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【小説・ヴィーナス症候群】[758]長靴ネモフィラ骨

原宿・Riaのアトリエは、午前の柔らかい光がレースとトワルを透かしていた。
作業台の上には白い布地と鉛筆、待ち針。

パタンナーの史恵は、低い位置でまとめた髪を揺らしながら、無言で脇線に印を入れていく。
「トルソーさん」の躑躅森風花は、ストラップレスのトワルを身体で支えたまま、わずかに呼吸を浅くして立っていた。

「どうだった?天音町のロードサイドモールは」

史恵が視線を落としたまま言う。

「普通でした。何か難しいこと聞かれるのかと思ったけどそういうこともなくて。それより、町にツチノコがウヨウヨいて気持ち悪かったです」(本編738

鉛筆が一瞬止まる。

「あそこには随分いるみたいだわね。私の世代だと『ほんとにいたんだって!』とか言うような幻の生き物だったんだけど」

風花は少しだけ笑う。笑っても身体は動かさない。

「でもトルソーっていいですよね。会社のお金でいろんな所行けるんで」

史恵はメジャーを当て直し、0.5センチほど線を内側に引く。

「あら、外勤とか出張好きなの。綾音ちゃんなんか丸の内の直営店に行くのすら『だる!』って言ってたけど」

「うち貧乏だったんで、旅行なんて行けなかったんですよね。バイトばっかりでした。ずっとスーパーのバックヤードで肉とか魚の骨とか掃除するんです。防水用の手袋して、長靴履いて」

その頃、風花の視線は、アトリエの白い床ではなく、もっと低い位置に落ちていた。
水が溜まるあたり、排水口の金網の位置。

「床、ずっと濡れてて。長靴で踏むと、ぐにゃってするんですよ。流れてきた水に骨が混じってて、金網に引っかかるのを、ずっと掬って……音が、嫌なんですよね。カン、って軽い音じゃなくて、鈍い音で」

「あら、風花ちゃん、意外と苦労してるのね」

それだけ言って、ピンを一本打つ。

「とにかく岩手出たかったんですよね。何ていうか、田舎の社会って弱肉強食のサル山ですよ。その為にはとにかくお金かなって思って」

トワルの裾がわずかに揺れる。史恵はそれを見逃さない。

「いろんな意味で綾音ちゃんと真逆だわね。まあそのうち全国いろんな所で展示の仕事はあるから、行ってくればいいよ」

「ネモフィラの季節だし茨城のデパートとかあればいいですけど」

白い布の上に引かれた細い鉛筆の線は、そのまま次の服の輪郭になる。
長靴で踏んでいた水の感触も、骨の重さも、ネモフィラの青も、すべてはここで一度、無音の線に還元される。

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