【小説・ヴィーナス症候群】(534)マイナーな存在ではなく
かつて、ンジャメナパラリンピックで金メダルを獲った両腕のない女子中学生がいた。
「ヴィーナス・スマイル」疋田凛。
笑顔で表彰台に立つその姿は、世界中に配信され、短い間ではあったが、確かに時代を作った。
あれから年月が過ぎ、凛は結婚し、村内凛になった。
いまは競技者ではない。後進の指導にあたり、身障者水泳協会の広報担当理事として、競技の普及やスポンサーとの交渉に奔走している。
凛の目標は一つだった。
パラ水泳を、特別な話題から降ろすこと。
「障害者にしては頑張っているね」ではなく、一つのスポーツとして、勝敗と結果だけで語られる競技にすること。
中国・杭州国際スポーツセンター。
ここで、アジアパラ水泳大会が開催されていた。
人見女子体育大学に通う竹ノ森香澄は、S5クラスで決勝に残った。
凛と同じで生まれつき両腕のない、いわゆる「第2サリドマイド病」のヴィーナス児。
山形出身で、身体能力が高い。
香澄は、人見女体大の先輩である凛にとって、秘蔵っ子だった。
必ず、世界で通用する。
そう信じて、凛は指導を続けてきた。
最近では、「フジヤマのヴィーナス」として取材に応じる機会も増えている。
香澄はそれを、嫌がらなかった。
物語があれば、人は集まる。
集まれば、競技の裾野は広がる。
スタート前。
凛は、香澄の前に立った。
「いい?もうやれることはやった。あとは、自分を信じること」
「はい!」
迷いはなかった。
ピストルが鳴る。
水の中では、音が消える。
香澄は、身体を前に落とし込む。肩と胴体で水を受け、軸を保ったまま進む。S5クラスの決勝。並んだ選手たちの肩から、腕は伸びていない。誰もが同じ条件だ。
隣のレーンに、速い気配がある。
中国代表。金と銀を争っている速度だ。
折り返し。
視界の端に影が差す。
イランのラティーファ・モハンマディ。
最後の区間で、水の密度が増す。
肩と腹にかかる抵抗が、限界を知らせる。
それでも、身体を前に伸ばし、壁に触れる。
止まった。
数秒の沈黙のあと、プール正面の大型掲示板が切り替わった。
一瞬、文字の並びを目で追うのに時間がかかる。
表示は、英語と中国語の二段組だった。
WOMEN’S 50m FREESTYLE – S5 FINAL
女子50米自由泳 – S5 决赛
その下に、順位が流れる。
1 LI SIMIN (CHN)
金牌 李思敏 中国
2 AYGUL MEMET (CHN)
银牌 艾古丽·麦麦提 中国
3 KASUMI TAKENOMORI (JPN)
铜牌 竹森香澄 日本
4 LATIFA MOHAMMADI (IRI)
第四名 拉蒂法·穆罕默迪 伊朗
香澄は、水面に浮かんだまま、その文字列を見つめていた。
自分の名前が、漢字とアルファベットの両方で表示されている。
KASUMI TAKENOMORI
竹森香澄
金と銀は、どちらも中国。
二位の名前は、漢字ではない音を持っている。
アイグル・メメット。少数民族出身であることを示すため、名簿には小さな注記が添えられていた。
三位、日本。
そのすぐ下に、イランのラティーファ・モハンマディ。
四位。
この一段の差が、どれほど大きいかを、香澄はよく知っていた。
香澄は、タオルを肩にかけたまま言った。
「やっぱり……中国の壁は、厚かったです……」
凛は、即座に首を振った。
「いいのよ!これで、世界に通用することが分かったから!」
義手の腕で、香澄の身体を抱きしめる。
香澄は、その硬い感触に、ようやく実感が追いついてきた。
帰りの飛行機で、香澄は爆睡していた。
疲れ切った身体が、座席に沈んでいる。
その隣で、凛は目を閉じられずにいた。
胸の奥が、高揚で満たされている。
これでスポンサーが増える。
競技環境が整う。
指導者が増え、選手が増える。
そして、パラ水泳がメジャーなスポーツになる。
それこそが、障害者水泳連盟で広報担当理事を続けてきた凛の長年の夢だった。
帰国後、記者会見の準備は順調だった。
スポーツ新聞、スポーツ雑誌だけでなく、東西新聞、帝都新聞といった主要メディアからも取材申し込みが来ている。
これは来た。パラ水泳もきっとメジャーになる。
凛は、そう確信していた。
だが、会見が始まってみると、空席が目立った。
来ている記者たちも、どこか落ち着かない。スマートフォンを何度も確認している。
「どういうこと……?」
凛が小声で言ったとき、後方から声が漏れる。
「三崎太朗と畑柚月が婚約だってよ」
「あのスペインのセリエAの三崎と、清純派の畑柚月だろ?世紀のビッグカップルだな」
「畑柚月は女優続けるのかな」
空気が、はっきりと変わっていた。
質問は通り一遍で終わり、会見はあっけなく締められた。
明日のスポーツ新聞は、きっとこの婚約で埋め尽くされるだろう。
凛は、自分たちで会見場を撤収しながら呟いた。
「まあ……こんなものなのかね……」
凛は、感覚のない義手の指先を、もう片方の手で静かにさすった。

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