【小説・ヴィーナス症候群】〔350〕 ИНК
第1章 ロシアから来たデザイナー
「次の現場、ロシアのデザイナーだって」
ドレスブランド「Felice」の赤坂の仮スタジオ。スタイリストの田所が台本を繰るように言った。
「名前、なんて言ったかな。アレクサンドラ……なんとか。あ、そろそろ来るよ。撮影自体はカット数少ないけど、ドレスが特殊って話。そのロシアの人が『日本のトルソーさんには未完成の美学がある!』とか言ってどうしてもトルソーさんに着せたいんだってさ」
「ロシア……」と、莉子は呟く。
英検2級を取ってから、実のところ話す機会は少なかった。
あのベルギーのデザイナーの現場では、まるで通じなかった。何を言っても「Sorry?」の連続だった。(第278話)
でも今度は。きっと。たぶん。
第2章 名刺交換 ― NHK?
ドアの開く音とともに、現れたのは中背で、肩で風を切るように歩くロシア人の女性だった。
アイスグレーのボブ、眉の端が鋭く上がっている。
「Hello. I am Alexandra Kiselevá(アレクサンドラ・キセリョーワ).」
片言の英語だったが、丁寧だった。
莉子は少しだけ緊張して、義手の先で名刺を受け取った。
白地に金の箔押しで、ロシア語と英語が並んでいる。
ИНК
Индивидуальный Научный Крой
Individual Scientific Cutting
「……え、エヌ……エイチ……ケー?」
思わず、ぽつりと呟いてしまった。
だって、そこにあったのは、どこからどう見ても NHK にしか見えない文字列だった。
それを聞いたアレクサンドラがすぐに首を振る。
「ニェット。ノ、ノ、ノ。イー・エヌ・カー。Иー. ЭН. КАー。」
発音はゆっくりだった。
莉子は、改めて名刺を見直す。
「Individual Scientific… Cutting?」
「Yes. Is INK. Like… cutting by science. Not emotion. Structure. Precision.」
「……Scienceで、Cutting…… 個別科学カッティング……?」
あいまいに頷きながら、莉子はその文字を反芻する。
第3章 着せ良和?
それにしてもキセリョーワという名前。どこかで聞いたような……。
――そうだ。熊本の実家の向かいにあったあの会社。
「良和電工」だった。
あの、青い作業服を着たおじさんたち。
あのローカルCM
♪ まちにひかりを〜 良和電工〜
莉子は胸の中で、そっと呟いた。
この人が「キセリョーワさん」。着せ良和さん。この人が、着せてくれるのか。私に――科学された、服を。
第4章 義手を外す
控え室の隅で、莉子は静かに義手のロックを外した。
シュッ、と小さな音がして、金属の接合部が緩む。
着替えはすでに手伝ってもらっていた。
Feliceの現場ではもう慣れたものだ。自分の肩が、滑らかに宙にある。
鏡の中の自分は、どこまでも「トルソー」だった。
腕がないということ――それは、布に触れないということ。
余計な線がない、ということ。
構造を見せる、器になるということ。
「I’m ready…」
莉子は控えめに呼びかけた。
第5章 着せ良和のドレス
アレクサンドラは、長い指で吊られたドレスを指差した。
「You wear this. Slowly, yes? Fabric is… little strange.」
それは、どこにも「袖」がないドレスだった。
いや、正確に言えば、アームホールすらなかった。
滑らかな円筒形。上からスポンと被せるだけの――まるで、筒。
「No armhole…」
莉子がぽつりと言うと、アレクサンドラは嬉しそうにうなずいた。
「Yes! No armhole. No sleeve. Just… body. Structure. No emotion.」
第6章 この布、何ですか?
着替えを終えた莉子が立つと、アレクサンドラは何度もうなずきながら、スカートの裾を整えた。
そして、布の張り具合を指で確かめるように撫でた。
莉子が、少しだけ首を傾げる。
「Umm… what is this fabric? Like… what’s name?」
アレクサンドラは少し考えたあと、ゆっくりと答える。
「Is… new composite. You know komu-po-ji-to?」
「Composite… like mix fabric?」
「Da. Mix. But… not soft. No flex. Is stable. Keep shape. Like… form memory. But no memory. Only shape.」
「Only shape…」
莉子は呟いた。
つまり、この服は「形」のためにある。
肌に沿うためではなく、構造のために。

第7章 個別科学カッティング
アレクサンドラは、両手を広げ、まるで空中に線を引くように言う。
「This is not fashion. Is Индивидуальный Научный Крой. Understand?」
莉子は一瞬戸惑いながら、先ほどの名刺を思い出す。
「И… ИНК?」
「Da. ИНК. Individual Scientific Cutting.」
「Scientific… like… math?」
「Da. Like architecture. Like… not design for feel, but for line. Only line.」
「Only line…」
そのとき莉子は、なぜこの人が「トルソー」を求めたのか、分かった気がした。
腕がなければ、布に邪魔されることはない。
感情も、動きも、干渉しない。
ただ、構造だけを見せる存在。
この人にとっての「服」は、人体にまとう彫刻なのだ。
第8章 シャッターの音と良和電工
「Very good, Riko-san. Stay. Don’t move. Yes… like sculpture. No smile. No emotion.」
シャッターの音が重ねて鳴った。
――街に光を〜 良和電工〜
ふいに、熊本のCMソングが頭をよぎる。
キセリョーワ。着せ良和。
布と構造を、科学で着せてくれる女(ひと)。
莉子は静かに、肩を開き、空を受ける姿勢をとった。
それは、どこか祈りにも似ていた。
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