【小説・ヴィーナス症候群】[320]ギターを弾く女
矢野恵麻は、生まれつき両腕がなかった。「第2サリドマイド病」の当事者であった。
徳島の小さな町で育ち、歌手になる夢を抱いて上京した。
いまは歌手として事務所に籍を置きつつ、単発の仕事を拾いながら生活をつないでいる。
大きなステージに立つわけでもなく、華やかなテレビに出るわけでもない。
その夜、彼女はかつて同じボーカル専門学校に通っていた友人――紗奈の部屋にいた。
ワンルームの床に座卓をはさみ、缶ビールを片手に宅飲み。
「お、義手外すんだ。リラックスモードだね」
缶を開けながら紗奈が笑う。

恵麻は肩をすくめて答えた。
「だって重いんだよ。多分 10キロぐらいある。バッテリーが一番重いんだよね。でもまぁ゙生身の腕だって片方で5キロ、両方で10キロはあるって言うから」
「十キロかぁ……」紗奈は自分の腕を軽く持ち上げてみて、少し考え込むように呟いた。
「そんな意識、持ったことなかったな」
「でしょ。だから、家飲みのときくらいは休ませないとね」
二人は顔を見合わせて、ふっと笑った。
ビールをひと口飲んだ紗奈が、ふと思い出したように言った。
「そういえばさ、あのストリートライブ覚えてる?」
恵麻はうなずいた。専門学校の頃、紗奈に誘われて駅前で初めて歌ったあの日。(第60話)
ギターケースに落ちるお札は、歌への評価ではなく、腕のない自分への同情の証だと気づいてしまった。
あの瞬間、胸の奥で「乞食じゃん」と呟いてしまった自分がいた。
歌なんてやめよう――そう決めかけた。
けれど、その数か月後。
業界人の耳に止まり、超大物歌手・鈴明美のバックコーラスに抜擢された。
大きなホールで歌う声の重なりの中に、自分の歌が確かに響いていると実感できた。(第76話)
その時に、歌から逃げるのをやめようと思えたのだ。
「私も忘れられないよ、あの日」恵麻は小さく笑った。「あれで一度は歌やめようと思ったけど、結局戻ってきちゃった」
「そっか。やっぱりすごいよ」紗奈はギターを手に取り、軽く弦を爪弾いた。
「でも現実はさ……」彼女は弦を響かせながら語り始めた。
「音楽スクールの発表会で子どもや初心者の伴奏。老人ホームで『ふるさと』や『青い山脈』ばっかり弾いて、専門学校の授業じゃ練習台みたいにコード押さえるだけ。カラオケバーで常連の演歌に合わせてジャカジャカすることもあるし、ネット配信やCMの仮録りもやるけど本番はプロが弾くから名前は残らない。商店街の夏祭りや区民センターじゃBGM担当するけど、客は立ち話ばかりで誰も聴いてないんだよ。……ま、私はギタリストの底辺だね」
恵麻は静かに首を振った。
「底辺とか言わないでよ。でも、ギター続けてるのはすごいと思う」
「いやいや、恵麻こそ。なんだかんだで歌続けてるじゃん」
恵麻は足で缶を持ち上げ、少し苦笑した。
「続けてるなんて言っても、大したもんじゃないよ。豚小屋で歌うとか(第201話)、風力発電所の説明会で歌うとか(第303話)、そんな仕事もあるよ」
「えーっ!? なにそれ!」
紗奈が思わず声を上げる。驚きとおかしさが入り混じった笑い声。
「ほんとだよ。誰が聴いてんのか分かんないようなとこで、マイク持たされてさ」
「うわぁ……でも、それ、逆にネタとしておいしいじゃん」
「ネタになるならまだいいんだけどね」
二人は顔を見合わせ、吹き出した。
ギターの弦がまた軽く鳴り、部屋の明るい灯りに笑い声が重なる。
歌を続ける女と、歌を降りてギターを選んだ女。道は違っても、どちらも音楽の端っこで生きていた。
#AI小説 #小説 #ヴィーナス児 #ヴィーナス症候群
#矢野恵麻
#アマノ文筆クラブ
