【小説・ヴィーナス症候群】(903)試着員控室の憂鬱
東京・赤坂にある高級ドレスブランド『Felice』の試着員控室。
ハンガーラックに並ぶ繊細なレースやシルクのドレス、そして壁に据え付けられたハリウッドミラーの華やかさとは裏腹に、室内の空気は相変わらず重苦しい雰囲気に包まれていた。
モニターから流れる山梨ののどかな景色とは対照的に、控室に座る「トルソーさん」たちの表情は一様に険しい。
「だから私、会社に言ったのよ」
不機嫌そうに口を開いたのは、檜皮谷奈緒だった。
「あの小枝恵のおっぱいドレスの件を放置してたら絶対何か起きますよって。展示モデルがあんな無防備な格好してたら、変なのが寄ってくるに決まってるじゃない」(本編888話)
「で、さっそく起こったよね」(本編889話)
武隈莉子が呆れたようにため息をつく。
「奈緒ちゃんの騒ぎで学習してないっていうか……会社も危機管理が甘すぎるんだよ、いつも」(本編793話)
「流石に会社も懲りて、もうしばらくデパートの外仕事は全部凍結するみたいよ」

由美がこの件で営業から説明のあった対応の経緯を、声を潜めて披露し始める。
「営業から話聞いたんだけどさ、例の山梨の中学生? なんか実家が公立高校にすら入れないくらい貧乏らしくて。サッカーで強豪私立の特待生じゃなかったら中卒で就職するしかないんだって。だから『どうか今回だけは勘弁してくれ、被害届は出さないでくれ』って、あっちの学校側が泣きついてきたらしいよ」(番外編54話)
「だったら最初からやんなって話じゃん」
莉子がピシャリと言い捨てた。
「自分の未来がかかってる大事な時期だって分かってて、なんでそんなバカなことすんの。自業自得でしょ」
「そう思うでしょ? でね、話はそこからなのよ」
由美が皮肉めいた笑みを浮かべる。
「会社側も呆れてさ、交渉の席で『男子中学生がバカなのは分かりますけどね』ってちょっと嫌味を言ったんだって。そしたら、その山梨の中学校の先生が『子供たちを侮辱するのはやめてください!』って急に逆ギレして怒り出したらしくて」
「はぁ? 逆ギレ?」奈緒が眉をひそめる。
「そう。だからFelice側もカチンときて、『じゃあ、もう情状酌量の余地なしってことで、今すぐ警察に被害届出しますね』って突っぱねたの。そしたらさ……」
由美はわざとらしく肩をすくめて見せた。
「その中学校の先生、今度は急に顔を真っ青にしてさ、『男子中学生というのは、人生で最もバカな年頃なんです……!』って泣きついてきたんだって」
「どっちやねん!」
奈緒が思わず鋭いツッコミを入れ、控室の空気が一瞬だけ緩んだ。
「まあ、私はね、これでいいと思ってるのよ」
由美は鏡に映る自分の顔をチェックしながら、冷淡に言った。
「バカがバカなりに、自分のやったことの代償を人生で支払いました、ってだけの話だから。特待生だか中卒だか知らないけど」
「……あと、問題は親がどう思うかだよね」
莉子が視線を落としながら、少しトーンを落として呟いた。
「まして特待生がどうたらってレベルなんでしょ? 私だって女子サッカーの強豪に1週間だけいたからちょっとは分かるけど……部活って強豪になればなるほど、親が異常なほど必死だからね。子供の人生がこれで潰れたってなったら、逆恨みで何してくるか分からないよ」
奈緒の顔が引き攣る。
「まさか……包丁持って会社に殴り込んで来たりしないでしょうね?」
「人次第」
莉子の淡々とした、しかし妙にリアリティのある言葉に、由美の額に脂汗が流れる。
「ちょっと、脅かさないでよ……! 洒落にならないから……!」
モニターの中では、何事もなかったかのように山梨の美しい富士山と伝統工芸の特集が流れ続けている。
自分たちが巻き込まれた、あの山梨の事件の余波が、まさか赤坂の静かな控室にまで、不気味な刃の影を落とそうとしていることなど、彼女たちはまだリアルには実感が湧かないまま、ただただ大人の理不尽な交渉劇に文句を言い合うことしかできなかった。
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