【小説・ヴィーナス症候群】(140)韓国フェミニンでお試しトルソー
「うわ、ハネウルここでも置いてんだ。どんなビッチが着るんだろ」
駅前のデパートのショーウィンドウの前で、友達がそう言った。
笑いながら、無邪気に、けれど冷たく。言葉の端に刃がある。
つばさは笑わなかった。ただ黙って歩を進めた。
ガラス越しに見えるのは、蛍光ピンクのロゴに、腹の出るドレス、腰まで裂けたオフショルダー。「恋に勝つ服。」──HANEUL。
(私だよ)
喉の奥で言いかけて、のみ込んだ。言えるわけがなかった。
それは秘密ではないけれど、説明のつかない話だった。
まさか、あのブランドの服のトルソーをやるなんてことは。
生まれつき両腕の無い、いわゆる「ヴィーナス児」の当事者団体「コルチカムの会」の会誌に「トルソーさん」の求人広告を出していいか、事務局員のつばさが実際にトルソーをやってみて判断することにしたのだ。
──
埼玉の住宅街にある実家。朝の台所は、味噌汁の湯気が静かに上がっている。
「つばさ、またほとんど食べてないじゃない」
母が味噌汁をかき混ぜながら言った。
「食べてるよ」
「ゼリーだけでしょ? 栄養ゼロのやつ」
「胃がね、ちょっと調子悪くて」
「なんかの仕事? また撮影?」
「ううん、会の仕事。都内の事務所にちょっと行くだけ」
母は黙った。つばさは、冷蔵庫のドアを開けて中を見せた。
無糖のヨーグルト、寒天ゼリー、水。炭水化物も、タンパク質も、脂質もない。
母は顔をしかめたが、それ以上は何も言わなかった。
“ハネウル”という名前を出せば、余計な詮索が始まる。
あの服のことを本当に見られたら、腰を抜かすだろう。いや、もしかすると怒るかもしれない。「そんな身体でそんな格好をするなんて」と。
つばさは、そこまで想像して、黙って箸を置いた。
「いってきます」
その日の昼も夜も、つばさは味噌汁とゼリーしか摂らなかった。
胃がキリキリと痛むたび、「でも太ってるよりマシ」と思った。
布の上に肉が乗るのは、恥ずかしい。ハネウルの現場でそれを見られるよりは、空腹でふらつくほうがずっといい。
──
新大久保の駅を出て、昼前の雑踏を抜けると、裏通りの一角にそのビルはあった。
古い雑居ビルの三階。階段は狭く、踊り場には「의상(衣装)」と書かれた段ボールが積まれている。つばさは階段をゆっくりと上がった。
義手の肩軸が、ごく小さくきしむ。
入口のドアには、小さな英語とハングルの表記。「HANEUL」。
ノックすると、眼鏡をかけた女性が中から顔を出した。
黒髪を束ねた韓国人。つばさを見るなり、やわらかく笑った。
「つばささん……? あ、うん。どうぞ、こちらへ〜」
日本語は少し拙い。でも、敬意は伝わった。
中に入ると、空気は一変する。
部屋の隅に立てられた白いスクリーン、天井から吊るされたリングライト。
壁際のハンガーラックには、オフショルダー、ミニスカート、キャミワンピース──色はほとんどベージュかパステル。露出は多く、布は少ない。
中央の作業台では、数人の女性が手早くタグ付けをしていた。誰もが韓国語で会話し、笑い声ひとつない。服を畳み、箱に入れ、スマホで撮影し、次へ。
一瞬も止まらない。すべてが同時に、効率的に進んでいる。
「こちら、試着……お願いしても、いいですか?」
黒のキャミソールドレスを手に、スタッフが尋ねてきた。
つばさは静かにうなずいた。
──義手を外します、と言わなくてもいいのが、ありがたかった。
そっと左肩のロックを外し、次に右を。銀色の接続部が空気に触れ、冷たくなる。
両肩がなめらかな肌のまま露わになる。
そのまま服を頭から通し、脚を使って裾を持ち上げた。結ぶ紐は、スタッフが静かに背中でリボンにしてくれる。
「예쁘다……」
「어깨 완전히 없네……그래도 잘 어울려」
韓国語が飛び交う。意味は分からない。けれど、声のトーンは穏やかで、嘲るような響きはなかった。

「すこし、写真。……撮ってもいいですか?」
拙い日本語だった。つばさはうなずいた。「はい、大丈夫です」
スマートフォンのシャッター音が数回響く。
リングライトが肌に白く反射する。
つばさは、まっすぐ前を見たまま、じっと立っていた。
脚の付け根ぎりぎりまでの丈。脇腹に吸いつく布。けれど、布は引っかからなかった。
──痩せておいて、本当によかった。
「かわいい……すごく似合う、と思います」
スタッフがそう言った。ゆっくり、慎重に選んだ言葉だった。
「この写真……インスタグラム、のせても……?」
「まだ検討中なので……すみません」
「あ、はい。だいじょうぶです」
スタッフはすぐに笑顔で下がった。その応対も、どこか清潔だった。
──
義手をつけ直して出ると、入口のところにミンジが立っていた。
ベージュのトレンチを羽織り、胸の前で小さく手を組んでいる。
「つばささん。どう……でしたか?」
「……はい。思っていたよりずっと静かで、丁寧でした」
「ほんとうに? よかった……」
ミンジの声が、少し震えていた。
「職場としては、問題ないんじゃないかと思います。掲載する方向で」
そう言ったとき、ミンジの顔に本当にほっとした表情が浮かんだ。
「カムサハムニダ……」と呟いて、深く頭を下げた。
つばさは義手の両肩を少し持ち上げるようにして、軽くうなずいた。
今日の自分の身体は──この場にあって、許されたものだった。
少なくとも、そのように扱われた。それだけで、少しだけ、息がしやすくなった。
ビルを出たとき、つばさはしばらく空を見上げた。
肩に義手があることすら、今は軽く感じる。腹の底がぐう、と鳴った。
──ああ、そうだ。食べてなかったんだ。
そう思った瞬間、身体が動いた。
目の前の通りには、見慣れた赤と白の看板。ハングルが踊る。
つばさは、そのまま吸い込まれるようにして一軒の韓国料理店に入った。
「ひとりですけど、大丈夫ですか?」
義手を見た店員は一瞬きょとんとしたが、すぐに明るく頷いて席に通した。
まずは、スンドゥブチゲ。ぐつぐつ煮えた豆腐と卵の赤いスープを、口いっぱいにすくう。辛さと熱で頬が赤くなっていく。
続いて、チーズタッカルビ。とろけるチーズが鉄板の上で伸びて、甘辛い鶏肉がねっとりと絡む。
義手の指先でトングをつかみ、少し不器用に皿へと移す。──でももう、恥ずかしくはなかった。
キンパを追加。海苔とごま油の香りが立ち上がる。
最後はホットク。もちもちの皮の中から、あまい黒糖とシナモンがとろりと出てくる。
「おいしい……」
思わず声が漏れた。隣の席のカップルが一瞬だけこちらを見たが、つばさは気にしなかった。
義手の指でホットクを押さえ、もう一口かじる。涙が出そうなくらい甘かった。
──これで、やっと戻ってきた。自分の身体に。
そう思ったとき、スマホが震えた。
「守実さん」からの通知。
会報掲載の可否、報告を頼む──そんな内容が見えた。
つばさは、ごま油でてかてかになった唇をペーパーでぬぐい、返信を打った。
《掲載でお願いします。安全です》
それだけ送って、スマホを伏せる。
そして、もう一個、ホットクを追加で頼んだ。
