【小説・ヴィーナス症候群】(306)置き配とご不在連絡票
都営浅草線の車内は、夜になって乗客もまばらだった。
西馬込行きのシートに腰掛けた武隈莉子は、肩義手を外し、両腕の根元をそっとさする。
溜め息しか出てこない。
「……ほんと、偉い人は現場のこと分かってないんだよな」
浦安での展示会。
専属の「トルソーさん」として、朝から何度もドレスを着せ替えられ、ピンを打たれ、姿勢を崩さないよう立ち続けた。
それだけでも体力を消耗するのに、午後になって本社の上役らしい男が視察に現れた。
「もう少し華やかな表情をお願いします」
「お客さまに“感動”を与える立ち姿を」
――何を言ってるんだろう。
立ちっぱなしで腰は痺れ、足先は重く、布の重さで肩が食い込んでいる。
それでも規定通りの立ち姿を崩さずにいるのがどれほど大変か。
一分一秒がやっとなのに、「華やかな表情」だの「感動」だの、口にする方は軽いものだ。
「……現場で一日立ってみろっての」
小声でつぶやきながら、莉子は車窓に映る自分の顔を見た。
そこには疲れと苛立ちが滲んでいた。
帰ったら、冷たいルイボス茶で喉を潤そう。Amazonで頼んだ二十四本セットが届いているはず――そう思って帰宅した。
だが、郵便受けには「しろくま便 ご不在連絡票」。
品名は「飲料」。

「……なんで置き配になっとらんと!」
抑えていた苛立ちが一気に弾け、理性が壊れて熊本弁になってしまう。
不在票の番号へ電話をかける。
「はい、しろくま便の猪俣です」
「西馬込の武隈ですが。なんで置き配に設定しとるのに、不在票入れとると! 私がよかって言いよるやろが!」
受話口の向こうで、やや鼻にかかった声。
「あの……ケース飲料ってなってますけどね、こういうのって段ボールが大きくて目立つんですよ。玄関先に置いたら一発で“商品です”って分かっちゃう。で、盗難リスクが高いんです」
「うちは防犯カメラも付けとる! 鍵もしっかりかけとる! 誰が盗むもんね!」
「いやいや、防犯カメラがあっても“会社として信用できる条件じゃない”って言われるんですよ。まして食料品みたいな生活必需品は、泥棒の立場からすると換金性が高いんです。飲料とか米って、そのまま使えるし、売れる。だから社内マニュアルで“例外扱い”になってまして……」
莉子は息を荒げ、なお食い下がる。
「それでも私がよかって言いよるとに!」
猪俣の声は一段早口になった。
「でも盗まれたら僕の責任なんです。始末書も減給もあり得る。置いて怒られる、置かなくても怒られる。正直、現場はいつも板挟みなんですよ。で、こういう説明を毎回お客さんにしても“でも私がいいって言ってる”って返されるんで……正直、疲れるんですよね」
莉子は唇を噛んだ。
論破というより、自分の苛立ちと同じ熱量で返してくる愚痴の渦に巻き込まれ、勢いが鈍る。
しばし沈黙が流れた後、猪俣の声が少し落ち着いた。
「……で、ご在宅ですよね? 今まだ西馬込回ってるんで、よければ今から持ってきます」
莉子は深く息をつき、義手の指先で不在票を握り直した。
「……ご面倒かけます」
十分後、玄関に段ボールの重い音が響いた。
ドアスコープ越しに、猪俣が帽子を直しながら立ち去る。
莉子は段ボールを抱え込み、冷たいルイボス茶を冷蔵庫に詰めながら、胸の奥にまだ残る苛立ちと、相手の愚痴っぽい声の余韻を同時に飲み下した。
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