顔で頭を下げる。
「お疲れさま。ありがとうね、スムーズだったよ」
控室に戻ると、スタイリストの女性が水着のストラップを外し、背中のリボンをほどく。バスローブを羽織り、椅子に座って義手を装着する。肩のカフを調整し、左右のベルトを引いて固定。あとは七分袖のシャツとスカートを身につけるだけで、撮影用の「身体」から、生活用の「身体」へ戻っていく。
身支度を整えてスタジオを出るころには、日が少し傾いていた。
エレベーターを降りながら、ひかりは思う。
「帰りにスーパー寄って、野菜とパン……トマト缶はまだあったかな」
スマートフォンを取り出し、駅近のスーパーの閉店時間を確認する。義手での操作にも慣れている。駅ビルの地下で食材を選び、セルフレジで会計。鶏肉とヨーグルトをバッグに入れ、改札へ向かう。
大学時代、就職先を聞かれたとき、「モデルみたいなもの」と答えると、友人たちは驚き、少し羨ましがった。
だが今では、それがどうという感情もない。仕事は仕事。服を着て立ち、終わったら買い物をして帰る。ただそれだけの、毎日の一部。
来週、今日の撮影画像がブランドサイトに掲載される。そこに名前は載らない。写るのは、水着と、その布の形を示す無言の身体だけである。
それで、ひかりには十分だった。
