【小説・ヴィーナス症候群】(55)白いドレスと止まった時間
報道陣の騒然
正午前の静けさを破ったのは、あのツイートだった。
そして昼を過ぎる頃には、テレビ局も新聞社も、動き出していた。
虎ノ門の記者クラブ。
昼食を終えたばかりのベテラン記者たちが、スマホを手に顔を見合わせる。
「……これ、本物か?」
「議員本人のアカウントでしょ。もう事務所にも連絡つかないって」
「五条、昨日あの発言でトレンド入りしてたからな……あまりに早すぎるだろ」
そして、数十分後。
《東西線・早稲田駅での人身事故/現場から搬送されたのは——》という速報が、一斉に各メディアのSNSに現れ始める。
カメラを持った現場取材班が駅前に集合し、警備に追い返されながらも、周囲の通行人にインタビューを試みていた。
午後の撮影
浦安《Felice》控室、午後1時すぎ。
「……続けるって。午後からまた撮影だって」
スタッフの一人が戻ってきて、そう口にしたとき、
控室の空気はすでに“日常”に戻りつつあった。
午前のあいだに、義手をつけたまま黙ってスマホを見ていた「トルソーさん」たちも、
その話題にはもう触れなかった。
「了解でーす。ヘア、整えますね」
メイク担当の声に、戸頭紬はうなずく。
その肩の義手が、静かに外される。
リボンを結び直しながら、武隈莉子は自分の顔を鏡で確認した。
夜久野由美は窓際に立ち、何も言わずに空を見ていた。
定例外の記者レク
戸塚警察署・記者会見室(午後1時10分)
無機質な蛍光灯の下、記者クラブ共同ブリーフィングが静かに始まろうとしていた。
パーテーションに囲まれた会見スペースの前列には、キー局系テレビ、通信社、全国紙、ネットメディア。後方に地元紙の記者たちが控え、全体にいつもより重い空気が立ち込めていた。
間もなく現れたのは、戸塚警察署の生活安全課長・中村俊久警視(52)。
痩身の体に濃紺のスーツ。手元には簡素な報道資料の綴じファイルが1冊。
取材陣に軽く一礼し、淡々と話し始めた。
「本日、定例外の記者対応となります。詳細な質疑にはお答えしかねる点もあることを、あらかじめご了承ください」

カメラのフラッシュは焚かれず、記者たちのタブレットのスクリーンが光る。
「本日 午前7時42分ごろ、東京メトロ東西線・早稲田駅において、男性が線路内に立ち入り、接近していた西船橋行き列車と接触するという事案が発生いたしました。
警視庁ならびに東京消防庁による現場対応の結果、当該男性は現場で死亡が確認されております」
無表情に、中村警視はファイルの2ページ目をめくる。
「現場には当該男性の所持品と見られる議員バッジ、名刺、携帯電話があり、身元の確認を行った結果、衆議院議員 五条誠司氏 32歳であることが判明いたしました」
一瞬、記者たちの間に小さなざわめきが起きた。
「本件に関して、現場の防犯カメラ映像、乗務員の証言等から、事件性は認められず、本人の意思による飛び込みの可能性が高いと判断しております」
「ご遺族にはすでに連絡が?」
最前列の記者が尋ねた。
「はい、本日午前10時過ぎに連絡をとり、確認をいただいております」
「遺書については?」
「ご本人のSNSアカウントにて、事故後間もなく自殺を示唆する投稿がありました。現場で回収された携帯電話のロックはすでに解除済みで、投稿のログ、文面、その他の通信履歴から、ご本人の意思による投稿と見て間違いないと考えております」
記者の一人が声をひそめた。
「遺体の状況は?」
「遺族感情への配慮から、詳細は控えさせていただきます。司法解剖は明日以降を予定しております」
中村警視は、それ以上の情報がないことを示すように、そっと資料を閉じた。
「当署としては、今後も引き続き必要な確認を行ってまいります。現時点では以上です」
軽く一礼して立ち去る後ろ姿に、誰も声をかけなかった。
速報編集会議
午後2時過ぎ。
虎ノ門の報道各社では、夕方の速報用に内容を精査する編集会議が開かれていた。
「旧・与党筋からも“すでに辞職予定だった”という話が来てる」
「いやいや、それは後追いの言い訳だろう。“改革派の若手”って言ってたくせに、結局この程度かって流れになるよ」
「一応、“一部では英断”って擁護してる記者もいるぞ」
「……それ、逆に燃えるやつだな」
キーボードの打鍵音が響く室内で、
一つの物語が、ニュース原稿という形に変わっていった。
それが仕事だから
午後2時30分。
式場内。フロアの中央に立った戸頭紬は、視線をまっすぐ前に向けていた。
「じゃ、もう一回、さっきのカットいきまーす」
カメラが動き、ライトが調整される。
彼女の顔には、怒りも悲しみも、浮かんでいなかった。
ただ、そこに立ち、ドレスのまま、撮られるという“役割”を全うしていた。

白い布が揺れる。
時間は、止まってはいなかった。
——そして、もう誰も、五条誠司の話を口にする者はいなかった。
