見出し画像

【小説・ヴィーナス症候群】〔278〕英検2級の秋晴れ

第1章 英検2級に合格

ドレスブランド「Felice」の更衣室には、いつも柔らかい布の匂いが漂っている。
その朝、武隈莉子は鏡の前でスマホをかざしていた。

《英検2級 合格おめでとうございます》

メールの文面を何度も見返しながら、肩を揺らすように小さく笑ってしまう。
撮影前の空気は張り詰めているが、今日だけは少しだけ、浮かれても許される気がした。心は秋晴れだった。

「見てこれ」
莉子は隣でブラウスの裾を整えていた檜皮谷奈緒に声をかけた。

「ん?」と奈緒が振り返る。
莉子はスマホの画面を差し出す。

「英検2級、受かった!」

「えー! すごいじゃん、莉子ちゃん!」
更衣室の奥からも声が飛んできた。
「めっちゃ本気のやつじゃん、それ!」と、夜久野由美がストレッチをしながら笑う。

3人は、ドレスブランド「Felice」で専属の「トルソーさん」として働くヴィーナス児だ。
生まれつき両腕のない彼女たちは、服を実際に着用して展示・撮影に立ち会う“トルソーさん”という職業に就いている。

人ではなくマネキンの代わりとして衣服をまとう。
腕がないことで布に干渉せず、衣装の構造を引き立てる。
静かに立ち、動かず、布の声を邪魔しない“動かない身体”――それが求められる役割だ。

武隈莉子は、身長172cmの高身長と骨格の強さから、構造的なドレスラインを担当することが多い。
檜皮谷奈緒は、柔らかい雰囲気を活かして仮縫いや展示会での指名が多く、
夜久野由美は、静物撮影や後ろ姿だけで服の美しさを引き出すと評価されていた。

「二級って、もう普通に日常会話とかいけるやつじゃん?」と奈緒が言う。
「先生には“現場でも通じるレベルですよ”って言われた」
莉子は少し得意そうに胸を張った。

「かっこいいなあ……うちらなんて『オーケー』『グー』ぐらいしか言わないのに」
由美がわざとらしく肩をすくめると、3人の間に笑いが広がった。

「でも、なんかね。いつか海外のブランドが来たときに、“あなたに着せたい”って言われたら……少しでも、自分で“Yes”って言えたらって思って」

そう言って、莉子は肩をそっと上げて見せる。
両腕のないなめらかな肩のラインは、今日もまた、布のためにそこにある。

言葉も、いつかこの身体に追いつけるだろうか。
そんな思いを、誰にも打ち明けずに、彼女はそっと心にしまった。

第2章 「デッド・スワン」

「武隈さん、あの、来週の件なんだけど……時間、大丈夫?」

昼休み前、営業の佐藤が控えめに声をかけてきた。
フェリーチェの営業チームの中ではまだ若手で、いつもどこか遠慮がちだ。

「はい、大丈夫です。何かありましたか?」

莉子は立ち上がり、制服のスカートを膝で払った。
佐藤は手元のタブレットを指で操作しながら言った。

「ベルギーのブランドで“ジャマドール”ってあるんだけど、そこのデザイナーが来日して、日本人トルソーを使いたいって言ってるんです。
で、資料見せたら、あなたがいいって」

「えっ……わたし、ですか?」

「肩のラインと、膝の高さ。あと“構造的な静止姿勢が美しい”って。デザイナー本人のリクエストです。英語、いけます?」

その瞬間、莉子の背筋がぴんと伸びた。
(ついに来た)

「はい。大丈夫です。日常会話くらいなら……」

営業の佐藤はどこか安心したように笑ってうなずいた。
「じゃあ、通訳は一応つけますけど、できる範囲で対応お願いします」

「はい、もちろん」

静かに返事をしたが、心の中では拍手喝采だった。
(英検2級、無駄じゃなかった!)

更衣室に戻ると、すぐに奈緒と由美にも報告した。

「え、すごくない? 海外ブランド直指名って!」
檜皮谷奈緒が口を開けたまま止まっている。

「なにそれ、めっちゃグローバルじゃん」
夜久野由美はあっさり言うが、その目は少しだけうれしそうだった。

「ありがとう。でも、がんばるよ。……ちゃんと英語で伝わるといいけど」

莉子の胸は、高鳴っていた。

第3章 数日後、都内スタジオ

「Riko-san, nice to meet you! I’m Sabine Jamadour. Call me Sabine, please!」

明るくて快活な女性だった。
ショートヘアのフランス人、サビーヌ・ジャマドール。
リネンとレザーを組み合わせた前衛的なドレスを手に、スタッフに指示を飛ばしている。

「This dress is not passive. It’s—presence. You understand, yes?」

(presence…存在感?)

「Yes. I understand…」

緊張で舌が回らない。
発音が崩れるのが自分でもわかる。

「Good! Let’s try!」

フィッティングが始まり、照明が設置される。
莉子は、いつものように立った。
ゆっくりと、肩を後ろに引き、重心を真っすぐ落とす。

「No no no—more… collapse. Like, elegant fall. You know? Like… dead swan.」

“デッド・スワン”。

聞き取れた。でも意味がわからない。

“白鳥の死”?

どう崩れればいいのか。どこに力を抜けばいいのか。
焦る。理解は遅れ、言葉は浮かばない。

「Sorry, please say again slowly…」

サビーヌは笑って言った。
「Don’t worry. You’re doing great!」

その笑顔に救われた気がした。

だが、すぐ横で控えていた通訳が、そっと一歩前に出た。

「“もっと美しく崩れた姿勢にしてほしい”ってことみたいです。呼吸を落とすような」

「あ、はい」

結局、通訳に頼ることになってしまった。
何ひとつ、自分の言葉では応えられなかった。

第4章 撮影後

「Riko-san is perfect. Very… still but alive. That’s what I wanted.」

サビーヌはそう言って、満足げに帰っていった。
現場は拍手に包まれ、営業スタッフも安心していた。

でも、莉子の胸の奥には、沈んだ何かが残っていた。

“perfect”じゃなかった。

──自分では、何ひとつ通じさせられなかった。

更衣室で着替えながら、莉子は肩のラインを見下ろした。
なめらかで、腕のないその肩。

布の声は聞けても、ことばには届かない。
そんな日もある。
そんな現実が、英検2級の合格通知よりも重たく胸に残った。

控室のテレビでは天気予報を伝えている。

明日の関東地方は、からりとした秋晴れに恵まれるでしょう。ただ、今夜から朝にかけては雲が少なく、放射冷却の影響で各地で冷え込みが強まりそうです。最低気温は内陸部で10度を下回るところもあり、朝はひんやりとした空気に包まれるでしょう。日中は爽やかな陽射しが降り注ぎますが、最高気温は20度前後と、この時期らしい過ごしやすさになりそうです。朝晩の寒暖差にはご注意ください」

#AI小説 #小説 #ヴィーナス児 #ヴィーナス症候群
#武隈莉子
#虹色創作部

いいなと思ったら応援しよう!