【小説・ヴィーナス症候群】(180)ナンパ男殺害・食人事件の余罪
第1章 静止する美の晩餐
そのホールには、拍手がなかった。
高級百貨店・新宿伊勢屋の最上階。通称「グランサロン」と呼ばれる特設空間に、ドレスブランドFeliceが招いたのは、選ばれた100人の顧客と関係者たち。年齢も性別も立場も異なる者たちが、まるで儀式のようにワイングラスを片手に、並べられた3体の“生きたトルソー”を眺めていた。
檜皮谷奈緒は、黒のシースルーレースドレス。
武隈莉子は、深紅のサテンドレス。
夜久野由美は、背中の大きく開いた銀色のドレス。
いずれも、今季Feliceが初公開する「アフターパーティ用セレモニードレス」のシリーズだった。
3人とも両肩から先がなく、生まれつき腕のない「ヴィーナス児」。
その身体にぴたりと張りついた衣装は、腕のない輪郭をも構造の一部として飲み込んでいた。袖のないことが、むしろ完成形のように見える仕立て。布と肌の境界が曖昧で、光と影だけが存在するようだった。
「立ち姿がまるで彫刻ね」
「動かないって、こういうことなのかしら……」
「これが本当に生身の人間なんて……不思議」
観客の声は小さく、敬語のまま交わされていた。
会場に漂うのは、ざわめきではなく、“整然とした好奇心”。
笑顔でいなければならないわけではない。
ただ、立っている。布を着て、照明を受けて、呼吸を抑え、意識だけを空間に向ける。
1時間の展示。
そのうち10分ごとにポーズが切り替わり、2分間の静止状態に入る──という演出は、トルソーの中でも「鍛えられた専門職の技」と言ってよかった。
スチール撮影より、ある意味で過酷である。視線は逃げず、照明は動かず、身体は美術品でなければならない。
「──はい、これにて本パートは終了いたします。お三方、ありがとうございました」
司会進行の女性がマイクで告げると、やや間を置いて拍手が起こった。
だがその拍手は、演技への称賛というより、何かを解放するための儀礼だった。
バックヤードの扉が閉まった瞬間、3人とも同時に息を吐いた。
「背中、滝みたい」
「ピンが浮いてなかったか心配で……」
「ライトが汗に反射してたら、バレてたよね絶対……」
スタッフがすぐに寄ってきて、髪型を整え、ファスナーを少しだけ緩めた。
「お疲れさまです、ドリンク冷えてます」
「控室、もう冷房効かせてますよ」
一礼しながら、エレベーターまで案内される。
三人の背後では、まだシャンパンを傾ける音が微かに響いていた。
控室に戻ると、窓は閉ざされ、空調の風がゆるく吹いていた。
ラックにかかった替えのドレス、脱ぎかけたヒール、鏡台に広げられたメイクパレット──
いつもの風景に戻るのに、たった数歩の距離しかいらなかった。
展示は成功だった。
けれど、身体のどこかに、まだ“誰かの目”が残っている気がした。
第2章 光のすぐ隣
ライトを浴びる時間が終わったあとは、
どこか薄明かりの場所で、深く息を吐きたくなる。
VIPパーティー展示終了後、控室に戻った奈緒・由美・莉子の3人は、ドレスを着たままの姿で化粧前に並んでいた。
控室の鏡にはライトが点灯したまま、化粧道具と開いたアクセサリーケースが雑然と広がっている。
シャンパンの泡がまだ耳の奥に残っているような感覚。
けれど展示中は一滴も飲まなかった。トルソーは常に“静止体”であり、“展示物”だ。酔ってはいけない。
「ふぅ……とりあえず、倒れずに終わったわね」
奈緒が、やや張った声で言った。
「背中のピン、めっちゃ当たってた。もう一列外してよって感じ」
由美が椅子の背に寄りかかりながら言った。
莉子は、鏡に映る自分の赤いドレスの胸元を見つめながら、ぼそりと漏らす。
「汗すごすぎて、サテンが重い……」
「シルバーも暑いよ。見た目だけで選ばないでほしい」
由美が応じ、3人の間にわずかに笑いが戻る。

そのときだった。
壁掛けのテレビに「BREAKING」の赤文字が走り、報道スタジオの映像が急に切り替わった。
「……先週、埼玉県秩父市のキャンプ場で男性が殺害され、一部が焼損された“秩父キャンプ場殺人事件”に関連して──」
画面には、杉林の谷間に立ち並ぶブルーシートと、止まったままの白いバン。
夜のように静かな午後の山中を、上空からのヘリ映像が映し出していた。
「またこれ……」
由美がテレビに目をやる。
「警視庁と山梨県警の合同捜査本部は、昨日午後、山梨県の大菩薩峠で発見された白骨遺体について、都内在住のYouTuber、土田雄斗さんと確認されたと発表しました」
「……ぱんつっちってやつか」
奈緒がぼそりと言う。
莉子がうっすらと眉をひそめた。「ああ……前に迷惑系で叩かれてた?」
画面が切り替わり、ネット上の動画キャプチャ。
サングラスにキャップをかぶった男が駅前で何かを怒鳴っている。
その映像の隅には、フォロワー数や「通報された回数」までが数値で表示されていた。
「土田さんは“ぱんつっち”の名前で活動しており、昨年9月を最後に投稿が止まり、行方が分からなくなっていました。今回、発見された遺体のDNA型が本人のものと一致したということです」
「……去年から行方不明だったんだ」
由美がつぶやくように言った。
その言葉が、しばらく誰の返事も呼ばなかった。
ドレスの裾が床にわずかにすれる音だけが、カーペットの上に落ちた。
「なお、警察は今回の遺体発見について、秩父キャンプ場殺人事件の被告・桜水真依容疑者との関連を慎重に捜査しています」
その名前が、空気を変えた。
「えっ、あの人また関係してんの?」
莉子の声が、初めて高くなった。
「……たぶん、こないだ言ってた“中年の肉はまずかった”の人だよね」
由美が無表情で言う。
「うわ……」奈緒が顔をしかめる。
誰もチャンネルを変えようとしなかった。
ただ、ドレスのまま。
装飾と布の中に、人間としての反応だけが残っていた。
第3章 一人で山に行った男
「……エヴリーに、書いてる」
由美がそう言ったとき、奈緒と莉子はほとんど同時に顔を上げた。
「例の事件?」
「うん。けっこう細かく載ってる。ていうか、細かすぎて……これ読んだら、もうテレビ戻れないと思う」
控室の空気が、さっきまでとは別の種類の静けさに変わった。
照明の下、由美が足の指でスマホを支え、親指でスクロールを止める。
「タイトルからヤバい。“誰にも相手にされず、ひとりで山へ”。日刊エヴリーonline」
莉子が小さく吹いた。「もうダメじゃん」
由美は、画面を見つめながら読み始めた。
⸻
【独占続報】
誰にも相手にされず、ひとりで山へ。
迷惑系YouTuber「ぱんつっち」最期の72時間
――“断られ慣れない男”と“人喰い女”が出会った日
⸻
「“先っちょだけ”と言われた。気持ち悪かったので、刺した。
焼いたら、香ばしかった。脂が出て驚いた。
美味しかったから、他の部位も食べた――」
埼玉・秩父市の谷間にある小さなキャンプスペースで、4月下旬、焼損死体として発見されたのは東京都町田市の会社員・北村亮一さん(53)。
殺人と死体損壊の容疑で逮捕・起訴されたのは、会社員の桜水真依(24)だ。
そして事件は思わぬ方向へ広がった。
「秩父の“人喰い女”」の供述のなかで、新たに語られたのが、昨年9月から行方不明だったYouTuber「ぱんつっち」こと土田雄斗(27)の存在だった。
「DMがきてた、という配信者は、実は何人もいたんです」
ある女性キャンプ系YouTuberはこう証言する。
「“キャンプ行こうよ”とか“俺がテント立てるから安心して(笑)”って、妙に馴れ馴れしい口調で。
こっちは会ったこともないし、顔も知らないのに、夜に“焚き火囲んで語ろう”とか……普通に怖いですよ」
別の配信者も語る。
「“女ひとりキャンプ”ってジャンルがバズりはじめた頃、そういうDMすごく増えてたんですよ。
ぱんつっちもその一人って感じで、当時は迷惑系の中でも“ちょい絡み系”として有名でした。
多分、断られるのにも慣れてなかったんじゃないかな……変にテンション高くて、逆にそれが怖かった」
関係者によると、土田氏は少なくとも6人以上の女性配信者に「キャンプ行こう」とDMを送っていたという。
中には、「どこ行くの? 俺も行っていい?」「動画撮ろう、うちら映えるでしょ?」など、距離感を無視した内容も複数確認されている。
「誰も相手にしてくれなかった。だから、一人で山に行った」
桜水被告はそう供述しているという。
彼女が遭遇したのは、動画撮影のために一人で大菩薩峠を訪れていた土田だった。
「最初は“俺もYouTuberなんだよ”って、陽気に話しかけてきたらしいです。
“手伝おうか?”“テントは俺に任せて(笑)”と一方的に盛り上がって……」
捜査関係者は語る。
「彼女はしばらく黙っていたが、“先っちょだけって言われて我慢できなかった”と供述しました。
“あのセリフ、前にも言われたことがあって、もう限界だった”と」
現場には、燃え残った炭袋、スパイス容器、衣類の一部、簡易的な包丁などが残されていた。
焼損された遺体からは複数の切断痕が検出され、法医学者は「調理の工程を思わせる」とコメントしている。
さらに、供述はこう続く。
「少し焼いたら、匂いが良かった。
思っていたよりも香ばしかったし、脂の感じも悪くなかった。
そのまま少しだけ食べた。舌が慣れてきて、いろんなところを試したくなった」
「中年男の肉よりは、こっちのが食べやすかった。
脂の質が違うし、噛んだときの匂いも違った。
山で食べると、なんでも美味しくなるのかなって思った」
そう供述した桜水被告は、現場で焼いた遺体の一部をその場で食べたあと、
「痕跡が残ると面倒だから」といって骨を砕き、炭袋に混ぜて埋めていたという。
発見された現場は、山梨県甲州市と丹波山村の境界に位置する山中の斜面。
風が通り抜ける開けた地点に、テントと焚き火跡、焼損した寝袋、そして白骨化した遺体の一部が散在していた。
「ぱんつっちは、最後の最後まで“動画になる”って思ってたんじゃないか。
でも実際には、誰にも撮られず、誰にも見られず、“音のない焼き場”になったんだと思う」
ある女性キャンプ系配信者は、静かに語った。
“断られ慣れない男”が、最後に選んだのは、誰もいない山だった。
そして出会ったのは、“誰にも声をかけてほしくなかった女”だった。
この国のどこかにある無人の焚き火跡が、ふたりを飲み込み、誰もが笑えない結末を迎えた。
⸻
読み終えたとき、控室の空気は、ずっと前から止まっていたかのようだった。
由美が静かにスマホを伏せた。
「……タイトルの通りだったね。
“誰にも相手にされず、ひとりで山へ”。で、焼かれて、喰われた」
奈緒が眉間を押さえながら呟く。「もうさ……“炎上”って言葉、使えなくなるわ」
莉子は何も言わず、水を飲んでいた。
由美が口を開く。「あいつさ、“動画に映る女”がほしかったんでしょ。
どこでもいいから、誰でもいいから、“ひとりでキャンプしてる若い女”」
「そして、断られたら……しつこくする」奈緒が言う。「笑って誤魔化して、“安心して”って言う」
「で、“先っちょだけ”」
莉子が小さく息を吐いた。「あーあ、こっちまで気持ち悪くなってきた」
「でもさ」由美が言う。「“断られたから山に行った”ってさ。
女の子からしたら“断っただけ”なんだよ。
“殺されてないだけ”なんて、たまたまなんだよ」
しばらく、誰も言葉を継がなかった。
ドレスの胸元がわずかに汗で貼りついているのを感じながら、
3人はそれぞれ、鏡越しに自分の目を見ることを避けた。
そのまま5秒。10秒。
「……じゃ、着替えるか」
奈緒の声で、控室に空気が戻った。
展示は終わった。けれど、その夜はまだ、終わっていなかった。
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