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【小説・ヴィーナス症候群】〔284〕透明な状態からのレースクイーン仕事

第1章 福の神

透明なほど薄く切ったパン。
あれは確か「トムとジェリー」だっただろうか。いやディズニーの「ドナルドダック」?
アニメだけで貧乏な状態を、言葉の通じない日本人にも分かりやすく表現するだなんて、それだって一つの才能だ。
何かを表現しようと思ったって、誰にでも通用する才能に恵まれなければ、それをお金にすることはできない。

弓張渚は、狛江のワンルームのちゃぶ台に突っ伏してため息をついた。
「金、ない……」

障害者年金の支給日はまだまだ先。
トルソーの仕事はポツポツあるけれど、ギャラなんて雀の涙。
「こんなヘッポコトルソー、サラ金にでも手を出すしかないんじゃないの?」

ふと頭をよぎる。
「でもサラ金なんかに手を出したら、ソープに売られるんでしょ。
……っていうか、腕のない私がソープに雇ってもらえるのか?」
自分で言って苦笑いしながらも、現実は冗談にならない。
「だったらもう、生活保護かぁ……」

そんなとき、電話が鳴った。
「もしもし、京洛マテリアルズの広報の井上と申します」

いきなり名乗られ、渚は背筋を伸ばした。
電話口の担当者は淡々と告げる。微妙に関西訛りではあるが。
「弊社、筋電義手のパッドを作っておりまして。実は、今年の鈴鹿でのレースクイーンに“トルソー経験のある方”を起用したいんです」

「えっ……私がですか?」

「はい。“多様性を尊重する企業姿勢”を打ち出すためです。ぜひ弓張さんにお願いしたいと」

渚は一瞬きょとんとしたが、すぐに顔がぱっと明るくなった。
「……そんなの、ちょっと露出多めの格好してニコニコしてれば楽勝じゃん!」

金欠から一転、思わぬ臨時収入。
渚は受話器を握りしめながら、胸の奥がじんわり温かくなるのを感じた。

第2章 現地入り

名古屋駅の新幹線ホームを降りたとき、弓張渚は少し緊張していた。
「乗り換えは……近鉄特急だっけ」
荷物はキャリーケースひとつ。中には例のハイレグ衣装がきっちり畳まれて入っている。

「露出多めって、こういうものなのかな」
初めて袖を通したときは違和感を覚えなかった。アパレルのトルソー仕事で、この程度の露出ならざらにある。
どこだかのIRリゾート予定地でバニーガールの仕事をしたことだってある。(210
なんならプライベートでコスプレイベントに行ってストⅡのキャミィのコスプレだってしたことがある。(155

近鉄特急が三重に入るころ、車窓には鈴鹿の街並みが広がり始める。車内のアナウンスが流れるたびに胸が高鳴る。
「いよいよかぁ……鈴鹿って大舞台なんだよね」

控室のドアを開けると、すでに何人かのレースクイーンが着替えを終えていた。
フリル付きのスカート、スポーティーなショートパンツ──みんな華やかで、アイドルグループみたいに見える。

渚はキャリーケースを引きずりながら、少しお辞儀して声をかけた。
「お、お願いしまーす」

「お疲れさまです!」「よろしくね」
明るい声が返ってきて、ひとまず緊張がほぐれる。

マネージャーらしきスタッフが手元のボードを見ながら段取りを説明する。
「はい、みなさん。今日の流れを確認します。まず午前はピット前で立ち位置に入っていただきます。スタート進行はグリッドに移動。そのあと表彰式も待機です」

「はーい」
「了解しました」

渚もみんなと一緒に頷いたけれど、内心はドキドキしていた。
(え、ピット前って、あのカメラの群れのすぐ目の前じゃない?)

「あとSNS用に各チームで写真を上げますので、控室戻ったらスマホでも何枚か撮ってくださいね」
「はーい」

和気あいあいと返事する他のRQたちの横で、渚はキャリーケースに入ったハイレグを思い出し、小さくつぶやいた。
「……やっぱり、あっちみたいな衣装の方がよかったな」

段取りの確認が終わり、スタッフが声をかける。
「じゃあみなさん、衣装に着替えてください」

控室のあちこちでキャリーケースが開き、スカートやショートパンツ、鮮やかなトップスが並んでいく。
フリルやラインストーンが光を反射して、どれも可愛らしい。

渚も自分のキャリーケースを開け、白地にエンジのロゴが入った京洛マテリアルズのハイレグを取り出した。
「……まあ、こんなもんなんだよね」

軽くつぶやいて袖もないワンピースに脚を通す。深く切れ込んだ布が腰骨をさらけ出す感覚に、少し身じろぎした。

鏡の前に立つと、そこに映る自分は他のRQとまるで違って見えた。
フリルもスカートもない。可愛らしさのかけらもなく、ただ90年代からそのまま抜け出してきたような姿。

「……あっちの方が絶対かわいいじゃん」
つい小声で漏らしてしまう。

周囲では、他のRQたちが「似合ってる?」「その色いいね!」と和気あいあい盛り上がっている。
渚は一歩下がって、鏡に映る自分のハイレグ姿を見下ろし、胸の奥に小さな違和感を抱えたまま着席した。

集合の声がかかる。
「では京洛マテリアルズさん、ピット前へお願いします」

控室の隅で、弓張渚は自分の肩に装着していた義手を外した。
カチャリ、と軽い音を立てて義手がテーブルに置かれる。
両肩から先は、なめらかな皮膚のまま何もない。

「……よし」
自分に小さく言い聞かせる。

RQ仲間のひとりがちらっと視線を向けて、にこっと笑った。
「本番って感じだね」
「はい、アパレルのときもいつもこうなんです」

衣装のハイレグは、布が少なすぎて隠すものなどほとんどない。
だからこそ、腕のない身体もごまかしようがなかった。

スタッフが声を張る。
「はい、京洛チーム、並んで!」

渚は白いハイヒールを鳴らして立ち上がる。
仲間たちと横一列に並び、控室を出ると、サーキットの熱気とカメラのレンズが一気に押し寄せてきた。

(いよいよか……!)

第3章 本番

ピットロードに出た瞬間、渚は思わず息を呑んだ。
視界いっぱいに広がるのは、カメラ、カメラ、カメラ。
長い望遠レンズの群れが、まるで森の竹林のようにこちらへ突き出されている。

「こっち向いてー!」「お願いしまーす!」
掛け声が飛び交い、シャッター音が絶え間なく鳴り響く。

(な、何これ……アパレルの撮影なんて、せいぜい数人のカメラマンだったのに……)

笑顔を作ろうと口角を上げると、すぐさま十数台のフラッシュが同時に光った。
視線を外そうにも、どこを見ても誰かのレンズが待ち構えている。

隣に立つ先輩RQが小声で囁いた。
「大丈夫? 止まらず笑ってればいいから」

渚はこくりと頷いた。
だが心臓はばくばくと早鐘を打ち、足先から背筋にまで汗がにじんでいく。

(……“ちょっと露出多めでニコニコしてれば楽勝”って思ったけど、全然楽勝じゃないじゃん!)

数百のレンズに全身をさらされながら、渚は初めて「鈴鹿の大舞台」の意味を知った。

第4章 戦い終わって

撮影が終わり、控室に戻った渚は椅子に腰を下ろして大きく息をついた。
「はぁ……すごかった……」

同じチームのRQがペットボトルを差し出しながら笑う。
「おつかれ! カメコ、ちょっと戸惑ってたね」

渚は水をひと口飲んで、あっけらかんと返した。
「ああいうのはトルソーあるあるなんです。最初は“えっ?”ってなるけど、すぐ普通に撮ってくれますから」

別のRQが興味深そうに首をかしげる。
「でも今年から腕ない子も入れるようにしたんだね」

渚は肩を軽く動かして笑った。
「私に声かかったのは、“誰かトルソー経験のある子も入れてください”って京洛に言われたからなんです。
それで“多様性”って理由つけられて。……普段はアパレルでモデルやってるんですよ」

「へぇ〜。なんか動きがアパレルっぽいなって思った」
「そうそう、展示っていうか見せ方がキレイ」

渚は照れくさそうに頷いた。
「でもここ来て思いました。みんな背も高いし綺麗だし……レベル違いすぎって」

すると隣のRQが声をひそめて笑った。
「いやいや、京洛はむしろ女の子のレベルは……まあアレだよ。私も含めてだけど。だってこんなハイレグ、このご時世にやってるのここだけだし。ジジイとカメコ狙いでしょ」

渚もつられて笑ってしまう。
「もっと可愛い衣装の方がいいですよね」

「そうそう。これ、絶対わざと前が食い込むようにできてるんだよ」
「京洛のRQなんて“AVの登竜門”って言われてるくらいだし、気にする子なんていないんじゃない?」

化粧の匂いと乾いた笑いが漂う控室で、渚は少しだけ肩をすくめた。

会話がひと段落すると、誰かがスマホを取り出してスクロールし始めた。
「ちょっと見てみ? もうTwitterに上がってる」

「え、早っ!」
みんなが覗き込む。

画面には「今年の京洛も相変わらずハイレグ」「布面積どこいったw」といった書き込みが並んでいる。
中には――
「1人小さい子いるね、かわいい」
「腕ない子?普通にポーズ決めててかっこいい」
「京洛って義手の部品もやってる会社だよな、なるほど」

渚は思わず胸を撫で下ろした。
(……よかった。変に笑われたりしてない)

別のRQが肩越しに覗き込みながら笑う。
「ほらね、差別とかじゃなくて“珍しい”くらいのノリじゃん」
「京洛は衣装のエロさでいじられるけど、そっちは全然大丈夫そうだよ」

渚はスマホ画面に映る自分の笑顔を見て、小さくつぶやいた。
「……案外、悪くないかも」

SNSをひとしきり眺めて、控室にまた笑い声が戻った。
その流れで、ひとりがぽつりと言った。
「でも京洛って、ギャラいいんでしょ?」

すぐにみんなの視線が渚に集まる。
「え、私ですか?」
渚はちょっと照れくさそうに笑った。
「うーん……普段アパレルでトルソーやってるときよりは、全然いいです。丸一日拘束だから、時給にするとそんなに変わらないんですけど」

「へぇ〜、やっぱり大企業スポンサーは違うんだね」
「そうそう、広告費から出るから桁が違うって聞く」

渚はペットボトルの水を口にして、ふっと息をついた。
「まあ、私にしてみれば助かりますよ。障害者年金の支給日まだ先だし……ほんとありがたいです」

控室には小さな笑いと「障害者年金か……」という妙な感心の声が広がった。

第5章 新聞記者の取材

そんな会話で場が和んだところへ、ドアが開いた。
スタッフが控えめに顔を出し、渚に声をかける。
「弓張さん、すみません。このあと取材が入ってますので、お願いします」

「……取材?」
渚は思わず背筋を伸ばした。

先輩RQがにやっと笑う。
「ほら来た、デビュー戦の洗礼だよ。大丈夫、みんな通る道だから」

「そうそう。“楽しかったです”とか“ファンに感謝してます”って言っとけば大丈夫」
「変なことは聞かれないから安心して」

渚は小さく息を吸い込み、頷いた。
(やっぱり“多様性”ってことで呼ばれたんだ。……ここで逃げるわけにはいかない)

ペットボトルを机に戻し、口角を上げて立ち上がった。

スタッフがドアを開ける。
「弓張さん、お願いします。東都新聞さんです」

名刺を差し出した女性記者は、落ち着いた声だった。
「社会部の吉岡です。少しだけお時間ください」

並んで座るのは京洛マテリアルズ広報と渚。レコーダーが置かれる。

吉岡「まず、今日の鈴鹿はいかがでしたか」
渚 「カメラがすごくて……でも楽しかったです。立って笑ってるだけで精一杯でしたけど」

吉岡はうなずき、広報へ視線を送る。
吉岡「京洛さんは“多様性”を打ち出して、ヴィーナス児の起用を公表していますよね。一方で――“最後のハイレグ”とも言われる大胆な衣装を続けている。そこは、会社としてどう整合をとるのか、教えてください」

広報は微笑を崩さない。
広報「私たちは長年、同じデザイン言語を守ってきました。伝統とファンの期待は、企業文化の大切な一部です。同時に、誰もが“自分のまま”で表現できる場をつくること――それが当社の多様性の考え方です。今回の起用も、本人の意思と合意の上で行っています」

吉岡「強要はない、と」
広報「はい。希望者のみ、十分な説明とケアを前提に」

吉岡は資料をめくり、渚へ優しく角度を変える。
吉岡「弓張さんは普段、アパレルのトルソーをされていると伺いました。今日の衣装について、率直にどう感じましたか」

渚 少し笑って。
「最初は“こんなもんかな”って。ここに来て他のチームの衣装を見て、あっちの方が可愛いじゃんって思いましたけど……まあ水着の仕事とかバニーガールの仕事とかざらにありますし、この衣装でどうたらとか、あんまり思わないんですよね……」

吉岡は頷き、最後にもう一歩だけ踏み込む。
吉岡「『義手の筋電パッドで京洛は有名』――そう聞きました。福祉部門でも知られる会社が“最後のハイレグ”を続ける。この並びを、読者はどう受け止めると思いますか」

広報「福祉は当社事業の一部です。技術で生活を支えることと、文化としての応援や楽しさを支えること――どちらも“人の選択肢を広げる”という一点でつながっています」

渚 小さく息を吸って。
「私、義手を外して立つのは慣れてます。今日は、たくさんの人が笑ってくれたから……それで十分、仕事になったと思います」

吉岡はレコーダーを止め、会釈する。
吉岡「ありがとうございました。記事は事実関係を確認のうえで掲載します」

去っていく背に、渚はほっと肩を落とす。
(“透明”だった自分が、少しだけ輪郭を持った気がした)


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