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【小説・ヴィーナス症候群】[247]空の旅

第1章 空の旅の前に

羽田空港第2ターミナル。
平日の午前、出発便が重なる時間帯の保安検査場は、淡々とした緊張感と、絶え間ない足音で満たされていた。

佐田はいつものレーンに立っていた。中年の保安検査員。
疲れた目。荒れた手の甲。契約職員として十数年ここにいるが、待遇はほとんど変わらない。
新卒の正社員が次々と彼の上司になり、彼は今も荷物トレイを見張っている。

「前のお客様どうぞー」

無感情に案内の声を上げたとき、彼の視界に違和感が映った。

それは、両腕のない若い女性だった。
身長は170cmぐらいありそうだが、肩口から先は、まったく何もなかった。
黒のタンクトップと白いパンツ、淡い色のサンダル。どこかモデルのような風格があり、背筋が自然に伸びていた。

彼女は何も言わず、義手を外してトレイの上に載せた。
カチリと小さな音。艶消しブラックの筋電義手が、並ぶ。
Feliceロゴの入ったスーツカバーを持った女性スタッフが横にいた。

「ちょっと、ストップ」

佐田は、反射的に言葉を出した。

「それ、リチウムバッテリー入ってますよね?」

女性は、ゆっくりと佐田を見た。

「ええ。筋電義手です。両腕合わせて200Whちょっとですけど」

「200!? リチウムは危険物ですから。爆発のリスクがあるし、最近は規制も厳しいんですよ。モバイルバッテリーは100Whまでです。安全な空の旅のために、こちらもやってるんで!」

声が大きくなっていた。周囲の乗客が一斉に振り返る。

Feliceのスタッフが一歩前に出た。

「これまでどの空港でも通ってまして……。問題ないかと」

佐田は譲らない。
この瞬間、脳裏には怒りが渦巻いていた。

——特別扱い。
——こっちは真面目にやってるのに、そういう“見た目”で、腫れ物のように扱われて、周囲が勝手に気を遣う。
——俺は、甘やかしてないだけだ。

だが、事態はそれ以上こじれる前に、静かに収束した。

「佐田さん、大丈夫ですよ」

隣のレーンから、若い女性職員が歩いてきた。制服の肩に「指導員補」の赤いタグ。

「義手のバッテリーですよね? 医療機器用。
300Whまでなら航空法で許容されてます。最近はよくありますから」

佐田は反射的に食いかけた。

「いや、俺は別に……」

「これ、研修でも基礎的な内容ですよ」

若い職員は、柔らかく、だがはっきりとそう言った。

莉子は無言のまま、トレイの前で義手を装着する。
肩にぴたりと沿い、カチリと小さな音が響く。
再び静かなシルエットに戻った彼女は、スタッフとともに検査場を抜けていった。



搭乗口へ向かう途中、Feliceスタッフが言った。

「いやー、変なのに当たっちゃいましたね」

「だよね。でも旭川の三六デパートでトルソーの仕事終わったら旭山動物園に行ってシロクマ見に行こうよ」と莉子。

「癒されましょ、動物で。人間じゃなくて」

第2章 弱者中年を癒すもの

保安検査員控室の蛍光灯は、昼間でもやけに冷たい。
佐田は角砂糖の入った缶コーヒーを開け、音を立てずにひと口飲む。
スマホには、YouTubeの再生履歴が並んでいた。

【告発】外国人と障害者が税金で優遇されている!
【警鐘】平等という名の逆差別
【真実】“日本人のふりをする”活動家たちの実態

ワイヤレスイヤホンを耳に差しながら、彼はつぶやく。

「……だから俺はシナ人とガイジが嫌いなんだよ」

小さな声だった。誰に届くでもない、音のない呻き。

——俺だって、ちゃんとやってるのに。

——荷物の詰まりを見て、危険物を止めて、他の航空会社のグランドスタッフに見下されても、DQN客に怒鳴られても、黙って立ってきたのに。

彼はもう、10年以上この空港で働いている。
だが正社員にはなれなかった。いや、「なれない」と言われた。
面談で、上司はこう言った。

「協調性が、少しね……。あと、言葉遣いの部分も。現場は評価してますよ」

言葉遣い、表情、周囲との空気。
それと、コロコロ変わるルールを一々覚えないといけない。

——それができないから、なれない。

努力の結果が「契約」止まりであることを、誰も教えてくれない。
でも本人には、ずっと分かっていた。

なのに、今日のあれは何だ。
腕のない女が、堂々と歩いてきて、ブランドのスタッフを連れて、義手を出して、周囲が勝手に「はいOKです」だ。

——あれが“勝ち組”で、自分が“負け組”?
——こんなのおかしいだろ。

画面の中では、男の声が怒っていた。

いいですか皆さん、“平等”っていうのは、努力した者が報われる社会を言うんですよ!」

佐田は深く頷いた。

俺は、間違ってない。
間違ってるのは、あっちだ。

彼はスマホを握りしめたまま、次の動画をタップした。

第3章 オレンジの旗の下

休日の午後。
佐田は久しぶりに私服に着替えた。Tシャツの腹は少し突き出ていて、スニーカーの紐を結ぶだけで息が上がる。

今日はどうしても行ってみたかった。近くの駅前で開かれる、最近出てきたオレンジ色の政党の街頭演説だ。
「この国の未来を、国民の手に取り戻す!」
オレンジ色ののぼりが、初夏の風に大きく揺れていた。
演台の前には50人ほどの聴衆。年配が多いが、中にはスーツ姿の中年男性や、主婦らしき女性も混じっている。

——政権与党はもうダメだ。
——左翼になっちまったのは、あの暗殺された人がいなくなってからだ。
佐田はそう思っていた。

あの人がいたころは、まだ国の舵取りを信じられた。
だが今は、外国人をどんどん入れ、LGBTだの多様性だのと、弱者ばかりを特別扱いしている。

空港でのあの女もそうだ——あの腕のない女こそが特別扱いの現実を物語ってるではないか。

演説の声が強まる。
「障害者だろうが外国人だろうが、普通の国民が一番搾取されているんです!」
「そうだ!」と誰かが叫んだ。

佐田は声を出さなかったが、深く頷いた。
空港でのやり取りが、また脳裏をよぎる。
あの腕のない女——堂々として、周囲が味方をしてくれる。
自分は声を荒げ、最後は若い女の同僚に諭され、負けた。

——ここでは、俺は間違ってない。
——ここでは、俺が正しい。

集会のあと、ボランティアらしい若者がチラシを手渡してきた。

オレンジ色の表紙に、黒字でこう書かれている。
「おかしいと思ったあなたが、変える側に回る番です」
佐田はそれを無言で受け取った。

のぼり旗が、夕日に照らされて、やけに派手に見えた。



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