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【小説・ヴィーナス症候群】[421]不安のマーケット

赤坂のドレスブランド・ Felice(フェリーチェ)のアトリエ。

コンクリ打ちっぱなしの空間は、朝いちの蛍光灯の白がまだ冷たい。
いつもならレースやチュールをふんだんに使ったウェディングドレスが並ぶのに、
今日のラックには黒い布が目立っている。

「今回は“ゲスト用”だからね。新婦の友人が着るワンピース、こういう黒が多いのよ」

黒いワンピースを着せられたプラトルソーと、
同じワンピースを纏った武隈莉子が並んで立つ。

Feliceに限らずアパレル業界のの撮影・仮縫いでは、
今や両腕のない女性の“トルソーさん”のほうが主役となり、
従来の樹脂製モデルは区別して“プラトルソー”と呼ばれていた。

岡野はプラトルソーの胸元を整え、次に莉子の肩線を確認する。

「やっぱりゲスト用って難しいね。派手さがないぶん、ごまかしが効かないから」

「黒は影がはっきり出ますし……細かいところが見えちゃいますよね」

岡野はふっと息をついて、二つの“トルソー”を見比べた。

「こうして並ぶと、やっぱり莉子ちゃんのほうが“微妙な緊張感”があるのよ。
 プラトルソーにはない、布の落ち方っていうか」

莉子は鏡越しに視線を動かす。
呼吸に合わせて胸元がわずかに上下する自分と、
全く動かないプラトルソー。

対照的なのに、同じ服を着ているのが少しおかしい。

「でも……こういう微妙な差って、やっぱり年齢とともに変わるんですかね」

岡野はピンを止めた指を止めた。

「……ああ、“年取ってトルソー上がったらどうする問題”ってやつ?」

「トルソー仲間でよく出るんですよね。
 私も、将来のこと全然決めてなくて。不安っていうほどでもないんですけど」

「そりゃ誰でもあるよ。私だってしょっちゅう考えるもん。
 夜中にいきなり“え、私このままでいいの?”ってなるし」

莉子は「あー、ありますねそれ」と微笑んだ。

そしてふと思い出す。

「……そういえば、Twitterでもインスタでも不安だとか書き込むと、いちいち不安を煽ってくる広告出てきますよね」

岡野は「ああ〜それ!」と手を打った。

「あるある!
 『老け見えします』『あなたは損してます』『将来危険です』って、
 全部“買わせるための不安”でしょ。完全に“不安のマーケット”よ」

「気づくとクリックしそうになるんですよ。
 ああいうの、よく心理的に考えてるなって思いますよね」

岡野は針山を置きながら、少し笑う。

「でも、奈緒ちゃんなんか、そんな不安に振り回されないよね。
 “作家になりたい”とか言ってたじゃん」

「そうなんですよ。しかも、この前賞を取ったらしいです」(359

「え!? 奈緒ちゃんが? すご!」

莉子は声を潜めて付け加えた。

「“珍奇賞”っていう賞でしたけど……
 『生首が徳島を旅する話』だったらしくて」

岡野は三秒固まり、そして爆笑した。

「なにそれ! 最高じゃないの奈緒ちゃん!
 あの子、そっち系の才能あったんだ!?」

「本人はすごい嬉しそうでした」

アトリエの空気が少しだけ柔らかくなった。

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