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【小説・ヴィーナス症候群】(60)初めてのストリートライブ

徳島の海辺の田舎で生まれ育った矢野恵麻は、生まれつき両腕がなかった。医者は「原因は不明」と言ったが、都会では「ヴィーナス症候群」と呼ばれる女の子たちの存在がメディアで紹介されることがあり、恵麻もなんとなく、自分がその「ヴィーナス児」のひとりなのだろうと受け止めていた。

高校を出てすぐに東京へ出てきたのは、歌手になりたかったからだ。歌手なら「腕が無いこと」と無関係に生きることができるはず。
だからこそ、ギターもピアノも習わず、ただ声ひとつで勝負する歌手を目指した。

日中はボーカルの専門学校で発声練習とレッスン、夜や休日には「トルソーさん」としてアパレルのフィッティングモデルの仕事に出る。腕がない女の子限定のバイト――そんな割り切った肩書きで生きていくしかないことは、もう最初からわかっていた。

けれど最近、その「トルソーさん」の仕事も、心を削るばかりだった。

相模湖の美術館で下品なスーツの社長の長話に付き合わされる、性犯罪者のような男レオタードで街を練り歩かされる。あれがテレビで放送された後は、道でスマホを向けられることも増えた。国会議員にまで障害等級を下げろだなんだ言われたりなどもあり、精神的に参ってしまい、学内オーディションでは審査員の前でうまく声が出なかった。

──こんなんじゃ、夢から遠ざかっていくだけじゃん。

そんなふうに落ち込んでいたとき、学校の同級生の紗奈に声をかけられた。

「えまって、ストリートとかやったことある? 駅前で弾き語りやってんだけどさ、ちょっと最近、歌だけ誰かにやってほしくて」

オーディションで散々だったのは紗奈も同じで、「ギタリストとして勝負してみたいから、しばらくは伴奏に専念したい」というのだった。なるほど、自分にはギターも弾けないし、声しかない。でもだからこそ、ちょうどよかったのかもしれない。スケジュールを聞くとトルソーの仕事とも被っていなかった。だったら、出てみてもいいかもしれない。

──初めてのストリートライブ。

場所は、駅前のアーケード街。人通りはそれなりにあった。

ギターケースを開き、マイクスタンドを立てる。義手を外して立つのは少し勇気がいったが、最近の「トルソーさん」の現場に比べたら、ずっとマシだった。

紗奈のギターのイントロが鳴り、恵麻が歌い出す。風が気持ちよかった。


最初のワンコーラスが終わる頃には、何人かの通行人が立ち止まりはじめていた。そして、ギターケースの中に──お札が、落とされた。

一枚、二枚、三枚。

千円札が数枚、それに五千円札も混じっていた。紗奈のギターが止まりかけたくらい、驚いていた。

それでも歌い続けた。声が出た。音程も悪くなかった。けれど、どこか……心がざわついていた。

お金を置いていく人は、みんな、歌を聴いていない。いや、見ているのだ。私の肩を。腕の生えていないこの肩を。

──腕がないこと。それだけでお金をもらえるの?

気づいた瞬間、背中に汗がにじんだ。目の前のお婆さんが手を合わせて頭を下げていった。笑って通り過ぎた主婦が、「えらいわねぇ」って言っていった。

──ねえ、私は何を見せてるの?

歌じゃない。声でもない。拍手も、ほとんど聞こえない。ただただ、同情の視線と、それを示すお札。

夕方、陽が傾いて、ストリートは終わった。紗奈はギターケースを抱えて小躍りしている。

「すごいすごい、こんなもらったの初めて! 恵麻、すごいわマジで! ねぇ、焼肉いこ、焼肉!」

恵麻は笑えなかった。

義手をつけ直しながら、ふと、胸の奥に浮かんだ言葉があった。

──乞食じゃん。

いや、トルソーさんだってそうだ。服を着せられて、腕のない体を見せて、金をもらう。広い意味では、似たようなものなのかもしれない。

けれど今日のストリートで、恵麻は初めて真正面から向き合わされた。

「腕がないから」もらえるお金、「腕がないから」集まる視線。その全てが、自分の歌よりも先にあった。逃げるために選んだ歌の道で、また「腕のない私」に追いつかれた。

帰り道、どうやって電車に乗ったのかも覚えていない。

そして、その夜。

──もう、歌うのやめようかな。

その言葉だけが、胸の中で、ずっと、こだましていた。

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