【小説・ヴィーナス症候群】[291]米軍基地のPXでの仕事
第1章 横田基地での仕事
武隈莉子は、朝の支度をしながらバッグにパスポートを入れた。
「……東京での仕事なのに、なんでパスポート?意味わかんないよ」
今日の現場は米軍の横田基地。PX――売店と呼ばれる場所での展示だという。
だが売店といえば駅のキヨスクや病院の小さな売店を思い浮かべる。そこにドレスを着て立つ自分を想像しても、どうにもピンとこない。
西馬込から都営浅草線に乗り、新橋で山手線に乗り換える。東京駅で青梅特快に乗り継ぎ、拝島から八高線へ。
車窓の景色は少しずつ郊外めいてきた。
東福生で降りると、フェンス越しに「YOKOTA」の文字が現れる。東京都内であるはずなのに、そこには確かに“国境”めいた境界があった。
ゲートに着くと、迷彩服の警備兵に呼び止められる。パスポートを提示し、書類に記入。金属探知機の前で、両腕の義手を外してトレイに置くとき、ひやりとした感触が肩に残った。探知機を抜け、義手を装着し直す。首から通行証を下げると、気分はすっかり空港の出国審査を終えた後のようだ。
やがて目の前に現れたのは、ガラス張りの巨大な建物。PX――売店と呼ばれるその場所は、莉子の想像をはるかに超えて、アメリカのショッピングモールそのものだった。
館内に足を踏み入れた瞬間、莉子は思わず目を見張った。
PX――売店と呼ばれてはいるが、そこにはアメリカのショッピングモールそのものの光景が広がっていた。
スポーツ用品店、ブランドバッグの棚、化粧品カウンター、そしてフードコート。
「……これ、もう“売店”じゃなくて、完全に百貨店だよね」
小さく呟き、首をすくめる。
Feliceの展示は、その一角に設けられていた。白い布で仕切られたスペースの中、マネキンの代わりに「トルソーさん」として莉子が立つ。
ノースリーブのドレスに身を包み、姿勢を整えると、自然に視線が集まってくる。
「So beautiful…」
通りかかったアメリカ人の女性が、目を丸くして声を上げた。
「Thank you…」
莉子は少し恥ずかしそうに笑みを返す。英検2級程度の英語力でも、このくらいは問題ない。
「Is this… wedding dress?」
「Yes. Wedding dress… brand Felice. From Tokyo.」
ゆっくり単語を選びながら答えると、相手は「Tokyo!」と嬉しそうにうなずき、さらに友人を呼んできた。
「Material?」と尋ねられ、莉子は一瞬言葉を探す。
「Uh… satin, and tulle…」
不安げに発音したが、相手は十分理解してくれたようだった。
流暢に説明できるわけではない。だが、ドレスの光沢や透ける布の質感が、言葉の足りなさを補ってくれる。
何より、この身体――腕のないトルソーとしての立ち姿そのものが、彼らの目を惹きつけていた。
しばらく立ち続け、観客が入れ替わるたびに簡単な英語を返す。
「Size… small, medium…」
「Rental, or order made.」
たどたどしくも、誠実に伝えれば、笑顔は返ってくる。
やがて展示の時間が終わり、スタッフがドレスを整えにやってくる。
莉子は肩の力を抜き、ふっと息を吐いた。
――ここは東京都内のはずなのに、言葉も文化も、まるで別の国の中にいるみたい。
第2章 チラ見バーガー
展示を終えて基地を出た莉子は、ふと足を止めた。
「せっかく横田まで来たんだし……」
頭に浮かんだのは、トルコミで夜久野由美が共有していた、珍奇なレビュワー。(第257話)
この珍奇な人物は横田基地前の『Freedom Burger’s』についても書いていた。
米軍(べいぐん)基地(きち)の 門前(かどまへ)に 『Freedom Burger’s(ふりいだむばあがあず)』
肉餅(にくもち)厚薄(あつうす) 組合(くみあ)はす自由(じゆう)
冢中枯骨(それがし)、
チェーン店(てん)にて定型(ひとわたり)の味(あぢ)を嫌ひ、
限定(げんてい)と銘打(なづ)く流行商賣(はやりあきなひ)を笑止(せうし)とす。
然(しか)るに此(こ)の『Freedom Burger’s』、
米軍横田基地の門前に屹立(きつりつ)し、
顧客(きやく)に無限(むげん)の自由(じゆう)を與(あた)ふは、
訪(と)ふを避(さ)くべからず。
倩(つらつら)觀察(うかゞ)ふに、
肆(いちくら)に陳列(なら)ぶは、牛肉(ぎうにく)・鶏肉(とりにく)・大豆肉(だいずにく)、
培根(べえこん)、鳳梨(ぱいなっぷる)、花生醬(ぴいなつばたあ)、
更(さら)には泡菜(きむち)・辣油(らあゆ)・靑辣椒(はらぺーにょ)。
【當日(このひ)の奇抜(きばつ)組合(くみあはせ)】
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・黒毛和牛肉餅+鳳梨+照焼醬(てりやき)
・鶏肉餅+牛油果(あぼかど)+花生醬
・大豆肉餅+泡菜+辣油
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愚按(やつがれおもふに)、
「甘(あまみ)と鹹(しほけ)」の交響(かなで)、
「辛(からみ)と滑(なめらかさ)」の拮抗(たゝかひ)。
古(いにしへ)、羅馬帝國の「魚醬+蜂蜜」にも似(に)たり。
而(しか)して、肆內(なか)の客(きやく)、
蒼髪(あをがみ)の若者(わかもの)、
髭面(ひげづら)の退役軍人(たいえきのぐんじん)、
刺青(いれずみ)の工夫(こうふ)、
各(おのおの)奇抜(きばつ)なる組合(くみあはせ)を齧(かじ)りて豪笑(ゑみ)を洩(も)らす。
嗚呼(あゝ)、『Freedom Burger’s』とは、
味(あぢ)の良否(よしあし)を論(あげつら)ふべきに非(あら)ず。
此(こ)れ「自由(じゆう)」を咀嚼(そしやく)せしむる聖餐(せいさん)なり。
常連(なじみ)らぞくぞく集(つど)ひ來(き)たるを見(み)、
老骨(それがし)、敬服脫帽(おそれいりや)と心中(こゝろのうち)に唱(とな)へつゝ、
そゝくさと辭別(いとまごひ)。
せっかくだから、行ってみよう。
店の扉を開けると、香ばしい煙とスパイスの匂いが一気に押し寄せてきた。
席に着く前から、視界の端に飛び込んでくる光景に、莉子は思わず目を見張る。

隣のテーブルでは、鳳梨(パイナップル)を分厚いビーフに挟んで齧る青年。
斜め向かいの女の子は、泡菜(キムチ)と辣油で真っ赤なソースを滴らせている。
その奥の退役軍人風の男は、鶏肉に花生醬(ピーナツバター)を塗りたくって豪快に笑っていた。
――なにそれ……ほんとに食べるんだ。
莉子は横目でチラリと見やり、肩をすくめる。だが視線を戻した瞬間、自分の口元に笑いがこぼれていた。
カウンターで注文したのは、レビューに書かれていた組み合わせ。
黒毛和牛+鳳梨+照焼醬。
紙包みを開き、恐る恐るかじる。甘みと塩気が衝突し、酸味が舌を刺激する。
「……やっぱり変な味」
つい呟いて、もう一度周囲を横目で見やる。みんな奇抜なバーガーを豪快に頬張り、誰一人として恥ずかしがる様子はない。
――味の良し悪しじゃなくて、“自由を食べる”ことなんだ。
そう思うと、奇妙なハンバーガーも急に愛おしく感じられた。
窓際で肩の義手を直しながら、莉子はもう一口。
その横顔は、ほんの少し楽しげだった。
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