【小説・ヴィーナス症候群】[260]曼珠沙華は恋をする
渋谷・松濤の大邸宅。
ここに暮らすのは、かつてアイドルソングで一時代を築いた作詞家・杉本孝である。
仕事場にしている書斎には、いまだにレコード大賞の盾や金色のディスクが並んでいた。
「渚のシンデレラ」「都会の片想い」「抱きしめたいのに」――。誰もが口ずさめるメロディ、その詞を紡いできたのが彼だった。
だが今は、その輝きは遠い。
「世の中には軽薄なラブソングが溢れすぎている。しかし、そんな風潮を作ったのは他ならぬ私だ」
杉本は胸の奥に鈍い痛みを抱えながら、机の上の古い万年筆を弄んでいた。
依頼はめっきり減り、来るのは往年のヒット曲や当時のアイドル事情を語る取材ばかり。
ここ最近、ある音楽誌の取材を受けた。
一時期はライバルと言われた白峰杜子春の名前が出ると、杉本孝は一瞬、黙り込んだ。
「私はね、職人タイプでした。締め切りに合わせて必ず詞を書き、発注どおりに届ける。現場の期待には必ず応える。
でも白峰は違った。彼は詩人で、夢の中から言葉を連れてくるんだ。“夕焼けリフレイン”や“十二月の片想い”……どれも私には書けない歌でした」
杉本は、記者のペン先を見ながら言葉を探した。
「彼にこう言われたことがあります。“あなたは恋の詩を一つの産業にしてしまった。だから私はあなたを尊敬するし、同時に軽蔑する”とね」
その言葉は、いまも胸の奥に刺さっていた。
「白峰は最後、精神を病んでしまった。あの“予言の魚”騒動のあと、彼が失意のうちに亡くなったことは……ご存知でしょう」(第217話)
記者は黙って頷く。
杉本は深く息を吐いた。
「私は逆に、軽い言葉で自分を守ってしまった。どちらが正しかったのかはわかりません。
ただ――白峰が言った通り、私は恋の詩を産業にしてしまったことを悔いている。だからこそ、今度もし依頼が来るなら、“なぜ人は恋をするのか”という命題に対するアンサーを書きたいんです」
その目は、老境の陰をまといながらも、まだ燃える芯を失ってはいなかった。
⸻
そんな時に舞い込んだのが、北関東のどこかの町の青年団からの話だった。
「なんだか、北関東の場末の町の公民館で歌う売れないアイドルが目に浮かぶな……」
杉本の心は少し沈んだ。ヒットを量産した自分の終着駅は、そこなのか。
それでも、会うだけ会ってみることにした。
町の青年団の代表は、緊張しながら切り出した。
「うちの町では、川の土手一面の曼珠沙華が観光資源になっていまして……“曼珠沙華は恋をする”というテーマで、ぜひ杉本先生に作詞をお願いしたいのです」
杉本はしばらく黙り込み、低くつぶやいた。
「……ほう、人間ですらないのか」
それが第一声だった。青年団員たちがたじろぐ。
「まあいいだろう。全ての生き物は、なぜ恋をするのか。その答えを私なりに出してみるよ」
「お、お願いします!」
小さな町の青年団相手の仕事だからといって手を抜くつもりはなかった。
杉本孝は年老いた、と陰口を叩かれるのはごめんだった。
⸻
いつだったか名刺を交換したことのある、東京大学で生物学を教える教授に連絡してみた。
「花がなぜ恋をするのか?……またずいぶん深遠なテーマですね。曼珠沙華の生殖に関することなら、千葉大の園芸学部のあの人かなあ」
気づけば杉本は松戸駅に降り立っていた。
千葉大学園芸学部の研究室。
教授は意外そうに笑いながら出迎えた。
「あの杉本孝先生にこういう形でお会いできるとは……赤田青子の『都会の片想い』、私の青春時代でしたよ。まあ私は受験勉強ばっかりしてましたけど。深夜放送で聴いてました」
「……それはともかく本題です。曼珠沙華は、日本では園芸植物としてよく知られていますが、研究は意外と海外の方が盛んなんですよ。特に中国です」
杉本は頷き、ノートを開いた。
「こちらは大阪教育大学の研究です。三倍体が多く、種子をつけにくいという特徴を、染色体レベルで解析しています」
「……三倍体、ですか」
初めて聞く単語に、杉本は小さくつぶやいた。
教授は次の資料を取り出した。
「これは中国、南京林業大学と中国科学院の共同研究。核型や染色体数を詳細に調べています。日本の群落と比べて多様性が大きいのが特徴ですね」
さらに数枚。
「浙江大学のチームは花色の研究です。アントシアニンの代謝経路を追い、なぜあの鮮やかな赤になるのかを遺伝子レベルで説明しています」
最後に厚い論文集を示した。
「そして山西農業大学のグループは、一年を通じた代謝の変化を調べています。球根がいつ栄養をため、いつ眠り、いつ花を咲かせるのか――開花と休眠のリズムを分子レベルで追跡しているんです」
杉本は資料を一枚一枚見つめ、まるで恋愛相談ではなく人生相談を受けているような気持ちになった。
「人間が恋をする理由よりも、よほど確かな“答え”がここにある気がしますね」
教授は笑った。
「まあ、これが歌詞になるかは……先生次第でしょうけど」
松戸から帰った夜、杉本孝は松濤の自邸の書斎にこもった。
机の上には千葉大の教授から受け取った論文の束。
「大阪教育大学――三倍体ゆえに種子ができず、分球で群落を形成する」
「南京林業大学と中国科学院――染色体数と核型解析」
「浙江大学――アントシアニンの代謝、花色の赤の根拠」
「山西農業大学――球根の代謝リズム、開花と休眠の機構」
読み込むほどに、歌詞の断片が浮かび上がってくる。
――葉より先に花を咲かせる曼珠沙華。
――同じ株では受精できず、他株の花粉を求める。
――環境のシグナルに応答して一斉に開花する。
まるで人間の恋愛の比喩など不要だ、と花自身が語りかけてくるようだった。
杉本は手を止めて、万年筆を握り直した。
インクが紙に染み込む音が、静かな書斎に響く。
「……そうだ。私はまだ、歌を書ける」
久しぶりにヒットメーカーの血が沸き立つのを感じた。
若い頃、初めて詞を書き上げた夜と同じ熱が、胸の奥で脈打っていた。
数週間後。
北関東の町から来た青年団の面々が、渋谷・松濤の杉本邸を訪れた。
場違いなほど立派な応接間で、杉本は封筒を机に置く。
「どうだい。これが私なりの“曼珠沙華が恋をする理由”だ」
青年団の代表は、緊張した手で歌詞カードを取り出した。
目を走らせるうちに、顔が引き攣っていく。
――球根は地下で栄養を蓄積し、三倍体は種子を結ばず……
――花被片は六枚、雄しべ六本、雌しべ一本……
――自家不和合性を回避するため、異株からの花粉を必要とする……
読み進めるほどに、歌詞は理科の教科書そのものだった。
「こ、これは……勉強になりますね……」
代表は無理に笑顔を作りながら言った。
背後で他の団員たちも小声で囁く。
「これ……祭りで子供たちがノれるのか?」
「いや、でも杉本先生の書き下ろしだぞ……」
空気は重く、しかし誰も「やめましょう」とは言えなかった。
大御所作詞家に詞を依頼する、という夢の企画は、あまりに現実離れした形で結実してしまったのだ。
新宿の雑居ビルに入る小さな芸能事務所――日本芸能総合開発研究所。
応接スペースに、青年団から送られてきた歌詞カードが一枚、FAXの紙で届いていた。
矢野恵麻は、それをひと目見るなり吹き出した。
「ああ……これは教育テレビの理科の勉強ソングですね」
傍らで長居紳助マネージャーが、すぐに手を振った。
「いやいや、そうじゃないんだ。これを祭りのステージで歌ってほしいって話なんだよ」
「えっ、ステージで……?」
恵麻の表情が固まる。
長居は肩をすくめて言った。
「ほら、予算を杉本先生への作詞料で全部使い切っちまったんだって。歌い手にはお金をかけられないから、うちに話が回ってきたわけ」
「ああ……そういう仕事か……」
恵麻は小さくため息を漏らした。
珍案件ばかり舞い込むこの事務所では、もはや驚きはしない。
だが、曼珠沙華の生殖学をそのまま歌詞にした歌を、秋祭りの舞台で歌うことになるとは――。
北関東の小さな町の河川敷。
秋の夕暮れ、出店が立ち並び、焼きそばや綿あめの匂いが風に混じって漂っていた。
仮設の野外ステージには、紅白幕が張られ、簡素な照明が赤と橙に色を落としている。
「それでは次のステージは――特別企画! 作詞家・杉本孝先生の書き下ろし、新曲『曼珠沙華は恋をする』です!」
司会の女性が声を張り上げると、観客席からざわめきが起きた。
舞台袖から現れたのは、赤い花びらを思わせるミニ丈の衣装に身を包んだ矢野恵麻だった。
両腕のない肩は滑らかに光り、髪はきゅっと低い位置でまとめられている。
耳元にはインカムマイク。彼女は一歩、ステージ中央へと進み出た。

音楽が流れ出す。
♪『曼珠沙華は恋をする』
球根は地下で栄養を蓄積し
栄養繁殖により 個体は同一
三倍体は種子を結ばず
分球によって群落を形成する
葉よりも先に花茎を伸ばし
短日と気温低下に反応する
秋分の頃 一斉に開花し
環境シグナルに応答する
花被片は六枚 放射相称
雄しべ六本 雌しべ一本
自家不和合性を回避するため
異株からの花粉を必要とする
赤い花冠は昆虫を誘引し
花粉媒介による交配を促す
遺伝的多様性を確保することで
種の存続が可能となる
アルカロイドを含有し
リコリンは有毒成分
畔に植えられモグラを避け
人と共に暮らしてきた
球根は再び地中に眠り
次の秋を待ち続ける
歌い終えた瞬間、観客は一瞬ぽかんとした。
子供たちは首をかしげ、年配の夫婦は「勉強になるねえ」と苦笑し合った。
必死に拍手を送るのは、青年会のメンバーたちだけだった。
司会の女性がマイクを握り、何とか場をつなぐ。
「な、なかなか勉強になる歌ですね……! 作詞はあの杉本孝先生の書き下ろしということで!」
恵麻は軽くうなずき、インカムを通して言葉を返した。
「そうなんですよね。さっきタクシーでここに来る時、一面の曼珠沙華を見たんですけど……蜂が飛んでて、『あ、生存戦略だ』としか思えなくなっちゃって」
会場はどっと笑いに包まれた。
難解な歌も、恵麻の飾らない一言で、ようやく祭りの空気に溶けていった。
拍手とも苦笑ともつかぬ音に送られて、恵麻はステージを降りた。
舞台袖は紅白幕の裏、簡易のテントと折り畳み椅子が並ぶだけの控えスペースだ。
義手を付けてインカムを外しながら、ふうっと息を吐く。
長居紳助マネージャーがペットボトルのお茶を差し出した。
「おつかれさん。まあ……無事に終わったな」
恵麻は笑って首を振る。
「また珍案件でしたね」
外ではまだ焼きそばの匂いが漂い、子どもたちの笑い声が遠くから響いてくる。
彼女は少しだけ肩を揺らし、笑った。
――曼珠沙華は恋をする。
そう歌った今宵のステージもまた、自分の奇妙な歌手人生の一コマに刻まれるのだろう。
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