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【小説・ヴィーナス症候群】(25)ホモソーシャル

四月の初め、東京のブランドから来た戸頭紬にとって、京都での仕事は楽しみのひとつだった。

紬はヴィーナス児――原因不明のいわゆる「2サリドマイド事件」で生まれつき両腕がない女性として生まれ、今は両腕に義手をつけて暮らしている。義手を外して衣服を身につけるという特性を活かし、アパレルブランドの試着モデル、いわゆる「トルソーさん」として働いている。

フリーランスの立場で活動しており、さまざまなブランドの撮影や展示会に呼ばれてきた。clematis & nestとは以前から関係が深く、何度も撮影やフィッティングに呼ばれていた。過去には専属契約の打診もあったが、本人の希望でフリーのまま活動を続けている。

特定のブランドに所属しないことで、紬はより広い現場を渡り歩いてきた。展示会、広告、パンフレット、時にはパラスポーツ関連の映像にも立ったことがある。自分でスケジュールを組み、誰と仕事をするかを選べる自由――その代わり、現場での立場は時に脆く、守ってくれる“内側”も持たない。だがそれでも、紬はこの働き方を選び続けている。

一方で、ブランドに所属する専属の「トルソーさん」も一定数存在する。例えば、アパレル大手Riaの家久綾音はファッションライン専属で、ウェディングブランドFeliceに所属する武隈莉子はドレス専門の「トルソーさん」として知られている。他にも、義肢メーカー系の「トルソーさん」や、展示会専門の固定契約を持つ「トルソーさん」も増えつつある。

今回の仕事は、東京・表参道に本社を構えるレディースブランド「clematis & nest(クレマチス・アンド・ネスト)」による春夏の新作撮影だった。ヴィーナス児の試着モデルを起用するのは今回が初めてだった。これまで都内中心だった仕事が、初めて関西の百貨店との案件となり、社内でも期待されていると感じていた。

当日の朝、営業の高梨と一緒に東京駅から新幹線に乗った。窓の外の景色を眺めながら、ブランドの今季ラインについての話や、関西ならではの百貨店文化についての話題で、会話も弾んだ。

「桔梗屋って、京都じゃ有名な老舗なんですよね」「創業三百年とか言ってましたよ、すごいですよね」

紬は、新しい土地と新しい現場に心を躍らせていた。京都市内の桜の名所として知られる庭園では、桔梗屋デパートとブランド「clematis & nest(クレマチス・アンド・ネスト)」のタイアップによる夏物の撮影が行われていた。ブランドの新作ノースリーブワンピース。モデルを務めるのは「トルソーさん」の戸頭紬だった。

桜と夏服という季節のちぐはぐさはあったが、撮影はつつがなく進んだ。ブランド営業の高梨、そして桔梗屋デパート本店(京都)所属の営業担当・鈴森も機嫌よく現場を見守っていた。

その夜、撮影が終わったあと、紬はひとりで四条河原町の飲み屋街を歩いていた。京都らしい町家風の外観が並ぶ中、たまたま入ろうとした居酒屋の暖簾の向こうから、聞き慣れた声がした。高梨と、桔梗屋の鈴森だった。

軽く挨拶しようと近づいたとき、ふと耳にした会話に足が止まった。

「いやマジで、俺、トルソーに走るほど落ちぶれてないからな?」「あれ、ただの“戸籍あるマネキン”やん。健常の女の子と並べるのは無理あるし、抱けるわけないし」

鈴森は、焼酎のグラスを回しながら鼻で笑った。「顔が可愛うてスタイルええからって、勘違いされても困るわ。女の子ならまだしも、あんなん、ただのマネキンやで」

高梨がふと視線を上げ、入り口の方を見て一瞬動きを止めた。紬の姿に気づいたのだ。表情をわずかに引きつらせながら、鈴森の方へ身を寄せて声を低くした。「声、でかいっす。ちょっと落としましょ」

紬は黙って踵を返した。何も言わなかったが、あの瞬間、何かが確かに終わった。

翌日、高梨はやや気まずそうに笑いながら言った。「昨日さ、紬ちゃんの姿見えてたんだよね。まさかあんなとこにいると思わなくてさ……なんか、タイミング悪かったよね。変なこと言ってたらごめん」紬は「大丈夫です」とだけ返したが、その言葉は空気のように軽く、何も届いていないことがわかった。

その数日後、ブランドの試作品フィッティングの場で、別の女性社員との何気ない雑談の中で、紬がふと「この前、ちょっと嫌なことがあって」と言った。

「どうしたの?」と女性社員は作業の手を止め、「紬ちゃん、それ本当?」と顔を覗き込んだ。

紬は多くを語らなかった。ただ、撮影のあと偶然入った店で耳にした会話――“マネキン呼ばわり”――その一部を、事実だけ淡々と伝えた。

「それ……営業の人?」

「まあ、うちのブランドの人と、桔梗屋の人がね」

それだけで、空気が変わった。

「ひど……信じられない」「あの人、いつも普通にしゃべってたのに……」

その場にいた別の女性スタッフも、「紬ちゃん、そんなの絶対おかしいよ。これ、うちの中でちゃんと回しておいたほうがいいかも」とつぶやいた。

このやり取りは、ほどなくしてトルソーさん同士のチャットグループ「トルコミ」にも静かに共有された。直接の名前は出さずとも、「clematis & nestの若い営業」「桔梗屋の鈴森」といった情報だけで、業界の中では誰のことかすぐに分かった。誰が投稿したかは伏せられており、紬本人だと気づいている者はいなかった。

その後、業界内の空気が変わり始める。別のブランドの展示会で、高梨が紹介をしようとしても、女性スタッフが目を合わせなくなる。若手バイヤーの中には、「今回、トルソーは別の方でお願いできますか」とやんわり距離を取る者もいた。

最初に異変に気づいたのは、clematis & nestの女性社員だった。撮影後の現場で、以前よりも紬の背中が張って見えることに、ふと気づいた。「このサンプル、直し入ります」と声をかけたとき、紬の返事が一瞬遅れた。

声を荒げたり、冷たくしたわけではない。ただ、紬を気遣おうとする一言が、どこまで踏み込んでいいか測りかねて、ためらいに変わる。それだけだった。明らかに紬個人を責めているわけではないが、視線も声色も、以前とは違っていた。

一方で、高梨の周囲でもささやきが始まっていた。「あの人、撮影のあとなんか言ったらしいよ」「ちょっと無神経だよね」――本人のいないところで、静かに距離を取る動きが始まっていた。

高梨は「最近、女子社員の目が冷たい」と愚痴るようになった。

大学時代、東京の私大でファッション系サークルに所属していた高梨は、「服って人の人生を変える力がある」と本気で思っていた。流行やブランドに興味があったわけではなく、ただ、自分が選んだ一着で誰かが少しでも前向きになれる――そんな仕事がしたくて、アパレル業界を目指した。

新卒でclematis & nestに入社が決まったときは、夢の第一歩のつもりだった。最初の配属が営業だったことにも特に不満はなかった。ブランドを外に届ける仕事だと思っていた。

けれど、現実の現場は思っていたよりずっとドライで、数字と社内調整、そして“黙って従ってくれるモデル”を手配することが求められた。ヴィーナス児のモデルが業界に受け入れられつつあることに、最初は新しい時代の兆しを見ていたはずだったのに。障害のある子ならより一層黙って従ってくれるはず。

今では、その「希望」もすり減りかけていた。

それでも高梨は、「言わなきゃバレない」「ちょっとした冗談だった」と繰り返すばかりだった。

clematis & nestの表参道オフィスでは、男性社員が倉庫整理の合間に声を落とした。「高梨さん、あれ完全に運なかったよな」「現場で口滑らせたら終わりって、もう営業じゃなくね?」。

誰も紬の名前は出さなかった。ただ「気の毒だったね」と「俺らも気をつけよ」の間を揺れる、うっすらとしたドンマイの連鎖だけが流れていた。

一方、京都は桔梗屋の鈴森も、他ブランドとのやりとりの中で疎まれ始めていた。女性社員との同行を断られることが増え、「あの人、地雷ですよ」と陰でささやかれていることにも気づき始めた。ある日、女性同僚に「コンプライアンス的にアウトちゃうん?」と言われ、表情が引きつった。

それでも彼らの本音は変わらなかった。

「気をつけなきゃな、トルソー関連も」「“マネキン扱い”って怒られる時代なんだよな、もう」

そんなやりとりもまた、どこかで聞かれていた。トルコミには再び、控えめな文体で新たな投稿が共有された。

『表では優しい営業が一番怖い』

戸頭紬は、何も主張しなかった。ただ、いつも通りに、与えられた服を着て立ち続けた。

誰かが去り、誰かが距離を置く中で、紬の立つ場所は変わらなかった。

変わったのは、言葉を口に出せなくなった社会の側だった。

桔梗屋の鈴森は、春の終わりを待たずに退職した。

彼にとっても、桔梗屋はただの職場ではなかった。学生時代は体育会系のサークルに所属し、上下関係の厳しい中で鍛えられたと自負していた。週末には先輩・後輩入り混じって朝まで飲み明かすのが常で、誰を“抱いたか抱かないか”が話題になるのはごく普通の空気だった。

就活では「大学の体育会サークルで主将を務め、代替わりのタイミングで合宿の効率化に取り組んだ」など、それらしいエピソードを並べて面接を乗り切った。さらに、「室町時代の創業者・桔梗屋利兵衛の『商いは人のために』という理念に共感した」と語り、面接官に印象づけようとした。京都で室町時代創業とされる老舗百貨店・桔梗屋に新卒で入社できたことは、友人や親戚の間でも一目置かれる存在になった理由だった。

桔梗屋という有名企業に入った、それだけで“勝ち組”になれたと感じていた。婦人服売場は配属先として無難だったし、とりあえずここで真面目に働いていれば課長職ぐらいまではいけるだろうと、高をくくっていた。同期の中でも評価は高く、本人も将来は本店の営業部門で課長職、ゆくゆくはバイヤー職への昇進をほぼ確信していた。

だが、その順調な道筋は、たった一つの不用意な発言で崩れた。

何気ない酒席での会話。冗談のつもりで吐いた「トルソーなんて抱けるわけがない」という一言は、思いがけず広がりを見せ、沈黙のまま社内の評価を変えていった。

打診された異動先は、全国の桔梗屋支店の中でも特に人気がないとされる鳥取店だった。本店から鳥取に行くなら昇進付きでの異動ならまだしも、それもなかったため、鈴森は「干された」と悟り、自ら去る道を選んだ。

担当ブランドの女性社員が複数、「あの人と同行するのは無理です」と声を上げたのが、決定打だった。

最終出勤日の朝、鈴森は給湯室でひとりごとのように言った。「くっだらねえ……何がコンプラやねん」

入れ替わりに入ってきた営業部の若手二人が、何気ない風を装って顔を見合わせた。

「マジで飛ばされたんすね……」
「たかがトルソーで、って思いますけどね」

言葉には出さなかったが、どちらの顔にも「自分もやらかすかもしれない」という薄い不安と、仲間意識のような空気が漂っていた。

しかし本当に怖かったのは、こうした社内の空気よりも、地元の友人や親戚たちの視線だった。「桔梗屋入ったって聞いてたのに、なんで辞めたん?」「もったいないなあ」――そう言われる未来が、すでに彼の頭を支配していた。「デパートで夢見た自分が、こんなとこでつまずくとはな……。差別とかうるさすぎんだよな、今の時代。逆にこっちが気ぃ使って損してるわ」

最終出勤日の朝、彼は給湯室で誰にともなく言った。「差別とかうるさすぎんだよな、今の時代。逆にこっちが気ぃ使って損してるわ」

それもまた、どこかで誰かが聞いていた。

鈴森の名前は、やがてトルコミでも出入り禁止ワードのひとつになった。

その声は、高梨の耳にも届いていた。彼は笑いながら応じた。
「かわいそうっていうかさ……マジでどこでつながってんの? 歩くトルソーが情報ネットワーク持ってるとか、正直怖くね?」

そう言ったあと、自分でも失言だと気づいたのか、一瞬目を伏せた。
だがその一言も、また静かに共有されていくことになるとは、まだ知らなかった。

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