見出し画像

【小説・ヴィーナス症候群】(553)拇印の代わりにキスマーク

ドレスブランド・Feliceの控え室。
仮縫いを終えたドレスがラックに掛けられ、午後の光がレースの裾を透かしている。
その一角で、トルソーの三人――莉子、奈緒、由美が休憩していた。

「ねえ、この前さ――」
由美がソファに腰を下ろしながら言った。
「例のオチンコナスの件で交番で調書取られたとき、“ここに拇印お願いします”って言われてさ。押せなかったんだよね」(333
「オチンコナスって……」

「呼び方!」莉子が吹き出した。

「で、警察は?」奈緒が尋ねる。
「“じゃあ署名だけで結構です”って。あの人たち、慣れてる感じだった」

莉子がくすっと笑った。
「うちも似たようなのあるよ。熊本から東京出てきたとき、阿蘇銀行しか口座なかったけん、東京中央銀行の荏原支店に行ったんよ。そしたら“印鑑か拇印お願いします”って言われてさ」

「出た。手ないシリーズ」由美が笑う。
「そう。だからキスマークにしたの」
「……まさか本気で?」奈緒が吹き出した。

「当時は本気だったの。ティント塗って、“これが私の印影です”って言ったら、行員さんが真顔で固まっちゃってさ。
で、“申し訳ございません、それではお受けできません。押印はあくまでご本人様の印章、または拇印に限られております”って言われたのよ。
だから“キスマークで何が悪かと?”って言い返したら、“法的に有効な印影として扱えませんので……”って、ものすごく丁寧に止められた」

奈緒は笑いを堪えきれず、ハンカチで口を押さえた。
「もう、莉子ちゃん、それ東京デビュー事件じゃん」
「でも、“発想は面白いですね”って小声で言われたのよ。あれが東京で初めて褒められた瞬間だったかも」

奈緒がふと思いついたように言った。
「でもさ、もし将来さ、車とか家買うときに“実印が必要です”って言われたらどうするの?」

莉子は少し考えてから、いたずらっぽく笑った。
「そん時はパンツおろして――」

「やめて!!!」
由美と奈緒の悲鳴が控え室に響いた。

三人の笑い声がドレスの布に包まれるように弾け、
白いトワルの裾がふわりと揺れた。
Feliceの午後は、ほんの少しだけ明るくなった。

#AI小説 #小説 #ヴィーナス児 #ヴィーナス症候群 #近未来小説
#夜久野由美 #武隈莉子 #檜皮谷奈緒

いいなと思ったら応援しよう!