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【小説・ヴィーナス症候群】(869)あの番組の余波

ドレスブランド・Feliceの試着員控室は、重苦しい沈黙に支配されていた。

鏡に映る純白のレースドレス、そしてそこから伸びるはずの「両腕」がない、なだらかな肩のライン。
煌びやかなショールームの裏側にあるこの部屋は、華やかなステージドレスを完璧に仕立て上げるため、自身の身体を「試着モデル(トルソーさん)」として提供する女性たちの聖域だ。

しかし今日ばかりは、壁に掛けられた鮮やかな生地さえも、どこか色褪せて見える。
中央の椅子に腰掛け、スマートフォンの画面を見つめていたのは、檜皮谷奈緒だった。
彼女たちは生まれつき両腕がない「第2サリドマイド」の世代だ。
日常生活と仕事のために装着している最新の筋電義手の、冷たい金属の指先が液晶画面をゆっくりとスクロールしていく。

画面に並んでいたのは、目を覆いたくなるようなネットの文言だった。
『Feliceのおっぱいドレス、ホールド感マジでエグそうだなww』
『Dカップの美乳が揺れない設計とか、職人グッジョブすぎる』
『生放送のあの手の動き、何度もリピートしてまうわ』

ネットの掲示板やSNSでは、昨夜の『グヂャグヂャグヂャラート』を観た男たちが、下俗な欲望と好奇心を丸出しにして「Feliceのおっぱいドレス」というワードで狂ったように盛り上がっていた。

「……ねえ。昨日の、グヂャの番組。これ、見た?」(番外編50

奈緒が苦々しく呟き、操作する画面を差し出すと、左右から二人の同僚が顔を寄せた。
「私はリアルタイムでは見てなかった。でも、話は聞いてる……」

左側から顔を近づけた夜久野由美が、ドレスの袖口から完全に「腕」の存在しない、生身の肩を不快そうにすくめる。画面の文字を追ううちに、彼女の顔からさっと血の気が引いていった。

「ああ、例の『おっぱいドレス』ね……本当に最悪」

右側から覗き込む武隈莉子もまた、同じく両腕のないノースリーブのドレス姿のまま、男たちの下品な書き込みを忌々しげに睨みつけた。

世間は大爆笑の神回と騒ぎ、ネットの男どもは盛り上がっている。
しかし、一ミリ単位のフィッティングを施し、小枝恵の言う「お椀のようなホールド感」を文字通りその肉体で計算し、作り上げてきたトルソーさんたちからすれば、それは自分たちの誇りと専門技術を泥水に突き落とされるような絶望だった。

「これがさ、同世代の女性や現役の演奏家の人たちが『あのフィット感のドレスが欲しい!』って見て、買ってくれるならまだいいよ。私たちの仕事にも意味があるって思える」

奈緒が自嘲気味に、義手の指で画面を強くタップした。

「でも、これじゃあただの、男たちのオカズじゃない。……しかも、営業の連中、今めちゃくちゃ喜んでんだよね」

莉子が尋ねる。「問い合わせは来てるんでしょ?」

「来てるなんてレベルじゃないって」
奈緒の義手のサーボモーターが、静かに小さく音を立てた。

「何かもう、会社始まって以来の大フィーバーだとかで、上層部もホクホク顔らしいよ」
その言葉に、控室の空気が一段と冷え込んだ。

彼女たちは、腕がないからこそドレスのラインを崩さずにフィッティングを行える、唯一無二のプロのモデルだ。
ブランドが潤うのは結構だが、現場を支える彼女たちにとっては、それは「性的、あるいは好奇の目としての消費」が加速することを意味していた。

「最悪……」
莉子が、腕のない肩を怒りで震わせながら吐き捨てる。

「これでまた、私たちが外仕事なんかに出されたら、もう最悪だよね。特にデパート」
「……起きるよね」
由美が青い顔で身震いした。

「あの、前の『発達障害事件』みたいなのが、また絶対に起きる。ただでさえ、私たちみたいな身体はデパートの催事場で好奇の目に晒されやすいのに……」(本編793

あの生放送以来、Feliceのドレスには、意図しない生々しいフィルターが少なからずかかってしまっている。

動かないマネキンではなく、「生きたトルソーさん」が展示されるデパートの特設会場。
ただでさえ障害を持つ身体として見られやすい彼女たちが、さらにドレスの胸元をあのネットの男たちのような視線で舐め回されるかと思うと、想像するだけで反吐が出そうだった。

奈緒は、スマートフォンを持ったままの金属の右腕を静かに下ろし、左右の二人を見つめた。

「……しばらくデパートには出ませんって、チーフに言おうか。自分たちの尊厳を守るためにも」

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