【小説・ヴィーナス症候群】[428]エクレア食べたい
吉祥寺のアトリエに夕方のやわらかい照明が落ちていた。
ダンスウェアブランドConfeitoの作業場は、吊り下がったレオタードやスカートが揺れ、甘い色彩で満ちている。ここには、生まれつき両腕のない「ヴィーナス児」が“トルソーさん”(※障害者採用の一種)として働いていて、着装モデルから検品の補助まで幅広く担っている。
大里ひかりは、そのひとりだった。
しかし最近、どうにも元気がない。意味もなく泣き出したりする。
「ひかりちゃん、最近どうしたの?」
パタンナーの池田が、裁断台からひょいと顔を出した。
「……ああ、糖質制限してるからですかね。太ってるような気がして。体操選手とかダンサーで太ってる人なんていないじゃないですか」
「全然そんなことないよ!」
池田は大げさなくらいの声で返した。
「糖質って適度に摂らないとヤバいんだよ。倒れる人だっているんだから。自己管理しなきゃ。美恵ちゃんなんて、あんなムチムチ体型でも『踊れたらよかっぺ』だもんね。気にしすぎなんだよ」(第405話)
言われた瞬間、ひかりは胸の奥がチクリとした。
(自己管理を徹底してるつもりだったのに……逆に“自己管理しろ”って怒られるんだ)
一日中ずっと我慢していた甘いもののことを思い出してしまう。
気づけば、池田の声よりも、店じまい前の商店街の匂いの方が頭を占めていた。
(……なんか、エクレア買って帰りたいな)
義手を付けて帰りしな、近所の路地は、パン屋と洋菓子店のあいだを夕暮れの風が通り抜けていた。

照明の下、ショーケースには細い線のチョコレートがかかったエクレアがきれいに並んでいる。
ひかりは思わず微笑んだ。
糖質制限なんて今日だけは忘れてもいい。
今日は、ちゃんと自分に優しくして帰ろう。
(エクレア、ひとつください)
声に出す前から、甘い匂いだけで少し救われた気がした。
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